┃プロフィール【生没年】天監七年(508)八月丁巳(6日)~承聖三年(554)十二月辛未(19日)・梁の武帝の第七子。・幼名は七符(官)・字は世誠・眼病により…
┃プロフィール【生没年】天監七年(508)八月丁巳(6日)~承聖三年(554)十二月辛未(19日)・梁の武帝の第七子。・幼名は七符(官)・字は世誠・眼病により…
┃官職・都督→560年:領軍将軍・都督→武平年間(570~576):開府・王┃高家の家奴〔東魏の権臣の〕高歓⑴の蒼頭(家奴)の陳山提⑵・蓋豊楽⑶・劉郁斤・趙道…
『北斉書:安徳王延宗伝⑴ 動けるデブ』[544~577]┃衝天王にならんと欲す 安徳王延宗は〔東魏の権臣の〕高澄⑴の第五子である。母は東魏の広陽王〔湛⑵?〕…
[544~577]┃衝天王にならんと欲す 安徳王延宗は〔東魏の権臣の〕高澄⑴の第五子である。母は東魏の広陽王〔湛⑵?〕の芸妓の陳氏。〔澄が武定七年(549)に…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃為仁微小 壬寅(8月24日)、北魏の孝文帝⑴が肆州(九原)に到った。この時、〔肆州〕民のうち七十歳以上の者の爵位(二十…
[?~531]┃占卜によって成り上がる 劉霊助は、燕郡(幽州の治所の薊がある郡)の人である。父は劉僧安。陰陽・占卜の事を好み、范陽の人の劉弁に師事した。ただ、…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃王融策動 戊寅(7月30日)、〔病気に罹っていた〕南斉の武帝⑴が突然危篤に陥り、意識不明の状態となった。この時、帝の子…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃遷都計画 北魏の首都の平城は南五十里に定襄(雁門の誤り)郡より出て海(東シナ海)に流れる桑乾水という川があり、それに因…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃皇太孫昭業 夏、4月、癸未(3日)、北魏の使者が南斉に到着した(正月14日に北魏は邢巒と劉承叔を南斉に派遣していた)。…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃陳顕達の静退 春、正月、壬子朔(1日)、北魏の孝文帝⑴が百官を太極殿に集めて宴会を開いた。 癸丑(2日)、南斉の武帝⑵…
┃生没年 521~549年8月○北斉文襄紀〔武定…七年(549)…八月…〕辛卯,王遇盜而殂,時年二十九。┃容姿 北史:美姿容 賈子儒:瞼が薄く、目の動き(或い…
[507~568]┃楊忠の登場 楊忠(本姓は普六茹?)は幼名を奴奴といい、武川鎮の人である。 漢の太尉の楊震の末裔という(眉唾)。 震の八代孫の楊鉉は燕(北燕…
589年⑸ 天人告げて 陳朝、三二で滅び 後主降って 三分、一統に帰す
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃嶺南乱る これより前(588年)、陳は使持節・光勝将軍(六品)・平越中郎将・大都督・東衡州刺史・領始興内史の王勇⑴を鎮南大将軍…
589年⑷ 蕭瓛、三子を以て呉州に起ち 遂興、青門を忌んで臣節に死す
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃江州降る 癸巳(正月29日)、隋が使者を江南の各地に派して巡撫させた。 隋の〔上大将軍・蘄州総管の〕王世積⑴は蘄口にて陳が滅亡…
589年⑶ 陳後主、井中に身を隠して隋文を驚かせ 張麗華、青渓に首を晒して晋王を怒らす
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃逃走の機逸す 陳軍が敗北を喫すると、任忠⑴は宮殿に馳せ入って後主⑵に謁え、敗北した事を報告した。それからこう言った。「陛下、身…
589年⑵ 魯広達、桴鼓を執って白土岡に力戦し 蕭摩訶、妻を姦せられて賀若弼の縛に就く
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃馬鞍山・磨刀澗の戦い これより前、陳の荊州(公安)刺史の宜黄侯慧紀⑴は隋軍が渡江したのを知ると、公安の留守を長史の陳文盛らに任…
