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プロフィール
PROFILE

大澤寺さんのプロフィール

住所
牧之原市
出身
小田原市

浄土真宗はかつて「一向宗」とも呼ばれた本願寺の宗徒で信長に11年も反抗し、その中でご先祖が生きながらえたことによって今があります。 興味の方向は「城郭と墓」です。「城郭」は建物が無いもの、墓は鎌倉期から室町期の宝篋印塔や五輪塔に思いが傾きます。近隣高天神城はじめ遠州を中心に、生まれ育った小田原界隈、当家先祖の出身地近江そして関西方面の歴史について記したいと思っています。

ブログタイトル
墓場放浪記
ブログURL
https://www.daitakuji.jp/
ブログ紹介文
相州小田原生、遠州高天神近住(相良)、戦国時代を中心に雑感を記すブログと寺のサイト
更新頻度(1年)

366回 / 365日(平均7.0回/週)

ブログ村参加:2012/04/01

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墓場放浪記

大澤寺さんの新着記事

1件〜30件

  • 念佛三昧 念佛メディテーション 三昧とは・・・

    相良地区の火葬場の女性職員が退職されたことは寂しいことです。丁寧な仕事で女性ならではの気配りがあって私の勝手な思いですが勿体ない限りです。 あの世界には女性の差配こそあって然るべきと思いますし、この相良のケースは全国的にも珍しい事だった(私の知る限り)かも知れません。 それだけ時間の制約もあってかつ重労働だったということでしょうね。 施設の休館日といえば古い考えというかバカバカしいあの「友引」の日と決まっていますので、普通に土日祭日や夏休み冬休みの如く休日の予定というものがまったく立てることができませんでしたから。 その方の代わりに新しい方が2名入りましたが現状、試雇採用なのかもしれません。なかなかあの仕事には慣れや適正というものがあって長続きしない場合も多々ありますからね。 民間に委託したのですからいっそのことその「友引休館」をやめて休館ナシとしスタッフの人数を厚くするなどシフト制にしてくれればいいのですがね。 それこそが市民サービスというものですよ。 現状その「友引」の為に葬儀日程の選択が狭く時に集中が起こって早朝出棺やら午後までズレることなどよくあること。 1番の午前8時15分受付などを選んだとしたらまずは7時45分から8時の出立となりますので読経含めた集合時間は7時から6時代後半になりますね。 これから冬場となればその時間は辛いですよ・・・ さて昨日ブログでは木喰養阿の狸谷山不動尊について記しましたが、標識に「六墓五三昧念佛行」とありました。 養阿上人は冬の寒い日、寒い時間帯に限ってそれを行ったといいますのでやはり私の言っていることなどは泣き言のようなものでしょうね。 その「六墓五三昧」について。 「三昧」のあとに続く「念仏」に目が行くと「念仏三昧」・・・をも連想しますがこちらではその意とは少々離れます。 「三昧」~ざんまい さんまい~の語を今風に使用例を記せば「カラオケ三昧」「うまいもの三昧」「読書三昧」「道楽三昧」「贅沢三昧」等々「〇〇三昧」の語は良く耳にします。 まぁ往々に「お調子にのってる感」満載の語ですね。 上記「念仏三昧」といえばその「三昧」の語源に近いものがありますが、そもそもその「三昧」とは意味は色々ですが元はと言えば仏教語ですね。 今風に言えば「メディテーション」の意から「集中」となって一つの事に没頭する意として使われるようになったのでしょうが、こちら「六墓五三昧」の「三昧」とは火葬場の

  • 狸谷山不動尊から上がる東山勝軍地蔵山城

    世界的な新コロ再感染拡大期の到来の様を見て大晦日「除夕鐘」(昨日)を「ホントに挙行して大丈夫?」と疑問に思います。 まぁ何度も記しているように鐘楼は外にあって外気と紫外線に晒されている場所ですのでまず、「2mのディスタンス」が守れれば大丈夫とは思いますが、行列ができてしまったらその2mはなかなか厳しいです。 人と人とのすれ違いなども特にまた・・・ 日本には「袖触れ合うも・・・」という外に出て人と接することの大切さを思う言葉がありますが、こういったイベントでその件、強く進められず、むしろそれは「イカン」というのであれば本来の「寺に集まる」という意味を逸脱してしまうのですね。 まぁ鐘を衝いてスカッとする・・・何かを思う・・・という機縁の方は残りますが・・・ さて、先週の大河ドラマで登場した城郭の名称を記すと芥川城はじめ飯盛山城に細川藤孝の勝龍寺城の名が出ましたが、台詞の流れの中でさりげなく出ていたのが「将軍山」の名。 三好の一統が本圀寺を襲撃したのがその山から降りる軍勢に幕府警護方が気づかないわけがない・・・と訝るシーンでした。 京都東山にあって洛中は目と鼻の先、それでいて近江との国境にも近く京都中心地からすれば敵方に占拠された場合、枕を高くして眠るわけがいかない地ともなります。 東山の尾根伝いに移動して京都中心地に軍勢を展開させるにはうってつけです。 先般ブログにて宮本武蔵の一乗下り松について記しましたがその道の先を行くと狸谷不動尊に突き当たりますが、その裏山こそ将軍山。 ちなみにそちらにも武蔵関わりの遺構がありました。 彼が修行した滝との石標が建っていますが・・・まぁ私の目的はそちらではありません。 こちら狸谷山不動尊の縁起はもとはと言えば平安期に都の鬼門(北東)封じのために桓武天皇がこちら京都盆地の東側山系に設けたと伝わりますが著名なのは木喰養阿が創建しているということ。 木喰とはその名の通り草木根皮を無調理で食して生を維持する行のことで、一般的には修験道。 私の如く野菜嫌いの不健康者からすればそれを聞くだけで凄いものだと恐れ入ります。 煩悩の最たるものとして「食」の贅沢があげられますが、質素すぎるそれを基本とした生活はまさに煩悩を滅した姿。 ただし木喰養阿の凄いところは修行と称して閑居山中に籠るではなく街や街道に出て念仏行脚し供養墓の建立に道路の改修工事に携わったというところでしょうか。 ちなみにそれに関わる

