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  • 『フライデー・ブラック』/ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー

    1991年生まれ、ガーナ出身の両親を持つ、アフリカ系アメリカ人作家のデビュー短編集。各作品に通底しているのは、黒人差別や人間の醜さに対する怒りと、ブラックユーモア、暴力性、シュールさ、デフォルメ感といったもので、そういった各要素に真新しさがあるわけではない。けれど、それらがこの作家独自の、ドライでキレのよい、スピード感溢れる文体で書かれていくことで、ヘヴィでダークでパンチの効いた一冊に仕上がっている。 何と言っても、冒頭の「ファンケルスティーン5」のインパクトが圧倒的だ。図書館の外にいた5人の黒人の子供たちが、白人男性にチェーンソーで殺害される。「自分の子供に危害を加えられそうな気がした」という白人男性は、裁判の結果、「自衛の範囲内」ということで無罪になる。主人公の青年は、理不尽すぎる事件に憤りを感じつつも、自らの「ブラックネス」をコントロールしながら日々の生活を送っていこうとするのだが、ふとしたきっかけからそのたがが外れ、それまで押さえつけられていた怒りのエナジーが爆発してしまう…!という話。黒人が日常的に受けている差別的な振る舞いと、それがまったく正しく裁かれることがないし、それに対して正しく怒りを表明することすらできない、ということへのフラストレーションと怒りと悲しみとがなんとも生々しくリアルに描かれており、読者は主人公の姿を通して、その感情を擬似的に体験させられることになる。

  • 『シンプルな情熱』/アニー・エルノー

    アニー・エルノーの自伝的な作品。若くして離婚し、パリでひとり暮らす「私」は、かつて東欧の若い外交官A(妻子持ち)と不倫の関係にあった。その当時に感じていた情熱(パッション)について振り返る、という物語。 自身の不倫が題材ではあるけれど、それをまったくセンセーショナルに扱っていないところが特徴的だ。むしろ、多くの人が経験したことがあるであろう感情の揺れ動きを、衒いなく率直に語っているという意味において、非常にストレートで誠実な作品だと言えるだろう。そもそも、全編通して、不倫というか、倫理にもとることをしているという感じがまったくないのだ。欲望や情熱は倫理の問題ではない、ということは、エルノーにとっては自明の前提であるようだ。 「私」はパッションに溺れているとも言えるような状態ではありつつも、しかし、それを書き記す筆致はあくまでも冷静で安定しており、ヒステリックなところ、感傷的になって流されるようなところは少しもない。「情熱(パッション)を生きる」という状態ーー訳者曰く、「自我の昂揚でありながら同時に自律性の喪失であり、尊厳からの失墜」であるような状態ーーを扱いながら、その手つきはどこまでも冷静で淡々としており、自分を突き放したようなところさえある。不倫ものにありがちなどろっとした雰囲気は皆無で、どちらかと言うと洗練とかクリーンとかクールといった言葉の方が似合うくらいなのだ。 だからこそ、本作は、極めてパーソナルな内容を語っているのにも関わらず、というか、そうであるからこそ、読者にとって開かれており、ある種の普遍性を獲得し得ているのだろうとおもう。

  • 『実演!バグ/ダイナソーJR』

    ダイナソーJr.がオリジナルメンバー3人で復活した後、2011年6月にワシントンDCで行われた、3rdアルバム『BUG』全曲再現ライブの映像。抽選で選ばれたファンたちの手によって撮影された素材が用いられている。だから映像自体はだいぶ粗いのだけれど、それだけに臨場感は十分だし、バンドのインディーな雰囲気にはこのざらっとしてチープな感じがよく似合う。 演奏はアルバムに忠実な感じで、クオリティは文句なし。マーシャルアンプ6台を背にしたJはジャズマスターをかき鳴らしまくり、よれよれの声で歌い叫ぶ。ルー・バーロウは独特なアクションが激し過ぎて、もはやどう弾いているのかもよくわからない。マーフは全編に渡ってスネアをキンキンと打ち鳴らし続ける。見ていて疲れてしまうくらい、ひたすらテンションの高いライブが続いていく。『フリークシーン』の直後に見たものだから、いやーよかったよ3人がちゃんと仲直りしてくれて…とおもわずにはいられなかった。

  • 『ダイナソーJr./フリークシーン』

    ダイナソーJr.のドキュメンタリー映画。バンドにがっつりと密着して作成したというよりは、軽く関係者にインタビューしながらいままでの流れを追ってみた、というような作りになっており、とにかく全体的に淡々とした作りになっている。好意的な見方をすれば、観客におもねるようなところがぜんぜんない映画だ、と言うこともできるだろう。 作中では、彼らの音楽性であるとか、バンドサウンドの特徴といったことについては大して触れられていない。では何が語られているのかというと、それはもっぱらメンバー3人の関係性についてである。

  • 『女神の見えざる手』

    ロビイストの主人公(ジェシカ・チャステイン)の姿がとにかくやたらと格好いい、社会派サスペンス。大手ロビー会社で、目的のためなら手段を選ばない敏腕として知られていたエリザベス・スローンは、ある日、新たな銃規制法案を廃案にするよう依頼される。しかし、信念に反する仕事はやらない主義だという彼女は、部下を引き連れて小さなロビー会社に移籍、全米ライフル協会とかつての同僚たちを相手取って、銃規制派としての活動を繰り広げていくことに。エリザベスの読みは恐ろしく鋭く、取る手段は常に緻密だが、非常に計算高い上にどこまでも冷徹、倫理観などといったものはまるで持ち合わせていないように見える。彼女は誰もがおもいもかけないような手段で勝利に近づいていくのだったが…! アメリカの銃規制とロビー活動を扱った政治ものという要素はあれど、本作はあくまでもミス・スローンという一人の女の、己の信念を貫くための孤独な戦いの物語だと言っていいだろう。もっとも、彼女の内面そのものについて明確に語られるようなシーンがあるわけではないので、彼女の信念が具体的にどういったものであるのかは、作中の他の登場人物たちと同様に、観客にも最期までよくわからない。 まあとにかく一貫して、よくわからないけれど異様なまでに強い意思力とタフネス、心の闇と勝利への執着心とを持ち続けている、恐ろしく強い女であり続けるのだ。かなりハードボイルドな作風だと言っていいだろう。それだけに、彼女の信ずるものや弱さといったものが一瞬だけ垣間見えるようにおもえたとき、観客は心揺さぶられることになる。

  • 『遅読のすすめ』/山村修

    立花隆や福田和也が提唱する、速読・多読といったものに対して、ほとんどの人は(彼らのような職業上の必要性に駆られているのではないのだから)そういった読書法は必要ではないだろう、と主張する一冊。 たとえば立花の言う、「本を沢山読むために何より大切なのは、読む必要がない本の見きわめをなるべく早くつけて、読まないとなったら、その本は断固として読まないことである」といった主張に対し、山村は反対するわけではないが、どうしてもどこかに違和感を覚える、と言う。 立花や福田の言う「読む」といわゆる世間一般で言う「読む」とではそもそも基準が違うだろう、ということだ。これはまったくそのとおりで、立花/福田と山村とでは、そもそも読書とは何か、というかんがえ方も違えば、読書に求めるもの、期待するものだってぜんぜん違っているのだから仕方ない、というところではあるのだけれど、それでも文章を書きながらテンションが上がってきてイラついている感じが出ているのがおもしろい。

  • 『皆のあらばしり』/乗代雄介

    歴史研究部に所属する高校2年生の「ぼく」は、部活の研究で皆川城址を訪れた際、怪しげな中年の男に出会う。こてこての大阪弁がいかにも胡散臭い男だったが、その異様な博識は「ぼく」を否応なしに惹きつけていくのだった。男は、「ぼく」が入手した旧家の蔵書目録を眺め、そこに載っている「皆のあらばしり」という本はこれまでどこにも記録されていないものだ、と言う。もしそれが本当であれば、これはなかなかの大発見ということになる。ふたりは同書を手に入れようと計画を練るのだが…! ほとんど全編が「ぼく」と男の会話のみで成り立っている本作は、会話劇のような性格を持っている。基本的に、ふたりの会話のおもしろさのみによって物語が牽引されていくのだ。古文書や郷土史が主題になっているだけあって、なかなかややこしい内容を語っていたりもするのだけれど、男の怪しげな饒舌と「ぼく」の冷静なツッコミはどこか漫談のような雰囲気を醸しており、良いグルーヴ感が生み出されているので、ぐんぐん読み進んでいける。 男に不信感を抱いていた「ぼく」が、やがて男に憧れるようになり、認められたい、対等になりたいとおもうようになる、という展開は、爽やかな王道の青春文学のようでもある。それを、地方の旧家に眠る古文書の真贋や郷土史を巡るちょっとしたミステリ、というかなり渋い要素と混ぜ込んでいるあたり、うまいな、と感じた。「皆のあらばしり」探求のなかで、男は「ぼく」をからかったりおちょくったりしつつも、近代史の蘊蓄やら人生訓やらを語ったりもするのだ。

  • 『1000冊読む!読書術』/轡田隆史

    読書はいいですよ、たくさん本を読むことはあなたの人生に絶対に有益ですよ、というシンプルな主張のもと、いろいろなエピソードを語っている一冊。まあよくあるタイプの本で、取り立てて斬新なところはないのだけれど、新聞の論説委員だった轡田の文章は軽妙で嫌味なところがまったくなく、たのしく読める。タイトルには「1000冊読む」とあるが、具体的に1000冊読むための技術や方法論が扱われているわけではなく、まあたくさん読もうぜ、くらいの意味だと言えそうだ。

  • 『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』/丸山俊一+NHK「欲望の時代哲学」制作班

    NHKの番組の内容を新書化した一冊。1,2章には、マルクス・ガブリエル訪日時の発言や講義(哲学史の概説と、その流れのなかに位置づけられる新実在論の解説)を文字起こししたものが、3章には、ロボット工学科学者の石黒浩との対談が収められている。元がテレビ番組というだけあって、1,2章の内容的はかなり薄めで退屈だったけれど、3章の対談にはそれなりに盛り上がりが感じられた。 石黒が、「日本人は同質性が高く、表現に細心の注意を払わなくてもすぐにアイデアを共有できるという特長があるとおもうが、ドイツ人はどうか?」と尋ねると、ガブリエルは、「ドイツの場合、1871年にはじめてひとつの『ドイツ』という国家になったのであって、それまで『ドイツ人』は存在していなかった、だからドイツ社会というのは実際のところまったく同質性が高くないわけだが、まさにそういった環境こそが、ドイツ人に厳格な論理構造を求めさせることになった」…といったことを語る。