589年⑴ 賀若、計策を用いて長江を済り 王頒、傷を被るも夢に薬を授かる
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃霧気四塞 春、正月、乙丑朔(1日)、陳の後主⑴が元旦に群臣を集めて朝会(元会)を挙行した。 この時、建康の周囲に深い霧が立ち込…
588年(3) 楊素、水戦を制して江神と称され 後主、天塹を信じて詩酒に耽る
[隋:開皇八年 陳:禎明二年]┃親餞 11月、丁卯(2日)、隋の文帝⑴が自ら伐陳軍を見送りに出た。 また、陳の後主⑵の身柄に上柱国・万戸公の懸賞を懸けた。 壬…
588年(2)大軍隋を発って 五十一万、晋王の節度を受け 精兵江に臨んで 旌旗舟楫、数千里に亘る
[隋:開皇八年 陳:禎明二年]┃壮行の宴 9月、丁丑(11日)、隋の文帝⑴が南征に参加する諸将を集めて宴会を開き、差をつけて下賜を行なった。 癸巳(27日)、…
『周書:斉王憲伝(3) 〜晋公護の死と武帝の警戒〜』『周書:斉王憲伝(1) 〜勇敢なる駁馬将軍〜』[544(545?)~578]┃原州で育つ 斉煬王憲は字を…
『周書:斉王憲伝(1) 〜勇敢なる駁馬将軍〜』[544(545?)~578]┃原州で育つ 斉煬王憲は字を毗賀突といい、宇文泰⑴の第五子である。母は達步干妃(柔…
┃重用 天和三年(568)、夏、4月、辛巳(17日)、北周が雍州牧の斉公憲を大司馬・治小冢宰とした。雍州牧はそのままとした。 憲は〔北周の権臣の〕晋公護から信…
588年(1) 神龍騰躍して 隋文、伐陳の詔を下し 災異相継ぐも 後主、大いに酒色に耽る
[隋:開皇八年 陳:禎明二年]┃拝礼問答 春、正月、乙亥(5日)、陳の散騎常侍の袁雅・兼通直散騎常侍の周止水が隋に到着した⑴。 この時、内史侍郎の元善が客館に…
587年(2) 梁廃されて 蕭巖、部衆を率いて陳に奔り 父母を称して 隋文、一衣帯水に限らず
[隋:開皇七年 陳:至徳五年→禎明元年 後梁:広運二年]┃後梁滅ぶ 隋が後梁の靖帝⑴に入朝を求めた。帝は臣下二百余人を引き連れて長安に赴いた。江陵の父老たちは…
[544(545?)~578]┃駁馬 斉煬王憲は字を毗賀突といい、宇文泰⑴の第五子である。母は達步干妃(柔然人)。 聡明で器が大きく、幼い頃から気高い精神を備…
┃芸術の天才 広寧王孝珩は北斉の文襄帝(高澄⑴)の第二子である。母は王氏。 孝珩は才能のある者を愛し、読書家で、作文を好み、芸術の才能があった。 ある時、役所…
587年(1) 阿波擒われて 獯粥みな臣妾となり 衆鬼厲りを為して 衛王忽然と薨去す
[隋:開皇七年 陳:至徳五年→禎明元年 後梁:広運二年]┃改元 春、正月、丙子(1日)、陳が安前将軍(三品)の衡陽王伯信⑴を鎮前将軍(二品)とした。 また、安…
┃侯景┃宇文護┃蘭陵王┃隋の文帝
┃晋書地理志↓綺麗な画像を見たい方はこちらhttps://twitter.com/Jl6kmgQnKEsXvLy/status/169744476454592…
┃勢力図
586年(2) 崔仲方、歳助を論じて取陳の策を献じ 孔範、奪兵を行なって文武解体す
[隋:開皇六年 陳:至徳四年 後梁:広運元年]┃元景山の死〔これより前、元景山⑴は司馬消難が挙兵した際その討伐に大いに貢献し、隋が建国されると上柱国・安州総管…
586年(1) 李顕慶、泉に帰して封禅の光景を慕い 梁士彦、計敗れて一党誅戮に遭う
[隋:開皇六年 陳:至徳四年 後梁:広運元年]┃広運 後梁が年号を天保から広運に改めた。 有識者は言った。「運の字は軍と走で成り立っている。我が君(靖帝⑴)は…
585年(3) 隋・陳衝突して 蕭岑、徴召を受け 施・沈専制して 傅縡、獄中に死す
[隋:開皇五年 陳:至徳三年 後梁:天保二十三年]┃河南諸州の水害 戊子(8月4日)の夜、〔建康にて〕老人星(カノープス。吉星)が観測された。 甲辰(20日)…
┃王神念を破る 慕容儼は字を恃徳といい、清都成安の人で、慕容廆(前燕の実質的な建国者。或いは単に前燕)の後裔である。父の慕容叱頭は北魏の南頓太守で、身長一丈(…
585年(2) 沙鉢略、大隋の援を受けて阿波を破り 隋文帝、漠北の雄を従えて一体と為す
[隋:開皇五年 陳:至徳三年 後梁:天保二十三年]┃義倉の設置 当時、隋では国内の大部分が水害や旱害に遭い、人々は生計が立てられなくなっていた。 そこで隋の民…