  • 新コロになるもならぬも如来におまかせ そのときは

    横浜の息子が子ネコを拾ったとのこと。 厳密に言えば息子の同居人の友が拾い上げて息子もその面倒に巻き込まれたというところなのでしょうが、今は息子もノリノリでその子の世話をしているようです。 私も奥方も子供の頃といえばネコを拾ってきては両親に却下拒絶されてきた経験を持ち、子供心にやるせなかった思いをしてきたのですが、息子がそんな話を持ってきたのは今回が初めて。 彼はもはや独立していますのでとやかく言うことはありませんが、ペット禁止の部屋のはず。 おそらく義母に擦り付けるのか微妙なところでしょう。 義母の方もまんざらではなさそうで取り合いになりそうな気配すらします。 金欠で苦しむ息子がネコを拾って既に2度も病院に連れて行きネコ用離乳食の選定にトイレの躾・・・よくやるものだと感心しています。色々な制約が発生してくる中それに振り回されることに満悦し、まるで日々の生活にも張りが出ているよう。 名前について聞かれ私の第一印象「おきく」を告げて「いいね」とのことでしたが一夜明けて「ねね」にしたとメールがありました。まぁご自由にです。 予防接種とか避妊手術やらで今後も出費はかさむはず。 大変です。一つの命を救ったという自負もあるようです。 予防接種といえば昨日のブログにてインフルのそれ、予約なしでスンナリ打てたという史蹟研究会の先輩方の件を記しました。 そこで私が昨日地元の医院に電話してみれば「既にいっぱいになって予約も打ち切った」とのことでした。 1週間のブランクを置いたことを後悔したのですが、もっとも年齢による優先順位がありますからその時私が行って「ハイどうぞ」というわけになったかは疑問ですね。 これでいよいよその接種が面倒になったということで今後どうなるかわかりませんが注意深く「感染」に配慮していかなくてはなりません。 さて、当流一大事の法要といえば報恩講です。 春の法要は何も考えずに中止にして、盂蘭盆会は分散型でなんとかお茶を濁してきました。そしてやはり報恩講に関しても短縮分散というカタチで執り行われることになりました。 勿論寺楽市等のイベントは中止です。 問題はそのあと大晦日の「除夕の鐘」です。 恒例となった拙寺の年末のイベントですが鐘楼は外部にあって閉鎖空間に人が籠ることはないということとディスタンスの確保ができていればまずは大丈夫と踏んだのでした。 一応、先般の檀家さんへの回文では「やります」と開催の旨通知しています

  • 主郭周辺の石垣探しは当然の楽しみ 飯盛山城

    来年のオリンピックについて「できれば開催して欲しいものだが・・・」(74.7%)、「現実問題として来年の開催も難しい」と思う人が84.8%に上がったといいます。 そして昨日は「IOCが東京五輪中止を決定」なるニュースが飛び交って私は「なるほどね・・・」と合点したところでしたが、この件国内大会組織委員会の方では全否定しているよう。 決定事項でないものがリークしたのか、政府と組織委員会が「混乱させたくない」などのいつもの理由でその発表をストップさせているのかはたまた全くのフェイクなのか分かりません。 しかし昨日の別の2つのニュースを聞いていてその現実を理解していないのは政府と組織委員会と思えますがね・・・それが ①ドイツの新型コロナ新規感染者数が初めて1万人突破 ②スペインの感染者100万人超す 英・伊も新規感染者最多 というものです。 欧州では今、移動制限・外出制限がまたぞろ出ています。 北半球は厳冬期に入り、ますます再拡大期突入の感あってこれでは各国オリンピック選手の皆さんなど鍛錬の機会も無くなっていることも連想できます。 日本では各スポーツ界の活動が復活していて今のところはお気楽気分のようですがそもそも試合のお相手さんが練習不足やら病魔蔓延によって出入国不可能となることも考えられます。 まともな練習が重ねられていない国の選手たちを招いて「メダル取りました」なんてフェアじゃあないですね。 欧州の現状を見て(世界中どちらでも・・・ですが)「中止にしろ」の声が起こらないのが不思議です。それもこのまま「日本は大丈夫」の奇跡が維持できてのお話ですが。 また、東京都が発表したシミュレーションですが、新コロとインフルが同時流行した際、それら検査能力が1日当たり「65000件足りなくなる」という数字がありました。 もしその手の「ダブルの蔓延」があったとしたら世の中は大混乱に陥るのでしょうね。 事前の対応をうまいことお願いしたいものです。 尚、先日お会いした史跡研究会の先輩方はすでにインフルエンザ予防接種は「済んだ」そう。安心代ですね。 報道では「予約」どうの・・・とありましたが方々は実際にその予約の連絡をすれば・・・「スグ打てるよ」だったとのこと。 私も暖かいうちに1本お願いしたいところです。 さて、昨日の飯盛山の続き。 城郭の遺構には色々あって昨日の如く「虎口です」と言われてもイメージが湧かない場合もあります。土塁も堀も城郭

  • 飯盛山城は四条畷市 生駒山系南北半島状尾根

    昨晩の「歴史秘話ヒストリア」は「足利ブラザーズ」と題して13代義輝と15代義昭にスポットが当てられていました。 将軍義輝の追い落としに攻め込んだのが三好長慶でした。 義輝は朽木の聖興寺に退去するなどして何とか御内書を連発してバックアップ網を構築し将軍として京都に戻ることができますが長慶亡きあとの永禄八年、三好三人衆によって殺されてしまいました。そして義昭は頼りにしていた武田に上杉に先立たれての足利家滅亡という流れ。 「生者必滅会者定離」が歴史であり、人というものの無常を感じます。 「諸行無常」であるからこそある意味人生は面白くなるのですがね。 永禄十一年に織田信長が義昭を担いで難なく入京できたのは14代将軍となった足利義栄が三好長慶亡きあと戦闘が治まらない 荒廃のしている京都ということもあいまって尚当人の健康不安から入京できずに高槻で過ごすうちに衰弱して死したこと、そしてやはりその前の永禄六年(1563)に三好義興が芥川城で急死し翌年(1564)に失意のうちに三好長慶が飯盛山城で亡くなってしまうというタナぼた的幸運」とブログにて記しました。 畿内覇権を手中に収めたかと誰もが思っていた三好長慶が後継者である息子の突然死によって失意に陥って体調に変異をきたしたというのは、信長の本能寺と言う激変とその派手さは異なるもののそれぞれの人生というものが如何に危うくて殆ど偶然がもたらすタイミングで容易に動くものであると知らされるのですが、その三好長慶の失意というものに一つ加えておかなくてはならない悲劇がありましたね。 長慶の弟の安宅冬康の件ですね。 三好長慶が畿内の覇権を制するまでに至ったのはその兄弟たちの力なくしてはあり得なかったわけですが、細川晴元の臣、三好 元長を父に長男の三好長慶以下三好実休、安宅冬康、十河一存、野口冬長など巧みに有力他家を取り込んだ一族一統各補完しあうシステムが機能していました。 やはりその「万全」に大きな綻びが出たきっかけは長慶の子の三好義興が永禄六年に亡くなってしまったことはいうまでもないことですが、その長慶最大失意の直後永禄七年に弟の安宅冬康を飯盛山城に呼び出して自害させたこと。謎の中の謎です。 何故ならその兄の三好実休は永禄五年、十河一存はその前年に戦 死していたのですから。 状況から考えられるのは精神的に追い詰められたうえの狂気だったといえるのかも知れません。 飯盛山城は南北朝動乱期に適宜陣

