岐阜県岐阜市梶川町に常在寺(じょうざいじ)があります。常在寺の本堂は入母屋造り、桟瓦葺き、平入の木造平屋建てで、正面に1間の向拝を付けています。外壁は真壁造白漆喰仕上げとなっています。内部の内陣には本尊となる文殊菩薩像が安置されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/常在寺本堂
長野県上田市真田町下原(しもはら)の真田氏記念公園に真田幸村のリーフ像があります。幸村は「真田源治郎信繁」が本名で幸村と書かれたものはないそうです。しかし幸村の方が好きなのでこの名にしておきます。昌幸死後の慶長19年(1614)豊臣秀頼の使者が九度山を訪れ家康打倒の協力を求めたのでした。3月18日、幸村は大助と共に14年住んだ九度山を後にして大阪城に入城しました。豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿の梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、家康の名を分断し、豊臣家の繁栄を願い徳川を呪っているとして難癖をつけたことから対立したものでした。同年11月大坂冬の陣が起こります。徳川軍は約20万の軍で大坂城を包囲しました。幸村は南側の最も重要な地点に出丸「真田丸」を築いてさんざんに徳川軍を翻弄します。その後...真田幸村
長野県上田市真田町下原(しもはら)の真田氏記念公園に真田昌幸のリーフ像があります。幸隆は天正2年(1574)死去し、長男の信綱が家督を継ぎました。天正3年(1575)の長篠・設楽ヶ原合戦で弟の昌輝共々討死にしてしまいます。三男の昌幸は信玄の小姓をしたあと甲斐の名門・武藤家に入りましたが戻って真田を継ぐことになりました。昌幸は天正8年(1580)上州沼田城を攻略し版図を拡げました。天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、織田・北条・上杉・徳川らの諸勢力の中で独立領主化しました。沼田領をめぐる対立で、天正13年(1585)に徳川が大軍を率いて上田城を攻撃しましたが撃退させました。北条氏との沼田領争いではとうとう天下人・豊臣秀吉をも動かして、北条氏を滅亡に追い込んでしまいました。慶長5年(1600)関ヶ原の役...真田昌幸
長野県上田市真田町下原(しもはら)の真田氏記念公園に真田幸隆(幸綱)のリーフ像があります。真田氏は海野氏を祖としていま幸隆以前はよくわかっていないようです。幸隆は出家後の名で幸綱と名乗っていました。天文10年(1541)武田信虎、諏訪、村上連合軍は海野平に侵攻、幸隆らは上州吾妻の羽根尾城の羽尾幸全を頼って逃げたそうです。その後幸隆は敵であった武田信虎の子、信玄に仕官したのです。信玄の片腕となり、「信濃先方衆」「上州先方衆」として活躍します。天文20年(1551)幸隆は調略で戸石城を乗っ取り、小県周辺の旧領を回復したのです。こうして真田一族は旧領である真田郷をはじめ小県一円、上州吾妻をその勢力下に収めていきます。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/j...真田幸隆(幸綱)
長野県上田市真田町下原(しもはら)に真田氏記念公園があります。上田から群馬県境の鳥居峠に抜ける国道144号線の真田町の入口下原に真田三代の碑が建てられています。真田町が真田氏の発祥の地である証しを表現しています。公園といってもレリーフ像と真田三代の略記がある程度ですが「真田氏発祥の郷」の石碑は池波正太郎氏の筆によるものです。「真田太平記」によって真田氏の知名度が上がりました。三代のレリーフは、中央が真田幸隆、向かって右が真田昌幸、左が真田幸村です。岡田益雄氏によって創られたそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/真田氏記念公園
長野県上田市中央に池波正太郎真田太平記館(いけなみしょうたろうさなだたいへいきかん)があります。文豪・池波正太郎の記念館が平成10年(1998)にオープンしました。代表作「真田太平記」から名を取って池波正太郎真田太平記館という長い名前です。建物は2階建てで、2階には池波正太郎コーナーと真田太平記コーナーが常設展示されています。今なお多くのファンを魅了する池波正太郎と「真田太平記」の魅力が味わえます。1階は喫茶ル・パシタンとグッズや書籍の販売、交流サロンなどがあります。「草の者」の世界が映像でわかる忍忍洞や「上田攻め」などを切り絵で再現したシアターなどもあります。この蔵の中はギャラリーになっていて風間完の真田太平記挿絵原画が展示されています。直木賞作家・池波正太郎は大正12年(1923)東京の下町・浅草に生...池波正太郎真田太平記館
長野県上田市大手に上田藩主居館跡(うえだはんしゅきょかんあと)があります。上田藩主居館の表門は寛政元年(1789)の火災で焼失した翌年に再建された薬医門です。前面に4本の太い親柱が並び、中央に大扉、左右に潜り戸が付いています。後ろ側は左右の控え柱を通し梁でつないでいます。普通の門では親柱が棟の真下に立っていますが、この表門では棟の真下より少し前に親柱が立ち、控え柱が後方にある造り方をしています。昭和44年()に上田市の文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/上田藩主居館表門
