住所
牧之原市
出身
小田原市
ハンドル名
大澤寺さん
ブログタイトル
墓場放浪記
ブログURL
https://www.daitakuji.jp/
ブログ紹介文
相州小田原生、遠州高天神近住(相良)、戦国時代を中心に雑感を記すブログと寺のサイト
自由文
浄土真宗はかつて「一向宗」とも呼ばれた本願寺の宗徒で信長に11年も反抗し、その中でご先祖が生きながらえたことによって今があります。 興味の方向は「城郭と墓」です。「城郭」は建物が無いもの、墓は鎌倉期から室町期の宝篋印塔や五輪塔に思いが傾きます。近隣高天神城はじめ遠州を中心に、生まれ育った小田原界隈、当家先祖の出身地近江そして関西方面の歴史について記したいと思っています。
更新頻度(1年)

25回 / 2514日(平均0.1回/週)

ブログ村参加:2012/04/01

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大澤寺さんのブログ記事

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  • 急がば廻れ 阿対石仏に会いに行く 

    今年はあの面倒な改元という行事がありますね。 まぁ政府が勝手に決めて勝手にご披露ということになるのですが、基本は数人の中国文学者にブン投げて抽出させたものを適当に選ぶという段取りでしょうね。 大概はここ何回かの元号に使用された文字は使用されませんので慶應・明治・大正・昭和・平成に使用された文字がないことは確定的。 私にもその文字を適当に選ばせていただくとすれば・・・「永禄・元亀・天正」から一字をあてずっぽう選択。 これは奥の墓道氏との寿司勝負にもいたします。 先日、「平成」に改元が決定した際に中国文学者の目賀田氏という先生に依頼したものですが抽出された元号案が表に出てしまいましたね。 「靖和」「天昌」「修文」「普徳」「恭明」「敬治」「大成」「和平」など計約20案だそうです。 重複文字を避ける慣例からすると「靖和」「天昌」「修文」「普徳」が近いかも。「安」や「康」も世の平穏をこじつけるには絶妙の字ですからそろそろ使用されるかも知れません。 さて、奈良市内の殺人的混雑を一瞬でも体感すれば、「次はここは通りたくない」と思うのが人情というもの。 ということで京都や大津方向に戻るとなれば山中林道系のショートカットの選択となりますね。 短絡的という言葉がありますが、まさにそれは.「短絡」は.。 電気信号でいえば「ショート」というくらい。やはりリスクを伴うのでしょうね。 以前息子の運転で京都から奈良方面に向かった際、円成寺(または)帰りに「さあどうする」となりました。奈良市内に戻るというのがオーソドックスなコースではありますが、あの時は違いました。 以前息子とも行った笠置山(またはこちら こちら)を経てそちらからさらに甲賀山中を通って大津に向かおうという安直な考えを思い浮かんだのでした。 結論から言って何しろ奈良-京都のショートカットなどあまり考えない方がイイかも(フツーの方は)。 その理由は道があるかどうかは「行ってみなくてはわからない」から。突如として通行止めのゲートが現れるということです。 あの時は柳生から笠置に出るまで2ヵ所が通行止め。 プランCによってなんとか笠置まで出ることができました。 それもほとんど偶然の幸運だけ。 息子の運転ですから私は助手席で好きな事を言っているダケでしたがさすがに一人では飽きるくらいの山中孤独ですね。 画像は柳生街道の阿弥陀さんの石仏(阿対~あたや~の石仏)。 途中そちらに寄り道する予定で

  • その名はいろいろあるが 転害門 「景清」の名も

    「天涯孤独」なる言葉があります。 以前はちょっぴりカッコいいかも・・・(木枯し紋次郎・・・座頭市・・・一匹狼)という意で使用されていたフシがありますが現在に至ってはどうもイケません。 毎度、人生に於けるコロコロ(仏の掌の上で一喜一憂・・・)についてはバカボンのパパの口癖の通り「これでいいのだ」の合点しかないことは理解しているものの、その人生終末に於ける孤独というものにはその辛さの感覚を禁じえません。 「天涯」は「遠く辺鄙な地」という意。 そこにあって尚「身寄りがない」という状況となります。 高齢にいたるうちに伴侶とも死別、子は自らの生活を営み家を出たのちいよいよ体の不調は進んで思うような生活が送れなくなり生活自体が単調、話し相手も不在ということですね。 「人間」とは「人の間」と記すように、その「関係」が主体。 それが無くなるということは人であるのが難しいということかも知れません。 「子が外にいる」というのでしたらまだまだ幸福。 単身のみで老後を暮らさなくてはならない方は多くいらっしゃいますね。 昨日辺りまで記していましたがかつて賭け事と借金によって子供らに愛想をつかれてしまった年配者もいらっしゃいました。 問題点は多様で一概に「解決できる」とは言い難いところがあります。 孤独という語そのものもそうですが、「孤独死」という語も寂しくやるせない現代社会を映し出しています。 さて、東大寺の「転害門」。東大寺の旧境内とありますね。 現在の大仏殿付近の強烈な混雑から離れようと松永弾正の多聞城からの風景を楽しんだのち、あの若草中学校に入る道に戻って東に進めばT字路に当たりますがそちらが「転害門」(場所はこちら)。 東大寺の紹介では「平重衡の兵火(1180)、三好・松永の戦い(1567)の2回の戦火にも焼け残った」「天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構である。鎌倉時代の修理で改変されているが、基本的には奈良時代の建物である。」 上記天涯孤独の「天涯」とはまったく違いますし、読みは「てがいもん」です。 「てがい」には各あて字があって伝承されていますが、私が個人的に好みの名といえば「てがい」ではなく「景清門」の方。 歌舞伎一八番の「景清」はじめ敵役の謎のヒーローとしてド派手なパフォーマンスに六方の花道は圧巻です。 「悪七兵衛」なる別名も憧れますね。 「悪」の冠はヒーローなのです。 ちなみにこの「悪」とは今言うコソ泥、か

  • 1度カモられると2度目目もある 原野商法part2

    以前「押し売り」ならぬ「押し買い」という年寄りから貴金属等を言葉巧みに二束三文で買いたたくという輩が横行していた件、了解していますが、年配者ばかり集めての催眠商法など当地でも枚挙にいとまがありません。昨日のつづき世に蔓延する「銭の病」です。 最近また耳に懐かしいと思った言葉がお年寄をカモにしようと暗躍しているようです。 そのようにカモがネギを背負ってやってくるようなうまい話はある筈もなく、結局はカモはそのお年寄りだったというオチですね。 これが「原野商法part2」。 原野商法はお馴染みバブル期に流行った不動産投資ですが、投資というくらいでいから購入者は将来の見返りを期待してハンコを捺くわけですね。売り手の口上としては「将来値上がり確実」です。 実はその土地は家も建てられないような土地(原野)で現在の処分価格としても当時購入した金額の1/10程度というのがまたぞろのよう。 騙されたとはいえ、そういった「負の遺産」はできれば自分の代で処分し、子供達には残したくないもの。若き時の失敗とはいえ、厳然と我が遺産として残り続けますからね。 その「原野商法part2」はそういった原野商法の一次被害者をターゲットとしているからですね。 所有者のリストが出回っていて日頃そのお荷物と考えている土地について「高く買い取ります」という(ありえない)「ムシのいい話」が再び蒸し返され、再び騙されてしまうというのがそれですね。 やはり「殆ど詐欺」ですので買い取り仲介をするために「これが必要です」と色々な項目で手数料、印紙代だのを徴収し挙句他の原野まで売買契約させたり、現在の持ち家の売却手続きまでさせてしまうというもの。 どこかでその無茶苦茶に気が付いて「おカネを返して」となったとしても会社は架空で責任者ナシ・・・が判明する程度ですね。 オレオレ詐欺なども1度詐欺にあうとまた引っかけやすいという傾向があるのでしょう、度々狙われると聞きます。 結局はちょっとした投資心から老後資金から住宅まですべてを失うという皮肉に陥るのですが、「銭の病」おそるべし。 以前も記しましたがその手の「うまい話」は1本の電話からですね。 年配の方々は昔からの自宅電話番号にこだわる傾向がありますが、携帯電話全盛の時代、有線電話をなくすことはコストカットにも繋がりますね。 私も自宅にいて「0120と0800」の発信先は放置していますが、最近はそういった電話番号ではない何か