  • 摂津国島上郡 嶋上郡衙ぐんが 芥川郡家

    齢を重ねると何事もまったくもってヤル気が起こらなくなります。 昨年あたりまではチェーンソーを樹上でぶん回して境内樹木の伐採をしてきましたが遂に手首と関節の老朽化が出現したのか「捻じれ」に対しての許容が難しくなりました。 要は痛みが走るような「変化」が始まっているということです。 その樹木ですが1本寺テラスに陽光が入るために思いっきり伐採したのはいいのですが、それが枯れかかっているような姿にこれも「変化」しています。 相当怪しい部類ですが、復活に何とか望みをかけているところ。 伐りたくない木ですし・・・ さて、昨日の「芥川」。 何故にこちらに・・・の続き。 明治以降芥川町は村制を経て町となりますが島上郡の芥川村・郡家村が元。 「郡家」とは古い名称で律令時代の「郡衙」(ぐんが)を意味す る語でもあります。 郡衙は国衙に準ずる国の出先機関で施設としては郡司が政務にあたる正殿や役人たちの庶務にあたる場、租税出挙など徴収物を管理する正倉などで構成されますが、その「郡家」の地名の通り、芥川、西国街道の交わるこちらにはかつての郡衙があったと言われています。 のちに「国衙」国司から成長した有力荘園管理者、開発領主により吸収されて衰微しつつ姿を消していくことになりますが、この地が往古から地域の中心地であったことが推測できます。 ちなみに鎌倉期の地頭や守護の台頭を迎えさらに室町期に国司たる守護大名が生まれるという大雑把な歴史の流れでしょう。 その当初の郡レベルの権威者が政務を行う役所、それが「嶋上郡 衙跡」ですが高槻市内から芥川山城へ向かう途中にあります(場所はこちら)。 この広大な敷地を高槻市は保存していることを考えると先日記した焼津の小川城の上に建つ住宅街を思い出してしまいます。 今となってはすでに遅し焼津市の後悔の気持ちはわかりますがやはり人々の考え方の深さが一言、未熟だったということでしょう。 それから大河ドラマでは足利義昭(覚慶)が将軍宣下を受けて第15代将軍を名乗るところが放映されていましたが、歴史タイミングとしては三好三人衆に担ぎ上げられて14代将軍となった義栄が入京できずにいましたね。 将軍在位期間は半年程度と短かったのは京都の争乱もありますしもともと病弱であったということもありますが、ではどちらに居たの?といえば高槻は富田の御所、普門寺でした。 まぁこちらは三好家の足元だったということもありますが、この高槻なる地は

  • 高槻の芥川山城は自然溢れる学園都市の一画 摂津峡

    先週末からの冷え込みによって寝床に毛布を登場させています。 同時にネコどもが布団の上に集結し油断がなりませんね。 上掛けが引っ張り剥がされて風邪をひく恐れがあるからです。 これまで床の上で寝ていたくせに・・・彼らも季節の変化をしっかり感じ取っています。 昨日ブログでは一昨晩の大河ドラマの二条城普請の一コマについてについて触れました。 二条城といえば現在の観光客が怒涛の如く訪れるあそこではなく、武衛陣町のそれを記す石柱と看板のみの場所(現「平安女学院」の一画、路地の入口)で、より御所の近くです。 そしてその回のドラマでのもう一つの舞台が芥川城でした。 その名を記すしますと一部紛らわしいと言われそうですが、厳密に言えば芥川山城のことですね。地元では三好山。 私がその城址を求めて無意味に走り回った時の印象といえば、ここにもあった平安女学院・・・でしたが、その回のドラマで出た2つの城ともその学校の名が近くにあったということ。 もっともこちらは高槻という京阪のベッドタウンてはあるものの少々奥まっていて摂津峡という景勝地も近くまさに自然に近しい場所。以前行った高槻城あたりとは雰囲気がまったく違います。 そしてそういった環境からして他にも関西大学などの教育機関が集まっているエリアです。 山の名を三好山と呼ぶのは勿論長慶を主に三好の一統が入った山城だからですが信長がこの城に入った理由こそが三好に代わって「畿内を獲った」のアピールですね。 永禄初頭の1560年に三好長慶は河内飯盛山城へ移って息子の三好義興を芥川城の城主として置きますがこれは長慶による次期家督相続者のアピールです。 当時は何を隠そうこの芥川城こそが畿内中心地のイメージがあったのかと。 永禄十一年に織田信長が難なく入京できたのは永禄六年(1563)に義興が芥川城で急死し翌年(1564)に失意のうちに長慶が飯盛山城で亡くなってしまうというタナぼた的幸運があったことが大きいのでは・・・ ただ現地に行ってこの芥川城が何故にして畿内の要衝になりえたのかという気持ちが沸き起こりますがただ一つその理由は西国街道が近くに走っていることでしょうか。 西国から入京直前の位置にあって人とモノを抑えるにはうってつけの場所かつ、芥川が削る谷と崖が城の要害性をアップさせて城郭として機能させたのでしょう。 あの時、畑仕事をしている方にたまたま声を掛けたのですがその方が三好山の歴史に詳しい方で登城

  • 大徳寺 総見院の濃姫、帰蝶の五輪塔とお鍋の墓

    「女墓場放浪記」を期待して休みの日は「墓場へ」と以前、その友人に墓をリストアップして送っていましたが、1回目のチャレンジで挫折してしまいました。 現在はもとの山女に戻って私にはこれ見よがしに山の画像を送ってきます。月に2度は山へ行かないと気が済まないと。 昨日は「雨上がりでよくもまぁ・・・」と驚かされましたが山梨県まで足を伸ばしたよう。 その山は「殆ど観光地」とは言っていましたが羨ましいのは健康維持十分の姿。観光地化した登山道にクマは出ませんね。山にはクマの食べ物が無いようですし、今出てくるのは市街地でした。 彼女は週明けには仕事に出ているのですから大したものです。いかに私が甘っちょろい環境にいるか・・・ さて、政所執事摂津晴門の登場はドラマ的に唐突でした。 昨晩の大河ドラマの演出です。 おそらくこの人物はドラマ・映画等で扱われること初登場ではないでしょうか。 特に歴史を左右するような人ではなかったようですし、本当なら埋もれたままでいたとしても不思議はないのですがここでの登場は今後劇中において何かやらせる企図があるのでしょうね。 あくまでも「ドラマ」ですからご自由に・・・ですがドラマファンからは「帰蝶はどうした」の疑問が沸き起こっているようです。コロナによる中断があっての再開、「さぁ・・・」という具合に待ちに待っていたという帰蝶さん、一向に姿を現しませんね。 まぁ人気女優さんでスケジュールが押しているのでしょうが、そもそも実在していない登場人物を基にした演出多々ある中、不詳のこと多い帰蝶とはいえ、なぜに実在の人物を蔑ろにするのだ・・・というのがその意見ですね。 ドラマでは信長の台詞として「岐阜で帰蝶が・・・」とありましたのでじきに登場させるのことでしょうね。 伏線としては二条城新築現場のシーンで持ち込まれた石仏について信長と光秀のシーンが印象的でした。 子供の頃「仏」を蔑ろにして怒られその際「罰があたる」と脅されたが「待てど暮らせどその罰とやらはあたらなかった」という台詞。光秀は相当の違和感を持った無言でしたが、あたかもその「罰」はもっとあとからやってくる・・・を暗示しているが如く。信長はその石仏の顔を「ペンペン」という具合に叩いているシーンは見る者によっては恐怖を感じたかも。役者は大変だ・・・。 まぁ石垣や建築物の礎石、石段に石仏を使用することは珍しいことではなかったですね。 突貫工事に手っ取り早い「転用」「再