長野県上田市大手に上田藩主居館跡(うえだはんしゅきょかんあと)があります。上田藩主居館跡は歴代上田藩主が住んでいた所です。門は藩主屋敷にふさわしい豪壮な造りの薬医門です。今はこの門は県立上田高等学校の正門になっています。春は桜が咲き誇り、晩秋には紅葉した葉が堀をうずめます。関ヶ原の戦いの後、上田城は破却されました。昌幸・幸村(信繁)の活躍で中山道で関ヶ原を目指した徳川秀忠軍は戦いに遅参させられてしまいました。このことで秀忠の怒りは大きく、城すべてを破却したようです。しかし同じ真田の一員でもあった真田信之(信幸)への信頼は厚く上田と沼田の地を安堵しました。城のない上田を治めるために建てたのがこの居館でした。城主の御殿は一般的には城の本丸に設けられます。しかし上田の場合は城から大分離れたこの地に置かれたのです...上田藩主居館跡
千曲川は、長野県川上村、埼玉県秩父市、山梨県山梨市の3県の境にある甲武信(こぶし)岳にその源を発し、佐久、上田の2つの盆地を経て長野盆地で犀川(さいがわ)と合流します。県境で信濃川と名前が変わり新潟県に入り、日本海に至ります。全長367kmのうち、信濃川と呼ばれている部分が153kmで、千曲川と呼ばれている部分は214kmと、60kmほど千曲川の方が長くなっています。日本で一番長い川となっています。千曲川の由来は川が千の数ほど曲がっているのでつけられたといわれています。また狭窄部が連続し、両岸は崖状の地形を呈していることから、「チク(崖)・マ(袋状の湿地)の川」という説もあります。また水源に近い長野県の川上村の伝説によれば、大昔に高天原に住む神々の間で大きな戦いがあり、この時に流された血潮によってできた川...千曲川
長野県上田市大字築地に倉沢家住宅(くらさわけじゅうたく)があります。倉沢家の客座敷は享保の時代(1716-1736)に建てられたと思われます。10畳2室と8畳のとりつぎで構成されています。主屋の左前方に接続し、L型の平面を持っています。茅葺きの、寄棟造り、平屋建てです。床の間や欄間などの意匠があり、代官などを客として迎えるのにふさわしい造りになっています。倉沢家の客座敷のように、江戸時代前期の民家の客座敷は、最上層の家のみが、別棟の座敷を建てるのが一般的だったようです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/倉沢家客座敷
長野県上田市大字築地に倉沢家住宅(くらさわけじゅうたく)があります。倉沢家の主屋は最初に建てられ、その後で客座敷などが増築されたようです。間口10間、奥行5間、寄棟造り、平屋建て、茅葺き(鉄板被せ)です。半分が土間になっていて、軒は普通の農家と比べてかなり低く、開口部が少なく閉鎖的です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/倉沢家住宅主屋
長野県上田市大字築地に倉沢家住宅(くらさわけじゅうたく)があります。倉沢家の表門は桟瓦葺き、切妻造り、1間薬医門です。代官などを客として迎えるのにふさわしい大庄屋としての格式を備えた堂々とした門です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/倉沢家住宅表門
長野県上田市大字築地に倉沢家住宅(くらさわけじゅうたく)があります。倉沢家は築地にある旧家で、過去帳によると江戸時代初期頃にはこの地に住んでいたと思われます。倉沢家は享保9年(1724)に上田藩主から小泉組大庄屋に任命され、苗字帯刀を許されていたようです。倉沢家の屋敷内には主屋、客座敷、表門、文庫蔵、土蔵、倉庫、旧酒蔵が建てられています。主屋は東御市の春原家住宅(国重要文化財)と同じ頃の17世紀中期から後期に建てられたと思われます。平成6年(1994)に上田市の文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/倉沢家住宅
長野県上田市上丸子(かみまるこ)に安良居神社(あらいじんじゃ)があります。安良居神社は桜がきれいな丸子公園の一角にあり、古くから上丸子の氏神様として祀られてきました。安良居神社の大鳥居には八幡宮の額が掲げられています。昔は八幡神社と呼ばれ、木曽義仲が逗留中に源氏の氏神である八幡大菩薩を祀り創建したとも伝えられています。挙兵の際、出陣に先立ち愛宕神社(御嶽堂)で行った笠懸の矢を奉納し戦勝祈願をしたといわれています。鳥居の正面に建てられた拝殿は間口5間、奥行3間、平入りの切妻造りの建物で、正面に1間の軒唐破風の向拝を付けています。拝殿の後ろに、覆屋で囲まれた本殿が建てられています。諏訪の宮大工2代目、立川四郎富昌が手掛けました。脇障子に彫られた、手長足長の彫刻と、柱の龍と唐獅子、牡丹の彫刻が有名です。安良居神...安良居神社
長野県上田市岡に岡城跡があります。岡城は武田信玄の家臣、馬場美濃守信房により、天文年間(1532-1554)の末に築城されたと考えられています。内濠・外濠の外側に武田氏独特の三日月濠がある大規模な初期の平城です。岡城は天文22年(1553)、村上義清の葛尾城(坂城町)を落としてから、永禄3年(1560)、松代に海津城を築くまでの6年間、武田勢の川中島への進出の貴重な前線基地だったようです。城郭の規模は南北360m、東西460m、総面積は約7万5千平方mです。中心に本丸があり、東、西、北の3方を囲むように2の丸が配され、3カ所の出入り口は全て三日月濠で、南側は崖になっています。昭和47年(1972)に上田市の記念物(史跡)に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda...岡城跡