585年(1) 郢国公、不遜の言辞を吐いて死を賜り 名将の子、建安に干戈を交えて勇を争う
[隋:開皇五年 陳:至徳三年 後梁:天保二十三年]┃《隋朝儀礼》 春、正月、戊午朔(1日)、日食があった。 これより前、隋は〔大将軍・秘書監の〕牛弘⑴と〔上開…
┃姓名・字・出身地・侯景は字を万景といい、朔方、或いは雁門郡出身で、北魏の懐朔鎮の人である。・幼名は狗子┃生没年・503~552・548年の書状に『臣は四十六…
584年(3) 周公主、仇敵に屈してその娘となるを乞い 陳後主、三閣を建てて後庭花を詠う
[隋:開皇四年 陳:至徳二年 後梁:天保二十二年]┃沙鉢略可汗、隋に和を求める〔これより前、東突厥の沙鉢略可汗⑴は隋に大敗を喫したのち、西突厥の達頭可汗⑵の支…
584年(2) 渭水の多沙を以て 宇文愷、広通渠を鑿ち 関中の飢饉を以て 隋文帝、洛陽城に赴く
[隋:開皇四年 陳:至徳二年 後梁:天保二十二年]┃叙任〔これより前、〕陳は智武将軍(四品)・東中郎将(四品)・東揚州刺史の新蔡王叔斉⑴を侍中とし、将軍・佐史…
584年(1) 梁主来朝して 隋文、旧都の回復を約し 狎客を寵して 後主、国政を頽廃せしむ
[隋:開皇四年 陳:至徳二年 後梁:天保二十二年]┃後梁主来朝 春、正月、甲子朔(1日)、日食があった。 丁卯(4日)、陳が大使を各地に派遣して人々の様子を観…
[499~583]┃呉興の大族 姚僧垣は字を法衛といい、呉興郡(建康の東南、呉郡の西南)武康県(呉興の南)の人で、呉の太常の姚信の八世孫である。曽祖父は劉宋の…
583年(4) 大隋、州の過多を以て郡を罷め 蘇威、律の厳密を以て条を除く
[隋:開皇三年 陳:太建十五年→至徳元年 後梁:天保二十一年]┃生真面目の人・周揺 これより前、突厥が隋の国境を侵犯し、燕・薊の大半の地域がその被害に遭い、幽…
583年(3) 史万歳、一壮士を斬って勝負を決し 沙鉢略、離間の計に遭って窮地に陥る
[隋:開皇三年 陳:太建十五年→至徳元年 後梁:天保二十一年]┃于義の死 この日(4月2日)、隋の上柱国・建平郡公の于義⑴が逝去した(享年50)。 義は潼州総…
583年(2) 天子震怒して 大隋、北伐の軍を興し 胡の不意に出でて 二李、白道に大破す
[隋:開皇三年 陳:太建十五年→至徳元年 後梁:天保二十一年]┃北斉系の不遇〔丁巳(3月19日)、隋は詔を下し、書一巻を献じた者には絹一疋を褒賞として与える事…
583年(1) 酒宴を諌めんとして 毛喜、階下に仆れ 典籍を集めんとして 牛弘、文帝に奏す
[隋:開皇三年 陳:太建十五年→至徳元年 後梁:天保二十一年]┃緩和 春、正月、庚子(1日)、隋が新都に遷る準備が整った事を祝い、天下に大赦を行なった。 また…
[496~549]┃東朝に帰るべし 羊侃は字を祖忻といい、泰山郡梁甫(鉅平?)県の人で、〔後〕漢の南陽太守の羊続の末裔である。 祖父の羊規之(?~473)は、…
582年(4) 突厥入寇して 長儒、身に五創を被り 沙城に争って 李崇、忠を北辺に示す
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]┃突厥の侵攻 10月、隋の文帝が旧殿を撤去し、居所を東宮に移した。また、朝廷内外の官吏に俸録を支給した。 こ…
582年(3) 天・人の勧めを受けて 隋文、都を大興に遷し 突厥入寇して 長儒、身に五創を被る
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]┃能吏・蘇孝慈 壬午(6月10日)、隋が太府卿の蘇孝慈を兵部尚書とした。 蘇孝慈(生年538、時に45歳)は…
[?~551]┃侯景の右腕〔548年(梁の太清二年)8月、梁の南豫州(寿陽)刺史・河南王の〕侯景が叛乱を起こし、西方の馬頭を攻めると共に、将軍の宋子仙に東方の…
582年(2) 隋・陳和して 文帝、突厥の来寇に対し 才・色を以て 張妃、後主の寵愛を得る
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]●陳、隋に和を求める 戊辰(正月24日)、陳が隋に使者を派して和を求め、胡墅(石頭城の対岸)を返還した(去年…