  • 中遠施設施設15か所廻り スタンプラリー開催中

    憤懣遣る方無い・・・といった感じというのが当家奥方。 夜7時ジャストのに花火が数分間打ち上げられてその騒がしさに「何コレ?」と顔を見合わせてしまいました。 「ドンパチやられちゃかなわない」というのは家中のネコ共がパニック状態に陥って気の毒このうえないということもありますがそもそも花火のあと始末については「完全」は難しくて河川や野山、海を汚します。 古い人だと戦時下の艦砲や爆撃を彷彿とさせると聞きますしね。 まぁ良かれと思ってそれを企画した人がいらしたのでしょうが、すべての人が浮かれているワケではありません。 私の場合ときたら昨日は新コロ対策用の18時開式の通夜式に出席して丁度寺に帰ってきたばかり。19時といえば一般参列者の焼香が1時間ずらして始まっているわけで、そんな上空の大騒ぎはいくら何でも苦虫を潰したでしょうね。 「賑やかが好きでした」は洒落の世界。 市中には「お悔やみ」の家は勿論、病苦で安寧の時間を求めている人もあるということも承知していただきたいところですが「そんなこと考えていたら何もできやしない・・・」か。 これまでゲリラ的花火大会の開催については耳にしたことがありましたがこの季節、あの時間での爆裂音は決して楽しいものではありません。 拙寺も大晦日の真昼間に鐘をついていますから同じようなものか・・・。 さて、昨日は史蹟研究会の会合。周辺山城廻りの遠足の予定でしたが雨のために中止。 茶道について無知そのものの私ですが、お茶の先生が毎回来られていますので思い切っていろいろ素人っぽい質問をしてしまいます。目からうろこの面白い話ばかり。 最近の茶会は新コロ警戒から前面ストップになっているそうですが特に茶道の歴史として感染症蔓延期の各対応についてその時々の苦労話は伝わっているよう。 そんなとき大谷吉嗣の顔から膿が落ちた茶碗の茶を飲み干す石田三成の逸話を思い出すわけで、その件「回し飲み」ってどう? と聞けばえば、今はあり得ないのでこれからは一人一人器を用意しなくてはならないだろうし、その回し飲みは「濃茶」の場合であって「回す」といっても3人くらいまでだと。 そうでないと「練れない」からだそう。 そして飲み口について懐紙で拭くか指で拭くか(大河ドラマでは指だった・・・)右回し、左回し等々流派によって違うこと・・・各興味本位で素人質問を連発していました。プロはそれを見て流派がわかるそうです。 その日は延々小雨降る一日で

  • 野崎城は街道筋の要衝 そして飯盛山城の出城

    新コロのせいで演劇場・映画館もとより小型の密閉室内で人が大勢に集まる場所などに行ってみようなどという気がまったくおこらなくなってしまいました。そもそも公演・公開中止がまたぞろの世でしたからね。 そういった興行に関わる多様な人たちの生活に関わることで応援はしたいもののリスクというものを許容することはできませんね。 「Go To~」華やかな時流となっていますが困り切っている人たちは何もその限られた旅行関係社に限ったことではありませんからね。 許容できないのは何より私自身が苦しい思いをしたくないからですが先日も拙ブログにても記しましたよう「空気感染もありうる」説を信じればそれは当たり前のこと。 私はその件「大いにある」と踏んでいますし。 最近は再びコロナ重篤患者が上昇傾向といいますから気を緩めるなどあり得ません。 お国の経済活動維持の方向舵取りから緩和ムード、イケイケの風潮になっていますが私は「その手は桑名~」、「踊る阿呆」になるわけには行かないのです。 まだまだ映画のロードショーなど禁忌のような。 そんな中、コロナによって延期されていた映画の公開日が昨日決まったという報がありました。 司馬遼太郎の長岡藩家老の河井継之助を描いた「峠」が映画化されたものでタイトルは『峠 最後のサムライ』です。 2012年の6月18日ということですがそれまでに終息していることを願います。本来ならば今年の9月末の公開予定でしたから座念なことでした。 観劇によってこのコロナで抑圧されてきた日常と佐幕派の鬱憤をあのガトリング銃で晴らしてもらおうという算段です。 最期に空しさに襲われるのでしょうが、それはそれ。 役所広司も好きな俳優ですし。 さて、昨日の野崎観音(慈眼寺)の上の九重塔のある台地先端部分は城址の郭部分でこの城が野崎城です(場所はこちら)。 この城は標高114mとそれほどの比高はなく山城としての醍醐味というものには欠けるのですが何といってもその背後にある飯盛山城とセットというか飯盛山城に向かう登城路の殆どスタート地点にありますので何となく立ち寄れる城址です。 日本城郭大系「野崎城」を転記すれば 「野崎城は河内守護畠山氏の内紛の際、畠山義豊が尚順を野崎城に攻めたということが記載されているのみであるが、城跡は野崎観音慈眼寺東北の裏山一帯にかけて数段の削平地を残している。本郭は飯盛山支脈と10m以上の堀切をもって築かれ標高114.4mの山頂

  • 永仁二年鎌倉期秦氏の痕跡 九重塔 野崎観音堂

    一昨晩の近隣火災の件、詳細情報が自宅内で瞬時に伝わらなかったことに「致命的」を感じ、役場に相談に行きました。 広報無線受信機が各家に配布されているという情報を得たことと、以前その手の「弁当箱風」のガラクタを見たことがあったことからそれを何とか探し出してその更新を依頼しました。 快く受けてくれましたが新品ではなく修理品が(月末頃に)届けられるようです。 役場内でその火災現場から50m程度の所に住まわれる方と会いましたので「夜中に大変でしたね」と言うと「実は爆睡していて気づかなかった」と。 私どもと同じようなものですがそれでも距離が違います。 きっとその機材の電源を落としていたのでしょうね。 どうしても離れた場所のこと、直接関係のない、特に知らなくてもいい事案の情報が圧倒的になりますのでスイッチをオフするその気持ちはわかります。 しかし目と鼻の先の火事騒ぎに気付かずにいられるとはその方の肝の太さを感じます。消防車が10台は来ていたといいますからね。深夜と言えども野次馬から何やらで町内大騒ぎだったでしょう。 息子の友人で当家よりずっと南側に住む者も現場まで飛び出して向かい写メしまくって各所に配信していたようです。 息子から転送されてきたその画像を見てその恐ろしさを知ったのでした。 恐ろしいといえば、今年のクマ出現情報。 毎度その恐怖についてい記していますが今年は特に死者も出るなど自然界への油断も「致命的」を思わせるような秋の景色、先日の焼津の花沢城近くでの出現情報にも驚かされましたが昨日の福井の件は出た場所に尚更。 福井県内にクマの出現があったとしてもそうは驚くことではありませんがその場所が驚愕。 一乗谷城の山中や岐阜県側の山深い地域ならそれも理解できようというものの、昨日捕獲された場所はまさに福井平野の住宅街、ショッピングセンターが並ぶような場所でした。 福井県は柿の実の伐採に補助金が出るそうですがクマはその柿を求めて民家のある場所を彷徨うようです。 クマ世界の情報網があるとしたら「人里にはうまいものがごっそりあるぞ」というところなのでしょうね。それは代々に伝承されるはずですからこれから各所でその「自然」とのトラブルは起こってくるでしょうね。 コロナと同じ、自分がそれに遭遇しないことを祈るばかり。 ちなみにこの秋、「再び福井へ」の腹積もりがありました。 さて、野崎観音の観音堂の裏山からは飯盛山城の登城路がありますがそ