  • IRはちょっとねぇ 「近日 天下上下病悩 號之銭病」

    齢を重ねて面倒と思うのがおカネの管理。 最近は大抵の買い物は奥方同伴のため、決済行動はすべておまかせになっています。 要は「会計」は私の関わるところなし。まったく小銭もその入れ物も持ち歩かなくなってしまいました。 計算もできなくなりそうで恐ろしいものがありますが、釣銭をもらい小銭を触ったりするストレスがなくなってありがたいのがコンビニのスマホ決済。 携帯電話にカードの1枚もあればちょいとした旅行など不自由はなくなってしまいました。 ちなみに小銭=金属=不特定多数が触れるもの・・・は結構に汚い。今時、特にインフルエンザのウィルスなどは金属などつるつるしたものに付着した場合の生存率は服などより断然高いといいます。 さて、表記はいわゆる「銭の病」の記述です。 平清盛の宋銭規範の貨幣経済推進の件、同時進行的に平家一門が当時の富と権威を牛耳った時代でした。 平家以外の誰もがその一門の横暴ぶりに後ろ指を指し、たまたま病で倒れた平家一門の者(清盛が藤家に送り込んだ娘の平盛子・・)などにその病で亡くなったという噂が飛び交ったといいます。 「銭の病」が一体何を指すのかは未確定ですが、特定の病だとしたら天然痘の類・・・だったり金銭欲ボケ金満風潮の荒んだ世間を比喩したものか色々です。 考えてみれば、今風、若者があらゆる思索を練って老人からオレオレ詐欺を働いたり、人様の金員を掠め取ったり、横領したり・・・平氏時代の如く通貨というものがデビューしたての頃とは違いますが、大いにその「銭の病」は蔓延していますね。 寺に居てもそんな大層な「銭」の話の件ではないですが、ちょっとした近所、親類、顔見知り間での貸し借りが禍根に広がっている例を散見いたします。 特定の人物の中傷を含みますが別にお寺にその手のお話をされても困るといえば困ります。 しかしまずそんな場合、「そういえば・・・なるほど・・・」というところが少なからずあるのも事実。 まずはその手の方はお寺への参拝が疎くなるということで合点してしまいます。 「ちょっとおカネ貸してょ」はパチンコ等の賭博系に「ドはまり」になっていまい、生活費が回らなくなってしまうというのが大概の例。 中には、(借金無心が)「今そっちに行ったので気を付けろ」なる連絡網ができてしまうエリアもあるようです。 人間関係もギクシャクすること必定ですね。 私は年がら年中奥方に「おカネちょうだい」ですが。 また牧之原の上にIR誘致の

  • 法然(源空)さんの幼名は勢至丸 知恩教院

    昨日は若いアスリートの病気についてのニュースが全国を駆け巡りました。 たまたま有名人ということでショッキングに取られた方も多いこととは思いますがこの仕事をしていて何ら珍しいという病ではありません。 あらためて私たちが皆仏の掌の上でコロコロと七転八倒右往左往している姿を思いました。 その病にはタイプがあって詳細はわかりませんがとにかく大変な病。今の状況は本人が一番その苦しみを感じているはずです。よき理解者たる周囲は決して「頑張って」の声かけがタブーであることを。 当人はそんなことは当たり前のこと。当人は十二分に頑張ることはわかり切っているのですが、思うようにならない・・・そんな病気です。 「のんびり、ゆっくりでいい」でしょう。 何よりあの病は「若さと元気」に比例して成長するものですから。 若いころ、致命的衝撃的な事件に巻き込まれ、またその事件を克服して大成した仏教家といえば法然さんですね。 以前知恩院のてっぺんにある御廟を記し画像もアップしていました。特に「一枚起請文」の内容は我ら真宗門徒にも当然に染み入ってきます。 とにかく若き人の病は応援したくなりますね。 遠い場所からそっとその克服の報を待つとしましょう。 さて知恩院は今ですら大規模寺院の威容を誇っていますが当初はこちらてっぺんしょ周辺、勢至堂と御廟辺りが始まりと聞きます。 勿論グングンとその宗派の勢い含めて伽藍に寺域を伸ばすことができたのは家康の意向ですね。 浄土宗は「月影杏葉」(つきかげぎょよう)なる宗紋(御廟の⑨画像にあり)ですがそれに+して葵御紋がやたらと目立ちます。 特に知恩院は葵紋とは切っても切り離せないのですね。 ちなみにその紋は法然さんの出自、漆間家の紋とのこと。 当流真宗本廟(東本願寺)はその家康との関係性についてあまり目立たせないところも特異です。 知恩院同様、家康のおかげで寺領回復したことは間違いないのですが。 勢至堂は法然さんの幼名を 勢至丸と呼ばれていましたがその勢至菩薩を本尊とするお堂です。 阿弥陀三尊の脇の仏ですね。このお堂が「知恩教院」のはじめ(知恩院最古の建物)ということです。

  • 法名釋観月大村新左衛門 男神の筆塚

    京都の息子から始まった当家のインフル禍のドタバタ劇に横浜の「奥の墓道」氏が挑戦状を叩きつけてきました。 「オレは今春インフルエンザを患わない」です。 もし違ったら「寿司」を振舞うと。 なお恒例の「鰻重」は時として重たく感じられるようになった昨今、健康志向に傾いているということです。希少生物ですし。 まぁ来週以降温かくなりそうで適当に雨の予報もありますので環境としては収束の方向でしょうが。 しかしこうなったら彼には一度経験していただきたい。 ゾフルーザにする?リレンザにする? さて、学問と言えば「筆」というのが昔からお決まりですが、いつしかそのグッズは鉛筆-シャープペン-ワープロという具合に定位置を失っていきました。 今は「ペーパーレス」を重点に置く自治体や企業も増えつつあって「書いて残す」というこれまでの文書の形は消えようとしています。 以前京都蘆山寺の池田遙邨の筆塚について記しました。彼は絵描きでしたが筆塚を建立する意図はその自身の表現の立役者であり最良の相棒への愛着と深い感謝の気持ち以外の何物でもないですね。 蘆山寺は紫式部という日本文学の最高峰にいらっしゃる方の邸宅跡というのが通説でその手の類の碑があることに何らの違和感はありませんね。 文学はもとより文化の中心地である京都にあってもしかりです。 その「筆塚」が相良の男神にありますが本来あった場所ではなかったということからいっそのこと相良庁舎に移設したら・・・などという話が史跡研究会でありました。せっかくの筆塚が相良でもかなり奥まった薄暗い杜の中で、覆堂もないまま今後劣化摩滅するのが惜しいということでした。 長谷川さんによれば地元でしっかり管理しているよう。こちらでちゃちゃを入れることはおこがましいことだと思い、静観することとしました。 筆塚の詳細については河原崎次郎氏の記述が広報さがらのふるさと人物誌にあります。 天明の銘のある水盤もなかなか立派でこちらも大切にしていただきたいものです。 しかし当家の過去帳は汚いし字も・・・そして情報量が少なすぎ。 血は争えないということ?