┃警戒 これより前、後主⑴が蘭陵王長恭に邙山での大勝(564年)についてこう尋ねて言った。「何故敵陣に深入りしたのか。成功したからいいものの、失敗したら大惨事…
┃河間王孝琬の死〔565年(河清四年→天統元年)、武成帝⑴が太子緯⑵に位を譲って太上皇帝となった。緯は即ち北斉の後主である。〕 北斉の〔尚書令の〕河間王孝琬⑶…
[541?~573]┃蘭陵王の登場 高長恭は本名を肅、或いは孝瓘といい、長恭は字である。高澄⑴の第四子⑵で、母の詳細は不明。 長恭は肌が白く、美女のような顔立…
582年(1) 隋師江に臨んで 宣帝、宣福殿に崩じ 太子柩に哭いて 始興、切薬刀を以て斫る
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]●隋軍、長江に達す〔これより前(581年9月26日)、隋は上柱国・〔宜州刺史・〕薛国公の長孫覧⑴を東南道行軍…
581年(5) 隋文帝、刑を緩くして後世に用いられ 独孤后、帝を諌めて二聖と称せらる
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●五銖銭鋳造 これより前、北周と北斉が鋳造した貨幣は総じて四種類⑴あり、更に民間の私鋳銭⑵も…
581年(4) 元諧、青海に大捷して渾賊を震わし 鄭訳、不孝を弾ぜられて除名を受く
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●宇文闡の死 5月、丙辰(8日)、陳が前鎮西将軍の樊毅⑴を中護軍とした。 戊午(10日)、隋…
581年(3) 李穆、文帝の寵を得て貴盛を極め 蘇威、亡父の志を継いで張弓を弛ます
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●貴盛比類無し この日(2月24日)、上柱国・并州総管・申国公の李穆⑴を太師とし、上柱国・鄧…
581年(2) 雄雉を射て 龐晃、能く天意に応じ 北周滅んで 竇氏、男子に非ざるを恨む
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●官制を漢・魏に戻す 隋の〔少内史の〕崔仲方⑴が文帝⑵に六官の制度(大冢宰など古代の周の官制…
581年(1) 代終の象表れて 静帝、相国に位を禅り 紫色の気表れて 楊堅、大隋の帝となる
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●推挙令 春、正月、壬午(1日)、北周の静帝⑴が詔を下して言った。「朕は〔不徳の身であるため…
580年(9) 韋孝寛、死して千古の譏りを遺し 丞相堅、王となって簒奪の意を明らかにす
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●韋孝寛の死 丁未(11月25日)、北周の上柱国・鄖国公の宇文孝寛(韋孝寛)⑴が逝去した(享年72)。 太…
580年(8) 紇豆陵、不意に出でて要害を陥とし 可頻謙、腹心に叛かれて蜀市に斬らる
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●堅、大丞相となる 壬子(9月30日)、北周の静帝⑴が詔を下して言った。「仮黄鉞・使持節・左大丞相・都督中…
580年(7) 拓王誼、消難を平らげて礼敬を受け 宇文忻、英傑となって英公とせらる
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●淮南の攻防〔これより前、庚申(8月7日)、陳は北周の上柱国・鄖州(安陸)総管の司馬消難⑴の帰順を受け、鎮…
580年(6) 宇文忻、観戦者を射て黄龍を破り 尉遅迥、普六茹を罵って自ら命を絶つ
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●後梁も堅に付く 丁卯(8月14日)、北周が上柱国・枹罕公の普屯威(辛威)⑴を宿国公(邑五千五百戸)とし、…
580年(5) 宇文忻、堅を疑って仲文に三善を説かれ 可頻謙、匡復を辞と為して義兵を挙ぐ
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●懐州の戦い これより前(6月10日)、〔仮黄鉞・左大丞相・都督中外諸軍事・上柱国・隨国公の〕普六茹堅(楊…