  • 「かこつけて」も十分可 野崎参り お染久松の塚

    昨晩、寝床に入ってスグ、火事の報せ。 ただしちょっとしたサイレンだけで何となく緊迫感というものを感じませんでした。 いつも通り街区のスピーカーからは出火場所について放送していましたので奥方に「何処だって?」と聞けば「よく聞こえなかった・・・」でしたのでそのまま就寝。 そもそも拙寺には屋内に情報を知らせる機材はありませんので「よくわからない」は毎度のこと。 外の電柱に据え付けられたスピーカーが言っていることを聞くには2階に上がって窓を開けるなど積極的に聞きに行かなくてはなりません。 スピーカーは火事の件の情報もありますが、大概は「大したことないだろう」のまさに狼少年状態。 漫然としていることが危機への感覚を遅らせて致命的な結末を迎えることをわかっていながらこのザマは反省モノでした。 これは良い教訓となりましたのでスピーカーが何か言い出したらまず聞きに行くことが肝心。それを聞いて安心すればそれでヨシ。 おそらくあの時、スグに2階に上がって窓を開けたとしたら大いにたまげたでしょうね。のんびり就寝した私どもがそれを知ったのはテレビのニュース。 拙寺から北に数百mしか離れていないお宅が全焼しそちらに住まうお二人の命が失われたといいます。合掌。 御前10時前にはお昼のニュース用の素材だったのでしょう上空をヘリコプターが飛び回っていました。そして各局お昼のニュースではその悲報が伝えられていました。 この火災で隣接する家屋への延焼があったそうですが、それでも当時風が殆ど吹いていなかったことは町にとっては幸いだったかも知れません。 あの位置で北西から北よりの強風が吹いていたとしたら(冬季でしたらいつもビュービュー)もっともっと酷いことになっていたのかも知れません。 アレだけの近距離で消防車のサイレンが大きく聞こえなかったことはチョイ不思議でしたが、奥方と揃って平気の平左衛門の高枕は反省しなくてはなりません。 徒労とあってもサイレン鳴ったら飛び起きる・・・これこそ身を守る基本でした。 そして境内外周の高木を伐るなのメッセージにも聞こえてきました。私は最近は伐採の件サボっていましたが高木で囲うことは堂宇を守護する意味があってご先祖様がそれを伝えたということを考え直したところです。 しかしあの通りでの火災は多いような・・・そして火災は往々にして続きます・・・注意していきましょう。 さて、先日の野崎参りの件。 息子の大阪出身の友人は「知ら

  • 焼津市歴史民俗資料館企画展と小川城8年ぶり再訪

    いつものように午前中は庫裏内片付け。 奥方は汗だくになって2階の障子貼りを。障子のボロは外観見た目がすこぶる悪いものがありますからね。 内心、「本堂やれよ」ではありますが、私に振り返されますので沈黙しています。そちらはずっと先のことになりましょう。 さて、午後も3時すぎになってから「まだ間に合う」と奥方を促して焼津方面へ向かいました。 たまたま出かける前に玄関据え付けのベルを「クマよけにいかが」などと冗談で鳴らしたりしていましたが本当に昨日は焼津でクマの目撃情報があったようです。 よりによってクマが現れた焼津に居たなんて・・・ 今年の日本海側と東北地方でクマの出現の多さは感じていましたがまさか・・・です。静岡の山城散策も今年はヤバいのかも。 すでに日が傾いていましたので山には行かず焼津市歴史民俗資料館の企画展「寺社からたどる戦国の焼津」に入館しました。 まずここで驚いたのは入場料が無料だということ。 各市町、史料館クラスの入館料であっても最低限200円は当たり前の世の中、こちらの入場無料はいかにもお気軽感満点です。 私は初めての当史料館の訪問でしたが、新たな発見もあって楽しい時間をいただきました。 企画展は学芸員の努力の賜物、その働きがあって開催成就できるものですが、力を入れなければならないところは企画の構成は勿論のこと展示史料の借り入れと管理そして見栄えの良い解説文の作成です。 そして展示場に張り付いて時に観覧者の質問に応えること。 当然に「不届き者」の監視は怠れないところでそれは借り入れした貴重品が並べられていますので「何かあったら・・・」の配慮ですね。展示期間中は神経を使うことでしょう。 戦国の焼津といえばどうしても今川-武田-徳川という三家が思い浮かび城郭といえば花沢城と石脇城(または方ノ上城)がどうしても思い浮かびますが、私は小川の長者とその館、小川城が一番に思うところ。 また小川の長谷川といえば長谷山信香院や古刹林叟院もありました。 小川の「城址」といっても残存遺構は皆無で今はただの住宅地になっています。それは2012年に記したブログの通りその名を示すものといえば最近建てられた小さな石標のみでした。 ところがこちらの史料館にてその小川城の石標の隣に掲示板が建てられていることを知りましたので8年振りに寄ってみることにしました。 「小川」といえば古来から旧東海道「小川駅」のあった地でこの地の名称と言えばそ

  • 野崎観音の麟鳳 「観音の 甍見やりつ 花のくも」

    ようやく秋晴れの心地よさ。 台風が去って晴れが2日続きました。午前中は暑い暑いと言いながら庫裏の障子と襖の手入れをする奥方を手伝って午後遅くからは浜岡の叔母の家へ向かいました。 先日も記しましたが当家の「86歳」はまぁ「往生の齢」といってもいい数字。 十分目出度い年齢です。 そして丁度叔母が86歳になりました。 年齢の数えでいえばもはや「87」ですからその「壁」は超えています。 その齢で独り暮らしですから、今のところ「うまく維持」している方ですね。 4~5年前から市の方から「施設入れろ」コールが重ねてありましたが何しろ本人が「絶対に行かない」と言うのと痴呆がそう進んでいないことから私の方も「なるようにしかならない」と好きにさせています。 そうは言ってもおカネがかからないのが現状で今後施設入寮だとか病気を得て入院とかになれば出費も時間もかなりのものになるでしょうね。もっともその時の資金は叔母さんの年金で賄えるワケですから心配はそうはいりませんね。 この叔母のお元気が続けばその大判振舞をたよりに美味しいものを食べさせてもらうというのがいつもの私たちです。 元気な叔母がいる限りそれが続くワケで、最近はますますと大事に思うようになりました。 叔母の好物はうなぎですから、私はたまにはその「コレステロールの塊」もいいか・・・とお昼を抜きにして鰻屋「野崎」の開店直後に3人で入ったのでした。 野崎の濃いめのたれにはもう慣れましたが私の好みと言えば小田原の「松琴桜」の上品さ。 小田原時代の父はといえば「柏又」でしたが・・・。 コロナで小田原には墓参り含めてかなりご無沙汰していますが東華軒の各弁当と伊勢谷のだんご、みのやなき今は鈴廣のかまぼこ等楽しみたいものです。 うなぎは横浜に居る息子もわざわざ小田原「松琴桜」まで友だちを連れて贅沢をしに行くほどで彼もその味が忘れられないようです。 さて「野崎」という名が出ましたので無理くりですが大阪河内の野崎観音に戻ります。 拙ブログでは以前さらっと記しましたがその観音堂付近に掲げられた扁額と句碑を。 「凡人の幸せ明日をうたがわず」に続き芭蕉の句碑が建っていました。 「観音の 甍(いらか)見やりつ 花のくも」です。 こちらは特にこの野崎観音のことを詠んでいるワケではないのですが、その地は十分にその雰囲気を醸し出しています。 世の観音堂にはそれぞれの地元有志によるこの句を記した建碑があるようです。