  • なんでインフルエンザって流行するの?   独自解説

    しかしゾフルーザなる新薬のおかげなのでしょうが私の場合このインフルエンザなる病は普通の「うっかり感冒」から比べてなんとも組みやすい病でした。 これからどんな変化が訪れるのか未知ですが中間報告です。 初めての経験でへ~えと思ったことがありました。 なぜか喉の痛みに鼻水鼻づまりが発生しません。症状を引きずらない短期集中型というのは私にとって結構有難かったですね。 また軽口を叩いてピシッとやられそうではありますが、その病気にかかると処方最善として全快とはいえませんが最短3日で「何とかなった」をおかげさまで体現することができました。 ただしその犠牲になったのは当方奥方でした。 あの時奥方はご近所の葬儀協力で一日中閉鎖空間にあって帰宅してからは私の世話。 「これでインフルにかからなかったら化け物だろ」と茶化すと翌日夕からお約束の通り私同様の症状を訴えてダウン。 不思議なのは38℃代までで39℃を超えることが無かったこと。 私の場合は投薬後に一気に40℃まであってからの下降でしたが奥方の場合は「40℃はまだか~」の寝言。 きっと体温の下がり方には個体差があるのでしょうね。 外出禁止とはいえフラフラの奥方を開院限定の休日診療の医院に「行ってこい」とはなりませんので私の運転となります。 医院駐車場での滞留は2時間30分もあました。 休日前発症というのはタイミングが悪すぎでしたあましたが連休明けまで「我慢しろ」などと言えるようなモノではありませんからね。それに、もしもそうなったら「タノムぞ」と申し付けられていましたので。 できるだけ「早く」が基本なのですが息子の場合がそうでしたがあまり早すぎるとまだ出現しないこともあって2度手間になってしまいます。 そちらの医院ではゾフルーザ嫌いの先生だったらしく「吸入」(イナビル)の方を処方されたそう。 さてどうなることやら。 さて、表記なぜにそんなに流行がわかっているのに止めることができないのかをその2.5時間の間考えました。 特に「最低5日間」の外出禁止令の件です。 たとえばこうです。 医師にインフルエンザを告知されるとその件まずきつく念押しされますが、するとどうでしょう。 5日間の自宅待機について了解したとして、独り暮らしの方にしろ家族の食を管理する母親にしろ「こりゃ大変だ」となることは必定。 とにかく帰宅養生に入る前に無理強行してでもスーパーマーケットに寄り道して(五日分の)「食料を確保

  • まぁ色々 万全のつもりも隙があるがもの

    恥辱というべきか、なんとも情けない。 ブログでは何度となくインフルエンザについて記していましたがやはり私のこのところの体調不良はそれでした。 息子と同じA型ですが彼の40度越えについて「何を間抜けな・・」 などと病人に鞭打つようなことを言い放ち、奥方と「そんなものかかったことがない」と合点しあっていたくらいでした。 まさに先日記した松平家忠の火事の件と同様、戒めが必要です。 家忠の日記はライブで公開しているワケではありませんがやはり後世に残そうという意思が強かったのでしょう。 他者はともかく自分の襟は正すということですね。 この病にならないためには人のいる場所に行かなければイイのですがやはりここのところあっちこっち出歩きました。 「どこでどうして」を考えても詮無きことではありますが、推測するに相良仏教会の新年会か育成員研修会の反省会、両食事会でしょうね。後者では私は冷たい蕎麦を所望したのですが、今考えると火が通っているものの方がよかったかと。 車の中にはアルコールスプレー、による手指の洗浄、講習会中は20分おきに紅茶を一口と自分なりに対策は万全と考えていましたのでまさにその計らいほど空しいものはありませんでした。 やはり長谷川氏に悪態をついた罰が当たったとしか言いようがありませんね。 長谷川氏はじめ市庁舎全域に感染が広がったとしたら・・・私のせいかも。 症状の最初はやはりよく言われる「体の節々・・・」から始まりますがこれはその人のこれまで一番弱っている箇所のことですね。私でいえば腰・首・肩・腕でした。 それから倦怠感。何もする気が起こらなくなって就寝前に酷い悪寒。「体温計を・・・」と確認すれば38度。 その後なんと40度にまで上昇しましたが翌朝には37度。 「大したことないな」と軽口を叩いて倦怠感を引きづって医院へ向かったのでした。 テレビで見る綿棒を鼻に突っ込んで検体を採取するアレ、子供が泣く理由がわかりました。鼻水が出ているならともかくそれを取りに行きますのでかなり奥まで突っ込まれます。まさに泣きっ面に蜂。 「はいA型です」の宣告の次にまくしたてられたのは五日間外出禁止・人との接触禁止でした。 ゾフルーザを二錠処方してもらい以降布団の中の生き物となりました。 尚、通院は奥方が近隣の葬儀でお役を仰せ付かっていましたので私は自分で運転し勝手に行きましたがこれは少々イケなかったかも。 帰宅時国道を右折する際、縁石に

  • 田沼後の相良 小島蕉園没後200年

    昨日は市長との面談をセッティングいただきました。 簡単な資料をつくってスタンバイしていましたが、体調不良につき私の出席は中止にしました。 もしインフルエンザでしたら大変ですから。 史料館の長谷川氏がいればその意図は通じるでしょう。 ただし長谷川氏は予算の方を仕切っているそうでそうだとすると案外行動は渋いでしょうね。 画像は以前も記したことがありますが、小島蕉園の案内板。 大正時代のものですね。 皇太子殿下 御成婚記念 小島蕉園碑 指導標 民事功績者 自是北三丁 在致遠峰中腹 こちらの指導標と小島蕉園の墓との位置関係はオカシイですね。「北に三丁(約300m)」細かい事を言うなといわれそうですが今ある場所(地図矢印)では「北東」になってしまいます。 案内版(指導票)として作られたものでおそらく当初は「赤星」あたりにあったものと思われます。 萩間川が大きく曲がるあの辺りは工事改修が重ねて行われている場所ですのでどこかの時代に大江区の墓地に移設されたのでしょう。 ちなみに平田寺住職に問い合わせるも「そんなのありました?」でした。指導票が埋もれていたのでは「指導」になっていません。 小島蕉園に思い入れがあるがゆえに多少のこだわりがありますが資料にて私はこの指導票を人の目に触れさせなければならないことを指摘しました。そもそも指導票があそこにあることの無意味ですね。勿論その主張は案内板を新たに作る事も提案しました。 そこで長谷川氏から予算がどうのとかその手の依頼は山ほどあって順番が・・・といわれてしまいましたので、「牧之原市の依頼に寺はそれぞれ順応対応してきたがそんなことなら牧之原市の依頼は金輪際一切拒絶『おいら~ケツまくっちゃうよ~』などと史料館でデカイ声でまくしたてたのですがおそらくこの体調不良は「罰が当たった」ということでしょう。 仏教・寺を活用というフレーズと政教分離という語にカチンときてしまいました。 宗教的対応力の欠如を惹起しているのですが、その件くそくらえですね。話は飛びますが宗教が公立の学校教育に無いということが社会を荒れさせている要因と考えます。 面倒くさそうですがすべての宗教に対応するくらいの鷹揚さが必要です。 鷹揚とは掛け離れた私が言いますので信頼性ゼロですが・・・。 数年後に蕉園の200回忌があります。牧之原市の本気度がわかるというものです。

