孤雲將野鶴, 孤雲 野鶴を將る
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草書七言律詩軸夜月
草書七言律詩軸夜月
臨 広川王妃母太妃侯造像記 - 臨書の世界
臨 広川王妃母太妃侯造像記 - 臨書の世界
臨 広川王妃母太妃侯造像記 (1) - 臨書の世界
今日からのシガチェ行き、期待で興奮し過ぎたのか、 或いは、連日の白酒のせいか、 昨夜、息苦しくなり、そのうちに、心臓がドッキンドキンと高鳴り始めた。 横になると動悸が激しくなって横になれない。 結局、一睡も出来ない。 カードの保険内容を見ると、 24時間、医者の手配等をしてくれると書いてある。 真夜中、カウンターまでやっと降りて、 電話をしようとするが、国際電話は出来ない、とのこと。 エレベータは止まっている。 やっと、四階まで辿り着く、 動悸が激しく、暫く廊下でうずこまる。 救急車を呼ぼうかと思ったが、朝まで我慢する。 朝、建飛達が出掛けの忙しい時、 保険会社への電話、昆明に戻る予定切り上げ…
ラサ河の畔に出る。 山に緑がない、川の水は緑色だ。 この辺りからもポタラ宮が望める。 ポタラ宮はまさにラサのシンボルだ。
ラサ博物館、 ここは見応えがある。 チベットの歴史文化が年代順に、丁寧に陳列されている。 岩画に描かれた文字に近い絵。 祭礼で用いられる仮面 美しい仏像に魅せられる。 美しい陶磁器、実に見事だ。 正直言ってこれほどの名品が揃っているとは夢にも思わなかった。
「ノルブリンカ」は宝(ノルブ)の庭(リンカ)という意味である。 代々のダマイ・ラマの離宮だ。 ダライ・ラマ14世もここで生活していた。 当時としては珍しいトイレ付きシャワールームなどがある。 邸内は静かだ。 観光客は殆どいない。 二人連れの白人に会っただけ、音はアヒルの鳴き声だけだ。 6月末から7月はじめのショトン祭には、、 この広場でチベットオペラが開催され世界中から人が集まるのだそうだ。 歌声が聞こえ出した。 何か合唱の様でもある。 歌声が近づいた。 日本で言う「エンヤラヤラ、ドッコイ」、 屋根の補修? 足踏みで壁ならしをしている。 カメラを向けると健康そうな笑顔が返ってきた。
ラサの北方8kmのほどにある。 ガンデン寺、デプン寺とあわせてラサ三大寺院のひとつでもある。 15世紀にジャムヤン・チュジェ・サキャイェーシェーが創建した。 岸壁を背にして規模の大きなお寺、 最盛期には5500人もの僧侶が居たそうだ。 多田等観、河口慧海等も此処で修行した。 お坊さん達の問答修行の場に出っくわした。 若いお坊さん達が手振り足振り、問答を繰り返す。 両手を挙げ「ムニャムニャ、ムニュアムニャ、どうだ!!」 パチン、と掌を打ち据える。 二人ずつ対になってるようだ。 やがて、二人は交代して同じ仕草で問答を始める。
旧市街をゆっくり歩いてへ小昭寺向かう。漢族からは小昭寺と呼ばれるが、 チベット人はラモチェ寺と呼ぶ。 646年頃に吐蕃の文成公主によって建立された。 余談だが、 2008年3月14日のデモの出発点となった。 多くの市民が殺害され多くの僧侶が逮捕されている。 此処も巡礼が一杯。 巡礼達の重要な礼拝ルートの一つのようだ。 チベットの何処のお寺にもあるグルグルと廻すもの、 マニ車というのだそうだ。 廻してみると意外にずっしりと重い。 巡礼達は小型マニ車のを手にしてグルグル廻しながらバルコルを一周する。 彼等はマニ車を左回りに廻し、左回りにバルコルを廻るのだ。
もう一度ポタラ宮を遠望して広場に戻る。 このジョガンの周囲がバルコル(八角街)と言って、 ラサの旧市街なのだ。
釈迦牟尼の堂内は凄い混雑だ。 釈迦像に頭を擦り付け念仏を唱える。 チベットは勿論、中国各地からの信者がこの釈迦像をお参りに来る。 一人一人それをやるから大変だ。 長い行列は想像を絶する。 やがて、若いお坊さんが交通整理を始める。 一人一人の頭を像の胸元にあてがい、ポンと肩を叩く。 「ハイ!終わり!」 お坊さんに急かされ不満そうな顔もある。 このお祈りの為に何日も掛けてやって来たのかも知れない。 残念ながら撮影禁止でこれらの光景は紹介できない。 外観はこんなだ。 三階からのポタラを望む。 眼下には広場が広がる。