長野県上田市岡に宗安寺(そうあんじ)があります。長廣山宗安寺は浄土宗のお寺で、京都の知恩院の末寺です。寛仁年間(1017-1021)、恵心僧都が自ら彫り込んだ阿弥陀如来を安置したのが始まりと伝えられています。寺は御善帰にあり、帰命山正善寺と称しました。天文元年(1532)、領主であった足利義澄の臣下・藤木刑部長廣の菩提を弔う為、再興され長廣山遍照寺となりました。天文16年(1550)の上田原合戦の兵火により焼失、慶長10年(1606)、真田家家臣の日置五右衛門尉尹俊が堂宇を再建し、宗安寺と改めました。元禄10年(1698)、堂宇は大破し、伯誉上人の時、宝暦3年(1754)にやっと再建することができました。上田藩主松平伊賀守から賜った輪島膳椀、緞子の夜具、永丹画の屏風などが寺宝として残されています。下記のサ...宗安寺
長野県上田市殿城に龍宮神社瀧水寺(りゅうすいじ)があります。龍宮神社は神仏習合の頃、向かって右隣りにある瀧水寺(りゅうすいじ)を別当寺院にしていました。龍宮神社の背後は崖になっており、清水が流れています。鬱蒼とした古樹の中に本殿や矢澤一族と関係した矢澤社などいくつかの社殿や祠が建てられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/龍宮神社
長野県上田市殿城に瀧水寺(りゅうすいじ)があります。瀧水寺の門前には「イトザクラ」という樹種のシダレザクラがあります。樹齢300年といわれ、幹周は253cmあります。昭和50年(1975)に上田市の保存樹木に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瀧水寺イトザクラ
長野県上田市殿城に瀧水寺(りゅうすいじ)があります。瀧水寺の観音堂は天保13年(1842)に建てられています。桟瓦葺きの入母屋造り、妻入で、崖に建つ懸造りです。大工棟梁は横尾村の北沢清左衛門で、17歳という若さでしたが繊細な彫刻が巧みに彫られています。恵心僧都が自ら彫り込んだと伝えられる十一面観世音像を安置しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瀧水寺観音堂
長野県上田市殿城に瀧水寺(りゅうすいじ)があります。瀧水寺の本堂は沼田城城代でもあった真田昌幸の叔父・矢澤綱頼と夫人との発願により、天正15年(1587)に再建された建物です。間口6間、銅板葺きの寄棟造りで、正面に1間の向拝が付けられています。本尊である大日如来尊を祀っています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瀧水寺本堂
長野県上田市殿城に瀧水寺(りゅうすいじ)があります。大慧山瀧水寺は真言宗豊山派のお寺です。「瀧」は「りゅう」とはあまり読みませんが住職さんに聞いたところ昔からの読み方だそうです。正応3年(1290)頃、慧算が龍宮明神を勧請したのが始まりだといわれています。隣に鎮座する龍宮神社の別当になり、「瀧の聖天さま」と、地元の人々から親しみをこめて呼ばれています。崖の上にそびえる観音堂は迫力があり、門前には、樹齢300年とされるイトザクラがあります。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瀧水寺
長野県上田市中央に浄念寺(じょうねんじ)があります。七重山「浄念寺」は浄土宗のお寺です。室町時代の後期、永録2年(1559)に上田市の房山に源法寺として創建されたそうです。元禄9年(1696)に現在の場所に移転し、浄念寺と改称したそうです。参道の入り口には小さな石橋があります。この橋は縁切り橋と呼ばれているそうです。奥の大きな地蔵尊は悪縁を切ることができることから「縁切り地蔵」と呼ばれています。縁切り地蔵は浮気断ちにも効力があるそうです。その手の信仰で有名な和歌山の淡島神社とも関係があるようです。お堂は本堂と観音堂が一緒になった珍しいものです。間口も同じくらいの広さがあります。文政11年(1824)あたりから、このお寺で落語や講談、相撲などが催され、町の人々が大勢集まったそうです。下記のサイトにもお立ち寄...浄念寺
長野県上田市浦野に東昌寺(とうしょうじ)があります。山門の横には東昌寺のシンボルともいえるカシの樹があります。上田市の保存樹木に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/東昌寺カシの樹
長野県上田市浦野に東昌寺(とうしょうじ)があります。東昌寺の本堂は大きくて立派な建物です。本堂左の間には二十五体の観音像、六体とも同じ千手観音が安置されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/東昌寺本堂
長野県上田市浦野に東昌寺(とうしょうじ)があります。東昌寺の鐘楼は上田市の有形文化財に指定されています。天保12年(1841)有名な諏訪の立川流の大工、宮坂常蔵によって建てられたものです。宮坂常蔵は、立川流二代目冨昌の娘婿で、大工としては立川昌敬の名を使ったそうです。豊川稲荷など手掛け、尾張近辺に名作を数多く残しているそうです。県内では、この鐘楼が代表的な建築物です。入母屋造り、桟瓦葺(さんがわらぶき)、袴腰(はかまごし)という形体で、県内でも数の少ない貴重な鐘楼です。石垣の下からの鐘楼は鳥が羽を広げたような華麗な美しい建物です。鐘楼の袴腰の上の部分や、上層の貫(ぬき)の上に亀や象、獅子、竜、貘などが美しく彫られています。二階の天井には、墨で大きな竜が描かれています。鐘はアララギ系の歌人でもある香取秀真(...東昌寺鐘楼