  • 『若き商人への手紙』/ベンジャミン・フランクリン

    資本主義が生の全体を覆い尽くしているこの世界、金こそが人の生きる尺度であり、商品価値によって人が選別されるこの世界で賢く生き、成功するための知恵や行動規範について書かれた一冊。世に数多存在する大富豪本や人生の成功法則本、ビジネス書の原型とも言われる本書は、資本主義の優秀な奴隷になるためにはいかなる意識を持つ必要があるか、について語っている本だと言ってもいいだろう。

  • 『パリのすてきなおじさん』/金井真紀、広岡裕児

    作家/イラストレーターの著者が、パリの道ばたで出会ったすてきなおじさんを集めた一冊。おじさんのキュートなイラストと、おじさん自身の語りを中心とした軽めのエッセイが掲載されている。おしゃれなおじさん、アートなおじさん、おいしいおじさん、移民のおじさん、難民のおじさん、戦争世代のおじさんなど、さまざまな独自の軸とスタイルを持ち、独自の生き方をしているおじさんたちが登場するのだけれど、彼らのバリエーションの豊かさは、そのままパリという街の多様性を映し出しているかのようだ。

  • 『Mトレイン』/パティ・スミス

    パティ・スミスによる回顧録的なエッセイ。自身の内面深くに潜り込んでいくような文体で、自由連想的な文章が紡がれている。彼女自身の年齢もあってか、全体のムードは静謐、瞑想的で、粒子の粗いモノクロームのような美しさを感じさせる一冊になっている。 音楽の話はほとんど出てこない。主な話題は彼女のルーティン――朝起きていつものカフェに向かい、いつもの席に座り、ブラウントーストとコーヒーを注文し、ノートに文章を書きつける――と旅、彼女が愛する本たちと作家たち、失われた場所や物たち、そして何より死者たちに関するものだ。だから本書にはパンクの女王としてのパティ・スミスの姿というのはほとんど感じられない。これは、あくまでのひとりの文学少女(の大ベテラン)の手による随想集なのだ。 あらゆる瞬間は過ぎ去っていき、後には何も残らない。どんなものも人も、消えていかないものなどない。だからこそ、物書きは文字としてそれらを留め、なんとか形あるものとして焼きつけようと足掻くのかもしれない。訳者の菅は「訳者あとがき」で、パティ・スミスを「墓守」と呼んでいたけれど、彼女にとって、書くこととは失われゆくことへの哀歌であり、失われたものへの鎮魂歌でもあるようだ。

  • 『親の家を片づけながら』/リディア・フレム

    精神分析学者の著者による一冊。 親の死後、子が親に対して抱く感情というのはなかなか複雑なものだ。自分を愛してくれる人を失ったことの悲しみや、こんなことあり得ないという非現実感があるのはもちろんだろうけれど、決してそれだけに留まるものではない。そこには、自分の心を掻き乱されたという怒りや恨み、罪悪感や劣等感、解放感のようなものだって、同時に存在し得る。 本書で取り扱われているのは、そんな感情のグラデーションの複雑な様相であり、そんなややこしいものと向き合わなければならないことの困難さである。物で溢れた実家を何年もかけて片づけていく「私」が、親との関係について自分のなかでなんとか「片をつけ」ようとしていくさまが丁寧に語られているのだ。

  • 『猫を棄てる 父親について語るとき』/村上春樹

    村上春樹がはじめて自身の父親について率直に書いたというエッセイ。全編通して、村上の小説や普段のエッセイの文体とはまた異なる、ごく淡々とした文章が連ねられているところが特徴的で、彼の文章からいつも感じられる、過剰なくらいの読者へのサービス感というのはほとんどないと言ってもいい。村上は、戦争によって大きく人生を変えられてしまったひとりの若者としての父親の姿を追っていくことで、彼の物語を、ある意味では心ならずも引き継ぎ、ある意味では自ら率先して受け継いでいこうとする。 もっとも、村上と父親のあいだにはかなりきっぱりとした断絶ーー「二十年以上まったく顔を合わせなかったし、よほどの用件がなければほとんど口もきかない、連絡もとらないという状態」ーーがあり、ようやく顔を合わせて話をし、和解のようなものができたのは、村上が60歳近く、父が90歳の頃だったという。そのため、本作のなかにも、父親自身によって語られた内容というのはほとんどない。あくまでも、父親の死後に村上が調べたり周囲の人から聞いたりした情報を元にしたもの、ということだ。父と子との関係というものの、なんと難しいものよ…とおもわされる。

  • 『恋する惑星』

    高校生の頃にミニシアター系の映画を見始めたころから、そのうち見ようーとおもっているうちに気がつけば20年あまり経ってしまっていたのだが(そういうことって、結構ありますよね?)、ようやく見れた。ウォン・カーウァイというと、個人的に『花様年華』のイメージが強く、もっと官能的でシリアスな作風かと勝手に想像していたのだけれど、もっとずっとポップでソフトで猥雑、90年代らしいごちゃごちゃ感のある映画だった。 作品の主な舞台となる返還前の香港の街並みやマンションの様子は、とにかく狭くて小汚くて構造もおかしくて、いかにもアジア的な雑駁さに溢れているのだけれど、それを撮影や編集の力でおもいきり幻想的でファンタジックに見せているのがさすがという感じだ。カラーパレットはサイケデリックでありつつもどこかシックだし、構図はいちいち絵画的に決まっているしで、とにかくぱっと見がわかりやすく格好いいというところがよい。

  • 『誰も知らない』

    事件のニュースや物語の筋書きだけでは、これは単にものすごくやるせない酷い話、未来の見通しのまるでない辛い話でしかない。けれど、彼らのじっさいの生活のなかには、そういう括り方では捉えきれないようなたくさんの豊かさがあったはずで、そのなかには、きらきらとした美しい瞬間や、シンプルな生の歓びを感じさせるような瞬間といったものだって、たしかに無数に存在していたはずなのだということを、本作の映像は訴えているようにおもえる。「誰も知らない」かもしれないけれど、それはきっとそうだったはずなのだ。

  • 『ある一生』/ローベルト・ゼーターラー

    しんと静かな、あるひとりの男の人生の物語。文体も内容に見合った朴訥としてシンプルなもので、派手さはまったくないが、深く沁みいるようなところがある作品だった。 あっと驚くような展開や胸がすく逆転劇といったものもない。ただ、さまざまな形で訪れる試練に耐え、捨て鉢にならず、ひたすら愚直なまでに淡々と生き抜いていく男の姿を描いているのだ。舞台こそ20世紀ではあるものの、ひたすら故郷のアルプスの山に暮らし続けるエッガーはもはや山の精霊のようでもあり、その姿にはどこか神話的な美しさすら感じられる。 自己実現とか目標達成とかいった、現代の資本主義社会を駆動する諸々からはまったくかけ離れた、ある意味修行僧のようにストイックな、しかし本人的にはそんなつもりなどまったくなく、ごく自然に、そういうものとして生涯を生ききる、という人生。何かを得たり、誰かと優劣を比較したりしなくても、死の訪れるそのときまでただおもいきり生きるということ、人生というのはそれで十分だし、そういう生き方にもたしかに人の幸福というのはあり得るのだ、そんなことを感じさせてくれる一冊だった。

  • 『サマーフィーリング』

    ある夏の日、ベルリンに暮らす30歳のサシャは突然倒れ、そのままこの世を去ってしまう。あまりにも唐突な彼女の死は、恋人のローレンスにとっても、サシャの妹ゾエをはじめとする家族にとっても、そう簡単に受け止められるものではない。傷を抱えたもの同士としての彼らの心の交流と、時間の経過が少しずつその傷を癒やしていく様子が静かに描かれていく。 ストーリー性は非常に薄く、サシャの死→ローレンスとゾエそれぞれの回復、という以外には、展開らしい展開もない。あくまでも淡々と彼らの姿を映し出していくだけなのだ。彼らの台詞にしても、物語を駆動させるような印象深い台詞などというものはほとんどないし、もっと言ってしまうと、あまり内容らしい内容もない。ただ、それでも観客によくわかる(ように感じられる)のは、彼らが互いをおもい合い、いたわり合っている、ということだ。それははっきりとした台詞や明快なアクションで示されるものではないのだけれど、画面に映し出される彼らの視線やふるまいからは、たしかに互いへのおもいやりが感じられるのだ。

  • 『面白いとは何か? 面白く生きるには?』/森博嗣

    本書で扱われているのは、自分なりの面白さとはどんなものであるのか、それを見つけて面白く生きていくにはどうしたらいいのか、といったテーマだ。そしてその結論はというと、アウトプットする面白さこそが本物だ、ということに尽きる。

  • ウィーン少年合唱団@東京オペラシティコンサートホール

    東京オペラシティにて。「天使の歌声」でおなじみウィーン少年合唱団の、超絶ハイクオリティな歌声を堪能させてもらった。 今回来日していたのはハイドン組((ウィーン少年合唱団には、全体で100名ほどのメンバーがいるが、シューベルト、ハイドン、モーツァルト、ブルックナーという合唱団ゆかりの作曲家名を冠した4グループに分かれて活動している。))。20数名のメンバーは、10〜14歳の男子たちで、国籍も体格もさまざま。かなり堂々とした体格の子から、ものすごくひょろっとしてちっこい子もいる。なので、さすがに個々の声量の違いなんかは結構あるようだったけれど、とにかく全体としての音色の美しさや立体感、音程やリズムの安定感が素晴らしく、いつまでも聴いていたくなるような圧巻のパフォーマンスだった。 また、合唱のクオリティとは裏腹に、舞台上にはまあまあゆるい雰囲気もあったりして、そんなところはキュートでもあった。明らかに制服がうまく着れていない子や、ときおり欠伸をしたり鼻をこすったりしている子、ふたりで顔を見合わせてにやにやしている子たちなんかもいたりして、なんとものびのびとした自由な空気を感があって。今年で創立525周年だという合唱団のそんな雰囲気はちょっと意外でもあったけれど、音楽の素晴らしいクオリティと相まって、とてもよかった。そんな彼らをまとめ上げ、ピアノの弾き振りをするカペルマイスターのジミー・チャンも、どこか引率の先生のようなのんびりとした雰囲気を醸しつつも、でもピアノの音はとても明瞭で精密、まさにクリスプという感じで、格好よかった。

  • 『批評の教室 チョウのように読み、ハチのように書く」/北村紗衣

    イギリス文学者、批評家の北村による、批評の入門書。楽しむための方法としての批評、に焦点を当てて、その方法や理論について、具体的に例を挙げながら語っている。精読→分析→アウトプット、の順で実際に批評を行うにあたってのヒントが書かれているわけだけれど、全体的に、批評ってそもそもどういうもの?というような初心者向けの内容という感じで、内容は浅め。ある程度批評や批評に関する文章を読んだことがある人にとっては、新味は少なく、まあ簡潔にまとめてある一冊だな、というくらいの感想になってしまうかもしれない。 とはいえ、ちょっと冷静にかんがえてみれば、自分自身が本書で挙げられているような批評の方法をじゅうぶんに使いこなして様々な作品を味わっているのかというとぜんぜんそんなことはない、ということに気づかされるわけで、たとえばこんな文章が俺には刺さった。