7世紀後半の吐蕃時代の古寺だ。 当時強大だった吐蕃王国は唐に婚姻を迫り、唐の皇女をむかい入れた。 ジョガンの本尊「釈迦牟尼像」は、 皇女文成公主が641年にチベット王ソンツァン・ガンポに嫁ぐ際に持参してきた、とされる。 早朝からジョガン前の広場には祈りを捧げる人々が屯す。 門前で例のチベット流の礼拝、五体投地、をする人々。 みな真摯に祈る。 あたりに敬虔な雰囲気が立ち込める。
ラサの西北12km、車で一寸の距離。 ポタラ宮の前まで此処が政教の中心だった。 広大な境内の中央にある大集会堂の前まで車で入り込む。 最盛期には10000人の僧侶でにぎあったという。 お堂の中、 おびただしい四角の長い木柱がそそり立つ。 一尺程の太さ、183本あるそうだ。 柱の先の方が細くなっている。 残念ながら、 ラサのどのお寺もそうだが寺院内は撮影禁止。 夜、例によって白酒でまず乾杯。 チベットでは鶏肉を食べる習慣は少ないらしく、 豚肉、羊肉、ヤク肉が主食に近い。 肉が食べられない私には食べるものが少ない。 肉さへ食べられればチベットの隅々まで彷徨でき、 野垂れ死にするも無いのだが、 悔し…
ポタラ宮を詣でる老若男女、チベット全土から集まってくるのだろう。 屋上からのラサ、 四方に山が迫る。 さて、下図は何か判るだろうか。 これがポタラ宮の大小のトイレだ。 これに耐えられる日本人は何人居るだろうか。 ポタラ宮前の広場に下り立つ。 今は10月も終わりに近い。 夏場の最盛期にはこの広場が人々で埋め尽くされるのだそうだ。 ポタラ宮への入場も一日1000人に制限される。 早朝から入場券を買う人の列が出来るそうだ。 当然ながら、此処は世界文化遺産。
いわずと知れたラサの象徴だ。 東西360m、南北300m、高さが115mの宮殿。 その威容がラサを睥睨している。 建設は7世紀に始まったが、 1600年代、ダライ・ラマ5世の権力化でほぼ完成したとのことだ。 1969年、ダライ・ラマ14世が亡命するまでの300年間、 チベットの政教の中心だった。 部屋数は1000を越えるが見学コースは決められている。 建飛の友人、彼等と同郷のモソ人、がポタラ宮にコネが深いらしい。 裏門のような所からポタラの階段を登る。 標高3650mを思い知らされる。 ポタラの頂上は3765m、ほぼ富士山と同じだ。 何回も深呼吸しながら、一番後から付いて行く。 10段も登ると…
広場はチベット人たちで賑あっている。 人並みが出てくる方向へ進む。 殆どの人が逆の方向へ進んでいる、左周りだ。 お参りしている人達の様だ。 皆、手に手に、何と言うものなのだろう、ぐるぐると回しながら、 ブツブツと念仏を唱えながら一心に歩く。 泥まみれの衣服を纏った人が多い、地方からの参拝者なのだろう。 人並みに逆らって進むと、さっきの広場に出た。 広場の正面にお寺がある。 これがジョガン(大昭寺)だったのだ。 ジョガンの周囲をぐるりと一周したことになる。 彼等、チベット人たちの参拝の方法なのだろう。 夜、またまた白酒の乾杯が続く。
緑色の河が流れる。 その河が幾筋にも別れ、また一緒になって河原がだんだん広くなる。 周囲の山には木というものが見られない。 砂と岩の山々から流れ出す土砂が堆積して出来た盆地がラサ、と思う。 ラサの街は想像してたよりも大きい。 ポタラ宮の前を通る。 威容を高々と誇っている。 白酒で改めて乾杯だ。 窓から眺めるラサは必ず山が視界に入る。 夕方、散歩に出る。 ポタラの方向へ歩いてつもりが反対へ来てしまった。 最近、方向感覚が鈍ってきた。 方向感だけは人並み以上と誇っていたのに・・ 大きな広場に出た。