長野県上田市浦野に東昌寺(とうしょうじ)があります。青木村にある国宝大法寺三重の塔をさらに少し登ると、山の中腹に東昌寺があります。上田市と青木村の境になっています。車で行くと不安になるような狭い急な道です。この山深い中にある立派なお寺は万年山東昌寺です。東昌寺は有力豪族でこの地方の地名ともなっている浦野氏の菩提寺です。東昌寺の創建は建長2年(1250)と伝えられています。天文12年(1551)に福井の心月寺の第七世、才応総芸を迎えています。この時臨剤宗だったのを曹洞宗にしたそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/東昌寺
長野県上田市蒼久保(あおくぼ)に龍洞院(りゅうどういん)があります。龍洞院は活文禅師遺跡2号龍洞院敷地、遺墨遺品文書として上田市の指定記念物に昭和44年(1969)に指定されています。「門無雅客到坐豈乏清風」「門に雅客の至るなし坐して豈(あに)清風に乏しからんや」という漢詩が刻まれている石碑があります。風流な客人も訪ねてこないが、こうして一人で座っていると清らかな風が満ちてくる、意です。JR信濃国分寺駅に近い国道18号線から下青木(しもあおき)の細い道を1km入ったところに龍洞院があります。永正元年(1504)、村上義清の祖父であった戸石(砥石)城主の村上石京大夫が、上田市の神畑(かばたけ)の鳳林寺を改名して一山正心を開祖として開創しました。現在地の蒼久保には天正5年(1577)に移転したそうです。最も古...龍洞院
長野県上田市中央に宗吽寺(そううんじ)があります。本堂前にある石幢(石造物)は六地蔵塔で石灯籠として使われていたものだそうです。石幢は六角形の石灯籠型で6面に6地蔵を浮き彫りにするタイプか、6面に窓を開けて内部に6地蔵を置くタイプが普通だそうです。宗吽寺石幢は切妻の家型で正面と左右の3面に2体の地蔵尊が彫り込まれている珍しいものです。この石幢には「正平4年」(1349)と刻まれています。南北朝時代の南朝の年号だそうです。当時、この地方が北朝方に味方する勢力が多い中、このあたりは南朝方についていたことがわかります。石幢は昭和57年(1982)に上田市指定有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキ...宗吽寺石幢
長野県上田市中央に宗吽寺(そううんじ)があります。海堂山「宗吽寺」は真言宗で紀伊高野山の末寺です。もともとは上田城の堀近くにあったものを上田城築城の時にこの地に移したといわれています。開山は什慶といわれ、上田城付近にありましたが、上田城築城の際、現在地に移され慶英法印によって中興開山しています。宗吽寺は上田藩主の仙石氏と松平氏の祈願所として庇護され、松平氏の参勤交代の折りには、江戸への出立の吉日をこの寺が選んだと「海野町本陣日記」に記されています。境内にある念珠は珠が108個あり煩悩の数と同じになっているそうです。母玉を一廻りさせることで煩悩を払うといわれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブロ...宗吽寺
長野県上田市中央北に呈蓮寺(ていれんじ)があります。呈蓮寺には上田市の史跡に指定されている竹内善吾武信の墓があります。江戸時代末期の和算学の大家です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/竹内善吾武信の墓
長野県上田市中央北に呈蓮寺(ていれんじ)があります。呈蓮寺の本堂は寛政8年(1796)に再建された建物です。唐破風(からはふ)の下に大きな唐獅子が彫刻されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/呈蓮寺本堂
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岐阜県岐阜市梶川町に常在寺(じょうざいじ)があります。常在寺の本堂は入母屋造り、桟瓦葺き、平入の木造平屋建てで、正面に1間の向拝を付けています。外壁は真壁造白漆喰仕上げとなっています。内部の内陣には本尊となる文殊菩薩像が安置されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/常在寺本堂
岐阜県岐阜市梶川町に常在寺(じょうざいじ)があります。常在寺の寺宝で室町時代に描かれた絹本著色斎藤道三画像が残されています。戦国の梟雄として名を馳せた斎藤道三(~1556)の肖像で、歿して間もない頃に描かれたものです。描写は戦国武将の気骨をよくとらえており、像主の歴史的役割とともに武将肖像画として資料的価値が高く、昭和50年(1975)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/斎藤道三肖像画像
岐阜県岐阜市梶川町に常在寺(じょうざいじ)があります。鷲林山(しゅうりんざん)常在寺は日蓮宗のお寺です。宝徳2年(1450)、美濃の守護代の斎藤妙椿(みょうちん)が日範(妙覚寺世尊院の僧)を招いて開山し斎藤家の菩提寺にしました。常在寺4世の日運は土岐氏重臣長井利隆の弟で妙覚寺で道三と親交がありました。道三は日運の推挙で守護代であった斎藤氏に出入りし、その名跡を継ぎ、さらに美濃守護の土岐氏を追放したことで美濃を手に入れました。常在寺は斎藤道三の基盤を築いた寺として庇護されました。国重文の斎藤道三肖像画と斎藤義龍肖像画が寺宝で所蔵されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog...常在寺