  • 『AI分析でわかった トップ5%の社員の習慣』/越川慎司

    著者のクライアント企業25社の協力を得て、人事評価でトップ5%に該当する社員の行動を記録、AIと専門家にて分析を行い、トップ5%の社員の共通点や、彼らと95%の一般社員とで、どんな違いがあるのか、を抽出した、という一冊。 AIで優秀な社員の習慣を分析、ってなかなかおもしろいかも!とおもって読み始めたのだけれど、分析から導かれるのは、いわゆる一般的な「仕事のできる人」の像でしかなく、正直言ってとくに新たな気づきが得られるような本ではなかった。「トップ5%の社員の習慣」というのも、いわゆる自己啓発系のビジネス書に載っているような内容で、そりゃこれが全部できればトップ社員になるだろ、というか…。わざわざAIでデータ分析した結果がこれかー、というがっかり感があった。(まあ、「既存の人事評価でトップ5%に該当する人」の習慣を分析して整理したというだけなのだから、既視感のある結果になるのはある意味当然なのかも知れない。)

  • 『インヴィジブル』/ポール・オースター

    オースターの2009年作。前の数作と同様に、死を前にした老年の男が主人公の物語ではあるものの、多くのページはその男による若き日の回想録が占めているため、『写字室の旅』や『闇の中の男』のような陰鬱でどんよりした感じはさほど強くはない。その代わり、タイトルのとおり、全体像はどうなっているのか、要するにどういうことなのか、がいつまで経っても見えてこない、奇妙で不安を誘う物語になっている。作品を特徴づけているのは、オースターお得意のテクニック――入れ子構造、引用、作中作、真偽のはっきりとしないエピソードと仄めかし、真意がどうとでも取れるような語り(どこまでが本気で、どこまでがそう言っているだけ、なのかわからない)――であり、これらによって小説は独特の曖昧さや不透明感、不穏さを感じさせるものになっている。

  • "Steal Like an Artist: 10 Things Nobody Told You About Being Creative"/Austin Kleon

    吉本隆明が、「手で考える」、「手を動かさなければ何もはじまらない」、「同じ事を言うためにだって違う表現は無限にある」などと語っていたのを読んで、随分以前に読んだ本書のことをおもい出した。本書も、とにかく手を動かすことの大切さが繰り返し語られている一冊だ。 著者のKleonは、“Nothing is completely original”だと主張する。どんなに新しく見えるものでも、いままでのアイデアの組み合わせ/組み換えからできており、まったくのオリジナルなどということはあり得ない。また、誰かひとりからアイデアをコピーしただけならそれはただの剽窃でしかないが、複数人から複数のアイデアをコピーしてくれば――その表層ではなく、本質を調査、分析し、コピーすることができれば――それは研究だということになる。だから、まずは真似からでいいから、とにかく手を動かして何かを作り出すことが肝要だ、とKleonは言う。

  • 『だいたいで、いいじゃない。』/吉本隆明、大塚英志

    97年から2000年にかけて四回行われたふたりの対談をまとめたもの。扱われているのは、エヴァンゲリオン、宮崎勤、宮台真司、江藤淳、オウム真理教などなど、まさにあの頃を代表するようなトピックたちで、20年以上経ったいま読んでみると、なんだかずいぶん懐かしい感じがしたのだった。 対談ではあるけれど、だらだらとした語りが何度も繰り返されがちで、正直、読んでいて退屈してしまうところも多くあった。たとえば、大塚がエヴァンゲリオンと庵野秀明について延々と自説を開陳するのに対し、吉本は、「ああ、そうですか。いや、そうおっしゃられると、ほんとにそういう感じ。」とか、「いやあ、たいへん啓蒙されました。」などと一言だけで話があっさり終わってしまったり。会話の応酬によって場が盛り上がっていき、グルーヴしていくような雰囲気がぜんぜん感じられないのだ。

  • 『ぼくのプレミア・ライフ』/ニック・ホーンビィ

    アーセナルに「とりつかれた」男、ニック・ホーンビィによる、1968年から92年までにわたる回顧録/スポーツエッセイ。ホーンビィの場合、フットボールが人生の中心、というか、人生≒アーセナルという感じなので、自身の人生を振り返ることは当時のアーセナルを振り返ることと完全に同義になっているのだ。 タイトルこそ『ぼくのプレミア・ライフ』となっているけれど(原著タイトルは"Fever Pitch")、本書で扱われているのはプレミアリーグ創設前の時代ということで、ヴェンゲル監督の築いたアーセナル黄金期よりもさらに以前の話になる。とはいえ、クラブのファンの気持ちというのはいつの時代にも大して変わりないものなのだろう、俺もうんうん頷きながら読んでしまったのだった。

  • RIDE@恵比寿ガーデンホール

    4/18、"Exclusive OX4 Show"と銘打たれた、ベスト盤の『OX4』を中心にしたライヴ。2曲目からして「今度出すアルバムからやるよー」とか言って新曲をかましてきたり、ベスト盤以降のアルバム曲も普通に演ったりと、全体的に自由な選曲になっていたようにおもう。とはいえ、聴きたい曲はほとんど網羅してくれた感じではあった。 バンドの演奏は骨太かつタイトで、彼らの90年代のアルバムに感じられたような、(音量的には爆音なのに)いまいち弱そうな感じ、どうにもなよっとしていて儚いような感じ、青春ぽい感じというのは、ほぼ完全に無くなっていた。その原因としては、各メンバーが歳を重ねてきていること、単純に演奏のクオリティが上がっている、ということも言えるのだろうけれど、それより何より、マーク・ガードナーのルックスのインパクトが大きくて。ロン毛の雰囲気イケメンだった20代の頃の面影など1ミリも残っておらず、つるつる頭にがっちりした体格は、焼き鳥でも売っていそうな雰囲気を醸し出していたのだった。(ちなみに、アンディ・ベルの方は、眼光鋭くしゅっとしたスタイルで、いまなおUKロック的なムードを保ち続けている感じだった。)

  • 『トラスト・ミー』

    ザ・シネマメンバーズにて。ハル・ハートリー監督作。インディ感の溢れまくる小品だった。社会にまるで馴染めない不器用すぎる青年と、うっかり妊娠してしまった少女が出会う。青年は父親に虐待されていたし、少女は母親に搾取されるような生活を送っていた。それぞれ子供に依存する親を持ちながらも、そこから抜け出すこともできずにいたふたりはやがて、恋というよりは共感とか共振とでもいうような感じで、互いに惹かれあうようになるのだったが…! 物語は終始鬱々としていて、閉塞感が強く、とにかく暗い。描写はオフビートでユーモラスな感じもあって、ちょっとジャームッシュ作品のような雰囲気もあるのだけれど、でもダークであることには変わりがない。また、映像は全体的に青みがかっていて、主人公ふたりの若さゆえのヒリつくような感覚、自分を持て余しているような痛々しさを強調するようでもある。そんな暗さや痛みに満ちた物語のなかで、ふたりの心が触れ合うような瞬間の美しさが描かれていて、それは本当に数少ない瞬間ではあるのだけれど、それだけに強く印象に残る。

  • 『本を愛しなさい』/長田弘

    長田が愛する本たちとその書き手たちに関する、小伝というか掌編というか、ちょっとした文章たちを集めた一冊。本書を読んだだけでは、扱われている作品や著者について具体的なことはほとんどわからないだろうけれど、それらの本を読んだことのある人であれば、いくつもうなずける箇所があるはず…という感じの、ややハイコンテクストな作品になっている。

  • 『ゴルフ場殺人事件』/アガサ・クリスティ

    ポアロものの第2作目。南米の富豪ルノー氏から、命を狙われているので急ぎ来てほしいと依頼状を受け取ったポアロは、ヘイスティングズとともに、ルノー氏の滞在するフランスはカレー近くの小さな町へ。ルノーの屋敷にやって来たふたりだが、すでに時遅く、氏はすでに刺殺され、屋敷近くに建設中のゴルフ場に穴を掘られて埋められていた。事件を防げなかったポアロは真相解明に乗り出すのだったが、ルノー氏には怪しげな過去があり…! 複数人がそれぞれの思惑でいろいろな行動を取っているがゆえに、事件の全容が掴みにくくなっている、というところは前作とよく似ている。2つの事件が重なり合って発生しており、おまけに過去の事件も関係しているために、各手がかりが何を意味するのかが非常にわかりにくくなっているのだ。そんなややこしく絡まり合った状況をひとつひとつ丁寧に解きほぐしていくポアロの推理は明快で、なかなか納得感がある。もっとも、事態が複雑すぎるために、本当にちょっとずつ解説を進めていくような感じになっていることもあって、いわゆるミステリの解決編的な盛り上がりには欠ける、ということは言えそうだ。なんとなく全体的に地味な作品という印象があるのも、そのせいだろう。

  • 『誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち』/スティーヴン・ウィット

    従来の音楽ビジネスが崩壊していく季節の様子を、①mp3の産みの親であるドイツ人技術者、②音楽業界のトップエグゼクティブ、③ユニバーサル・ミュージックのプレス工場からCDを盗み出しては違法海賊サイトに音源をアップしまくった若者、という三者の物語を通して描いたノンフィクション。出版当時かなり評判になっていたのも納得の、リーダビリティとおもしろさを持ち合わせた一冊だった。 「音楽をタダにした」大元の原因とも言えそうな音源圧縮技術だけれど、mp3は開発当初、業界団体の政治的な理由によって、企業での採用を逃してしまっていた。だが、それが逆に功を奏して、フリーで使える優秀な技術としてインターネットを通じて世のなかに浸透していき、結果的に世界標準となってしまった、ということらしい。本書ではこのあたりの経緯が詳細に描かれていて、なかなかわくわくさせられる。ちょっと教訓話のようでもある。

  • 『蝿の王』/ウィリアム・ゴールディング

    戦争の最中、疎開する子供たちを載せた飛行機が不時着、南国の無人島に数十人の思春期前の少年たちが取り残されてしまう。大人のまったくいない、ある意味では楽園とも言えそうな南国の孤島で、彼らは自分たちなりにリーダーを決め、ルールを作り、島内を探検しつつ、救助を待つことに。だが、楽しい日々は長くは続かない。やがて彼らの内に潜んでいた邪悪さが姿を表し、それは彼らの自尊心や承認欲求と絡まり合って、手のつけられないような暴力の連鎖を引き起こしていく…! 人間の本性を暴き出すために、無人島に残された少年たちを主人公にする、という設定は、いま読んでみてもやはりおもしろい。ちょっとしたことからじわじわと野蛮さ、凶暴さがエスカレートしていき、次第に対立する相手を排除するための手段を選ばなくなっていく子供たちの様子は相当に不気味なのだが、でも、こんなの絵空事だよね、と簡単に言いきってしまえないような妙なリアリティを保ってもいるのだ。どんな人間にもその内には邪悪さや暴力性といったものが含まれている、という本作の人間観は、いまなお有効なのだろう。