いよいよラサへ向かって飛び立つ。 やがて、昨日の梅里雪山(だろうと思う)が見えてくる。 その向こうにこの世を隔てるように、 厳しくそそり立つ雪山の絶壁、 そんな雪山の間間に川があり道がある。 こんなところにも生活が有るのだ。 雲海の上に岩石を置き並べたように、 ニョキニョキと雪山の突端が飛び出す。 そんな風景を眺めているうちに、 飛行機は山と山の間を滑るように降下する。 ラサ空港だ。 建飛の彼が笑顔で出迎える。 建飛から大きな赤いバラの花束を手渡された建蔚が照れいる。
夕方、建蔚と連絡が取れた。 もう7年来の朋友だ。 今回、彼女が家族とラサへ行くと聞き、便乗させて貰う事になったのだ。 彼女、彼女の母上、父上、伯父さん、彼女の恋人の父上が一同に会す。 モソ人は中国の四川省と雲南省の境にある瀘沽湖の辺りに住む少数民族だ。 世界最後の母系社会を保っていることで知られている。 「走婚」と呼ばれる通い婚の習慣がいまでも続けられている。 建蔚とは毎年の様に有ってるが、その度に、 「来年結婚します」 と聞かされてきた。 ご両家のご家族がこうしてお揃いのところを見ると本決まりらしい。 彼女の彼はラサで旅行会社を営んでいる。
美味しいと聞いている此処の地酒が飲みたくて市場を覗く。 奇妙な格好をしているのはバター?チーズ? 縦に並ぶ白い筒のような物はバターを作る道具だそうだ。 果物、野菜、惣菜は並んでいるが、地酒のビンが見付からない。 万屋のような店のお爺さんに聞いてみた。 「地酒は何処で売ってるの?」 お爺さんが顎で指したのが写真の樽?だ。 柄杓で並々とポリビンに注いで呉れた。 これが美味しくて、また、追加に来た。
夢留雪山、白茫雪山、 バスは険しい山河を越え、香格里拉に近づく。 この盆地に出た昔の旅人達が安堵で胸を撫で下ろす、 そんな気持ちが伝わってくるゆったりと静かに広がる盆地、 将に桃源郷だ。
翌早朝、 自分でも「よくまあ!」と感心するくらいにくっきりと目が覚める。 人間の欲望とは不思議なものだ。 やっと、電話のある場所を探し電話するが返事がない。 何回か電話したが駄目だ、彼の運ちゃん、眠り込んでいるらしい。 諦めて、タクシーを捜すがタクシーらしきものは見当たらない。 大きなホテルへ飛び込み、タクシーを頼む。 「OK、直ぐ来る」 待てど暮らせどタクシーは来ない。 次第に明るくなってくる。 梅里雪山のあたりには雲が掛かってるようだ。 バスの出発時刻も迫ってきた。 「多分、この雲では梅里雪山は見えないだろう」 と自分に言い聞かせてバスの乗り込む。 ところが、 昨日向かったバス道の向こうに…
徳欽の街は谷間にあり、梅里雪山は全く見えない。 夕方の梅里雪山が見たい。 さっき来た道を5,6kmも戻れば梅里雪山が良く見える場所がある。 タクシーは、さっき来た道を更に前へ進む。 眼前に梅里雪山が全貌を現わす。 飛来寺、此処が梅里雪山を眺める絶好の場所なのだ。 小さな街の佇まいすらする。 残念ながら逆光で雲も多い。 運ちゃんと交渉する。 「明日の朝、日の出の頃の梅里雪山を見たいがどうだ?」 「OK、朝、電話してくれ」 「いや、宿の前まで来てくれ」 「いや、電話してくれ」 と名詞を渡される。
梅里雪山が秀麗な姿を現す。 標高6740m、 雲南省の最高峰だ。 男性的な白茫雪山に比して女性的、 私にはそう感じる。 女神、穏やかに辺りの山々を労わり配している。 華麗だ。 これで目的は達した。 谷底にへばりつく様な徳欽の町に入る。 さて、宿はどうするか。 バスの休憩の時に一言二言話した学生風の女の子が、 「宿を探してるの? 私が案内してあげる」 と先に立った。 「旅行?」 「いえ、帰省です」 小奇麗な宿に案内される。 穏やかなママさんは気に入った。 学生風の女の子は、 「私の家は此処から45kあります、タクシーの値段交渉が仲々纏まらないの」 と言って帰って行った。 此処から更に45kとは想…
峠の向こうから白茫雪山がニョキニョキと姿を現す。 驚いた事に、 この辺りで野宿をした友人がいる。 しかも、昆明から此処まで自転車を漕いで来た。 当時はもう少し雪が有って、 手前の谷間を雪を踏んで登ったらしい。 簡易テントの中で夜を明かしたが、 前夜汲んだ深さ25cmの皮バケツの水が、 翌朝、25cm厚さの氷塊に化していたそうだ。 世の中には想像を超える人が居るもんだ。 天に向かい今にも大蟹が両鋏を広げようと構えた様相だ。 豪快極まる。 標高5137m。