[503~552]●人を食い、人に食われる豺狼 侯景は字を万景といい、朔方、或いは雁門郡出身で、北魏の懐朔鎮の人である。 若年の頃から勝手気ままで、郷里の人々…
●後宮の争い(572年8月) これより前、北斉の胡太后は淫乱がもとで鄴の北宮に幽閉されていた。太后は母としての道を踏み外していたことを深く反省し、子の後主の歓…
●確執 当時、北斉の尚書左僕射(通鑑では『右僕射』)の祖珽は比類無い権勢を誇っていた。左丞相・咸陽王の斛律光⑴は珽をひどく嫌悪し、遠くから密かにこう罵った。「…
●趙彦深左遷(571年11月) 11月、北斉の〔秘書監の〕祖珽が〔女侍中の〕陸令萱を説得して協力を取り付け、〔侍中・〕司空〔・宜陽王〕の趙彦深と〔開府・山陽王…
●宇文護、明王に政権を返す 三年(559)、春、正月、己酉(21日)、護が上表して政権を明王に返還した。明王はそこで初めて自ら政治を執るようになった。ただ、兵…
●祖珽、寵を得る(561年) 文宣帝が崩御した時(559年)、朝廷は旧臣たちに官位を与えて労をねぎらった。祖珽もその内の一人となり、章武太守とされた。しかし、…
●清徳頌で一躍有名に 祖珽は字を孝徴といい、幽州范陽郡遒県の人である。父は北魏の護軍将軍の祖瑩(名文家。神童と謳われた)。 珽は頭の回転が早く、雄健で優れた文…
580年(4) 李穆、天下の精兵を以て堅に附き 趙王、壮士の戸を蔽うを以て堅を逃す
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年] ●李穆、堅に付く〔北周の上柱国・相州(鄴)総管(自称大総管)・蜀国公の〕尉遅迥⑴は挙兵すると、〔上柱国・…
580年(3) 尉遅迥、不臣に憤って東夏に兵を挙げ 義勇の士、旬日の間に十余万に至る
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●楊尚希逃亡 これより前、北周は東京(洛陽)司憲中大夫の普六茹尚希(楊尚希)⑴に〔もと北斉領の〕山東・河北…
580年(2) 天元崩御して 二寵、大恩に背き 勢い騎虎と成りて 楊堅、丞相に就く
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●天元帝崩御 甲午(5月10日)の夜、北周の天元帝⑴が法駕(皇帝用の車)に乗って天興宮に赴いた。 乙未(1…
580年(1) 天元、艶姿を汚して杞公に叛かれ 楊堅、外官を得るも足疾に遭う
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●北周、突厥に公主を送る 春、正月、丁亥(1日)、北周の天元帝⑴が道会苑にて朝賀を受けた。 癸巳(7日)、…
579年(3) 北騎渡淮して 淮南、尽く周に没し 災異屢々現れて 天元、僅かに身を慎む
[北周:大成元年→大象元年 陳:太建十一年 後梁:天保十七年]●南伐再開 9月、己酉(21日)、太白(金星)が南斗の領域に入った。 乙卯(27日)、北周が酆王…
579年(2) 宣帝、小児に位を伝えて天元を称し 陳宣、玄武に兵を閲して余力を示す
[北周:大成元年→大象元年 陳:太建十一年 後梁:天保十七年]●天元皇帝 辛巳(2月20日)、〔鄴にいる〕北周の宣帝⑴が詔を下して言った。『皇太子衍⑵は朕の長…
●孝閔王、護の殺害を図る 北周の孝閔王は剛毅な性格で、晋公護の専権をひどく憎んでいた。 司会[1]の李植(柱国大将軍の李遠⑴の子)は宇文泰の存命時より相府司録…
579年(1) 比干、死を賭して八失を論じ 忠臣、手を拱いて誅戮を受く
[北周:大成元年→大象元年 陳:太建十一年 後梁:天保十七年]●漢魏の衣冠 春、正月、癸巳(1日)、北周の宣帝⑴が〔宮殿の正門の〕露門にて文武百官の拝賀を受け…
578年(3) 武平、天賛と思いて幽州を擾し 陳宣、盟誓を為して団結を試む
[北周:建徳七年→宣政元年 陳:太建十年 後梁:天保十六年]●盧昌期の乱〔これより前、〕北斉のもと范陽王の高紹義⑴は〔北斉が滅亡した時に突厥に亡命し、武平帝と…
●宇文泰の死 恭帝三年(556)の9月、〔太師・柱国・大冢宰・安定公の〕宇文泰が北方の巡視より帰還し、牽屯山(天水の東北)に到った。間もなく、泰は突然病に倒れ…