岐阜県岐阜市大仏町に正法寺(しょうぼうじ)があります。大釈迦如来像は岐阜大仏とも呼ばれています。大イチョウの木を柱とし、竹材で籠を編むようにして形を作り、その上に漆と金箔を塗ってできた日本最大の籠大仏です。像高13.7m、顔の長さ3.63mで胎内には慈覚大師が彫り込んだと伝えられる薬師如来像が安置されています。昭和49年(1974)に岐阜県の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/正法寺籠大仏
岐阜県岐阜市大仏町に正法寺(しょうぼうじ)があります。正法寺の大仏殿は本堂で大仏(大釈迦如来像)を収めるために造営されました。間口19.16m、奥行19.18m、高さ23.60m、木造三層、宝形造り、桟瓦葺きで正面に1間の向拝が付けられています。明朝様式と和様が融合した江戸時代後期の建物です。平成27年(2015)に岐阜市の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/正法寺大仏殿
岐阜県岐阜市大仏町に正法寺(しょうぼうじ)があります。金凰山正法寺は黄檗宗のお寺です。観応年間(1350-1352)、当時の美濃の守護・土岐頼康が創建したといわれています。廃寺ののち元禄5年(1692)に千呆和尚により黄檗宗のお寺として蘇り境内が整えられたようです。11世の推中和尚は、奈良の大仏を模した大釈迦如来像を計画、浄財を集め尽力しましたが完成前に亡くなります。天保3年(1832)、12世の肯宗和尚によって大仏がようやく完成し、開眼供養の際には多くの参拝者が訪れ盛大だったと伝えられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/正法寺
岐阜県岐阜市神田町に円徳寺があります。円徳寺には織田信長から永禄7年(1564)に寄進されたという梵鐘が吊り下げられています。銀箔押烏帽子形兜、本願寺顕如消息(書跡)、伝織田塚改葬地とともに岐阜市の重要文化財に指定されています。また、織田信長、池田輝政より出された楽市の制札は国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/円徳寺梵鐘
岐阜県岐阜市神田町に円徳寺があります。円徳寺は浄土真宗本願寺派のお寺で、織田氏ゆかりの寺として知られています。寿永2年(1183)、比叡山の寂円が一宇を建立、法泉寺と称したのが始まりと伝えられています。2世の寂世が親鸞聖人に帰依し、浄土真宗に改宗、寺号も常泉坊としました。永禄10年(1567)、織田信長が稲葉山城の斎藤龍興を破り、岐阜城主になると土地を寄進されて現在地に移りました。そして、その門前に楽市が開かれました。円徳寺に残る楽市楽座の制札は最古のもので、国の重要文化財に指定されています。関ヶ原合戦の際、岐阜城主であった織田秀信(織田信長の嫡孫、信忠の嫡男・幼名は三法師)が西軍に組したため、池田輝政・福島正則から猛攻を受け岐阜城は陥落しました。秀信は切腹しようとしましたが輝政の説得で円徳寺で剃髪し、高...円徳寺
岐阜県本巣郡(もとすぐん)北方町(きたがたちょう)清水に西順寺(さいじゅんじ)があります。西順寺の「時の太鼓」は直径約90cm、胴周り約330cm、胴長約115cmと、とても大きなものものです。明治維新までの約170年間、明け六つから暮れ六つまで、太鼓の音で時刻を知らせてきました。現在も、毎年6月10日の時の記念日に合わせ古式にのっとり太鼓は打たれています。昭和30年(1955)には北方町の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/時の太鼓
岐阜県本巣郡(もとすぐん)北方町(きたがたちょう)清水に西順寺(さいじゅんじ)があります。中島山西順寺は本尊に阿弥陀如来を祀る浄土真宗本願寺派のお寺です。円鏡寺のすぐ近くにあります。文応元年(1260)に、明海が開山したのが始まりと伝えられています。境内には本堂や鐘楼があり、この寺の代名詞でもある「時の太鼓」を収めているやぐらが建てられています。元禄10年(1699)に北方領主である旗本の戸田光賢が将軍綱吉に見事な馬術を披露しました。その恩賞として「時の太鼓」の使用、冠木門の設置、鮫鞘の三間槍の使用を将軍家より許された歴史があります。明治の初めに本町より現在の場所に移転されたそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログラ...西順寺
岐阜県本巣郡(もとすぐん)北方町(きたがたちょう)北方に円鏡寺(えんきょうじ)があります。円鏡寺の山門に安置されている金剛力士立像は口を開けた阿形像と吽形像とがあります。山門と同年の永仁4年(1296)に運慶によって刻まれたと伝えられています。寄木造り、玉眼入りで筋肉表現に誇張したところはなく温雅な彫刻で慶派の特徴があるといわれています。大正14年(1925)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/円鏡寺金剛力士立像
岐阜県本巣郡(もとすぐん)北方町(きたがたちょう)北方に円鏡寺(えんきょうじ)があります。円鏡寺山門は、鎌倉時代の中期の永仁4年(1296)に、永尊良愉上人が建立した楼門で、この種の楼門としては全国で2番目に古い建物です。間口3間、奥行2間、入母屋造り、檜皮葺きの三間一戸の八脚楼門です。外壁は真壁造板張りで、上層部には高欄が廻り、下層部左右に金剛力士立像を安置しています。破風には「猪目懸魚(いのめけぎょ)」という飾り物を付け、組物は三手先で深い軒を支えています。棟梁・飛騨の匠で有名な八重則光が造ったものです。勾配のゆるやかな屋根と腰の均衡が優美な純和様建物で、明治42年(1909)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogin...円鏡寺山門