長江の上流辺りで休憩 雪山が見え隠れしだす。 忽然と左側に飛び込んできたのは夢留雪山(?)。
8時半出発。 一番前の席に陣取る。 次々に変化する景色に堪能だ。 日光の七曲がり?のように大きくループを描いて登り降りるのだが、 1kも行ってくるりと廻ってまた1k、スケールが違う。 そんな繰り返しをして標高を詰める。 と思うと、遥かに見える谷底の街へ降りてゆく。 目的地は彼の稜線の更に向こうだ。 香格里拉では見かけなかった小川が見え隠れしだした。 その小川が次第に大きくなり、一つの切通しを抜けると、 結構な川幅が眼前に広がる。 これが長江の上流と知ったのは後のことだ。 この辺りで休憩。
この三日間、どうする? 咄嗟に梅里雪山を思い出す。 かねてから、見たい見たい念願していた梅里雪山が目の前にある。 と言っても、バスで6時間の道行、どうしたものか? 兎も角、バス駅まで行って切符だけは確保する。 明朝の体調で決めよう! 香格里拉の街の様相も変わりつつある。 誇りっぽさは相変わらずだ。 この前来た時にはまだ飛行場が無かった。 付近の火鍋を突付く。 余りに巨大な鍋なので半分にしてもらう。 茸鍋、これが抜群だった。 いろんな種類の茸を一つ一つ見せてくれる。
香格里拉(シャンガリラ)、名前が良い。 理想郷、桃源郷、そんなイメージがある。 中甸から名前を変えたはなん年前か。 標高3288m。 広々とした空港、自分の影の長さに驚く。 一組の白人のツアー客、いかにもチベット人らしい客、 彼等のあとから最後にチェックイン。 ところが、係員が首を横に振る。 外国人証明書が無いとチェックイン出来ないのだ。 次のラサ便は三日後、かくして、三日間香格里拉に拘留?の身となる。
最近、子猫の姿をめっきり見なくなった。 以前はあちこちでピョンピョン跳ねたりじゃれ合ったりしていたのに・・ 久し振りに見付けた子猫、怯えている。
その「爨宝子碑」の実物が見たくなった。「爨宝子碑」は、昆明から西北へ150km程の曲靖に有る。曲靖は雲貴高原の中部に位置し、古来、中国中央部から雲南への陸路の要所である。孔明の南征以来、唐代の初めに至るまでの約五百年間、雲南の政治、経済、文化の中心地であった。三国志で有名な、「孔明七回孟獲を捕らえる」の舞台でもある。汽車でも行けるが、羅平で懲りているので、バスを利用する。中国の急発展を象徴するかのような広い広い道路、2時間ほどで曲靖着。それからが大変だ。確か中国の国宝?である筈なのに、「爨宝子碑」と尋ねても殆ど返事らしい返事が返ってこない。曲靖中学の中にある、と聞いていたが、その曲靖中学も第一…
昆明の、殆ど、ど真中に、東寺塔と西寺塔が有る。近年、近日公園として大整備中の一角,京都の東寺との係わり合いはなさそうだ。こちらの東寺塔は南詔国時代(824-874)の建立された石の塔だが、清時代に地震で崩壊し再建された、40m余りの高さだ。東寺塔と西寺塔が500m程の間で向かい合っている。その間に有った古い町並みが撤去され、整備が進み観光名所になりつつある。通りには等身大の人物の彫刻が点在する。 夜間などでは、さぞかし、ドキッとするであろう程写実的だ。数えてみたら東寺塔は13層になっている、西塔も13層だが一回り小型だ。中国ではあちらこちらに石塔が多い、印象に残っているのは、西安の大雁塔、岳陽…
日が沈むと、二人の小母さんがナシ族の唄を歌いだした。 星空に哀調のある調べが響き渡る、コブシに特徴が有り、何処か日本の民謡に通じるところがある。元気のある調べに変わった、私を歓迎する唄だそうだ。お返しに、私が佐渡おけさを歌うと、皆が、「ナシ族の唄に似ている」としきりに頷く。 翌朝、宿で目覚めて、前夜のあれからの記憶が無い。どの様に帰ってきたのか頬を捻る。昆明に帰る前夜、邵宅へのご招待だ。邵は、前回、一宿一飯のお世話になった邵の奥さんの実家の近くに新しく一軒を構えた。新婚の二人がいそいそと料理を作る。新婚家庭の雰囲気にジェンウエイが目を細め口をそぼめる。「私もこんな家に住みたいな....」そんな…
