「生駒の神話」のストーリー(骨子)【解説付版】 <初版 2020.4/随時改訂>
【解説付版】でない方(新情報を反映した改訂はなく、作成当時のまま)お断り:このページは、新情報を反映した改訂を随時に行なっております。そのため、「生駒の神話」のWEBページの他の箇所と整合性のとれない記載がある場合は、このページの記載が最新のものであります。(図版はクリックで拡大できます。)<生駒の神話が生まれた時代とその舞台> ①この神話が生まれた時代は、弥生時代、つまり、海の向こうからやってきた渡来人がもたらした水田耕作が西から東に伝 播した、縄文(狩猟採集漁労)から弥生(水田耕作が主業で狩猟採集漁労は副業)への移行期。 ② その舞台⇒右地図ご参照 ・大阪(河内)平野・・・弥生時代の中頃(2000年前ごろ)までまだ海(河内湾)でした。淀川と大和川が土砂を運ぶことで潟化(外海との隔離化)が進み(河内潟)、弥生時代の後期の1700年前ごろにはまだ海と繋がる湖(河内湖)となり、その後も湿地化・乾地化が徐々に進行し、江戸時代には湖は池(深野池ふこうのいけ)となりました(河内湾・河内潟・河内湖 ご参照)。 ・奈良盆地・・・大阪(河内)平野が河内湾であったころは奈良盆地は海と繋がる奈良湖(海水湖)でしたが、大阪(河内)平野の湿地化・乾地化に歩調を合わせて、海水湖→海ときり切り離された淡水湖→湿原盆地→乾地盆地と姿を変えていきました(奈良湖ご参照)。 ・日本神話の「国生み神話」においてイザナギ・イザナミが産んだ豊秋津洲とは生駒のこと(豊秋津洲とは、まだ島・半島であったときの生駒のことご参照)で、ここが生駒の神話の舞台となりました。<(記紀により作り変えられる前の)「生駒の神話」の概要> 「あとから海の向こうからやってきた者たち」は、「以前に海の向こうからやってきて元から住んでいた者たちと共に暮らしていた者たち」とは違って狂暴であった。「元から住んでいた者たち」は侵入せんとした狂暴なる者たちをいったんは「殺戮」することなく撃退した。しかし、狂暴なるものは、再度、侵入せんとした。元から住んでいた者たちは動揺し対応をめぐり分裂した。彼らにとって弓矢は命を得るものであって命を奪うものではなく武器はなかったし、そもそも「殺戮」ということを知らない人々であったが、狂暴なるものを前にして「殺戮」というものを知り、それにより狂暴なる者たちを撃退しようと主張する男たちが現れた。もちろんそれに反対しあくまで「殺戮」 すること