[513~572]●この児の志度、我に類す 宇文護は字を薩保といい、〔北辺の武川鎮の出身で、〕宇文泰⑴の兄の宇文顥⑵の末子である。幼い時から品行方正で器量があ…
578年(2)二豎忽ち侵して周武、一統の業成らず 勲親遽かに戮されて君子、周祚の永からざるを知る
[北周:建徳七年→宣政元年 陳:太建十年 後梁:天保十六年]●反省の詔 夏、4月、庚戌(13日)、陳の宣帝⑴が詔を下して言った。「近年、我が国は征伐を行ない、…
578年(1) 烏丸軌、車輪を貫いて船路を断ち 呉明徹、背疾に苦しんで鋭卒を殲ぼす
[北周:建徳七年→宣政元年 陳:太建十年 後梁:天保十六年]●長安帰還○周武帝紀 宣政元年春正月癸酉,吐谷渾偽趙王他婁屯來降。壬午,行幸鄴宮。分相州廣平郡置洺…
577年(4) 誣告有りて 神武の裔殆ど滅せられ 胡氏流落して 長安市に姦穢を行なう
[北周:建徳六年 北斉:承光元年 陳:太建九年 後梁:天保十五年]●高緯の死 この月(10月)、もと北斉の広寧王の高孝珩⑴の病状が重篤なものとなった。孝珩は北…
577年(3) 高緯舞って 延宗、自死せんとし 和約を破って 陳宣、徐州を攻む
[北周:建徳六年 北斉:承光元年 陳:太建九年 後梁:天保十五年]●凱旋 夏、4月、乙巳(3日)、北周の武帝⑴が東伐より帰還し、長安に到った。高緯⑵を行列の前…
577年(2) 任城、堂々の師に抗いて墳陵に愧じる無く 広寧、心力を展ぶるを得ずして遺恨を懐く
[北周:建徳六年 北斉:承光元年 陳:太建九年 後梁:天保十五年]●ここを以て始まる者は必ずここを以て終わる○周武帝紀 庚子,詔曰:「偽齊之末,姦佞擅權,濫罰…
第14回東京中日スポーツ杯根岸ステークス(GⅢ)実況全文(勝ち馬:ブロードアピール)
1番人気はブロードアピール嬢 2000年11月12日東京ダート1200、GⅢ根岸ステークス。 根岸ステークスは翌年からダート路線の大整備により開催時期が1…
577年(1) 群烏、鄴城に集って斉都陥落し 無愁、寵臣に背かれて小村に擒らわる
[北周:建徳六年 北斉:承光元年 陳:太建九年 後梁:天保十五年]●幼主の即位と孝珩の追放○周武帝紀 六年春正月乙亥,齊主傳位於其太子恆,改年承光,自號為太上…
576年(5) 延宗、宝位に登って孤城を守り 周武、東門に戦って幾ど将に斃れんとす
[北周:建徳五年 北斉:武平七年→隆化元年 陳:太建八年 後梁:天保十四年]●安徳王延宗の即位○周武帝紀 戊午,高延宗僭即偽位,改年德昌。○北斉後主紀 戊午,…
●アドマイヤビルゴ○中京で2勝 内枠●ボッケリーニ○中京2000のGⅢで1着の実績 前走差しで復活☓中枠(先行にする?)●キングオブコージ?1年ぶりの復帰から…
・阪神競馬場Aコースでインコース不利、先行厳しい?・逃げ馬不在。誰が先頭を走る?・ジェラルディーナ(1800の阪神で1.46.1)○内枠で温存しながらの追い込…
576年(4) 周斉の精鋭、平陽の野に会し 四海の一統、この一戦に定まる
[北周:建徳五年 北斉:武平七年→隆化元年 陳:太建八年 後梁:天保十四年]再出陣○周武帝紀 癸巳,至自東伐。獻俘於太廟。甲午,詔曰:「偽齊違信背約,惡稔禍盈…
シヴァージ(吉田隼騎手)牡6・先差追・外国馬。2019年までダートを走っていた。・去年2月にオープンで勝ってから重賞に挑戦したが上手く行かず。ただ、8試合…
ファルコニア(岩田望騎手)牡4・先・阪神巧者でGⅡ3着の実績を持つ先行馬。・GⅡの京都新聞杯(京都2200)を3着、GⅢのエプソムカップ(東京1800)…
576年(3) 周兵鼓噪して 相貴、縛に就き 斉兵大挙して 士彦、奮起す
[北周:建徳五年 北斉:武平七年→隆化元年 陳:太建八年 後梁:天保十四年]晋州城の戦い○周武帝紀 帝每日自汾曲赴城下,親督戰,城中惶窘。庚午,齊行臺左丞侯子…
アカイトリノムスメ・オークスで2着、秋華賞で悲願の1着を獲った差し馬。・2400で2着、阪神の2000で1着の実績でスタミナの不安は無し。鞍上も引き続き戸…
三強対決 1997年、天皇賞春。 注目は『三強』と並び称された3頭の優駿。サクラローレル・マヤノトップガン・マーベラスサンデー。 1番人気のサクラローレル…
576年(2) 異議あるも 周武、再び東伐に赴き 急報あるも 淑妃、更めて囲殺を請う
