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  • エヴァQはなんであんなにヒットしているのかを考えている時に考えたこと

    内田樹さんが今日のブログエントリー『『菊と刀』と領土意識について』の中で、「内/外」の話をされていた。 ウチの研究室の主題の一つは「内と外の間」である。 内田さんはベネティクトが読み落とした日本人的特性として、「どこまでが『うち』なのかがよくわかっていない」と指摘している。それは確かにそうかもしれない。建築における「内と外の間」でも、僕なんかは「軒の深さ」や「明暗の曖昧さ」、「空間(フォルム)の曖昧さ」に惹かれてしまうところがある。谷崎潤一郎の羊羹もそうかもしれない。 最近、留学帰りの後輩と話していて「なんで海外の建築家は日本にあまり名作をつくらないのか」ということが話題になった。最近決まった…

  • 『希望の国』と震災復興建築家の温度差について

    今日は、AIJの震災復興に関するシンポジウムに出席した。テーマはコミュニティーアーキテクト制についてであった。その後、復元された東京駅に行き、東京駅美術館に行ってきた。それから、早稲田松竹で2回目の『桐島、部活やめるってよ』を観た。 シンポジウムで印象に残ったのは、手塚さんの幼稚園の計画における杉の大木を使った400年後に伝わる記憶のお話と、明治大学の青井さんがおっしゃっていた「20世紀型復興スキーム」についてのお話だった。 杉の大木は元々お寺の参道に植わっていて直径4mを越えるものが津波の塩害によって死んでしまったのを、そのまま太い柱に利用して、記憶と共に400年後まで残そうということだった…

  • 文献研究の具体性について

    今日は卒業論文の発表会であった。 先生方の講評の中では、カレル・タイゲと埴谷雄高、村野藤吾と槇文彦のスケッチの類似性のお話が興味深かった。 全体的にウチの研究室に対する批評の中で多かったのは、文献研究における具体性についてであった。建築の意匠(デザイン)の研究である以上、具体的な建築物やスケッチなどのモノに依拠して論じられるべきであり、文献研究のみで、本人もわかっているのかわかっていないのかわからないような論理をいくら披瀝してみたところで、それは設計者としての血肉にならないのではないかといった趣旨であったと思う。はたしてそうであろうか。 ウンベルト・エーコが『論文作法』の中で述べていることの一…

  • 書きたいことのメモ

    しばらく間があいてしまったけれど、その間に考えてたこと・書きたかったことの項目だけメモしておきたい。 ・所有権とユートピアについて(イバン・イリイチ『H2Oと水』) ・やせ我慢と役割について(内田樹『街場の読書論』) ・同調圧力について(吉田大八『桐島部活やめるってよ』) ・持続可能な成長について ・「やってみないとわからない」は子供の浅ヂエ(あるシンポジウムにて) ・自由の権利について(イルデフォンソ・ファルコネス『海のカテドラル』) ・においの力について(ヤン・シュバンクマイエル『アッシャー家の崩壊』) 他にもあった気がするけれど、時間ができたらす少しづつでもノートしておきたい

  • 押してダメなら引いてみる

    今月号の新建築に、槇文彦さんが「漂うモダニズム」という長めのエッセイを寄稿している。 表題の「漂うモダニズム」とは、かつて一隻の巨大な船として機能していたモダニズムが、現代はまるで具材が全てポタージュ化してしまったスープの様に、大海原として眼前に広がっている、ということである。つまり、モダニズムは100年という時間を耐えたが故に、ありとあらゆるものを飲み込んで撹拌し、それは最早なにかに向かって突き進むイデオロギーではなく、当たり前の様にそこにある。モダニズムがあたりに漂っているというだけでなく、溶融したモダニズムの中にそれぞれがあてどなく漂っているという逆説的な状態を表している。 このエッセイ…

  • 漱石と村上春樹と西尾維新の文体について

    ここ数日で、夏目漱石と村上春樹と西尾維新の小説を読んだ。 それぞれ1867年、1949年、1981年の生まれである。厳密には、西尾維新の『少女不十分』は、本人が語っているように小説ではなく(あくまでドキュメントであるのだが、小説よりも小説らしい)、漱石の『三四郎』と『それから』については、パラパラと読み返した程度である。しかし、こうやってバラエティに富んだ年代の方々の小説を同時期に読んでみて、なかなか不思議な気持ちになった。 特に感じたのは、文体の違い。司馬さんが評している様に、漱石の文章は一つのセンテンスに対して一つの意味があてられていて、それ自体がシンプルで美しい。それとはある意味で好対照…

  • 風の歌を聴け

    村上春樹の『風の歌を聴け』を読んだ。 所謂「ネタバレ」を嫌がるのであれば、注意していただきたい。 それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に帰り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。 冒頭で、像について語ることが出来たとしても、象使いについて語ることが出来ないもどかしさについて、文章を書くことのもどかしさについて述べている。そして、文章を書き続けることの目的について、「象は平原に帰り僕はより美しい言葉で世界を語る」ことだと書いている。これは繰り返し、作中の主人公の親友である…

