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戦国語り https://www.sengoku-story.net/

戦国武将の生涯を年表と逸話で語り尽くす情報サイト

戦国時代に活躍した武将や文化人を名言、逸話、年表で詳しく紹介しています。家紋、鎧兜、刀剣など戦国時代に花開いた日本の文化も解説。

武石明香里
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2012/09/01

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  • 山本勘助 簡易年表

    目次 1 概要2 簡易年表 概要 山本勘助は、武田信玄に仕えた武将で軍事の天才といわれています。三河牛窪の出身で、板垣信方の推挙によって信玄に仕えるようになり、次第に認められて足軽大将五人衆と称されるようになりました。 信玄と上杉謙信が一騎

  • 毛利元就 簡易年表

    目次 1 概要2 簡易年表 概要 毛利元就は、毛利氏の第12代当主で、安芸の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大した戦国大名です。 中国地方の覇者となり「謀神」「謀将」と評されますが、「戦国最高の知将」とも評

  • 北条早雲 簡易年表

    目次 1 概要2 簡易年表 概要 北条早雲は、戦国大名となった小田原北条氏(後北条氏)の祖を築いた武将です。早雲は庵号で、正しくは伊勢盛時といいます。出家して早雲庵宗瑞と名乗りました。伊勢家が北条姓を称したのは嫡男・氏綱からであり、盛時の存

  • 豊臣秀吉 簡易年表

    目次 1 概要2 簡易年表 概要 豊臣秀吉は、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした三英傑の一人です。 織田家の足軽木下弥右衛門の子として誕生したといわれていますが、その出自には諸説あり、はっきりしたことは分かっていません。若い時分よ

  • 徳川家康 簡易年表

    目次 1 概要2 簡易年表 概要 徳川家康は、江戸幕府の初代征夷大将軍で、海道一の弓取りの異名を持つ三英傑の一人です。 岡崎城主・松平広忠の長男として誕生し、幼少時に織田・今川の人質となりますが、桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれると、

  • 種子島時尭 簡易年表

    目次 1 概要2 簡易年表 概要 種子島時尭は、島津氏の家臣で種子島氏の第14代当主です。西村浦に漂着したポルトガル商人から鉄砲二挺を購入し、鍛冶職人に命じて分解して調べさせ、鉄砲製造に成功しました。これに因んで、鉄砲は種子島銃とも呼ばれ、

  • 武田信玄 簡易年表

    目次 1 概要2 簡易年表 概要 武田信玄は、甲斐国の守護大名で、甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主です。 先代の信虎期に国内統一が達成され、信玄も体制を継承して信濃に侵攻を始めます。その過程で越後国の上杉謙信と五次にわたる川中島

  • 伊達政宗 簡易年表

    目次 1 概要2 簡易年表 概要 伊達政宗は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主です。「政宗」の名は、父の輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するた

  • 陶晴賢 簡易年表

    目次 1 概要2 簡易年表 概要 陶晴賢は、周防国の戦国大名・大内氏の重臣です。軍事面に興味を示さない大内義隆と不仲になり、挙兵して義隆を自害させます。 大友宗麟の弟晴英を新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握しました。 晴賢討伐を掲

  • 真田幸村 簡易年表

    目次 1 概要2 簡易年表 概要 真田幸村は、信濃上田城主真田昌幸の次男として生まれました。武田家の家臣であった真田家ですが、武田氏が滅ぶと父昌幸が独立。これにより、幸村は上杉景勝や豊臣秀吉の下での人質生活を余儀なくされます。 関ヶ原の戦い

  • 戦国武将の辞世の句

    戦国武将の辞世の句一覧です。 後世に創作されたものや、辞世ではないけど亡くなる前に残された有名な句なども含まれています。 武将じゃない人もいたりしますが、戦国に生きた方々の最期の華を感じていただけたらと思います。 目次 1 明智光 [&he

  • 人気戦国武将100人の生涯比較

    戦国武将と一口に言っても、その人柄はさまざま。 それは生まれた家や育った環境によって変わっていくのだと思います。 遺伝に由来する持って生まれた性格というものもあるでしょうし。 そこで、人気武将100人を様々な切り口から比較してみま [&he

  • 豊臣秀吉、敵兵をあわれむ

    織田信長の後継者問題で対立していた豊臣秀吉と柴田勝家による賤ケ岳の戦いでのことです。 余呉湖西岸で、佐久間盛政軍と秀吉軍の激闘が繰り広げられました。 両軍の死者は合わせて8千人にものぼり、流れ込んだ血で余呉湖全体が赤く染まるほどだ [&he

  • 敵城にお泊り、伊達政宗

    関ヶ原の戦いの発端となる会津征伐が行われたときのことです。 家康と上杉の戦いがあることを知った伊達政宗は、秀吉に会津を奪われた因縁から家康側につくことにしました。 しかし、開戦が急に決まったため、大阪にいた政宗はわずか50騎ほどで [&he

  • 戦国武将の家紋一覧

    戦国武将の家紋、出身地、生没年が一目でわかる一覧表です。 家紋は基本的に定紋を掲載していますが、当時使用されていた定紋ではなく、一般的に知られている家紋を載せている場合もあります。 図案や名称は、資料によって異なります。 目次 1 [&he

  • 真田幸村という名の武将はいなかった

    真田幸村は大坂の陣で徳川家康を切腹寸前にまで追い詰め、「日本一の兵(つわもの)」として他大名からも高く評価された人物です。 そして江戸時代には、娯楽作品に勇猛果敢な活躍が描かれ、庶民の人気を集めました。 ところが、真田幸村が周りか [&he

  • 豊臣秀吉は「さる」と呼ばれていなかった

    豊臣秀吉が主君織田信長に「猿」と呼ばれて喜々として返事をする姿は、創作物によく登場するおなじみのシーンで、本やテレビで見たという方も多いでしょう。 しかし、信長に秀吉がそう呼ばれたという記録は残っていません。 信長が秀吉の妻ねねに [&he

  • 毛利元就の「三本の矢の教え」は創作だった

    毛利元就の有名な逸話に「三本の矢の教え」があります。 病床に伏していた元就は、死の間際に三人の息子を呼びました。 長男隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景それぞれに一本の矢を渡し、「その矢を折ってみよ」といいました。 三人は難なくそ [&he

  • 上杉謙信は塩を送っていなかった

    「敵に塩を送る」ということわざがあります。 敵対関係にある相手でも苦しんでいるときには助けてあげるという意味で使われますが、上杉謙信の有名な逸話が由来になっています。 1567(永禄10)年、武田信玄が甲斐・相模・駿河の三国で結ば [&he

  • 織田信長が最初に謀反を疑った意外な人物とは

    本能寺で宿泊していた織田信長が、謀反に気付いて最初に名前を挙げたのは意外な人物でした。 明け方午前4時頃に、急にあたりが騒がしくなり目を覚ました信長ですが、信長も小姓衆もこの喧噪を最初は下々の者の喧嘩と思っていました。 しかし、し [&he

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