  • 火は出すな 「出来 しゅったい」読みと「出」

    火事のニュースが相変わらず多いですね。 強風下のものとしばしば悲惨な結末となる夜間の火事がどうしてもこの時期に集中してしまいます。 年配者の火の不始末もその原因として少なからずあるようですが、同居のご家族は常に「自分の事」と同様にケアする必要がありますね。 独り暮らしの方でしたら隣近所でフォローしていかないとこればっかりはその被災を免れない事となりますからね。 亡き父は指先がおぼつかないことから石油ストーブのタンクの栓が完全に閉められなかったことを思い出します。 また、電気ストーブでも厚着の上掛けに引火したり、掛けた洗濯物などがストーブに落ちたりが主な原因になっていますね。 どうしても洗濯物を早く乾かそうとしてのその件も相変わらず火災の原因となっています。また父も母も電気ストーブや電力量のかさむ電化製品ののタコ足配線でコンセントが焦げたことがありました。 いずれの場合も卒倒しそうになりつつ早期の発見に胸を撫で下ろした思い出かあります。 拙寺もかつて2~3度、本山も「火だし本願寺」と皮肉られたように何度か出火経験があります。 一番ケアしなくてはならないのはいつの時代も「私自身」ということで。 最近は各充電器からの出火があって信用はできません。 寝ている時は枕元の携帯のみ。人のいない場所で充電器を使用することは怖くなりました。 そう運の良さばかりは続かないでしょうから。 さて、表記「出来 しゅったい」について。 「出来る」で使用することが多いですが(上出来、出来栄え・・・) 古文書等も頻出です。 まず、「しゅったい」読みとなり、その際も意味が二通りほどありますね。 「横須賀ニ城ヲ御築城成 サレ、出来」の時は「できあがり」でそのまま「出来ました」の意。 そして通行手形の補足文「此者之義ニ付故障之義出来候ハ」の如く「発生する、起こる」でした。 ということで火事の場合は後者の意味の「出来」になります。 松平家忠(深溝松平家)の家忠日記に高天神城取り巻きの各陣で「出来」した火事と自身陣中でのそれが記されています。 天正八年十二月五日 酒左(酒井左衛門尉忠次)陣所ニ火事出来候、 同 六日 石川伯耆(数正)陣所ニ火事出来候、です。 先日は信長朱印状について記しましたが日付は「天正九年正月二十五日」でしたね。 事象だけを短く記していますがそれはまぁ日記ですからね。 しかしきっと「他人事」と思っていたかも知れません。 するとその天正

  • 塙直政が大和守護 多聞城へ 城郭大系から 

    大分暖かくなって短時間外に出る際には上掛けは不要になりました。昨日は風もなく雨によって温かさを感じたわけです。 しかし週末3連休はかなりの寒さになるそう。 トランプが米国の寒波に「温暖化はどうした!!」と吠えていましたが地球規模のちょっとしたブレでごちゃごちゃ言うな・・・ですね。それにしても酷い寒さの様ではありますが。 まぁあのような氷の世界(北米)とはまったく縁のありませんこちら南遠江です。 さて、多聞城( ② または③ )は現状学校施設のため「御用覚悟」ならともかく立ち入りはできませんね。 昭和23年に若草中学の建設によって殆どの城塞遺構は整地されてしまったのですが、それ以前はといえば逆に城の地形が良好に残っていたといいます。 北縁に土塁が残っていたそうですが昭和53年の校舎新築工事によって破壊されてしまったようです。 よく見る画像では校舎を建てるために外構部を掘り固めているようでそれを土塁と見誤るかも知れません。しかし各所に石が底部に見られるのですが・・・。工事の盛り土なのか「掻き揚げ」なのかは判定不可。 工事による消滅は勿体ないというか惜しいという気持ちがしますが、その辺りの感情はどちら様よりも今、奈良市の観光課ほか関係者の皆さんが地団太を踏むような気持を抱いているかも知れません。 奈良中心地にあって眺望も抜群、貴重な歴史遺構として奈良異色の観光資源として活用できたでしょうね。 松永のネームバリューもなかなか。 それにしても松永久秀は信貴山城と多聞城と名だたる二城を持ち大和の支配を固めたというところ、一時期ではあったにしろその勢力の大きさがわかるというもの。 大和支配者・・・王としての城館として南向きに見下ろしていました。 何と言ってもこの地はこれまで興福寺の息がかかる領域でその支配力は絶大かつ一筋縄では行かない、経営には難しい地でしたから。 その権勢も長くは続かず松永が1回目の信長への反旗の際はこの多聞城を信長に明け渡して信貴山城に移ることになります。 そのあとの多聞城には明智光秀や柴田勝家が順繰りで城番として入っています。 天正二年に信長が来てあの蘭奢待を家臣に振舞っていますがその翌三年、大和守護として塙(原田)直政が多聞城主として入っています。 塙(原田)直政が歴史から姿を消すことになったのは石山本願寺攻めでの鉄砲被弾による討死のためでした。 石山軍記ではたしか<原田>だったような・・・

  • 横須賀城天正四年説 歴史志向多し 小和田氏の働き

    一昨日の「エコパ」講演会の次、昨日から二日間、当派岡崎教区主催の育成員研修会が。 よって昨日は昼過ぎから掛川の会場に17時まで。 18時からは相良仏教会の新年会がありましたので初日閉会後ゆっくりする間もなく相良に戻りました。 どちらでもインフルエンザの声が聞こえてきて心なしか例年よりも参加者は少なかったよう。新年会の幹事のお寺では家族全員がそれに罹患したということで欠席していました。 尚、現在の当流当組の組長さんは遠州横須賀の大須賀氏。 「勿の論」あの「大須賀」の系統ですね。 その横須賀城ですが、大須賀康高が(または ② ③ )家康に馬伏塚から高天神城に近い海岸端に横須賀城築城を命じられています。拙HPの横須賀城関係年表の記述は既に追記して改めていますがこれまで横須賀城築城の時期は天正六年というのが通説でしたが天正四年が適当と小和田先生からのご指摘。 先生の示されたその根拠が2点。 1「浜松御在城記」の天正四年の記事 「大須賀五郎左衛門康高ニ仰セ付ケラレ横須賀ニ城ヲ御築城成 サレ、出来(しゅったい―できあがり)。 即五郎左衛門興筧助太夫ト入レ置カレ候。」 ※~「筧助太夫」・・・こちらにも 2「家忠日記(天正五年七月三日)」 「よこすか取出場」(とりでば 砦場)」の記述 その講演で半袖になってしまうくらいの熱気を感じたのは、その日の気温上昇もありましたがやはり参加者の気合というか熱心さですね。 周囲は年配者ばかりでご夫婦ペアの参加も散見されましたが女性グループの多さが目につきました。 募集がSBS学苑ということもあったのでしょうが・・・ それがあちらこちらから歴史話が飛び交って、「あそこ行ったそこ行った」の半ば自身知識の披露の場。 私も単独耳を傾けて「なるほど」と頷かせられましたが皆さん本当に「お好きですね・・・」と感じた次第。 時代的には当然「戦国」が主になりますが、案外各時代の事物にも触れていて基本齢を重ねるとそういうものへ趣向が移っていくのだと。 静岡県内でこの手の教室が開講されていて各盛況を聞いていますが、小和田氏あってのことですね。 先生の同行案内がある旅行会社企画の歴史旅の募集を見ますが、本当に活発に全国を動き回っている様子がうかがえられます。 ちなみに小和田先生の直近出演番組は以下の通り。 ★2019.2.11 月曜 22時~ BS TBS <にっぽん歴史鑑定> 「戦国の女たち 信長の正室

  • 高天神城からの矢文 信長朱印状 小山と滝坂(境)