  • 吉岡弥生記念館 こちらでも至誠 至誠一貫

    東京の新コロ発症者の数は増えもせず減りもせず・・・昨日は146人で、4日ぶりに200を下回りました。土日は検査が少ないので「下回る」を真に受けて取れませんが今後も同じような数字が並ぶのでしょう。 「どうやって経済をまわすか」ということばかりが飛び交っていますが我々小市民にとってそれは二次的なもの。 「どうやって私が新コロに罹らないか」それだけですね。 先般は久しぶりに法要の予約を承りましたが同時に法要終了後のお斎のお誘いを受けました。各家それへの畏怖の温度差はあるようで「恐れることはない」などの言葉も交錯しつつお国の方でも「Go To」皮切りに緩和方向に舵が切られていますのでその雰囲気に浸ることは致し方ないとは思いますが、私の場合はとにかく「まだ早い」ですので今回のお誘いは丁重にお断りさせていただきました。 坊さんは不特定多数の人たちと接する機会が多いもの。 常に「私が感染源」は念頭に置いておかなくてはね。 昨日のニュースで新コロウイルスの「空気感染」について、「米疾病対策センター(CDC)」は見解として「ときどきある」とこれまでの「空気感染しない」の主張を覆していました。 この「空気感染」の語はまさにそれを認めたということであって今まで多く使用された「飛沫感染」とは明らかに区別しているということ。その件については「ナイ」を一貫して日本の研究者ほか主張していましたからね。 私たち国民の方ではどちらかといえばハナから「空気感染」の方を疑っていたおかげで「マスク装着必至」の雰囲気が醸成されてきましたね。結果感染者の数値が今の程度で済んでいるのかも知れません。 まぁそもそも「ときどきある」との論はあまりにもまだまだ研究の方の乏しさがわかるというものですがここでも「わからない」ということが「わかった」ということで。 欧州諸国もアメリカもブラジルもインドも第3波なのか2波なのかずっと1波のままなのか知りませんが、強烈に感染者が増えだしていていまだ「ロックダウン」の声も聞こえてきたりしています。 インドの感染者数がブラジルを抜いたそうですが、先頭を走るアメリカをも一気にブチ抜くような勢いです。 感染者旺盛なその三国は日本の各経済界とも付き合い深く、経済だ緩和だとそれらの国々の人たちを多く招き入れ国内からも商売に行き来すれば変化しているであろうウィルスの脅威から免れないのでは・・・ さて、台風一過の昨日は期待通りの快晴。 静岡

  • 元はと言えば「大柿」 竹腰摂津守重直(道鎮)

    昨日はBSの寅さんを視聴。 初めて見る作品(1981年)でした。焼津の漁港のシーンと静岡弁の連発も・・・ 若い頃はそれに見向きもしませんでしたが齢を重ねたせいもあってか新鮮さ溢れる昔懐かしい画像(特に車たち)見たさに必ずチャンネルを合わせるようになりました。 古いものでもデジタル処理した作品をこうして毎週放映してくれるとなればチャンネル合わせしない手はありませんね。 古い作品ですから出演者は殆どまず亡くなっていたりしてそれだけでも珍しいことこのうえなし・・・ 昨日のテーマは「死」でしたね。 チョイ出演でテキ屋の仲間として2012年に亡くなっている小沢昭一が「末期の病」の設定で登場していました。 元気にしていた友があっという間に亡くなってしまうという現実を目の当たりにしつついつもの単純でぎこちない寅さんの人生の劇場が始まるというスタートでした。 寅さんもそうでしたが小沢昭一は私の父のお気に入りの人でした。人生最大無常である「病」と「死」について皆さん共通してその道を歩んでいったこと、今回はただの懐かしさだけを感じたワケではありませんでしたね。 特に印象的だったのは昭一扮する病床のテキ屋。 医者に見放され退院自宅療養というところ、奥さんを寅さん接待用の買い物に出したあと布団の下から「エコー」らしきタバコを出して奥さんにこっそり一服するというシーン。 まぁその絵からこの人は「肺がんなのかな・・・」などと視聴者は想像するわけですが・・・。 「エコー」といえば祖父が亡くなるまで吸い続けていました。 父はずっと「ピース」で2代続けて専売公社に貢献していましたが、私の代でその付き合いは断たせていただいています。 お話に限らず「死」についてはもう殆ど毎日のように考えない日はないといってもいいほど私の頭の中を渦巻いていますが、この私のタバコに触れない人生と先代、先々代のヘビーな付き合いを比してみて、どう考えても「私の健康寿命」の価値は高いのだ・・・などと考えがちになります。 しかし・・・私の知っているところではそんなことは案外関係ないのかも・・・というのが現実です。まぁすべて、なるようになれ、勝手にしやがれ・・・ですが。 先代先々代ともともに86歳で亡くなっていますがどちらも超が付くヘビースモーカー。 私はうまいことやればそれに+αがあると思うのが常道。それが無ければまず「オカしい」しでなかったとしたら他の不摂生。 3者一番違うの

  • 立政寺 明智光秀登場はこの翌年から信長公記

    台風14のコースは私どもにとってとてもハッピーな動きをしてくれるようです。 東海沖で南よりにコースを変えて上陸はなくなった感じ、あとは少々の雨に耐えるだけのお気楽さとなりました。これで本堂正面の観音扉と閂については不要になりそう。 まぁ発生もコースもスピードも変てこな台風でしたが大切な時間を奪ったあ奴(ただの空気の塊)には恨みがありますのでさっさと消えて欲しいところです。 なくなって欲しいという思いはそれはどなたでも一緒。 人という者が絶対に逃れられない「無常」のうちの「生老病死」についてはどこかで受け入れるべきものとして棚の上に置いておくとして・・・日々その「鉄の塊」を操る私としては交通事故によって人を傷つけることが一番に「有ってほしくない」と思うところ。 ヒヤリ、ハットの連続、まるで「運だけ」で車を運転しているような私を思うとその点特にヤバいと感じています。 先般は池袋の悲しい事故、母と子の命を奪った年配者の暴走事故の公判がありました。 その事故を惹起した老人の過失についてご当人が完全否認したことに各方面から「怪しからん!!」とその無反省な主張について怒りの声が放たれていました。 現在89歳、事故当時87歳の年配者の事を思うとそういった考え(「私は無罪であって悪いのはトヨタプリウスの欠陥」)を主張するのは私としては特に違和感はありませんでした。 世にいう「上級国民」であって元官僚に天下りという優待されてきた環境の中、人生の大半を過ごされていたことも多少なりとも関係があるかも知れませんが、やはり人間、齢を重ねると「自己の失敗」についてそれを承認することを否定しがちになる傾向があります。「私は悪くない」・・・です。 個々の性質によっても違いはありますがそこの点は遺族も社会も「しょうがない」と受け入れる他はないような気がしますね。 そして人はその老人の性質についての善悪を問いたいと試み、そうだそうだとばかりにその論を罵倒の方向に持っていっていますが、あの老人の言い分の裏には一つの問題提起があったのかもしれないと考えます。 利便性安直と利益至上主義によってゴーカートの如くカンタン操作の車両を作りまくり、尚且つペダル誤操作についての対応について放置していたメーカーの責任もそうですが、年配者に対して殆ど機械的に免許を更新させていた公安委員会のやり方に一石を投じた感があります。 また、それでは年配者から安直に免許証を取り上