岐阜県本巣郡(もとすぐん)北方町(きたがたちょう)北方に円鏡寺(えんきょうじ)があります。池鏡山円鏡寺は高野山真言宗の古刹です。円鏡寺は平安時代初期の弘仁2年(811)、嵯峨天皇の勅願により弘法大師空海が開いたのが始まりと伝えられています。造営中に不動明王像を刻まれ、数十年後に補陀落上人が本尊の聖観音像を彫って安置したといわれています。当初は定照院と称していましたが、補陀落院に改称、さらに平安時代後期の永延年間(987-989)、中興の祖・良祐上人の時に一条天皇から「池鏡山円鏡寺」の寺号と共に寺領700石と、京都嵯峨御所内の久遠城院の1院を拝領したそうです。以来、法華寺、乙津寺とともに美濃三弘法として信仰されました。歴代領主や為政者が庇護したことで寺運が隆盛し、戦国時代以降も織田信長、豊臣秀吉、徳川家康な...円鏡寺
岐阜県安八郡(あんぱちぐん)神戸町(ごうどちょう)神戸に日吉神社(ひよしじんじゃ)があります。神戸山王まつりは勇壮、豪快な火まつりです。深夜零時に御拝殿から、日吉大宮、日吉二の宮、日吉宇佐の宮、日吉樹下の宮、日吉牛尾の宮、日吉客人の宮、日吉三の宮の7社の神輿(すべて県重要有形民俗文化財)が次々と担ぎ出されます。参道大鳥居前の琵琶湖になぞらえた川をいっきに渡り、お旅所へとお渡り(渡御)になる神事です。岐阜県の重要無形民俗文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/神戸山王まつり
岐阜県安八郡(あんぱちぐん)神戸町(ごうどちょう)神戸に日吉神社(ひよしじんじゃ)があります。日吉樹下の宮神輿は貞享4年(1687)に造られていて県の重要有形民俗文化財に指定されています。祭神は鴨玉依姫神で本体は四角形です。柱の金物には前部に岩に戯れる獅子と笹の葉などの青銅の彫刻が施されています。渡御の時は2番目に担がれます。横町の氏子が管理しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/日吉樹下の宮神輿
岐阜県安八郡(あんぱちぐん)神戸町(ごうどちょう)神戸に日吉神社(ひよしじんじゃ)があります。惣門を入るとすぐ右側にう日吉宇佐の宮の神輿蔵があります。この神輿は日吉神社祭典行事で担がれ、5番目に渡御する神輿です。笹鉾に飾ってある金物は葵の紋、胴体の柱の金物は上部に巻雲模様、下部は波の模様を金で刻んでいます。貞享4年(1687)に造られたもので県の重要有形民俗文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/日吉宇佐の宮の神輿蔵
岐阜県安八郡(あんぱちぐん)神戸町(ごうどちょう)神戸に日吉神社(ひよしじんじゃ)があります。日吉神社本殿は大己貴神を主神として祀っています。棟札により寛永7年(1630)に尾張藩初代藩主徳川義直が再建したことがわかります。間口3間、奥行3間の三間社流造り、檜皮葺きで、正面に1間の向拝が付けられています。昭和33年(1958)に岐阜県の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/日吉神社本殿
岐阜県安八郡(あんぱちぐん)神戸町(ごうどちょう)神戸に日吉神社(ひよしじんじゃ)があります。日吉神社の石造狛犬は収蔵庫に納められています。レプリカは本殿の前に置かれています。西保城主であった不破河内守光治により天正5年(1577)に寄進されています。稲葉一鉄らとともに「西美濃四人衆」と称された人物です。この狛犬は岐阜県内に現存する石造狛犬の中で、唯一国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/日吉神社の石造狛犬
岐阜県安八郡(あんぱちぐん)神戸町(ごうどちょう)神戸に日吉神社(ひよしじんじゃ)があります。日吉神社の三重塔は神仏混淆の思想に基づき平安時代に建立されました。その後、永正年間(1504-1520)に春日局の父の叔父になる斉藤利網が再建したといわれています。天正13年(1585)には春日局の叔父になる稲葉一鉄によって改修されています。三重塔は間口3間、奥行3間、宝形造り、檜皮葺きの三間塔婆で、相輪頂上までの高さは24.6mもあります。戦国の兵火を免れ、天正、貞享、文政、明治に修理をされています。室町時代の貴重な三重塔で、大正3年(1914)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへ...日吉神社三重塔
岐阜県安八郡(あんぱちぐん)神戸町(ごうどちょう)神戸に日吉神社(ひよしじんじゃ)があります。弘仁8年(817)、当時の領主・安八太夫安次の願いにより最澄がお寺である善学院を建て、近江坂本の山王社を勧請して日吉神社を建てたと伝えられています。日吉神社というのは7つのお宮全体を指しています。本殿に当たる日吉大宮、日吉二の宮、日吉宇佐の宮、日吉樹下の宮、日吉牛尾の宮、日吉客人の宮、日吉三の宮です。5月3、4日に行われる山王祭りにはこの7つの神様を神輿に乗せて練りまわします。惣門を入るとすぐ右側に日吉宇佐の宮の神輿蔵があります。奥の神輿殿までの間に、右側には中ノ坊跡、十光坊跡、福泉坊跡、浄光坊跡、牛石、竃殿神社があり、その右側に三重塔、火祭りの庭、石舞台の庭があります。左側には常楽坊跡、蓮華院跡、西門、法光坊跡...日吉神社
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺の経蔵堂は、中央に回転できる経厨子があり、中に仏教のあらゆる法門の経典を集めた「一切経」を納めてあります。その経厨子は、一回転させる毎に「一切経」をすべて読誦したのと同じ功徳があるといわれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺経蔵堂