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草書七言律詩軸夜月
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今日からのシガチェ行き、期待で興奮し過ぎたのか、 或いは、連日の白酒のせいか、 昨夜、息苦しくなり、そのうちに、心臓がドッキンドキンと高鳴り始めた。 横になると動悸が激しくなって横になれない。 結局、一睡も出来ない。 カードの保険内容を見ると、 24時間、医者の手配等をしてくれると書いてある。 真夜中、カウンターまでやっと降りて、 電話をしようとするが、国際電話は出来ない、とのこと。 エレベータは止まっている。 やっと、四階まで辿り着く、 動悸が激しく、暫く廊下でうずこまる。 救急車を呼ぼうかと思ったが、朝まで我慢する。 朝、建飛達が出掛けの忙しい時、 保険会社への電話、昆明に戻る予定切り上げ…
ラサ河の畔に出る。 山に緑がない、川の水は緑色だ。 この辺りからもポタラ宮が望める。 ポタラ宮はまさにラサのシンボルだ。
ラサ博物館、 ここは見応えがある。 チベットの歴史文化が年代順に、丁寧に陳列されている。 岩画に描かれた文字に近い絵。 祭礼で用いられる仮面 美しい仏像に魅せられる。 美しい陶磁器、実に見事だ。 正直言ってこれほどの名品が揃っているとは夢にも思わなかった。
「ノルブリンカ」は宝(ノルブ)の庭(リンカ)という意味である。 代々のダマイ・ラマの離宮だ。 ダライ・ラマ14世もここで生活していた。 当時としては珍しいトイレ付きシャワールームなどがある。 邸内は静かだ。 観光客は殆どいない。 二人連れの白人に会っただけ、音はアヒルの鳴き声だけだ。 6月末から7月はじめのショトン祭には、、 この広場でチベットオペラが開催され世界中から人が集まるのだそうだ。 歌声が聞こえ出した。 何か合唱の様でもある。 歌声が近づいた。 日本で言う「エンヤラヤラ、ドッコイ」、 屋根の補修? 足踏みで壁ならしをしている。 カメラを向けると健康そうな笑顔が返ってきた。
ラサの北方8kmのほどにある。 ガンデン寺、デプン寺とあわせてラサ三大寺院のひとつでもある。 15世紀にジャムヤン・チュジェ・サキャイェーシェーが創建した。 岸壁を背にして規模の大きなお寺、 最盛期には5500人もの僧侶が居たそうだ。 多田等観、河口慧海等も此処で修行した。 お坊さん達の問答修行の場に出っくわした。 若いお坊さん達が手振り足振り、問答を繰り返す。 両手を挙げ「ムニャムニャ、ムニュアムニャ、どうだ!!」 パチン、と掌を打ち据える。 二人ずつ対になってるようだ。 やがて、二人は交代して同じ仕草で問答を始める。
旧市街をゆっくり歩いてへ小昭寺向かう。漢族からは小昭寺と呼ばれるが、 チベット人はラモチェ寺と呼ぶ。 646年頃に吐蕃の文成公主によって建立された。 余談だが、 2008年3月14日のデモの出発点となった。 多くの市民が殺害され多くの僧侶が逮捕されている。 此処も巡礼が一杯。 巡礼達の重要な礼拝ルートの一つのようだ。 チベットの何処のお寺にもあるグルグルと廻すもの、 マニ車というのだそうだ。 廻してみると意外にずっしりと重い。 巡礼達は小型マニ車のを手にしてグルグル廻しながらバルコルを一周する。 彼等はマニ車を左回りに廻し、左回りにバルコルを廻るのだ。
もう一度ポタラ宮を遠望して広場に戻る。 このジョガンの周囲がバルコル(八角街)と言って、 ラサの旧市街なのだ。