[北周:建徳五年 北斉:武平七年→隆化元年 陳:太建八年 後梁:天保十四年]不良太子○周40王軌伝 時宮尹鄭譯、王端等竝得幸帝。帝在軍中,頗有失德,譯等皆預焉…
576年(1) 園・綺を好んで 孔奐、潘・陸の華を退け 母の恩に報いて 彦深、令く終始を全うす
[北周:建徳五年 北斉:武平七年→隆化元年 陳:太建八年 後梁:天保十四年]校猟と恤民○周武帝紀 五年春正月癸未,行幸同州。辛卯,行幸河東涑川,集關中、河東諸…
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┃プロフィール【生没年】天監七年(508)八月丁巳(6日)~承聖三年(554)十二月辛未(19日)・梁の武帝の第七子。・幼名は七符(官)・字は世誠・眼病により…
┃官職・都督→560年:領軍将軍・都督→武平年間(570~576):開府・王┃高家の家奴〔東魏の権臣の〕高歓⑴の蒼頭(家奴)の陳山提⑵・蓋豊楽⑶・劉郁斤・趙道…
『北斉書:安徳王延宗伝⑴ 動けるデブ』[544~577]┃衝天王にならんと欲す 安徳王延宗は〔東魏の権臣の〕高澄⑴の第五子である。母は東魏の広陽王〔湛⑵?〕…
[544~577]┃衝天王にならんと欲す 安徳王延宗は〔東魏の権臣の〕高澄⑴の第五子である。母は東魏の広陽王〔湛⑵?〕の芸妓の陳氏。〔澄が武定七年(549)に…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃為仁微小 壬寅(8月24日)、北魏の孝文帝⑴が肆州(九原)に到った。この時、〔肆州〕民のうち七十歳以上の者の爵位(二十…
[?~531]┃占卜によって成り上がる 劉霊助は、燕郡(幽州の治所の薊がある郡)の人である。父は劉僧安。陰陽・占卜の事を好み、范陽の人の劉弁に師事した。ただ、…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃王融策動 戊寅(7月30日)、〔病気に罹っていた〕南斉の武帝⑴が突然危篤に陥り、意識不明の状態となった。この時、帝の子…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃遷都計画 北魏の首都の平城は南五十里に定襄(雁門の誤り)郡より出て海(東シナ海)に流れる桑乾水という川があり、それに因…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃皇太孫昭業 夏、4月、癸未(3日)、北魏の使者が南斉に到着した(正月14日に北魏は邢巒と劉承叔を南斉に派遣していた)。…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃陳顕達の静退 春、正月、壬子朔(1日)、北魏の孝文帝⑴が百官を太極殿に集めて宴会を開いた。 癸丑(2日)、南斉の武帝⑵…
┃生没年 521~549年8月○北斉文襄紀〔武定…七年(549)…八月…〕辛卯,王遇盜而殂,時年二十九。┃容姿 北史:美姿容 賈子儒:瞼が薄く、目の動き(或い…
[507~568]┃楊忠の登場 楊忠(本姓は普六茹?)は幼名を奴奴といい、武川鎮の人である。 漢の太尉の楊震の末裔という(眉唾)。 震の八代孫の楊鉉は燕(北燕…
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃嶺南乱る これより前(588年)、陳は使持節・光勝将軍(六品)・平越中郎将・大都督・東衡州刺史・領始興内史の王勇⑴を鎮南大将軍…
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃江州降る 癸巳(正月29日)、隋が使者を江南の各地に派して巡撫させた。 隋の〔上大将軍・蘄州総管の〕王世積⑴は蘄口にて陳が滅亡…
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃逃走の機逸す 陳軍が敗北を喫すると、任忠⑴は宮殿に馳せ入って後主⑵に謁え、敗北した事を報告した。それからこう言った。「陛下、身…
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃馬鞍山・磨刀澗の戦い これより前、陳の荊州(公安)刺史の宜黄侯慧紀⑴は隋軍が渡江したのを知ると、公安の留守を長史の陳文盛らに任…