  • 『ないもの、あります』/クラフト・エヴィング商會

    「よく耳にするけれど、一度としてその現物を見たことがない」ものたちをクラフト・エヴィング商會の「商品目録」という形で紹介していく一冊。「堪忍袋の緒」や「口車」、「左うちわ」、「無鉄砲」、「おかんむり」などなど、日本語のことわざや慣用表現のなかだけに出てくる「もの」ばかりを、ひとつひとつキュートかつシュールなイラストつきで解説している。 まあ、お洒落で皮肉っぽくて気が利いていて、ちょっぴり毒気もあってオトナの余裕を感じさせる、という感じの、軽くてたのしい作品だと言えるだろう。この手の本って、センスが刺さるか刺さらないかほとんどすべて、という気がするけれど、正直に言うと、あまり自分には刺さらなかった。

  • 『僕の名はアラム』/ウィリアム・サローヤン

    サローヤンによる短編集。古き良き、と言っていいような、20世紀初頭、アメリカはカリフォルニアの田舎町での、「僕」と周囲のアルメニア人移民の家族や村の人々との生活を描いている。 物語世界に悪人は登場せず、登場人物たちは、みな大らかで明るく、基本的にポジティブである。それが「僕」の少年時代というノスタルジックなフィルタを通して描かれていくわけで、作品はほとんどファンタジー的、ユートピア的な世界、まさに本作の冒頭に書かれている、「僕が九歳で世界が想像しうるあらゆるたぐいの壮麗さに満ちていて、人生がいまだ楽しい神秘な夢だった古きよき時代」(p.15)を作り上げている。それは時折、上述のような重さを感じさせることもありつつも、全体としてはひたすらに眩しく、儚くて美しい。

  • 『雨はコーラがのめない』/江國香織

    江國の愛犬、オスのアメリカン・コッカスパニエルの「雨」との生活と、その生活のなかでの音楽について書かれたエッセイ集。江國の小説や文章には、なんだか雨が似合うイメージ――ひそやかに、静かにしっとりと降る雨、世界をふわりと白く曇らせるような雨――があるようにおもえるけれど、そんな彼女が犬に「雨」と名付けているのはとてもしっくりくる。良い名前だ。 江國と「雨」との距離感がよい。なんというか、「雨」が自分とはまったく異なる感覚や嗜好をもった生きものであるということ、その懸隔をまるっと受け入れた上で、それでも、「人間の都合と動物の野性とのせめぎあい」をしながら、共に日々を過ごしていく、というその感じが。

  • 『読む・打つ・書く 読書・書評・執筆をめぐる理系研究者の日々』/三中信宏

    進化生物学の研究者である三中が、どんな風に本を読み、書評を打ち、本を書いてきたか、について、ひたすらに細かく書き連ねている一冊。文系だとよく見かける類の本だけれど、理系ではなかなか珍しいのではないか。全体的に、とにかく記述が具体的で細かいのが特徴で、本の選び方、買い方、読み方から、書評や本を書く際のスタンス、構成や文体のかんがえ方、作業スケジュールの立て方まで、著者のこれまでの経験をもとにした考察やメソッドが、ぎっしりと詰め込まれている。 本書に書かれている内容は、極私的なものであり、それなりに偏向したものでもあるだろうけれど、そもそも、読んだり書いたりすることというのは、誰にとっても個人的、私的なことである他ないものだ。だから、ここで扱われているような一見かなり特殊な事例であってもーーというか、むしろそうであるからこそーー読んだり書いたりする個人それぞれにとって、参考になるものになっているようにおもえる。読む・打つ・書くについてかんがえるとき、汎用的な正解みたいなものを求めようとしても仕方ないのだ。

  • 『かわいい夫』/山崎ナオコーラ

    タイトルの通り、山崎ナオコーラが自身の「かわいい夫」について書いたエッセイ。元が新聞の連載だったということで、ほとんどが2、3ページに収まり、強烈に感情を揺さぶることのないような、ほんとうにちょっとした話、になっている。そのあたり、なかなか職人の仕事っぽい印象もあるのだけれど、よくある軽妙洒脱、くすっと笑えておもしろおかしい、といったタイプではまったくなく、全体に温度感低めで、とにかく淡々としているところが特徴的だ。愛する夫のことばかり書いているわりに、少しもきゃぴきゃぴしたところがないのだ。

  • 『ワインズバーグ、オハイオ』/シャーウッド・アンダーソン

    9世紀末のオハイオ州の架空の町、ワインズバーグに暮らす人々の小さな物語を集めた短編集。アメリカ中西部の田舎の小さな町で生きるということの倦怠や耐え難いほどの閉塞感、息苦しさ、不安や生き辛さといった感情に焦点が当てられており、ほっこりする話やハッピーな話などというのはひとつもないのだけれど、それでも生きていく、という人間の力強さが感じられる一冊になっている。 冒頭で、これは「いびつな(grotesque )者たちの書」だと語られているとおり、登場人物たちはみな揃って風変わりというか、どこか歪んでいるというか、ちょっと普通ではない人物ばかりだ。ただ、彼らの「いびつさ」というのは、何というか、そういうところこそがまさに人間らしい、とでも言いたくなるような、人間味ってまさにそういうやつだよ、というような、そんな具合の「いびつさ」なのだ。彼らは、作中の表現で言えば、世間の人からすると「無闇に深遠なやつ」だったり、「変人」だったりする人たちなのだけれど、「ほかの人たちと同じように、人生に温かさと意味を感じられるようになる」ことや、自分の存在を理解してもらうことを心の底から求めている。彼らがぶち当たる問題や悩みというのは、非常に普遍的なものでもあるのだ。

  • 『スタイルズ荘の怪事件』/アガサ・クリスティ

    アガサ・クリスティの長編第1作。戦傷を負って帰国したヘイスティングズは、友人の暮らすエセックス州の田舎屋敷、スタイルズ荘に滞在することになったが、到着して早々、事件に巻き込まれてしまう。屋敷の女主人、エミリー・イングルソープが毒殺されたのだ。ヘイスティングズは、イギリスへ亡命してきていたベルギー人の旧友、元刑事のエルキュール・ポアロに事件の調査を依頼してみることにするが…! いわゆる本格ミステリの雛形になったとされる本作だが、余分な要素のない、まさオーソドックスなミステリ小説だと言っていいだろう。緻密に配置された伏線や犯人の隠し方、ちょっとした描写に込められたヒント、小出しにされる小さな謎が、あそこが怪しい、いや、じつはこっちが犯人では?と読者のミスリードを誘発しまくり、ミステリ小説ならではの楽しみを提供してくれる。ヘイスティングスののんびりとした一人称の語りとポワロのキュートなキャラクターのおかげで、全体にゆったりとして穏やかな印象があり、決してハラハラするようなところはないけれど、とにかくシンプルに謎解きだけが物語を牽引していく感覚が心地よい。

  • 『わたしだけのおいしいカレーを作るために』/水野仁輔

    カレー研究家の著者による、「わたしだけのおいしいカレー」を作るための一冊。カレー調理における注意点やコツ、スパイスの選び方、そもそもカレーのおいしさとは何か、そして自分でカレーを作る際、どんなカレーを目指すべきなのか、などなどについて書かれているエッセイ本なのだが、とにかく著者のカレーへの愛というか、カレーのことばかりかんがえている感がほとばしりまくっていて素晴らしい。

  • 『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』/鷲田清一

    哲学者の著者が、ファッションについて、あるいは、人が自分の身体をどのように経験しているかについて、考察している一冊。 人の身体というのは、<像(イメージ)>だと鷲田は言う。身体の全表面のうち、人が自分の目で見ることができる部分はごく限られているしーー自分の顔だって見ることができないーー、身体のすべてを自分の思うままに統御することなどなんて、もちろんできない。自分の身体について自分自身で確認できるのは、常にその断片でしかないわけで、そういう意味で、自分の「身体」とは、自分が想像的に構築する<像>でしかあり得ない、というわけだ。「身体」は、自分のもっとも近くにありながら、ある意味ではどこまでも遠く隔たったものでもある。

  • 『次の東京オリンピックが来てしまう前に』/菊地成孔

    菊地成孔が2017年から2020年までWebマガジンに連載していた記事に加筆修正し、一冊にまとめたも。東京オリンピックを始めとする時事ネタはもちろん、音楽、映画、鰻、タクシー、ファミレス、メルカリ、人間ドック、読売新聞、ドナルド・トランプ、ざわちん、クレイジーキャッツ、コロナウィルスetc.について、いつもの軽躁的で強気で超饒舌な文体で好き勝手に語りまくっており、ただただ愉しいばかりのエッセイ集に仕上がっている。 菊地の過去作との違いということでいうと、SNS(と、そこでヒステリックに騒ぎ続ける人々)に対する苛立ちと怒りがストレートに爆発しまくっているところが大きいだろう。とにかくしょっちゅうブチ切れているのだが、その切れっぷりもまた愉しい。

  • 『ミルクマン』/アンナ・バーンズ

    独特な文体が魅力的な、アンナ・バーンズのブッカー賞受賞作。北アイルランドとおぼしき名前のない町を舞台に、主人公である18歳の「私」(趣味は歩きながら19世紀の小説を読むこと)が反体制派の有力者たる「ミルクマン」なる男にストーカーされたり、「メイビーBF」との関係に悩んだり、「義兄その3」とランニングしたり、「毒盛りガール」に毒を盛られて死にかけたり、「サムバディ・マクサムバディ」に殺されかけたりする物語。 とにかく語りのグルーヴがなかなかに独特で、それこそが本作の最大の魅力になっている。全編通してものすごくシリアスなことが起こりまくっているはずなのだけれど、語りの面白さのせいで、どうにも笑えてしょうがない、という、なかなか他にはない雰囲気の作品になっている。

  • 『職業としての政治』/マックス・ヴェーバー

    第一次世界大戦後の1919年、ヴェーバーがミュンヘンの学生団体向けに行った講演をまとめたもの。まずヴェーバーは、トロツキーの言葉を引いて、「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」と言う。 近代国家は、この暴力行使の権力を独占するべく、その手段を国家の指導者の手に集めている。そのため、政治家は、不断に「闘争」を行うことで、権力を追求し続けなくてはならない。 だから、政治家とは、常に特別な倫理的要求にさらされている存在であり、また、本質的に、自らの権力行為を倫理的に免責することのできない存在である、ということになる。 だからこそ政治家は、心情倫理ではなく、責任倫理に根ざす存在でなくてはならない、とヴェーバーは語っている。