釈迦牟尼の堂内は凄い混雑だ。 釈迦像に頭を擦り付け念仏を唱える。 チベットは勿論、中国各地からの信者がこの釈迦像をお参りに来る。 一人一人それをやるから大変だ。 長い行列は想像を絶する。 やがて、若いお坊さんが交通整理を始める。 一人一人の頭を像の胸元にあてがい、ポンと肩を叩く。 「ハイ!終わり!」 お坊さんに急かされ不満そうな顔もある。 このお祈りの為に何日も掛けてやって来たのかも知れない。 残念ながら撮影禁止でこれらの光景は紹介できない。 外観はこんなだ。 三階からのポタラを望む。 眼下には広場が広がる。
7世紀後半の吐蕃時代の古寺だ。 当時強大だった吐蕃王国は唐に婚姻を迫り、唐の皇女をむかい入れた。 ジョガンの本尊「釈迦牟尼像」は、 皇女文成公主が641年にチベット王ソンツァン・ガンポに嫁ぐ際に持参してきた、とされる。 早朝からジョガン前の広場には祈りを捧げる人々が屯す。 門前で例のチベット流の礼拝、五体投地、をする人々。 みな真摯に祈る。 あたりに敬虔な雰囲気が立ち込める。
ラサの西北12km、車で一寸の距離。 ポタラ宮の前まで此処が政教の中心だった。 広大な境内の中央にある大集会堂の前まで車で入り込む。 最盛期には10000人の僧侶でにぎあったという。 お堂の中、 おびただしい四角の長い木柱がそそり立つ。 一尺程の太さ、183本あるそうだ。 柱の先の方が細くなっている。 残念ながら、 ラサのどのお寺もそうだが寺院内は撮影禁止。 夜、例によって白酒でまず乾杯。 チベットでは鶏肉を食べる習慣は少ないらしく、 豚肉、羊肉、ヤク肉が主食に近い。 肉が食べられない私には食べるものが少ない。 肉さへ食べられればチベットの隅々まで彷徨でき、 野垂れ死にするも無いのだが、 悔し…
ポタラ宮を詣でる老若男女、チベット全土から集まってくるのだろう。 屋上からのラサ、 四方に山が迫る。 さて、下図は何か判るだろうか。 これがポタラ宮の大小のトイレだ。 これに耐えられる日本人は何人居るだろうか。 ポタラ宮前の広場に下り立つ。 今は10月も終わりに近い。 夏場の最盛期にはこの広場が人々で埋め尽くされるのだそうだ。 ポタラ宮への入場も一日1000人に制限される。 早朝から入場券を買う人の列が出来るそうだ。 当然ながら、此処は世界文化遺産。
いわずと知れたラサの象徴だ。 東西360m、南北300m、高さが115mの宮殿。 その威容がラサを睥睨している。 建設は7世紀に始まったが、 1600年代、ダライ・ラマ5世の権力化でほぼ完成したとのことだ。 1969年、ダライ・ラマ14世が亡命するまでの300年間、 チベットの政教の中心だった。 部屋数は1000を越えるが見学コースは決められている。 建飛の友人、彼等と同郷のモソ人、がポタラ宮にコネが深いらしい。 裏門のような所からポタラの階段を登る。 標高3650mを思い知らされる。 ポタラの頂上は3765m、ほぼ富士山と同じだ。 何回も深呼吸しながら、一番後から付いて行く。 10段も登ると…
広場はチベット人たちで賑あっている。 人並みが出てくる方向へ進む。 殆どの人が逆の方向へ進んでいる、左周りだ。 お参りしている人達の様だ。 皆、手に手に、何と言うものなのだろう、ぐるぐると回しながら、 ブツブツと念仏を唱えながら一心に歩く。 泥まみれの衣服を纏った人が多い、地方からの参拝者なのだろう。 人並みに逆らって進むと、さっきの広場に出た。 広場の正面にお寺がある。 これがジョガン(大昭寺)だったのだ。 ジョガンの周囲をぐるりと一周したことになる。 彼等、チベット人たちの参拝の方法なのだろう。 夜、またまた白酒の乾杯が続く。
緑色の河が流れる。 その河が幾筋にも別れ、また一緒になって河原がだんだん広くなる。 周囲の山には木というものが見られない。 砂と岩の山々から流れ出す土砂が堆積して出来た盆地がラサ、と思う。 ラサの街は想像してたよりも大きい。 ポタラ宮の前を通る。 威容を高々と誇っている。 白酒で改めて乾杯だ。 窓から眺めるラサは必ず山が視界に入る。 夕方、散歩に出る。 ポタラの方向へ歩いてつもりが反対へ来てしまった。 最近、方向感覚が鈍ってきた。 方向感だけは人並み以上と誇っていたのに・・ 大きな広場に出た。