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺の本堂は清水寺と同じく崖からせり出した舞台造り(コンクリート造り)です。慶長7年(1602)に豊臣秀頼によって再建され、(他説には文禄年間(1592-1596)豊臣秀吉により再建とする説もあり)、後に修復を加え、延享3年(1746)に完成しました。しかし昭和26年(1951)に本堂は漏電のため焼失し、昭和33年(1958)に再建された建物です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺本堂
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺の赤門は千手院の手前に建てられています。寛政5年(1793)に再建された朱色が鮮やかな美しい門です。本山信貴山と書かれた看板が掛かっています。平成21年(2009)に塗り替えられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/朝護孫子寺赤門
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。朝護孫子寺は正式には信貴山(しぎさん)歓喜院朝護孫子寺という信貴山真言宗の総本山です。延喜2年(902)、明蓮が醍醐天皇の勅命で創建した時、「朝廟安穏守護国土子孫長久」の願文から名付けたそうです。寺伝では聖徳太子が物部守屋討伐を祈願し、寅の年、寅の日、寅の刻に毘沙門天から加護され討伐に成功したことから、「信ずべき山、貴ぶべき山」信貴山と名づけられ、命蓮上人平癒の祈願で醍醐天皇の病が全快し、朝護孫子の号を賜ったとなっています。平安時代以降は、外敵退散、悪魔降伏を祈る毘沙門天信仰から武人の崇敬を集め、河内の豪族・河内正康も深く毘沙門天に帰依しました。その子供には多聞丸と名付けました。のちの楠木正成です。菊水紋のついた甲冑(重文...朝護孫子寺
奈良県生駒郡三郷町立野南に龍田大社(たつたたいしゃ)があります。龍田大社は延喜式で名神大社に列する古社で、天御柱大神(志那都比古神)と国御柱大神(志那都比売神)を祀っています。祭神は別名を龍田神・龍田風神ともいい、崇神天皇の時代、凶作が続いたとき、夢でこの風神のお告げを受けて創建されたといわれています。斑鳩町龍田に「新宮」と呼ばれる龍田神社がありますが、こちらは「本宮」とも呼ばれています。これは、聖徳太子が法隆寺を建立した時、龍田大社に祈願し、落慶の際に法隆寺の守り神として龍田大社の分霊をお祀りしたのが龍田神社であるためです。旧社格は最高の官幣大社で、古くから五穀豊穣、航海安全に霊験ありとして崇敬を集め、歴代の朝廷からも深く信仰されました。毎年6月28日から1週間行われる風鎮祭は、天武天皇の675年に始ま...龍田大社
奈良県生駒市有里町に円福寺(えんぷくじ)があります。本堂前に建っている2基の宝篋印塔も昭和30年(1955)に国の重要文化財に指定されています。北側の塔は総高244cm、初重に四仏の種子を刻み、永仁元年(1293)の銘があります。南側の塔は総高240cm、初重に四仏の像が刻まれています。北側の塔と同じ頃の造立と推察されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/円福寺宝篋印塔
奈良県生駒市有里町に円福寺(えんぷくじ)があります。円福寺の本堂は間口3間、奥行3間、単層、入母屋造り、本瓦葺きで、中央に1間の向拝を付けています。来迎壁(仏壇背後の壁)の墨書から応安4年(1371)に建てられたことがわかります。大正11年(1922)に国の重要文化財に指定されています。棟札1枚、旧来迎壁額縁1本、旧床板1枚、旧野地板断片1枚、旧鬼瓦2個、旧丸瓦2枚も附指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/円福寺本堂
奈良県生駒市有里町に円福寺(えんぷくじ)があります。龍華山(りゅうげさん)円福寺は生駒谷を見下ろす山腹にある真言律宗のお寺です。寺伝によると天平勝宝年間(749-757)に行基によって創建されたという古刹です。しかし何度も火災に遭い、寺歴は明らかではないといいます。本堂と庫裏があるだけの小さなお寺ですが、鎌倉時代に再建された本堂は国の重要文化財に指定されています。本堂前に並んで建つ2基の宝篋印塔も鎌倉後期のもので、国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/円福寺
奈良県生駒市壱分町に往馬大社(いこまたいしゃ)があります。往馬大社の上溝桜(うわみずざくら)は大嘗祭(だいじょうさい)(天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭)の斎田てん定(さいでんてんてい)の儀に使用された御神木です。昭和や平成の大嘗祭にも献上されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/往馬大社上溝桜
奈良県生駒市壱分町に往馬大社(いこまたいしゃ)があります。往馬大社の鎮守の杜である社叢(しゃそう)は平成10年(1998)に奈良県の天然記念物に指定されています。ツブラジイなどの高さ20mの照葉樹がよく保存されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/往馬大社社叢