  • 『あるノルウェーの大工の日記』/オーレ・トシュテンセン

    現役のノルウェー人大工であるトシュテンセンによる日記本。オスロ市内に暮らすペータセン一家から、「屋根裏を居住用にリフォームしたい」という依頼の電話を受けるところから始まる、半年あまりにわたる仕事のあれこれが綴られている。全編通してほとんど仕事のことしか書かれていないので、いわゆる日記というより業務日誌的な趣もあるし、文章もごく淡々としているのだけれど、これが存外おもしろい。 彼の日記からは、「寒さとは何か、埃とは何かを知っている」大工であることの矜持がしっかりと感じられ、やっぱ職人ってこういう人だよね!という気持ちにさせてくれるのだ。

  • 『わたくし率 イン 歯ー、または世界』/川上未映子

    ひたすら饒舌というか自意識をそのまま垂れ流しにしたような、大阪弁と丁寧語が混じった、どろっとした文体が特徴的な中編だ。語り手の「わたし」は、人の思考は脳ではなく奥歯でなされているとかんがえている不思議ちゃんで、生まれる予定のない自らの子供に宛てて手紙を書いてみたり、中学の同級生だった男子との架空の恋愛関係を妄想してみたり、歯医者でアルバイトを始めてみたりする。彼女の思考の中心にあるのは、「わたし」が「私」という自我として存在している、ということの奇妙さ、であり、その「わたし」がこの残酷な世界に否応なしに含まれており、そこから逃がれることができない、ということの過酷さ、だと言っていいだろう。

  • 『ミッテランの帽子』/アントワーヌ・ローラン

    神秘的な力を持った帽子を中心に、さまざまな登場人物たちの人生模様を描いていく連作短編的な構成の小説だ。料理、ワイン、ファッション、香水、音楽、絵画、テレビ番組などなど、80年代中盤のフランスのカルチャーがたっぷりと盛り込まれているところがたのしいし、作品全体に通底する、軽やかに人生の美しさをたのしもうというムードも心地よい。エスプリが効いていて、ちょっと謎めいていて、決してヘヴィにはならない。なんというかもう、いかにもフランスっぽいお洒落な作品になっているのだ。

  • 『チャリング・クロス街84番地 書物を愛する人のための本』/へレーン・ハンフ

    チャリング・クロス街84番地―書物を愛する人のための本 (中公文庫)中央公論新社Amazon 1949年、ニューヨークに暮らす脚本家のハンフは、ロンドンはチャリング・クロス街84番地の絶版本専門の古書店、マークス社に宛て、ほしい書籍のリストーー地元では手に入れにくい英文学の本たちのリストーーを手紙で送る。マークス社の店員ドエルは入手した書籍をハンフに送り、そこからハンフとドエルをはじめとするマークス社の面々との20年に渡る文通のやりとりがはじまる…!という往復書簡集。まだ世界がいまのようにフラットになりきっていない時代、海を挟んでののんびりした手紙のやりとりは、なんだかとても心地よい。 彼らの…

  • 『火星の人』/アンディ・ウィアー

    火星の人作者:アンディ ウィアー早川書房Amazon 有人火星探査を行っていた宇宙飛行士のワトニーは、猛烈な砂嵐によるミッション中止によって火星を離脱する際、不運な事故でひとり火星に取り残されてしまう。不毛の大地にただひとりの人類として、彼は限られた物資と己の知識のみを武器に、なんとか生き延びようと試みるのだが…! 本作で特徴的なのは、火星を舞台にした作品でありながらも、発生するトラブルやその解決法が、いかにもちょうどあり得そう、というリアリティを保っているところだろう。問題点を洗い出し、ひとつずつ対策をかんがえていく、そのプロセスが逐一丁寧に描かれていて、SFというよりなにか現実のプロジェク…

  • 『めぐり逢わせのお弁当』

    めぐり逢わせのお弁当(字幕版)イルファーン・カーンAmazon Amazon Primeにて。インド映画なのだが、絶世の美女とマッチョなおっさんが歌と踊りで騒ぎまくる極彩色のインド映画とはまったく異なるテイストの、音楽は控えめ、カラーパレットは暗め、カメラワークはゆったり目で間を重視した、かなりヨーロッパ的な、しっとりとして渋めの作品だった。 舞台はムンバイ。主婦のイラは夫の愛情を取り戻そうと、腕によりをかけて4段重ねの豪華お弁当を作り上げる。が、ダッバーワーラー(インドのお弁当配達人)の手違いで、その弁当は早期退職間近の孤独な男やもめ、サージャンのもとに届いてしまう。サージャンは激ウマのお弁…

  • 『本の読める場所を求めて』/阿久津隆

    本の読める場所を求めて作者:阿久津隆朝日出版社Amazon "本の読める店"fuzkueの店主である著者が、文字通り「本を読むための場所」としてのカフェを作ろうと決意し、生み出し、それを運営していく上での思考の過程や、試行錯誤のようすについて書いている一冊。 阿久津はfuzkueの経営にあたって、かなり厳密に顧客を定義づけている。それは、「「今日はがっつり本を読んじゃうぞ~」と思って来てくださった方」と表現されており、そういう人以外については、丁重に、かつ周到にターゲットから除外し、店を「関係のない人にとっては魅力のない店」、「読書ができる場を求めている人以外にとって、はっきりと不便」な場所に…

  • 『理由のない場所』/イーユン・リー

    理由のない場所作者:イーユン・リー河出書房新社Amazon イーユン・リーによる長編第3作。16歳で自殺した少年と、作家であるその母親との対話だけで構成されている小説だ。もっとも、少年はすでに死んでしまっているわけで、ふたりはじっさいに言葉を交わしているわけではない。あくまでも母親の想像による"対話"なのであって、交わされる言葉のすべては、彼女の内から生み出された、彼女自身の言葉なのだ。とはいえ、ふたりのやり取りはあくまでも普段通りのテンションを保っているようで、シニカルで反抗期真っ盛りの息子と、それに手こずる母親、のちょっとした言い争いや思い出話など、どこへ行き着くでもない会話が延々と続けら…

  • 『ギルガメシュ叙事詩』

    ギルガメシュ叙事詩 (ちくま学芸文庫)筑摩書房Amazon 古代オリエント最大の神話文学にして、世界最古の叙事詩とも言われる「ギルガメシュ叙事詩」のアッシリア語原文ーー粘土書板に楔形文字で刻まれたーーからの日本語訳。ところどころテキストが欠けてはいるものの、物語の展開はきちんと追えるようになっている。 物語の主人公は、メソポタミアはウルクの王、半神半人のギルガメシュ。暴虐な君主として知られていたギルガメシュだが、自分と同じような力をもつエンキドゥと邂逅することで、友情を得る。やがてふたりは杉の森に住み着くフンババを倒して悪を追い払ったり、また、女神イシュタルがギルガメシュに振られた腹いせに送り…

  • 『若い人のための10冊の本』/小林康夫

    タイトルの通り、小林が10代の若い人に向けて10冊の本を紹介する、という一冊。それだけではものすごくありきたりで退屈な本――いわゆる教養ガイド本的な――になりそうなものだけれど、そこは小林、自身の若いころの読書体験を引きながら、本を読むとはどういうことなのか、つまり、ある本を見つけ、出会い、向き合い、かんがえるとはどういうことなのか、を解き明かしていくように語ってくれており、読みものとしてなかなかにおもしろいものになっている。 小林の主張のベースにあるのは、本というメディアへの信仰にも似た信頼と愛情であり、できるだけわかりやすい言葉でそれを次の世代に受け渡していきたい、という純粋な想いであると…

  • 『零度のエクリチュール』/ロラン・バルト

    バルトの処女作。とにかくわかりづらい文章が多く、よく理解できたとは到底言えないのだけれど――それでも、大学生の頃にちくま学芸文庫版を読んだときよりかは幾分ましだったとおもう――簡単にノートを取っておくことにする。 * 本書におけるバルトの主張は、ひとことでまとめてしまえば、「言語」(ラング)と「文体」(スティル)の間には、もうひとつの形式的実体、「エクリチュール」なるものがある、というものだと言えるだろう。 バルト曰く、「言語」とは、同時代の作家たちに共通する規則や慣習を含み、歴史的な背景を持つ、いわば作家の可能性を制限する否定性として機能するものである。また、「文体」とは、作家個人の身体性や…

  • 『月と六ペンス』/サマセット・モーム

    じつはモームの長編ははじめて読んだのだったけれど、いやーむちゃくちゃ面白い小説だった!エンタテインメント的なストーリーのドライブ感を持ちながらも、相当に複雑な人間の像が描き出されており、読書の愉しみを十全に味わせてもらった。 本作は、作家である主人公が、狂気の天才画家とでも呼べそうな男、ストリックランドとの邂逅を回想しつつ、その人間としての実像に迫る、という架空の伝記のような体裁で書かれている。この手法によって、ストリックランドという男の計り知れなさ、底の知れなさ、得体の知れなさがうまく立ち上がってくるようになっているのだ。 ゴーギャンをベースに形成されたというストリックランドの人物像は、俗世…

  • 『オリバー・ツイスト』/チャールズ・ディケンズ

    本作は、オリバー・ツイストという少年の成長物語ではない。一種の貴種流離譚であり、オリバーの彷徨を利用して社会の低層を描いた作品だと言った方がいいだろう。なかなかの長編ではあるのだけれど、はっきりとオリバーの目線から描かれるパートは前の半分くらいまで。後半分のパートでは、彼の周囲のさまざまなキャラクターたちへと次々に目線を移し替えながら、物語が進行していくことになる。 ディケンズといえば貧者の味方、社会悪の告発者、善き行いによる社会の改善を夢見る作家だと言えるだろう。本作でも、登場人物たちはいずれもディケンズ流のモラルに従って、きわめてわかりやすく類型化されているのだけれど、ディケンズの巧みな描…

  • 『シーモアさんと、大人のための人生入門』

    UPLINK Cloudにて。50歳でコンサートピアニストを引退し、80歳を過ぎてもなおピアノ教師を続けている、シーモア・バーンスタインの姿を描いたドキュメンタリー。とっても地味で静かな映画ではあるものの、全編に流れるピアノの音色が素晴らしい、なかなか素敵な作品だった。話には流れらしい流れもないし、画面構成もかなりシンプルで、シーモアさんが生徒にレッスンする様子や、インタビュー相手に向かってとつとつと語る姿がアップで映し出されているシーンがほとんどなのだけれど、彼の柔らかな話し声そのものがどこか音楽的で、つい聞き入ってしまうような魅力を持っている。 シーモアさんの語る内容は、言葉だけではわりと…

  • 『ブリージング・レッスン』/アン・タイラー

    アン・タイラーは、とにかくふつうの市井の人々の描写というやつがむちゃくちゃに上手い。というか、そもそも彼女の小説はすべて、そういった人々を描いたものだと言ってもいい。ひとくせもふたくせもあることは間違いないけれど、でも本当に平凡な人々、についての描写が、とにかくリアリティ満点なのだ。 一般的に、小説の主人公というのは、なにかしら際立っているというか、魅力的な人物であることが多いだろう。だが、アン・タイラーの小説の主人公たちは、ぜんぜんそういうタイプではない。他の小説世界の住人たちと比べると、ずっと冴えていないし、機転も利かないし、想像力も足りないし、頭もよくない。社会的に成功していたり、壮大な…