    昨日は夜になると風が吹きまくって冷えましたが昼間は気温が上昇、好天にも恵まれました。 私は以前ブログでお知らせした小和田先生の講演会会場の小笠山運動公園へ。 先生もスタジアムもまさに久し振りの対面でした。 前回はWカップでしたから2002年。スタジアムの方は、その大きさにあらためて圧倒されました。 このスタジアムそのもので人を集めるとなると45000人収容となるようですが、この広いハコで講演の会場を迷った方が続出したようです。 先生は「まさか私がスタジアムで・・・」と「45000人はムリ」などと冗談を言っていました。 講演の会場の名称は「エコパスタジアム レセプションルーム」なる部屋。おそらくVIP専用の特別観覧席で私が二度と立ち入りできる場所ではないでしょう。 当然の如く最前列中央を陣取ってお話を拝聴しましたが、空調と熱気で半袖になっていたほどです。 さて、かねてから、私は相良の新旧滝境城(① ② ③ ④)の整備について「何とかならないものか」と思っていますが私有地でなかなかその手のことを進めてもらうのは難しくこればっかりは市の方向性と合致しないとムリです。 しかしまぁ地道に声を出していなくては始まりません。 その相良(城)ではなく滝境に主軸を移しても・・・という根拠は天正九年の武田方高天神城(第二次高天神城の戦)攻めの終盤、井伊直政の間諜(忍び・スパイ)の上出来、水の手を切る快挙(寛政重修譜家譜 当日資料)があって「勝負あり」。 戦闘継続不可能に陥った籠城(武田)方730余名は切死覚悟で城を雪崩れ出ました。それが天正九年の三月二十二日のこと。 その正月に信長が水野忠重に宛てた手紙(「静岡県史」資料編8 中世四1370)があります。 その日の先生の資料に掲示されていましたが、こちらは信長が家康に開城の際の手引き書としてその心中を伝えたものですね。 要は「そろそろ矢文が来る頃」を見計らってのタイミングですが、その年の正月の二十五日に記されたものです。 ちなみに水野忠重は家康の叔父で信長による信頼もあってこの戦闘の軍監という立場かと。 城から「矢文が飛んでくる」というのはまずは降伏の意思表示ですね。そんな時、攻め方としては余計な戦闘をするよりも既に勝負が決まったということで、「責任者」のみ腹を切らせて「他は許す」というのがスジ。少なからず攻め方も消耗疲弊しますから。 ところが信長は家康に対してその際は「矢文は無視し

  • 山上憶良 万葉の銀・金・玉 再考と時論 沈痾自哀

    先般「年が明けた」とぼけほけしていたらいやはや立春の声。 春の来るのが待ち遠しい、早く温かくなって~など口にしていましたがいくら何でも「あっという間」すぎです。 時が経つという現実は「待ち遠しい」などといういたって前向きなスタンスがある一方「後のない」、蝋燭の火でいえば「あとちょっと・・・」のところにしか感じられない余命の私からすれば時の流れというものはもはや恐怖でもあります。 例の一休さんの「門松は~」の歌にしろ彼の臨終間際の「死にとうない」と伝わっている言葉にしろ一般の方たちが理想としていそうな「坊さんの達観」とは少し異にするところは好感が持てます。 それは・・・生きていればやることがたくさんあるから・・・ですね。 逆に言えばやること、やらなければいけないことが多くあるということ・・・生きながらえなくてはならないのです。 いずれにせよ浄土に向かうことは決まっているのですから、その時までは「生きたい」と前向きに。 「生は貪る可し 死は畏(お)づべし」(生は貪欲に求め、死は畏れるべきもの)が正解なのかと。 さて、先日記した山上憶良の子を思う歌の追記。 その「生は貪る可し~」の語は山上憶良が74歳頃に亡くなる直前に記した文といわれる「沈痾自哀(ちんあじあい)」にあった語でもあります。 「沈痾」とは「長患い」のことですが山上憶良は晩年まで約10年間、原因不明の病に悩んでいたのですね。 憶良の生きたその660~733年頃の時代、彼が想う「病と老」について、そして宗教観、当時の医術呪術についてとても興味深い記述でした。 10年も病に苦しんだ人ならではの(恥を忍んでの)述懐で、人間らしさが垣間見られます。 ご興味のある方はグクればスグですのでこちらでは割愛。 ということで、より人間的というか子煩悩の父を思わせる「銀も金も玉も~」の歌についてふと思いつていた事がありましたので追記いたします。 「銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも」 その時ブログには何気なくその歌を聞いて思いついた事を記しました。 「銀・金・玉」とはあらゆる今風「金目のモノ」のことですね。 よく考えればどうも唐突にも感じられました。 はたして当時の役人、山上憶良の周囲にそれらの「銀・金・玉」があってましてそれらを望むような環境にあり、なお子供の存在と比較するという歌の安直な題材にするだろうか・・・という点です。 よくよくその件、親として

  • ようこそ相良へ 大須賀郷土研究会のみなさん

    ゾフルーザのおかげでしょう、息子から「熱は下がった」と連絡がありました。 40度超えについて「どうよ」と面白がって聞けば、既に体調回復は確実でしょう「体力消耗と吐き気で生死を彷徨った」などとと軽口を叩いていました。 彼が発病したのはインフルエンザのA型とのことでしたが今季そのA型には2種があって聞くところによれば一方のタイプにかかって安心していれば続けざまにもう一つのタイプに罹患することもあるそう。 「40度」と聞くだけで身の毛もよだつ恐怖を思いますが、それを2度までとは。あり得ません。 この時期、法事もプレッシャーを受けますね。 どうしても法事というと「少々ムリをしてでも・・・」の気持ちが先立ち不調のまま出席することもあります。 その空間で独り一定時間口を開けている(読経等)というのはある意味怖いことです。 さて、先日テニスの決勝で順延となっていた「ブラタモリ」を。予想通り「一乗谷」でした。 足羽山(あすわやま)とそちらで採石される笏谷石(しゃくだにいし)の件、興味深く視聴させていただきました。 5月の拙寺バス遠足の前に再訪したいと思ったところです。 「ブラタモリ」ならぬ相良の「ブラタヌマ」の予定は今のところ5月3日(金)の9時と14時。5月19日(日)、6月9日(日)ともに時間不詳ですが教育委員会から暗黙の了解「法事は入れないでね」の事前連絡がありました。 私も日曜日にぼんやりできるという大義が立つワケでもあります。 セッティング、解説等は史料館の長谷川氏はじめ観光課のみなさんにおまかせしていますので私の御役はありません。 ところで、今月は大須賀郷土研究会の主催による学習会の行程に拙寺が組まれていて観光バス1台分の皆さんが訪れます(21日)。 行程表と拙寺案内資料を事前にいただきました。 当日はブラタヌマ同様、史蹟研究会の小澤会長が同行するそうですので、私のしゃしゃり出る事はないと思っていましたが、行程表によると拙寺の次に相良油田の資料館に向かう事がわかりました。 それでしたら本堂から出てきた皆さんに石坂周造の借金の借用書で「証人」として登場した成瀬蔵と布施新助のお話をさせていただこうと思いついたところです。 ④はマフラー持参で上がった地代の墓地。 風は強かったものの数日前ほどの寒さではありませんでした。