奈良県生駒市壱分町に往馬大社(いこまたいしゃ)があります。往馬大社本殿は拝殿の後ろに建てられています。7連の壮麗な春日造りで、屋根は檜皮葺きです。中央に伊古麻都比古命(いこまつひこのみこと)、その右に伊古麻都比賣命(いこまつひめのみこと)が祀られています。左側には気長宿禰王命・気長足比賣尊・誉田別尊、右側には足仲比古尊・葛城高額姫命が祀られています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/往馬大社本殿
奈良県生駒市壱分町に往馬大社(いこまたいしゃ)があります。往馬大社は生駒山を御神体として祀られた古社で、正式には往馬坐伊古麻都比古(いこまにますいこまつひこ)神社といいます。平安時代の「延喜式」には名神大社として名を連ね、生駒谷17郷の氏神として崇敬されてきました。火の神として古くから民衆の信仰を集め、代々天皇の祭祀に用いる火燧木(ひきりき)を献上したと伝えられています。毎年10月の体育の日の前日に「火どり」と呼ばれる「火祭り」の行事が行われています。古式豊かな伝統行事として生駒市の無形民俗文化財に指定されています。伊古麻都比古命と伊古麻都比賣命の両神は火燧木神(ひきりぎのかみ)とも呼ばれます。天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭である大嘗祭では、亀甲占いを行います。その際の火燧木(起こし火のタネ)は、往...往馬大社
奈良県生駒市門前町に宝山寺があります。宝山寺の観音堂の前身は常念観音院と呼ばれ、天和4年(1684)に建てられた歴史のある建物です。間口3間半、奥行1間の小堂で、天保15年(1844)に瓦葺きのお堂に建て替えられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/宝山寺観音堂
奈良県生駒市門前町に宝山寺があります。宝山寺の文殊堂は本堂から奥の院に向かう途中にあります。昭和53年(1978)に中興開基300年大法要の記念に建てられた新しいお堂です。それまでは文殊堂はなく、本堂東前にある天神様が受験生などの祈祷をしていたそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/宝山寺文殊堂
奈良県生駒市門前町に宝山寺があります。宝山寺の多宝塔は昭和32年(1957)に18世の実道和尚の時、建てられました。塔は鎌倉様式で、建築細部の意匠は桃山様式、内陣須弥壇や四天柱は藤原様式になっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/宝山寺多宝塔
奈良県生駒市門前町に宝山寺があります。宝山寺の聖天堂拝殿は八つ棟造り、檜皮葺きの建物で、本堂の隣に明治10年(1877)に建てられました。聖天堂内陣の円檀中央に歓喜天の厨子があり、その背後の造り付けの厨子に、荒神・十一面観音・毘沙門天が祀られています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/宝山寺聖天堂拝殿
奈良県生駒市門前町に宝山寺があります。宝山寺の聖天堂拝殿は八つ棟造り、檜皮葺きの建物で、本堂の隣に明治10年(1877)に建てられました。聖天堂内陣の円檀中央に歓喜天の厨子があり、その背後の造り付けの厨子に、荒神・十一面観音・毘沙門天が祀られています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/宝山寺聖天堂拝殿
奈良県生駒市門前町に宝山寺があります。宝山寺の本堂は5間4面の重層の護摩堂様式の建物で本尊の不動明王を祀っています。貞亨5年(1688)に郡山藩家老であった梶金平一雄、部一父子が施主となり、大阪の日下利左衛門、庄屋の大神和家らの尽力により建てられました。宝山寺創建当初の威風を残す建物です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/宝山寺本堂
奈良県生駒市門前町に宝山寺があります。宝山寺の獅子閣は宝山寺の客殿で、明治17年(1884)に建てられています。2階建て、寄棟造り、車寄切妻造りです。障子を三方にはめたステンドグラスや、螺旋階段があります。1、2階の外柱の柱頭飾り、玄関・ベランダの天井の意匠、窓や外扉のアーチなど、明治のハイカラな洋風建築をしのばせます。棟梁は宝山寺出入りの越後の大工・吉村松太郎です。寺からの命を受け横浜まで足を運んで洋風建築を学んだといわれています。獅子閣は設計図7枚・棟札1枚とともに、昭和36年(1961)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.c...宝山寺獅子閣
奈良県生駒市門前町に宝山寺があります。都史陀山・宝山寺は生駒山の東側中腹にあり、生駒聖天(いこましょうてん)の名で広く知られる真言律宗の大本山です。この地は役行者の開いた修験者の行場として栄え、弘法大師も修行したと伝えられています。延宝6年(1678)、湛海律師(たんかいりつし)が入山して中興となり、諸堂を整備しました。貞享3年(1686)に聖天堂に祀った歓喜天は、生駒聖天として広く信仰を集めるようになりました。江戸時代には、宝山寺は商売の神として大阪商人の信仰を集めました。元禄12年(1699)、東山天皇から皇子誕生祈願の勅命を受けて法験をあらわして以来、明治維新まで勅願寺となっていました。徳川幕府や、郡山藩主柳沢家からも崇敬され繁栄しました。大正7年(1918)には日本最初のケーブルカー、生駒鋼索鉄道...宝山寺