  • 『ローマ人の物語 (3)・(4)・(5) ハンニバル戦記』/塩野七生

    文庫版3〜5巻では、「ハンニバル戦記」というタイトル通り、ローマに攻め込んだカルタゴの天才、ハンニバルと、それに立ち向かっていったローマの武将たちとの戦いの数々が描かれている。1,2巻で扱われていたような法制度や国家の成り立ちの話は少なく、戦記物に近い内容になっているのだ。 期間としては、ポエニ戦役の開幕からローマがついにカルタゴを滅亡させ、地中海を「われらが海(マーレ・ノストゥルム)」とするまでの130年間を扱っているのだけれど、塩野の記述の大半は16年間続いた第2次ポエニ戦役を描くことにあてられている。「ハンニバル戦争」と呼ばれるこの戦争こそが、ローマを一気に力強く鍛え上げ、地中海の覇者に…

  • 『ローマ人の物語 (1)・(2) ローマは一日にして成らず』/塩野七生

    塩野七生による長大な歴史エッセイの第1巻(文庫では1,2巻)。紀元前753年とされるローマ建国神話から王政→共和制への移行、平民階級の台頭と貴族対平民の抗争、リキニウス法の制定による平民の包括、エピロスの王ピュロスとの戦いを経てローマが前270年頃にイタリア半島を統一するまで、という500年あまりが取り上げられている。また、当時のローマが参考にした法治都市国家の先進国ということで、前5世紀までのギリシア世界についても多くのページが割かれている。 もちろん史実をベースに書かれているのだけれど、「ローマ人の物語」というだけあって、全体的に塩野史観とでも言うか、塩野の意見をベースにしているところがと…

  • 『ホーキング、未来を語る』/スティーヴン・ホーキング

    本書の冒頭で、「前作『宇宙を語る』より、もっとわかりやすい本を書けると気づき、本書を執筆しました」とホーキングは述べているけれど、相対論と量子論について簡潔な説明をしている前半の2章はともかく、後半に進むにつれて扱われるトピックの難易度はぐんぐんと上がっていき、宇宙ひもや時間旅行、ブレーンの話となると、もうまったくついていけない状態に…。後半は文字通り「目を通しただけ」という感じの読書になってしまい、自分に前提知識がまるで足りていないことがよくわかったのだった。図やイラストがたくさん掲載されてはいるものの、まったく馴染みのない概念を図示されたところでぜんぜんぴんとくることがないし、なにより全体的に抽象的な議論が多い。俺にとってはじゅうぶん過ぎるくらいに難しい一冊だった。

  • 『博士と彼女のセオリー』

    Amazon Primeにて。スティーヴン・ホーキングの元妻、ジェーンによる原作をもとにした映画。ケンブリッジ大学大学院で理論物理学を先行していたスティーヴン(エディ・レッドメイン)は、中世詩を学ぶジェーン(フェリシティ・ジョーンズ)と出会い、ふたりはすぐに恋に落ちる。だが、まもなくスティーヴンはALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症、余命2年の身体だと宣告されてしまう。ふたりは、自らの成すべきことを成すべく、懸命に生活を続けていくのだったが…!

  • 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』/加藤陽子

    東大の歴史学教授である加藤が、栄光学園の中高生たちに行った5日間の講義をベースに書かれた一冊。日清戦争から太平洋戦争まで、近代日本の戦争の歴史がテーマになっている。 講義は、加藤が生徒たちに史料(報告書、書簡、日記、地図など)や歴史家の意見を提示しては、いろいろな質問――「(日露戦争前の)ロシアは、日本が韓国問題のために戦争に訴えてでも戦うつもりであったことに、なぜ気づかなかったのでしょうか?」、「イギリスはなぜ、日本が日英同盟の名によって大戦に参戦するのをよろこばなかったのでしょうか?」など――を投げかけ、彼らが一生懸命それに回答していく、という流れで進んでいく。 もちろん、栄光の生徒でしか…

  • 『闇の中の男』/ポール・オースター

    オースターの2008年作。2000年代にオースターが書いていた「部屋にこもった老人の話」の第5作目ということで、本作も、ひとりの老人が自室の暗闇のなかで眠りにつくことができず、頭のなかで物語をあれやこれやとこねくり回している場面から始まっている。 老人が夢想するのは架空のアメリカ、9.11が起こらず、その代わりにアメリカがふたつに分裂し、いつ終わるともしれない戦争を繰り広げている、という暗澹とした世界である。そのディストピア感は、オースターの旧作『最後の物たちの国で』をおもい起こさせるようなものだ。ただし、この分裂したアメリカの物語は、読者に強烈な印象を残しつつも、ストーリーとしてはじゅうぶん…

  • 『マチネの終わりに』/平野啓一郎

    ネットでレビューや感想を見ていると、本作への批判は、主に物語中盤で引き起こされる「すれ違い」があまりにもご都合主義的で、作りもの感満載である、という点に対するものが多いようだ。たしかに、俺自身、この小説を読みながら、うわ、この展開、まじかよ…!と一度は本を閉じそうに――というか、Kindleからアンインストールしそうに――なったくらいなので、そういった批判はある程度妥当なものであるようにおもえる。けれど、本作を最後まで読み終えてから改めてかんがえてみると、そのような都合のよさ、作りものっぽさ、嘘っぽさ、安っぽさ、メロドラマっぽさ、といった要素こそが、本作のテーマと響き合っているようにも感じられるのだ。 この世界では、チープな悪意やおもい込みや、しょうもない誤解といったものが、あまりにもたやすく、なんとも理不尽に、ばかばかしいくらい乱暴に、人の生をねじ曲げてしまう、そういったことがたしかに起こりうる。そういうむちゃくちゃな、物語の展開としてどうなの、と言いたくなるようなできごとが不意に訪れてしまう、そんなふざけた場所こそが、まさしくこの世界であり、そんな展開に巻き込まれることこそが、まさに生きるということなのだ。

  • 『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』/福田和也

    清水幾太郎は本を読んで得た内容を「表現」することで、はじめて本当に読めたことになる、ということを述べていたけれど、福田も本書で同じようなことを書いていた。 「情報」を得るというのは、けして受動的な行為ではないのです。むしろ、高度の自発性、能動性が要求される行為である。あるいは、その能動性こそが、情報獲得の効率を確保するのです。 情報における能動性とは、それを受けているその時点で懸命に頭を動かして、それが自分にとって価値のあるものか否か、さらにはそれをどう料理してアウトプットするかという処まですましてしまうということです。 逆にいえば、料理法まで至らない、思いつかないものは、とっておいても仕方な…

  • 『本はどう読むか』/清水幾太郎

    社会学者の清水による、本の読み方に関するエッセイ。清水の読書遍歴から、情報整理の仕方、どんな本を読むべきか、本の内容を忘れないための工夫、洋書の読み方、などなど、この手の「読書論」系の本で扱われがちなトピックについては大方書かれている。1972年に出版された本だけれど、内容的にはぜんぜん古びていないし、『論文の書き方』で有名な清水なだけに、当然文章も上手い。この手の本のなかではひさびさに当たりを引けたな、とおもいつつ読んだのだった。 本を読むと、読者の心のなかにはいろいろな観念が蓄積されていくわけだが、単に読んだというだけでは、それらの観念は無秩序に蓄積されていくだけに過ぎない、と清水は言う。読者と著者とでは、頭のなかにある観念の体系が異なっているからだ。では、どうすれば読者は本の内容を自分のものにすることができるのか?

  • 『あなたを天才にするスマートノート』/岡田斗司夫

    岡田斗司夫によるノート術本。数年ぶりに再読した。「スマートノート」なる方法について書かれている一冊で、いろいろな書き方が紹介されているのだけれど、全編通して繰り返し語られているのは、ムダになる前提で構わないから、とにかくノートに書き出すこと、書いてかんがえ続けることこそが重要だ、ということだ。 曰く、ものをかんがえるというのは「武道」のようなもので、まずは型を覚え、それに従って練習を繰り返し、同じようなことを何度も何度も繰り返し行い続けることでこそ身についてくるものである。あるいは、それは「農業」のようなもので、果実が収穫できるようになるまでには、土を耕し、雑草を抜き、水や肥料をやり、それなりに長い時間をかける必要があるものである。

  • 『はだしのゲン 私の遺書』/中沢啓治

    2012年に73歳で他界した、『はだしのゲン』の著者、中沢啓治が自身の半生を振り返ったエッセイ。6歳で被爆を経験した際の生々しい体験から、戦後の広島で必死で生き延び、怒りに燃えて原爆漫画を描くようになり、やがて世間にそれが受け入れられていくまでが書かれている。体調を崩し、筆を折った中沢は、あたかも「遺言」のように、「原爆によって、人間がどういうふうになるか」ということを自らの被爆体験を通して語っている。 中沢は、自分の作品のベースにあるのは、端的に「怒り」であると言う。それはつまり、「戦争や原爆について、日本人は自らの手で責任を追求し、解決しようとしているか?否、何一つされていないではないか!」という怒りだ。だからこそ、原爆被害の実態をリアルに伝えるべく、『はだしのゲン』のような、漫画でありながらも相当に生々しいスタイルの作品を生み出したのだ、というわけだ。(もっとも、回を追うごとに読者から「気持ち悪い」という声が出てきてしまったため、中沢としては、「かなり表現をゆるめ、極力残酷さを薄めるようにして」描いたらしい。)

  • 『孤島』/ジャン・グルニエ

    アルベール・カミュの才能を発掘した人物として知られる、ジャン・グルニエによる哲学的エッセイ。哲学的、とは言っても、空白や、一匹の猫の死、ある肉屋の病気、旅、花の香り、地中海の島々、すぎ去る時について、思索的で淡々とした散文がまとめられたもの、という感じだ。 全編通して通奏低音となっているのは、「至福の瞬間」とでも言うべきもののことで、それは人の生に不意に訪れる、ある幸福な瞬間のことを指すものであるらしい。グルニエ曰く、それは作家に天啓をもたらすような瞬間であり、あるいは、人が自己を再認識するような瞬間である。

  • 『サードドア 精神的資産のふやし方』/アレックス・バナヤン

    勉強に嫌気がさしてしまった医学生のバナヤンは、現代の「成功者」たち――ビル・ゲイツ、スティーブン・スピルバーグ、レディー・ガガ――の伝記や評伝を読みあさる。そうして、彼らが自分と同じくらい若いころに、どんな風に成功の第一歩を踏み出し、これだというような人生の始まりをスタートさせたのか、という「聖杯」を見つけるべく、彼らにインタビューをして回ろう、それを本にしよう、とおもい立つ。 バナヤンは、「本当のところ、僕は何に興味があるんだ?どう生きたいんだ?」という自分の気持ちに愚直に従いながら、また、多くの人に助けられながら、すさまじい行動力でもって「成功者」たちにインタビューするための旅を続けていく。もちろん、その旅路のなかで、「聖杯」などというものは存在しない、ということが明らかになっていくわけだけれど、それを20歳そこそこの若者が、これでもかというくらい多くの失敗を繰り返し、当たっては粉々に砕けまくりながら少しずつ体得していく…というプロセスがみっちりと書き込まれているところが、本書のおもしろさだと言っていいだろう。

  • 『消え失せた密画』/エーリヒ・ケストナー

    児童文学の巨匠というイメージのケストナーだけれど、大人向けの作品もいくつか書いている。『消え失せた密画』はそのうちのひとつで、ユーモア溢れる犯罪小説…といっても、残酷なところや邪悪なところが1ミリもない、ほっこりキュートな物語である。 物語の主人公は、繰り返される単調な毎日に嫌気が差してしまった肉屋の親方、キュルツ氏。家族をベルリンに残し、ひとりコペンハーゲンに観光にやって来た彼だが、ふとしたことから超高価な密画の盗難事件に巻き込まれてしまう。そうして状況に流されるがままに、密画蒐集家の美人秘書やおバカな窃盗団たち、ミステリアスな美青年などといった面々と、騙し騙されの密画争奪戦を繰り広げることになるのだが…!