  • ヤバいよ!! インフルエンザ 驚愕の220万人超え

    昨日の厚労省の発表でインフルエンザの患者数が推計220万人を超えたといいます。「過去最高」と夕刊一面に大きく報じられていました。 お国の発表する数字が「信用ならない」と思われるのは致し方ないことですがこの数字そのものについてはまんざらウソでもなさそうな・・・ 前の週から「10万人増えた」そうですが私が昨日寺に居て「インフルエンザ」の病名を3度も聞いたほどです。 1件目は京都の息子からの電話。 一昨日は「節々が痛い」ので一応医者に行くも、「ただの風邪」と言われて帰されていました。 クラスやら講師の中でもインフルエンザにかかって休みを入れる者が続出と聞いていましたが帰宅後、熱がグングン上がって何と体温計の数値は40度オーバーになっていたそう。 さすがに再診に赴けば今度は「インフルエンザA型」の診断。 「ゾフルーザ」を処方されたようです。 他所でも最初の診断で「ただの風邪」として帰されるという例を聞いていましたので今回の初診には「限りなく怪しい」こととは思っていました。やはり図星、その数字には唖然とさせられました。 もし私がそのような体温に上がったとしたら・・・「生きていないだろう・・・」と。 あまり早く医者にかかるとそれが判定されにくいということなのでしょうか。 体の絶不調の時に2度にわたって通院するその労力を考えるだけでも震えがきます。早めの対応が二度手間になるとは・・・。 2件目は遠方からの電話でしたが、父上様の容態が芳しくないというもの。先般世話になったショートステイの施設でインフルエンザに罹患した模様と。 高齢のうえ肺炎を併発しているそうですのでとても気がかりです。 暖冬傾向とはいえ、インフルエンザウィルス流行の環境は彼らにとって最高潮でしょう。 先日ほんのお湿り程度の雨はありましたが、その程度のものは1時間も北西風が吹けば元通り。 世の中はからっからになっています。 そこにきてここのところの低温傾向には健常者であっても体調は低下ぎみにさせられます。 そして3度め。 午後の昼食後に訪れた方は、「父親が救急で運ばれた」と。 以前から親しくしていただいた方ですが、つい先日も、「ほれ」という具合にドリンク剤の差し入れをしてくださいました。 大分悪そうな感じがしましたので、では「お顔だけでも」と榛原方面に「買い物」を見つけてその途に部屋に寄る事としました。 その方の病状はインフルエンザではなかったようですが、何しろ病

  • 多聞城振り返って望む 東大寺に興福寺

    この正月以降お恥ずかしながら「運動不足」の「喰いだおれ」。 毎年同じことの繰り返しですが、それでいて夜間は口を開けてテレビの前に陣取っていますから<間抜け>の一言。 絶対に体にイイワケが無いですね。 体重を増やして体の隅々まで劣化させているのは食欲のせい。 食べられるだけイイとはよくいわれますが、「おいしいおいしい」も程々にしなくては・・・ 整理といいながら正月来の餅やら奥方の付き合いで食す甘いものの類は致し方ないにしろ、そのエネルギーを消費させる運動が足りませんね。 庫裏2階六畳の畳を打ち捨てて例の30mm間柱のフローリングも物置2階の作業と同時進行していますが、ロクな運動にはなっていないでしょう。 どこか山城を歩きたい、もうちっとばかし温かくなったら出かけることにいたします。 さて、多聞城が如何に大和の中枢に位置していたかを知らせるにはあの中学校の正門辺りから後ろを振り返ってみれば一目瞭然です。 左手に東大寺、正面に興福寺の五重塔が見えます。 ①は先日怖いものみたさの体験、ハワイアンの流れる「甘いもん屋」(主がパンケーキ)に入店。 二人でも食べきれない量でまさに飽食と恥辱も味わいました。 別に昼食をとったばかりというのもイケませんでしたね。 ハワイの人たちにガタイの大きい人がいるわけだと妙に納得したところです。 ちなみにそういう甘味ものを「スイーツ」など言う風が流行っているようですが、私はその言葉はこっ恥ずかしくて使えませんね。歯が浮くというヤツです。 ②庫裏は足が冷えますがこの小型の火鉢に火があるのは有難い。その為だけに火をおこすことはしなくなりましたが、本堂で使用した火鉢の残り火をこちらで使用しています。 ここに火を入れると餅を焼きたくなるというのは「旧い人間」ということなのでしょう。 食べ過ぎと運動不足は自分で自分の首を絞めているようなものですね。 健康の秘訣として時に「飢餓の時間」も大切といいますが・・・ 山城に加え東大寺と春日大社の後ろに控える春日山の古道を歩くのもいいですね。

  • 多聞城は元墓域 墓石ゴロゴロ

    昨晩のテレビ小僧は歴史秘話「山城~」。 七尾城のレーザー測量の検証、曲輪と堀切の関係は面白すぎでした。それぞれの家臣たちの砦と本丸の位置関係(大堀切で隔てた)から主は家臣と並列的な対等関係であったことがわかったそう。 その手の初期戦国の築城方式は各所(浅井氏小谷城など)に見られるとのこと。 その「並列」から主従をハッキリさせた築城の初めが小牧山。 要は信長からだったと・・・ さて松永久秀が主君三好長慶の命によって建てたのが多聞城。 昨日の続き。比高は30m、平山城ですね。 三好長慶の場合は大和一国を松永に任せていますのでここでの主は松永。 世の城郭建築に連続した長屋式の櫓を「多聞櫓」と呼びますがその「多聞」の発祥がこちらの城からでした。 また松永のこの城への思い入れは深く、城郭の建築も城主の生活と戦時防御の砦的司令塔としての恒常的堅牢さを求め、今誰もが思う「城郭」・・・「城」・・・天守閣のある・・・のイメージを確立したというのがこの多聞城ですね。 「高矢倉」なる「四階櫓」の存在の記述が残りますがそれが天守閣であったという説もあります。建築物外装だけでなくその内部も豪奢を極めたともいいます。 信長が例の正倉院から持ち出した蘭奢待はこの城にて焚かれたといい、信長がこの城の作りと松永のセンスに驚いて安土築城のヒントとしたことも推測できます。 それが松永久秀が1度目の謀反で信長に許された所以ではないでしょうか。 この城(場所はこちら)の面白いところは築城以前は寺と墓地だったというところ。聖武天皇の陵墓などもある高台です。 それら墓石を築城時に柱の礎石にしたり土塁石垣に使用した形跡があるようですが、現在の若草中学の建築に際してかなりの量の墓石が出土しているようです。 この城が破却されたのは信貴山で松永が討死したあたりの天正五年頃でしょうが城郭主要部分は勿論、礎石石垣も他の城の建造の部材として転用されています。 ひょっとすると安土城のあの一本道に散見された石仏たちもこちらから運ばれているものがあったのかも。 ①はまた一株、梅一輪。拙寺本堂前です。他にもぽつぽつと・・・

  • 主君殺しの大悪人はでっちあげ 松永久秀 多聞城

    奈良南都総墓所西方寺についてここのところ何度か記してきました。「草鞋野」(わらじの)という地に移転してきたのは正親町天皇の時代、戦国期でも一番に人気のある時代です(在位1557~1586)。 寺はもと東大寺の末寺であったといい東大寺近くの多聞山にあったとこて、松永久秀がここに城を築くことになったからの移転でした。 この移転の際に尽力したのが東大寺勧進所の祐全上人という人だったことから、西方寺中興の祖と言われてその尊像が寺に安置されています。 その案内板が最後の画像ですがそちらにも多聞城の名があります。 さて、昨日のテレビ小僧は「知恵泉」がメイン。 松永弾正久秀でした。 内容はこれまでの無茶苦茶キャラは修正されて歴史は随分に「変わっている」ことを伝えていましたね。 「史上最も有名なヒール、戦国時代の極悪武将」という烙印はでっちあげだったという構成でした。 いわゆる「戦国三梟雄」などというくくりがあってよく北条早雲とともにかねてから名を連ねていたのが松永久秀でした。 北条早雲は伊勢新九郎、伊勢宗瑞からの変名で元は足利家執事の名門家の出であったことは周知、今やそれが本流。 早々にその梟雄組からは離脱していました。 そして今、最近の研究から松永久秀は三好長慶の「有能な忠臣」(能吏)であって久秀の三大悪事といわれる①主君殺し②将軍殺し③東大寺大仏殿焼き討ちはすべてフェイクであると。 例の信貴山城の平蜘蛛の件も「無かった」説が有力であるとは聞き及んでいましたが・・・ ということで私が以前記した松永久秀のイメージは修正する必要がありますね。 番組では松永のヒール度がアップしてきたのは江戸時代の演芸、講談の壮大脚色からと。 というのは大名として名跡が残っていなかったことから好き勝手な演出が可能だったということ。 歌舞伎などでも見え見えである事件を劇化していることは推測できることはたくさんあります。しかし登場人物の名前は微妙に変えて気を使っているところは見受けられますね。 そういったところ、憚る必要がなかったこと(系統は不在)が「悪」をエスカレートさせたのでしょう。 そして戦国期の一級資料として誰もが手にするルイス・フロイスの「日本史」記述では、松永久秀については辛口で低評価。 それは松永がちゃきちゃきの法華宗(墓)で尚キリシタンを追放した腹いせというか感情が入っていたと見るのがその解釈。