  • 美濃立政寺は浄土宗 智通光居の墓 濃尾地震

    東海・関東方向に進路をとる台風の前哨というのか当地は一日中小雨とつよめの風混じる悪天。 拙寺オンボロの庫裏は一日中ゴーゴー、ガタガタと鳴っていました。 隙間風も体感温度を下げ、一気に晩秋から冬になったような感じがします。 神奈川に住む義母は思わず電気ストーブをひきづり出したといいますから箱根の向こう側は相当冷えたのでしょう。 つい先だってに40℃超えの数字を見せつけられていただけにこの変化ときたら「ついていけない」のレベル。 居間にも本堂にも扇風機が未だ転がっている始末。 早いところ片付けて灯油とストーブ、そして火鉢の用意をしなくてはイケませんね。 火鉢といえば、コレ。 ある檀家さんが若い頃に祭りで酔っ払って喧嘩になり、怪我をさせたお相手が医院に駆け込んだ後をさらに追いかけて待合室の火鉢を持ち上げて「ぶっ殺してやる」と叫んだところ医師が逃げだした(それを制止したまた別の檀家さんがそのあとの治療をしたといいます)、という武勇伝を誇った方がいます。 先日久々にお会いしたところ闘病中のご様子、相当に弱っていました。他にも酒にまつわる色々を聞いていましたがもはやその若き頃のハチャメチャさは微塵もありません。 ここ相良には血の気の多い人他にもたくさんいらっしゃいますね。 まぁ酒というものがその人の性質を変えてしまっていたのでしょうが、素面のその方といえばいつも温和な笑みを浮かべ、まったくその手の気配はないのです。 奥さんは「病気はその酒が原因」とあっけらかんとしていますが、強かった人が弱気になる姿を見るのはことに寂しいものです。 私がこの寺に入って来年で15年目となりますが、当初からすれば「一昔と半分」、私自身含めてたくさんの変化の連続を見て聞いて体感しています。 よく世間様では「変わろう・・・、変わらなくては・・・」なる語を聞きますが私はその変化・・・無常ほど怖くて切ないものはないと感じていますが。 最大の無常はやはり「加齢」でしょう・・・。 まぁ誰も逃れることはできないことですがね。 さて、唐突ですが岐阜市内へ。 今週の大河ドラマでは元服した「足利義昭」が一乗谷を離れて明智光秀とともに美濃に入りますね。 こちらは立政寺(りゅうしょうじ)なる浄土宗(西山寺派)のお寺(場所はこちら)。 寺号は一見「日蓮宗?」かと思わせましたが「まつりごとを立脚する」の字面は庶民にとってその偽りなき「真摯」を思います。ただしあくどい輩に限っ

  • 「瑠璃と料理の王様と」 相良波津「魚才」鰆菰塩 

    オレオレ詐欺にしろ他人の名義情報を得て小金をくすねるなど「面倒くせぇ輩」が雨後の筍の如く湧きだしていますが今回の「Go To イート錬金キャンペーン 」の小遣い稼ぎの件も「いやはや」モノ。 どちらの金策の方法(掠め取り)も私如きのお頭ではその発想もできないところで驚かされるばかりですが、その「Go To」の方は厳密には非合法とはいえないというかシステムの盲点を突いた何とも言えぬ嫌らしさがありますね。 まぁそのシステムを構築した農水省のお頭のいつものお間抜け拙速を思わせますが。 これはオンライン飲食予約サイトから予約来店(夕食時間帯15時~)すれば「1000円分のポイントを付与しましょう」という触れ込みですが、要は店舗に行って1000円に満たない品を注文して退店すればその差額がお小遣いになってしまうという計算式。 それを他所でも重ねて行って「ひと稼ぎしちゃおう」と各サイトにアップされてから模倣する人が増えているといいます。 オトナの感覚としては「大した額にはならないだろう・・・」とバカバカしくも思いますが人によっては小銭でも「ゲットした」という満足感を得られるということでしょう。 ただし笑っていられないのは店舗側。たまったものではないでしょうね。 1本100円程度の焼き鳥を注文して清算。お店の負担する「システム手数料」は200円といいますから損金が出るワケで。 何より予約席として時間占有されてしまいますのでマトモな客を入れられない逸失利益も大きいところ。 まったく「怪しからん輩」とは思うもののそもそもそこに付け入られてしまうシステムを作った側がどう考えてもバカでしょ。 飲食業を「お国が助ける」とは言いながらが逆に食い物にされてしまうなんて・・・ さて、昨日は久しぶりに小島蕉園について記しましたので続けてそれ関係を。 蕉園の「蕉園渉筆」で一番衝撃的と思う記述と言えば、やはり「馬鮫魚(鰆)菰塩」の段です。 まず第一に賄賂政治と揶揄非難キャンペーンを繰り広げて田沼 意次を葬った松平定信が相良代官の蕉園に贈り物「鰆の菰塩」を届けられて喜んで食べたというところ。 そして第2は相良の代表的名物で今は既に「忘れられた」に等しいその食材について触れられているところですね。 再びそれを世の人たちに広く味わっていただきたいと思う私としてもそれは是非応援したい品物です。 その「鰆の菰塩」は今や相良波津の「魚才」の名物ですが何しろ「加工が

  • 愛馬への報謝 川越の小島蕉園 へいさらばさら 

    迷走しそうな台風14号の突然の発生は困りもの。 それ以前の週刊予報は晴れのオンパレードでしたから。 これで大切な1週間が台無しになりました。 その動きときたらのんびりで、気象庁のスーパーコンピューターも厳密コース解析は不能のよう。 予報円は大きいままですし、四国沖で90度変針して東海・関東にやってくるような予想は唖然。 どちらにしろこの週末は荒れ模様になるのでしょうが、この手の台風というのは温帯低気圧になったとき停滞して前線までつけて長雨に繋がりますのでそうなると週明け以降の空模様がまた心配になります。 この秋、爽やかな秋空の下、山城の一つや二つ歩いてみたいものです。 しかし相変わらず連日のクマ出没の報道。 何やら人を恐れない「新世代」のクマが出現しているようで、平チャラで民家や街区に登場するというもの。 ヒトを恐れぬ個体は厄介です。通常なら山ではヒトと「出くわす」前にクマが察知して逃げるというその習性を期待して歩くのですが、それが通用しないとなると私がその生物との遭遇することほどの不幸というものはありません。 その点、重ねて注意して山に入らなければなりません。 クマとヒトの関わりはその生活圏が重なるもの同士、ライバルとして長い付き合いをしていることは確かですが、それ以上に親しき動物といえばやはり馬・牛たち。 昨日は曲金の馬頭観音堂について記しましたがそちらは梶原景時の愛馬「磨墨」ほか合戦で「討死」した馬たちの供養のために建てられたものでした。 地方の野山含は勿論街区の片隅に多数散在する石仏といえば馬頭観音ですね。 それだけ古の人々の多様な思いが伝わるというものです。 馬と言えば武家の道には欠かすことができないアイテムですし農耕でもその力に頼るのが当たり前の時代が長くありました。最近出回っているエンジン(自動車)の出てくる遥か以前から私ども人間はお付き合いいただいている親しき長い付き合いのある仲間ですからね。 さて先日川越ペンクラブの「武蔵野ペン」なる文芸誌の紹介をいただきました。 その中に田中氏の短い記述には川越時代の小島蕉園の足跡の一つが見えました。 小島蕉園の活動といえば第一に甲州そして江戸とこちら遠州相良が思い浮かびますが母思いの蕉園は江戸の火事頻発を嫌った母の為に短い時間ながら川越に転じています。 その書籍によれば蕉園が碑銘を記したという「瘞馬骨碑」というものがあるということ。「瘞」は「埋める」ですから