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃霧気四塞 春、正月、乙丑朔(1日)、陳の後主⑴が元旦に群臣を集めて朝会(元会)を挙行した。 この時、建康の周囲に深い霧が立ち込…
[隋:開皇八年 陳:禎明二年]┃親餞 11月、丁卯(2日)、隋の文帝⑴が自ら伐陳軍を見送りに出た。 また、陳の後主⑵の身柄に上柱国・万戸公の懸賞を懸けた。 壬…
[隋:開皇八年 陳:禎明二年]┃壮行の宴 9月、丁丑(11日)、隋の文帝⑴が南征に参加する諸将を集めて宴会を開き、差をつけて下賜を行なった。 癸巳(27日)、…
『周書:斉王憲伝(3) 〜晋公護の死と武帝の警戒〜』『周書:斉王憲伝(1) 〜勇敢なる駁馬将軍〜』[544(545?)~578]┃原州で育つ 斉煬王憲は字を…
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]┃能吏・蘇孝慈 壬午(6月10日)、隋が太府卿の蘇孝慈を兵部尚書とした。 蘇孝慈(生年538、時に45歳)は…
[?~551]┃侯景の右腕〔548年(梁の太清二年)8月、梁の南豫州(寿陽)刺史・河南王の〕侯景が叛乱を起こし、西方の馬頭を攻めると共に、将軍の宋子仙に東方の…
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]●陳、隋に和を求める 戊辰(正月24日)、陳が隋に使者を派して和を求め、胡墅(石頭城の対岸)を返還した(去年…
┃警戒 これより前、後主⑴が蘭陵王長恭に邙山での大勝(564年)についてこう尋ねて言った。「何故敵陣に深入りしたのか。成功したからいいものの、失敗したら大惨事…
┃河間王孝琬の死〔565年(河清四年→天統元年)、武成帝⑴が太子緯⑵に位を譲って太上皇帝となった。緯は即ち北斉の後主である。〕 北斉の〔尚書令の〕河間王孝琬⑶…
[541?~573]┃蘭陵王の登場 高長恭は本名を肅、或いは孝瓘といい、長恭は字である。高澄⑴の第四子⑵で、母の詳細は不明。 長恭は肌が白く、美女のような顔立…
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]●隋軍、長江に達す〔これより前(581年9月26日)、隋は上柱国・〔宜州刺史・〕薛国公の長孫覧⑴を東南道行軍…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●五銖銭鋳造 これより前、北周と北斉が鋳造した貨幣は総じて四種類⑴あり、更に民間の私鋳銭⑵も…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●宇文闡の死 5月、丙辰(8日)、陳が前鎮西将軍の樊毅⑴を中護軍とした。 戊午(10日)、隋…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●貴盛比類無し この日(2月24日)、上柱国・并州総管・申国公の李穆⑴を太師とし、上柱国・鄧…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●官制を漢・魏に戻す 隋の〔少内史の〕崔仲方⑴が文帝⑵に六官の制度(大冢宰など古代の周の官制…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●推挙令 春、正月、壬午(1日)、北周の静帝⑴が詔を下して言った。「朕は〔不徳の身であるため…
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●韋孝寛の死 丁未(11月25日)、北周の上柱国・鄖国公の宇文孝寛(韋孝寛)⑴が逝去した(享年72)。 太…
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●堅、大丞相となる 壬子(9月30日)、北周の静帝⑴が詔を下して言った。「仮黄鉞・使持節・左大丞相・都督中…
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●淮南の攻防〔これより前、庚申(8月7日)、陳は北周の上柱国・鄖州(安陸)総管の司馬消難⑴の帰順を受け、鎮…