  • 銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに 勝れる宝 

    昨晩のNHKファミリーヒストリーを視聴。 冒頭部分からこの町「相良」と知った顔の色々が登場していました。拙寺のカットは鐘楼裏の地元伊東家の墓石でした。 興味をそそったのが伊東四朗氏母方の地の探索で紹介された熊井城と熊井城主の五輪塔ですね。 他にも田沼意次の名やら史料館とそちらの古地図も・・・「相良」と牧之原市の紹介に一役買っていました。 「ファミリー」という名称と番組の内容から感じるのはやはり家族という単位があっての「個の成長と今がある」ということですね。親もその親もそうであったように今いる人たちすべてがです。 ところがどうでしょう。 昨晩のニュースにもありましたが「子殺し」について、最近よく見聞きする世になった気がします。 過度なしつけと称した折檻によって死に至らしめてしまうような事案が多々あるようです。 私も過干渉なところもあった時期も無くはないような気がしますが、子供に対してその手の行き過ぎたプレッシャーをかける親の事を「毒親」と呼ぶようです。 プレッシャーも時にイイものワルイものありますが、この毒親の毒というものは子に対して概して「悪影響を与える」ような圧迫のこと。 子供から感ずるに「親の不信」もあるでしょう。 昨晩のニュースにあった亡くなった10歳の女の子は学校の教師に「親にイジメを受けている」と訴えていたそう。 特異な例なのでしょうが、本来「家」とは心の安らぎ(安心)を得る「帰る場所」です。 もはや「家族」「親と子」の関係すら希薄化している傾向が出現しているでしたらそら恐ろしい風潮です。 さて、表記は万葉集、巻五(803)から。 山上憶良の子を思う歌で有名な歌ですね。 全て記すと以下。 「銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも」 です。 「どのような宝物であろうが子供に勝るものはない」でした。 この歌は添えの「反歌」で、長歌の方が 「瓜食めば 子供念(おも)ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処(いづく)より 来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとな懸りて 安眠(やすい)し 寝(な)さぬ」 (『万葉集』巻5-802) 瓜を食べても、栗を食べても不思議に子供のことが思い出されて仕方ない。眠れないほどだ・・・ さらにその歌に添えられている言葉が 「釈迦如来 金口に正に説きたまわく 衆生を等しなみに思ふこと 羅睺羅の如し 又説きたまわく 美しみは子に過ぎたるは無しとのたまへり 至極の大き聖

  • ファミリーヒストリー伊東四朗氏 西方寺墓域

    一昨日のナオミ・オーサカの快挙にテレビ小僧の私は勿論釘付けになっていたのですが、実はブラタモリとEテレのオドモTVも心中にありました。 ブラタモリを裏録画予約をしてテニスに集中していましたが、途中で「ブラタモリ放送延期」のテロップが流れたそう。 なぜかそれを見落として無駄録画してしまいました。 何故にそれほどまでといえば、予告に「福井の城・・・」と。 今年の拙寺バス旅行は一乗谷に寄ることになっていますので、もしかすると・・・面白い情報を得られるかもという期待がありました。 期待と言えばテレビ放映というものは往々にして裏切られるものです。 先日も某放送局から、除夕の鐘で以前取材した画像を使いたいとの連絡がありました。 メールにて依頼された使用承諾書まで記して送付、放映日と番組を聞いて念のため録画しておきましたが何のことはないまさに「0.3秒」の瞬間1カットでした。 まぁ、そんなものだろうと予想通り。他言は無用とは思っていましたが、調子にのって吹聴していたら大恥をかくところでした。 しかし昨年からNHK、「ファミリーヒストリー」の伊東四朗氏を調査するスタッフが拙寺を往来していることを記していましたがいよいよ本日28日午後7時30分から放映されます。 途中経過も少々耳に入ってきていましたが何しろあの番組の調査力は念入りで頭が下がります。 とても楽しみです。まぁほとんど「相良」がスルーされることもありましょうが、その際は御勘弁願います。 別系統からも情報がありましたが、観光課か観光協会あたりだと思いますが、伊東四朗氏を何かのイベントに招聘しようという動きがあるようです。 予算の関係がありますので確定的なことは出せないようではありますが。 地元ゆかりの芸能関係、著名人は大事ですからね。ただし忙しい人ですから応じてもらえるかもわかりません。 画像は昨日の続き奈良油阪の南都総墓所西方寺の石塔。 こちらは昨日も記しましたように、この地への移転が天正期ですのでぱっと見、墓石の古いものを探しても江戸初期どまりの感。

  • 草鞋は「そうあい」とも 南都総墓所 西方寺

    福井のお坊さんが僧衣(お西ですから簡衣・輪袈裟・・・道中着でしょう)で車を運転して交通違反切符をきられちゃった件(→ブログ)、日本中の坊さんたちがこれは「看過できない」と各地で立ち上がり「僧衣であっても身軽な動きができる、車の運転に何らの支障もない」といった動画を拡散させていました。 そのおかげもあって福井県警は「証拠の確保が不十分で違反事実が確認できなかったため、本件については送致しない」との結論を出しています。 難しい言葉が並んで「いったい何・・・?」ですが、これは警察のプライドでしょう。まぁ内輪では切符を切ったおまわりさんに「余計な事を・・・」の雰囲気があったことでしょうが、組織は守らなくてはなりません。 私どもからすれば信じられないような事案でしたが世論の力は大したもの。これで私も法衣で堂々と運転ができます。 そういえば米国の政府機関の閉鎖が一時ではありますが解除されたそう。「トランプが世論に敗北」との見出しが躍っていました。 さて、昨日の草鞋のつづき。 奈良駅の近くに「油阪」という地がありますが、そちらに西方寺なる浄土宗の寺があります。 浄土を表す「西方」がお寺の名前だけにお参りさせていただきました。勿論ご本尊は阿弥陀さんですね。 通称の「南都総墓所」の名は戦国期、正親町天皇の綸旨から。 山号が草鞋山。わらじ読みではなく「そうあい」ですね。 その地に再建された際、附近一帯が原野であって春日大社、興福寺、東大寺などなどへ参詣に来た人々がこの地で草鞋を新ため、紐をしめ直した事から「草鞋野」(わらじの)と呼ばれていたとのこと。きっとそれを商う茶店などもあったのでしょうね。 草鞋の「そうあい」は別に「そうかい」読みもあります。 難読文字ですがこれは当たり前の古来からの生活必需品の名。 昔の人の間では普通に会話の中に出てきた言葉でした。 「草鞋野」は今や奈良の中心地。 南都総墓所の名称の通り、かつては荒涼とした墓域、荼毘の紫色の煙が常時漂っていたことでしょうね。 林立する奈良の著名な大寺院塔頭の文字通り西方になります(場所はこちら)。 ちなみに観光客の一人も見かけず、静けさを独占できました。 最後の画像の阿弥陀さん座像は西方寺のHPから。 ①は近くの駅前の広場。 本堂前の灯籠は東大寺と同様、堂前中央1トップ。