  • 「踏み出しますか」について

    「文明」は誰もが参加できるものであるのに対し、「文化」は一見非合理で煩雑なんだけれどある範囲内で自然と共有されているものである。 今日の司馬さんは「踏み出しますか」について。日本は歴史上文明の担い手になったことはないが、豊潤な文化を育んできた。イギリスやフランス、中国、アメリカなんかは、文明を担うものとしての自覚がある。だから、彼らの思考や発言には「私の考えはより普遍的であって、みなさんが模倣するにふさわしい」という通奏低音が存在する。そんな人達と、国際社会において各々の独立した考え方を持って議論しましょうと言われても、今ひとつ要領を得ないのは当然と言えば当然なのかもしれない。最近のニュースを…

  • 便所のらくがきについて

    駅のトイレとかにはよく、変なチラシが張ってある。変なチラシはまだ目的がわかるからいいけれど、なんのために書いてるのかさっぱりわからない落書きが書いてあったりする。 僕は落書きが好きだ。大学2年生の時、街中の落書きをスケッチして回ったことがある。法的にはよろしくないのかもしれないけれど、自分でも煮詰まっちゃって思わず書いてしまったものとか、伝えたい意思が耐えきれずにそこに具現化してしまったようなものは、なんとなく好意をもってしまう。それは、けばけばしい住宅の装飾とか、つるっとした新宿のビックカメラなんかよりよっぽど美しいとさえ思ってしまう。 でも、わざわざいろんな人が見る場所に、S○Xしてーと…

  • 「でもやるんだよ!」について

    「では、どうすればいいですか?」 この問いに対して答えてくれるのが「キリスト教」で答えてくれないのが「仏教」らしい。 今日の司馬さんは「心と形」行きに読んだのは「鎌倉武士と北条政子」なのだけど、どうしても帰りに読んだ方が記憶に新しい。だから、行きの電車では音楽を聞こうかな。なんて思ったり。人は食うために戦うのであって、生きるためには戦わない。しかし、食うことにも生きることにも文化はある。そんな話だったと思います。 さてさて。昨日の話で、「ゲニウス・ロキ」っていうのは、正直チンプンカンプンです。でもうちの師匠が「ゲニウスロキってのはあると思うんだよねぇ」っていうから、何ぞやと思って調べているうち…

  • 半公共とタブーについて

    前々から気になっていたことがある。 「タブー」ということについて、面白い共通点がある。一つは、「ゲニウス・ロキ」について。鈴木博之さんが地霊と訳しているけれど、場所の神様みたいなもの。そんな簡単な話ではないのだけれど、その場所に言語化し得ないただならぬものを感じた時に使う言葉で、建築意匠をするものは、特にうちの研究室なんかはこの言葉に頼ることが多い。シュルツの『ゲニウス・ロキ』のあとがきで加藤邦男さんが「建築・場所論 ― ゲニウスロキを巡って」という評を書いている。曰く、 ゲニウスの本質的な特徴は、もっとも始原的でありかつ、非人称的であること、そのものとしては固有の名を持たずただ秘密の霊的存在…

  • FacebookとブログとTwitterについて

    タイトルだけ読むと、所謂しょーもない話な匂いがプンプンする。実際そうかもしれないが、遅ればせながらそれらのうまい活用法の議論に参加したいと思うこの頃なのである。 ことの発端はFacebookである。登録は4年前くらいで、卒論の調査でハンガリーに行った際、そこで知り合った人たちに連絡を取り合いたいからFacebookをはじめてくれと言われた。むしろ、それくらい当然やってるでしょ?くらいの勢いであった。ハンガリーはとても活発で、なにかしてやろうという活き活きとした若者がいっぱいいたので、出来れば彼らにキャッチアップしたいなぁという気持ちで、帰国してすぐに登録した。名前は知っていたけれど、mixiの…

  • 120905

    最近は時間に余裕があるので、ぼーっと考えていることが多い。 が、一度寝ると忘れてしまうので折角だからノートしておきたい と、思っていた時に、ブログを書くことは思考を継続するのに有効なのだろうか、ということを何気なく考えてしまったので、一寸やってみることにしたい。 電車の中では『司馬遼太郎全講演[4]』を読んでいる。これは、北海道に行った友達が(逆に)餞別にくれたもの。 講演集の類は、電車に乗っている時間(だいたい片道40分くらい)の間に読みやすい。しかし、早く読み終わってしまうと次の項目に手をつけてしまって、結局家に帰ってからも読み続けてしまう。ので、有効かどうかはまだ微妙だ。ちょっと前までは…

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