  • 『飛ぶ教室』/エーリヒ・ケストナー

    物語の舞台はドイツ、キルヒベルクのギムナジウム。正義感の強いマルティン、作家志望のジョニー、喧嘩の強いマティアス、弱虫のウリ―、読書家のゼバスチャンの5人組が主人公だ。クリスマスを目前に控えた彼らの頭のなかは、クリスマス会で上演する劇「飛ぶ教室」の稽古と、クリスマスの帰省のことでいっぱい。だが、そんなある日、同級生のひとりが実業学校の生徒に拉致されたとの情報が入ってくる。5人は捕虜を奪還するべく、急いで動き出すのだったが…! いわゆる「ギムナジウムもの」らしく、本作でも、扱われているのは無垢な少年たちの傷つきやすさだと言っていいだろう。

  • 『若きウェルテルの悩み』/ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

    「日も月も星も依然としてその運行をつづけながら、私にとっては昼もなく夜もなくなり、全世界は身のまわりから姿を没した」というほど、ひとりの美しい少女に夢中になってしまった青年、ウェルテルの「悩み」を描いた物語。少女の名前はロッテ。ふたりは出会ってまもなく互いに惹かれ合うけれど、ロッテにはすでにアルベルトという許婚者がいた。ウェルテルは、叶わぬ恋とは知りながら、我が身をそこから引き剥がすことができず、ついには自死を選ぶまでに自らを追い詰めていってしまう…! 誰もが多少は身に覚えのあるような三角関係を扱った物語ではあるけれど、本作の特徴は、主題が「悩み」そのものである点だろう。ここには、恋の鞘当て的な駆け引きや、具体的な恋愛をめぐるアクションというのはほとんどない。作品全体の3分の2ほどが「ウェルテルが友人に宛てた手紙」によって占められていることもあって、文章の大半が彼の内面の吐露になっているのだ。

  • 『リバタリアニズム アメリカを揺るがす自由至上主義』/渡辺靖

    リバタリアニズムについて全面的に同調できるかどうかはともかく、政治的・社会的課題は「お上がなんとかするもの」だとかんがえている日本人からは到底生まれそうにない思想だな、と感じさせられた一冊だった。個人の自由とは、自らの手で守り、勝ち取っていかなければならないものだ、というリバタリアン的な発想や行動ほど、明治維新以来ひたすら中央集権型で進んできた日本人からかけ離れているものもないだろう。「自由」ということの意味や価値をかんがえ直す意味でも、リバタリアニズムについて知ろうとすることは有用だろうとおもう。

  • 『世界の涯ての鼓動』

    去年、TOHOシネマズシャンテにて。生物数学者の女(アリシア・ヴィキャンデル)とMI-6の諜報員の男(ジェームズ・マカヴォイ)が、ノルマンディーの海辺にある小さなリゾートホテルで出会う。ふたりはそれぞれ、自らの信念を賭けた大きなミッションを数日後に控えていた。女の仕事は、潜水艇でグリーンランドの深海に潜り、地球の生命誕生の起源調査を行うこと。男の任務は、ソマリアのテロ組織に潜入し、爆弾テロを阻止すること。 男は職業柄、常に自らの死をどこかで予感しながら生きている。女は、深海という死の世界のなかから生の光を探そうとしている。それぞれが死と生のイメージを濃密にまとったふたりは、必然のように惹かれ合…

  • 『リンドグレーン』

    昨年末に、岩波ホールにて。ピッピやカッレくんを生み出した、スウェーデンの国民的な児童文学作家、アストリッド・リンドグレーンの伝記映画。原題は"Unga Astrid"(英題:"Becoming Astrid")なのだけれど、そのタイトルの通り、本作では、彼女が「リンドグレーン」になる以前の若かりし頃(10代〜20代前半)、「アストリッド」として自立するまでを描いている。

  • 『勝ち続ける意志力 世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」』/梅原大吾

    格ゲーの世界チャンピオンであり、日本初のプロゲーマーでもある梅原大吾の自伝的エッセイ。ウメハラにとってゲームとは何か、そこで勝ち続けるためのかんがえ方、生き方とはいったいどんなものであるか、が書かれている。 ウメハラの思考法は、ゲーマーならではの超個性的なものかとおもいきや、決してそんなことはない。どちらかといえば、自己啓発本とかにもよく書かれているような内容だと言っていいだろう。ただ、ウメハラがゲームの世界においてひたすらにかんがえ、悩み続けることで、自らの内から答えをひねり出ししてきた、ということがはっきりと感じられる文章なので、もう言葉の説得力が本当に半端ないことになっている。

  • 『フリー <無料>からお金を生みだす新戦略』/クリス・アンダーソン

    『WIRED』誌の編集長だったクリス・アンダーソンによる2009年の著作。10年も前の本だけれど、書かれている内容はいまなお進行中のものばかり。アンダーソンの洞察力はすごいな、と感じ入った。 アンダーソンは、20世紀のマーケティング手法にも「フリー」(=費用からの自由)を利用するものはあったけれど――安全剃刀をタダで配って、替刃を販売して利益を得る、無料でレシピ本を配布して食品の売り上げを伸ばす、など――デジタル技術を利用した21世紀の「フリー」は、「将来のためのエサではなく、本当にタダ」である点が重要なのだと語る。アナログで試供品を作ったり配布したりするのにはいちいちコストがかかっていたけれど、デジタルの世界においては、情報処理や通信にかかるコストが、ひいてはオンラインサービスに必要となるコストが、激しい競争を通じて限りになくゼロに近づいていくことになる。おまけに、デジタルであれば全世界のユーザに対して一度に「フリー」のサービスを提供することだってできる。

  • 『in our time』/アーネスト・ヘミングウェイ

    『われらの時代』(原題:”In Our Time”)の出版される前年、1924年にわずか170部だけ刷られたという書物、”in our time”の柴田元幸による全訳。『われらの時代』の各短編の扉部分にある超短編(1ページくらいの小品)のみを18章集めたものが一冊になっている。 『われらの時代』が優れた作品集であることはもちろんだけれど、そこから簡素な素描と言ってもいいような部分のみを抜き出した本作も、これはこれでなかなか趣がある。各章で扱われているのは、いずれも戦場や闘牛場における闘いや死にまつわるちょっとしたエピソードだ。トピックとしては血なまぐさい暴力が描かれていることが多いのだけれど、全体的に「暴力性」というものが明らかに欠けていて、むしろ倦怠感、疲労感といったものが強く喚起されるようになっているところが特徴的だ。

  • 『戦略読書日記 本質を抉りだす思考のセンス』/楠木建

    楠木は、昨今のビジネス書は「スキル」を追求することに傾斜しているが、戦略そのものを作成し、商売を組み立てていく経営者の仕事に必要なのは、「スキル」ではなく、「センス」だと言う。楠木によれば、「センス」とは、「文脈に埋め込まれた、その人に固有の因果論理の総体」であって、「スキル」のように教科書的に体系立てて教えたり学習することのできないものである。要は、その時々の文脈における発想力や対応力のベースにあるもののことを「センス」と呼んでいる、ということなのだろうけれど、だからこそ、「センス」は、それまでの経験の量、質、幅、深さといったものによって形成されるものでしかあり得ず、「センス」の良さとはすなわち「引き出しの多さ」ということになる。

  • 『サブスクリプション ―― 「顧客の成功」 が収益を生む新時代のビジネスモデル』/ティエン・ツォ

    サブスクリプション――「顧客の成功」が収益を生む新時代のビジネスモデル作者:ティエン・ツォ,ゲイブ・ワイザート出版社/メーカー: ダイヤモンド社発売日: 2018/10/25メディア: 単行本(ソフトカバー) サブスクリプション・モデルがどのように産業を変化させているか、そして、サブスクリプション・モデルをどのようにして企業に適用していくべきか、について具体的な方策が語られている一冊。かなりよくまとまっていて、サブスクリプション・ビジネスの現状が把握できるようになっている。 本書でもっとも重要なのは、企業がサブスクリプション・モデルを導入するということは、単に課金形態を月額に変更するということ…

  • 『サピエンス全史』/ユヴァル・ノア・ハラリ

    さんざん話題になった本書だけれど、たしかに非常に明快で、「人間とは全体としてこういうものだ」ということが腹落ちするようになっているところがよかった。大きな枠組みで体系的に語っていながらも、しっかりとしたストーリー性を持ち合わせているから理解しやすくなっているのだ。もっとも、当然ながら、本書を読めば人間の進化のあらゆる側面がわかる、というわけではない。たとえば、ホモ・サピエンスの「虚構」を信じる力、協働する力が他の生物種を圧倒する原因になった、ということはわかったけれど、ではなぜそういった能力が発現したのか、といった点には、本書ではあまりページが割かれていない。そういった細々した疑問をいろいろとおもいつかせてくれるという意味でも、たのしい読書だった。

  • 『スタンフォードの自分を変える教室』/ケリー・マクゴニガル

    心理学、神経科学、医学などの分野から、自己コントロールにまつわる知見を解説し、自分の「意志力」を強化するためのさまざまな方法を紹介している一冊。紹介されているアイデアとしては、 * 定期的な瞑想を行う(5〜15分) * 定期的な運動を行う(5分〜) * 呼吸を1分間4,5回に抑える * 屋外の自然に触れる(5分〜) * 睡眠時間を確保する(6時間未満はNG) * 誘惑に負けそうになったとき(例:ダイエット中のケーキ)は、「誘惑してくる対象そのものを思考すること」を禁止せず、欲求が存在することを受け入れてしまう。その上で、自分の目標をおもい出しつつ、行動を意識的に選択するようにする。