  • 二足の草鞋 本来はできないこと カネのため

    「そりゃ反則でしょうよ」というようなニュースが日々報じられています。 反則がバレたら責任(ペナルティ)を取ることになるワケですが偉い人たちが数人出てきての謝罪会見は珍しくなくなりました。 エリート企業によるデータ改ざん、またぞろの躰はまさに日本の産業技術の凋落を感じますね。 それらを挙げていてはキリがありませんが、日本人そのものの気質、堅実で正確そして道義的・・・が時代の経過とともに劣化しているのかも知れません。 企業の不祥事とは違いますが、先日の静岡のニュースで「そこまでやるか」と驚かされたものがありました。 それはまた厳密に不祥事というカテゴリーではありませんし、犯罪でもありません。 形振り構わない確信的な強行であって他者の中傷も半ば覚悟のうえのものでした。 それが静岡県小山町の「ふるさと納税」返礼品のこと。 私の寺と婦人部でも牧之原市への納税の返礼品として「無量寿」なるお茶を用意していますが、返礼品といえば「地元産品」それは参加者一同が了解しているところです。 にもかかわらず小山町の「そりゃないぜ・・・」とインパクトあるその返礼品とはなんと「Amazonギフト」。 それも寄付額の「4割」という高変換率。 そのために頭のイイ寄付者が殺到。平成30年度の納税受け入れは約250億円と超絶ガッチリとのこと(現在については不詳です)。 いかにも安直な発想で言い出しっぺの担当者とそれを「GO!」させた役場全体のニヤニヤ度は手に取るようにわかりますが・・・。そして趣旨ルールの逸脱は見え見えの確信犯ですね。 その250億なる金員は本来ならば他の自治体に納められたはずのものですので、マイナスとなった自治体からは「酷すぎる」と文句が出てくることも承知の上でしょう。 ただしここまで問題視されることはわからなかったというのがお寒い。 私どもからすれば、わずかながらの金額ではありますが少しでも自治体に貢献できれば・・・とそのシステムを生かそうと頭を悩ましましたが、良からぬことをやらかしてこのシステムそのものにより規制をかけられるなど、つまらぬことになりかねませんので、この小山町のイケイケには閉口させられました。 「形振り構わぬ儲け話」を自治体が主導していた例でした。 日本人全体がその傾向にあるのでは・・・ そういった行政の逸脱行為には呆れるばかりでしたが、本来の仕事とは別に違った趣味なり、儲けを兼業画策することを「二足の草鞋」と言い

  • 諏訪湖SAを見下ろす 孤高の一本 気高き赤松

    寒風吹きまくって外仕事などまったくやる気なし。 もっとも物置2階の工作に付きっ切りではありますが・・・。 しかし私の言う「寒くて寒くて・・・」の言は東北・北海道の方たちから言わせればヨタ話しの一種でしょうね。 体感温度はずっと低く感じますが、そうは言っても寒暖計の数字は10℃前後ですからね。命に関わる寒さとは言えません。 先日は東京青山の児童相談施設に地元の人たちのヒステリックな反対意見を見ましたが京都市のホームレス救護施設の建設でも同様のモノ申す人たちの剣幕が聞こえてきました。 私の寺なども迷惑施設であると暗に匂わす言動を見聞き(墓地の景観が悪い、線香くさい、陰気くさい等々)、実際に不動産価格の評価としてマイナス要因となっているようです。 寺が迷惑施設だといわれても、それを言うどなたさんの生まれる前から当に存在しているという開き直りから「どうってことはない」と平気を決め込んでいますが、近隣対策は気を使わなくてはなりません。 特に何度もご指導をいただいている火の件はいよいよ面倒になってきています。 一般家庭における野焼き・焚火などの規制の延長ですが、以前でいえば夜間の法事に境内「焚き木」は当然であったでしょう。拙寺では夜間の法事は年間二度ほど予定がありますが、いずれも今は街灯・電灯のみ。 岐阜の「三寺参り」とえば夜間参拝がメインであるとともにその寒さの厳しい地にあって焚き木は不可欠ですからね。 先日見た回覧によれば寺院に不可欠な「お焚き上げ」と呼ばれる宗教行事についてもそのたびごとに消防署に事前連絡をするお達しがありました。 そのお焚き上げは真宗寺院にあってはそう多いものではありませんが、中には「ゴミに出せないから引き取って」と写真に法名札に母親が持っていた昔の位牌等々どんどん溜まっていきます。 迷惑施設に戻ります。 その手の住民による反対は特に新設の場合よく出てくるようですが、大抵そういった施設というものは社会的弱者を救済しようとするものですね。 中には幼稚園・保育園の新設に怒り狂って反対している人も居ます。 みなさん自身は人様に迷惑になっていない、またかつて人の手を煩わしたことがなく、そして未来に渡って「私は他人様の迷惑にならない」というご立派な方たちばかりのよう。 「私は善人である」の大なる主張なのかもしれません。 無言でその大いなる主張をしその姿に威厳さえも感じたのは諏訪湖SAを見下ろす赤松でした。 吹き

  • 何故に駿府に 晩年駿府城加番 佐久間勝之

    昨日ブログ「錆は鉄より生ずれど~」の身から出た錆び・・・について。 まぁそう断言してしまうのは少々気の毒ですが何か体に良くないモノを摂取しつづけて(食べ続けて、飲み続けて)、体調を壊してしまうというタイプのものとは違った「業」が引き起こす災難についての所感を。 昨日、今年初めて浜松辺りから遠州豊田のららぽーとまでぶらつきました。 奥方の買い物の付き合い、要は運転手です。 自身結局何も購入するに至りませんでしたが、流行りのインフルエンザにだけは罹患できないと一日中マスク姿でいました。 まぁ大した効果は望めぬ気休めとは思いますが商品など触れるものにも注意して、車に乗るたびにボトルで持参した紅茶を一口やりながら除菌シートで手を拭くなどしてやり過ごしました。 この日特に印象に残ったのがこの件。 3~4歳の幼児を乳母車に乗せた若いお母さん。 目を疑った光景はその乳母車の子供は黙々とそのお母さんのスマホの画面をスクロールしている様子。 なるほど、幼児のあやし方でスマホは絶妙のグッズと聞いたことがあります。 その時考えました。自分ならどうするのだろう・・・ 私の場合、子供の成長期にはスマホなどありませんでした。 しかしゲームは大嫌いですので子供にその種の端末を買い与えることはありませんでしたが・・・。 今後もし孫などとの「出会い」があって、その子のあやし方として嫁っこがそれを許容したとしたら・・・「お前どうすんだ・・・」の自問です。 勿論その回答は「ありえない」ですが、できればそんなバカ嫁だけは息子にはカンベンして欲しいと思ったのでした。 しかし、嫁に来てくれるだけで「有難い」のが最近の事情。 悩ましい時代です。 成長期にスマホの画面を見続けるとどうなるのか・・・ まず視力が落ちるのは想像がつきますね。 あの至近距離で視神経を一定の距離で固めてしまいますので、近視眼になるのは当然でしょう。 また、各時間の無駄遣いの他に脳の方に影響が出ないワケがないことも推測がつきます。 数日前に成長期のスマホのやりすぎで「急性内斜視」になる子供が多くなったというニュースがありましたね。 要は視力ではなく黒目がスマホの焦点で固まって内側に寄って戻らなくなること。 そういった症状の子供が3年前から3倍に増えているといいます。 斜視になるとどう見えるか・・・二重に見えてしまうので大抵は片目でモノを見るようになるそうです。 最悪、手術で治すようですが