  • 『洗礼ダイアリー』/文月悠光

    詩人の文月悠光によるエッセイ集。タイトルにある「洗礼」というのは、「社会に入るために経験しなければならないこと」とされているような物事、通過儀礼のようなものだと言ってもいいだろう。幼いころからちょっと「人とズレて」いたという文月は、学校で、職場で、SNSで、家庭で、友人関係で、さまざまな「洗礼」を浴びては、そのたびに動揺したり混乱したりする。各エピソードの中心になっているのは、彼女の感じる違和感、所在なさ、悔しさ、寂しさ、もどかしさ、やりきれなさ、不安、戸惑い、といった感情の揺れ動きで、なんとも不器用で不安定な、自意識が強くて潔癖な、傷つきやすい魂が感じられる。

  • 『「残業ゼロ」の人生力』/吉越浩一郎

    トリンプ・インターナショナル・ジャパン元社長の吉越による、人生後半をたのしむためのかんがえ方をまとめた一冊。 吉越は人間の人生を、 * 勉学中心の「学生期」 * お金を稼ぐ「仕事期」 * 何にも縛られず自由に生きる「本生(ほんなま)期」 の3つに分けるとするならば、人生の価値は「本生期」にこそある、と言う。「本生期」というのは吉越の造語で、「本当の自生、本番の人生、本来歩むべき人生」という意味であるらしい。「余生」とは真逆のかんがえ方、とのこと。

  • 『インプットした情報を「お金」に変える黄金のアウトプット術』/成毛眞

    タイトルはど派手だが、内容的には結構まっとうなことが書いてある一冊。たしかにいまの世の中でふつうに生活していると、インプットばかりになってしまいがちだ。音楽も映画も聴き放題、見たい放題のサービスがあるし、電子書籍、オーディオブックだって同様、おまけにSNSには絶えず大量の情報がアップされ続けている。これらを日々摂取しているだけで、消化不良になってしまう…というのはおそらく誰しもがわかっていることなのだけれど、でもインプットは簡単でたのしいし、アウトプットは面倒でなかなか続かない、というのが本当のところだろう。なにしろアウトプットというやつのためには頭を使わなければならないし、自分のおもうような品質のものを出力し続けるというのはなかなかに難しい。自然、多くの人がアウトプットから遠ざかってしまっているわけだ。成毛は、こんな文言で読者を執拗にアジテートしてくる。

  • 『私の財産告白』/本多静六

    明治から昭和にかけて日比谷公園の設計や明治神宮の造林など行い、「公園の父」とも呼ばれた男、東京大学教授にして大資産家でもあった本多静六による資産/人生論。60年以上前の本だけれど、そのエッセンスはいまでも古びていない。というのも、彼の主張はきわめてシンプルかつまっとうなもので、煎じ詰めれば、 1. 収入の四分の一を貯金する 2. 種銭が作れたら投資する という、ただこれだけに過ぎないからだ。一代で巨大な資産を築き上げたとはいえ、いわゆる成金、一攫千金的なところはまったくなく、とにかく健全、堅実、実直というコツコツ型の権化みたいな人なんである。「金儲けとは、理屈や計画ではなく、実際であり、努力である。予算ではなく、結果である」と語る本多の言葉には、まったく曇りや迷い、浮ついたところがない。地に足ががっちりとついているのだ。

  • 『新・メシの食える経済学』/邱永漢

    邱永漢によるお金に関するエッセイ集。「お金の神様」として有名な著者だけれど、お金儲けに関するノウハウ集というよりは、お金という側面から人生について語った、人生論のような趣の一冊だ。本当に人生のありとあらゆることをお金に結びつけて語っているところがすごい。

  • 『リベラルアーツの学び方』/瀬木比呂志

    東京地裁、最高裁の元裁判官であり法学者である著者による、リベラルアーツ指南本。世のなかに大量に流布しているリベラルアーツ本、教養本の書き手たちと同様、瀬木も、実践的な意味における生きた教養としてのリベラルアーツを学ぶことの意味は、いまなお、というか、いまでこそ大きい、と言う。さまざまな書物や作品と真摯に向き合い、そこから得られる知恵から帰納的に思考していくことで、自分の頭でかんがえ、自分なりの思想を形作っていくための基盤を手に入れることができるだろうから、というのがその理由だ。

  • 『ゼロ・トゥ・ワン』/ピーター・ティール

    ピーター・ティールがスタンフォード大学の学生向けに行った「起業論」の講義をベースに書かれた一冊。ティールは、自身が採用面接を行う際、「賛成する人がほとんどいない、大切な真実はなんだろう?」と質問するという。なかなか難しい質問だが、これに対する正しい回答は、「世の中のほとんどの人はXを信じているが、真実はXの逆である」という形になるはずだ、とティールは語る。彼が求めているのは、この世界でいまだ明らかになっていない真理や知識を発見し、社会を大きく変えていく、そういったラディカルな思考なのだ。

  • 『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 』/木澤佐登志

    新反動主義(暗黒啓蒙)と呼ばれる、なんともキナ臭い思想的ムーブメントの概要と、それが形成されるに至った流れについてまとめられた一冊。ペイパル共同創業者のピーター・ティール、Tlon経営者のカーティス・ヤーヴィン、哲学者のニック・ランドという三人に焦点を絞って、この思想がどのようにして生まれ、どのような影響を与えてきたのかが描かれている。以下簡単にノートを取っておく。

  • 『思考力』/外山滋比古

    本書の主張はシンプルだ。「知識・教養などといった他人の考えに依存することなく、自分の頭で考えろ!」ということだ。外山はいままでの自身の人生経験から、知識偏重の日本の教育はダメだし、日本の文系の学問も同様だ(海外の論文をパクって組み合わせているだけじゃないか!)、自身の経験から導かれたかんがえをベースにしなければオリジナルなものなど生み出せない、と語る。情報を集めれば集めるほど思考力は低下し、知的メタボの教養バカ、コピペ人間に成り下がってしまう、と言うのだ。

  • 『浴室』/ジャン=フィリップ・トゥーサン

    『浴室』の物語は、ある日突然、主人公の青年が浴室に引きこもってしまう、というところからはじまる。なるほど、胎内回帰願望のメタファーとしての浴室、とかそういう感じなのかな、などとおもって読み進めていくと、数ページ後には彼はあっさりと浴室を出て、引きこもり生活をやめてしまう。同居している恋人とか、家にやってくるポーランド人たちともふつうに――それなりにふつうに――コミュニケーションをとっていたりする。やがて、主人公はこれまた突然イタリアに旅発ち、現地で医師の夫婦と仲良くなったりもするが、結局また家に帰る。…こんな風に書いてもぜんぜん意味がわからないのだけれど、でもじっさいそういう展開の小説なのだ。

  • 『誰がために鐘は鳴る』/アーネスト・ヘミングウェイ

    ヘミングウェイの長編。1930年代のスペイン内戦を舞台に、共和国側の義勇兵としてゲリラ部隊を率いるアメリカ人、ロバート・ジョーダンの4日間を描く。ジョーダンの任務はグアダラマ山脈にある橋の爆破だけれど、頼りにできるのは10名にも満たない地元のスペイン人ゲリラのみ。作戦の成功確率は相当に低そうだと言わざるを得ない。そんななか、ジョーダンはかつて反乱軍に囚われていたという若い娘、マリアと出会い、たちまち恋に落ちるのだが…!

  • 『砂の女』/安部公房

    主人公の男は、昆虫採集のために休暇をとって人里離れた砂丘に向かう。そこには砂に埋もれかけた小さな村があり、男は一夜の宿を求めてある家を訪れる。家には女がひとり暮らしているのだが、なにしろそこは砂穴の底に位置する家、放っておけばたちまち砂に埋れてしまうので、その女がすることはといえば、降り積もる砂をひたすら掻き出し、家が潰れないようにするというただそれだけである。翌朝、男が旅経とうとすると、家を出るための縄梯子がなくなっている。村人に騙され、砂穴の底に軟禁されてしまったのだ。男は砂穴から脱出しようとあらゆる手段を試みるが、ことごとく失敗し、女とともに砂を掻き出す生活を続けることになる…!

  • 『直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN』/佐宗邦威

    カイゼン思考、戦略思考、デザイン思考に次ぐ、「ビジョン思考」なるものを提唱する一冊。佐宗によれば、「ビジョン思考」とは、個人の関心、妄想といった内発的動機からスタートして創造性をドライブし、直感と論理とを結びつけるような思考法、であるらしい。 前提とされているのは、クリスチャン・マスビアウ の『センスメイキング』で語られていたのと似たような話で、いわゆる「正解」のないVUCAの時代には、データやロジックに基づいて戦略を策定していく、というやり方は十分に機能しない、ということだ。だから、周囲の環境や自分自身について、自分なりに感知し、解釈して、自分なりの意味づけを行っていかなければならない。その感知・解釈・意味づけ(本書の表現によれば、妄想→知覚→組換→表現)の方法論として、『センスメイキング』ではリベラルアーツに再注目すべし、という主張がなされていたわけだけれど、本書では、「他人モード」(他人に合わせて、他人の思考を想定してかんがえる)ではなく、「自分モード」になってかんがえていこう、そこから思考をスタートさせよう、ということが述べられている。

  • 『コズモポリス』/ドン・デリーロ

    2000年のニューヨーク。若くして投資会社を経営する主人公は、自分の周りにあるすべてにリアリティを感じられないでいる。莫大な資産、鍛え上げた肉体、株式の動きを見抜く才能、特殊改造されたハイテクの豪華リムジン、優秀な部下、ボディーガード、専属の医師による毎日の健康診断、愛人たち…彼は資本主義社会の上澄みのありとあらゆるものを手にしている男だけれど、ある日、自ら進んでそのすべてを投げ捨て、破滅に向かって突き進んでいくことを決めてしまう。それはまるで、自己破壊によってシステムの外部に脱出しようとする試みのように見える。

  • 『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』/立花隆

    立花隆が週刊文春に連載していた「私の読書日記」(1995年〜2001年分)をまとめた一冊。序章で読書術&速読術について軽く言及されたあとは、ひたすら300冊あまりの「面白い本・ダメな本」の紹介が書かれていく、という構成になっている。 特徴的なのは、こんなのいったい誰が読んでるの…?とおもいたくなるようなマイナーな本やニッチな専門分野の学術書が大量に取り上げられているところ。自分ではまず手に取ることなどなさそうな本たちが次々に紹介されていくのだけれど、立花が関心を抱いた部分だけが超簡潔にまとめられているから、どんどん読めてしまう。とにかく濃度の高い一冊だ。

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