  • 軍神社の先の狐ヶ崎の馬頭観音堂 景時愛馬「磨墨」

    朝から奥方ブチぎれ。 乞食・・・「こつじき」についてはかつてもブログにて記したことがありましたが仏教用語で手っ取り早く言い換えれば「托鉢」でしょうか。 要は僧侶が布教等各地方行脚のためその糧をその地で求め、ただ提供されたものを仏から差し出されたと解して有難く命を繋いていくという一つの「行」ですね。悪い言葉、差別を旨とする語彙ではありません。 俗っぽくそれを「物乞い」というようにほとんど差別的に言われだしたのが後世。 また以前私の子供のころと言えばそういう人はどちらでも見かけました。子供心に「なぜ」という疑問と気の毒を感じたものです。 私がお寺に入ったばかりの頃は、そういう「道」を歩む数人の方たちやちょっとした勤労によってその対価を求める人、そして寸借(詐欺)から賽銭泥棒に車上荒らし、空き巣まで本来の「乞食道」とは違う「飛び込み」が多数境内を行き交ったものです。 まぁ乞食(こつじき)と盗人(ぬすびと)とは違いますのですべて一緒くたに括ってしまうのもどうかとは思いますが最近はその手の来訪は激減しています。 特に前者「物乞い」を「行」とする方は殆ど「絶滅危惧種」といってもいいかも知れませんね。 「盗人」に関しては今色々なカタチで増えていますので油断はならないところ、今後も特に夜間などケアしていかなくてはなりませんが。 その「物乞い道」で10年以上前から拙寺に現れる人が一人だけ「残存」しています。 奥方は2~3カ月に一度訪れるその人のために「食糧」をキープしているのですが、その人が昨日朝の5時代に「ピンポン」を連打したのでした。 最初は私が対応しましたが、第一印象は「相変わらずノーマスク でヤバそう」。その人の担当はといえば奥方ですから「お~い」と呼んでバトンタッチしました。 奥方はその「食糧」を手渡す際「それにしても朝のこの時間は非常識」と声をあらげたそう。 奥方の言い分は「訃報と思ってドキっとさせられるだろ」でしたがしかし実をいうと最近は訃報といえば深夜に亡くなる方があってもせいぜい朝8時すぎて、それも電話が主です。 どちらの檀家さんもそのあたりは配慮されるようになっていますので昔と違って「5時代」というのはほぼナイのです。 よって既に奥方がキレたあとの話ですが私は「あの人に何言ってもしょうがないよ」となだめておきました。 ちなみにその人の言っていることはいつも無茶苦茶支離滅裂。 何度会っても私には「あなたはお寺の人

  • 高天神講と吉岡弥生館展示会案内 相良史料館へ

    一昨日、史蹟研究会の先輩が「スマホに変えたよ」と庫裏に飛び込んできました。 すると、「水野さんの高天神城の講演、どうする ?」とのことで要はその連絡をしたくても以前のガラケーの「メモリーが飛んだ」ので相良史料館の特別展示のついでにやってきたとのこと。 その方は何が何でも「家にエアコンは入れない!!」と言ってこの酷暑の夏も窓オープンと扇風機で過ごした人ですが、まさかここへ来て携帯をスマホに変更するとは驚かされました。 いつもまた「オレはガラケー」と吹聴していましたから。 何の事はない、メモリーの移行はショップですんなり行われていて試しに私の携帯の番号を伝えて電話を掛けてもらったところ、しっかり相手先として画面に出ていました。 その方からは以前ショートメールが来ていましたので「LINE」のダウンロードを勧めておきました。 どこかにスマホ教室に行っているようで「ただ今勉強中」とのこと。 スマホもパソコンも加齢による脳みその劣化には悪くないグッズだと思います。 さて、その方の行った相良史料館の特別展示に昨日私どもも行ってきました。 拙寺からは例の蕉園の「祐公令子名説」の御軸が場所を取っていましたが隣に掛かる大澤寺八景軸を久しぶりに拝見し「あと七つあるとして・・・」などと空想していました。 しかしあれだけの体裁を整えるには史料館の長谷川氏は2~3日夜なべしたのでは・・・と思うほどうまくまとめられていました。 私の今回の一番の注目は江戸時代のものではありますが、御近所旧宝泉寺の釈迦如来坐像とその「脇」です。 黄檗宗のご本尊ということで釈迦三尊形式ですが中央に釈迦如来の座像、脇侍は向かって右に摩訶迦葉尊者、左に阿難尊者の立像と黄檗系寺院本尊の形式を踏襲。 廃寺になった宝泉寺は今は小さな祠しかありませんが、管理は波津区の有志たち。 ただしわざわざ「それを見せて頂戴・・・」などいうタイミングがありませんでした。 よって今回それを拝するのが初めてのことでした。 まぁ宝泉寺(本多家有徳の寺院関りとして)今も続いていれば展示会に貸し出すことはなかったでしょう。 ちなみに廃寺になったあと石坂周造がこの無住の寺で生活していたといいます。 しかし私の存じ上げる黄檗の寺といえば、本尊とは別にたくさんの独特の仏像たちが並んでいますので廃寺になったとき「どちらへ・・・」などとも思う所です。 ①②は高天神城。特に①の先、奥の神社の建屋の背後の尾根を行

  • 静岡曲金(狐ヶ崎)十一面観音 梶原景時一統の終焉

    拙寺世話人さんたちともここまるまる顔を合わせていない状況が続いています。 総代会は何とか開催しても世話人会に関しては今年の春の法要、夏の盂蘭盆会そして秋の報恩講と三回連続未開催。 これは閉鎖空間に密になるのはイカン・・・ということで回文のみで済ましているからです。 時間の経過については嫌と言うほどその厳しさを知っているつもりでいますが、そのたった1年にも満たない間に皆さんの健常度には変化があって驚かされることままあります。一言で加齢とはいうもののその変化はある年齢に至るとまさに急です。 自家用車を乗り回していた方がそれを手放してシニアカーに乗り換えていたりするのはある意味「自己の達観」があってのことで寂しいことながらも当方としても「そういうものか・・・」などと承諾できることですが、やはり病気や事故に遭遇したという話を聞くとショックでもあります。 昨日は「徒歩より自転車」を健康維持のために使用していた方が「転倒して救急車で運ばれていた」と息子さんからお聞きし仰天させられました。 車道で転倒し一時的に意識が無かったということで目撃者は無し。近所の人が通報したそうですが警察の現場検証まであったとのこと。 事件性はなくかつ重篤には至らず顔面を数針縫ってただ今入院中といわれ一安心。 当地では頭を打ったり脳関係の病が疑われると榛原病院には脳外科がありませんので間違いなく市街の病院に担ぎ込まれます。どうしても家族の手間は増えてしまいます。 私の父親の時もそう思うこと多々ありましたが、やはり市の方向としては「榛原病院に脳外科を」・・・コレ忘れがちですが重要な課題だと思いますがね。 人は健康の内はその件気が付かないものなのです。 後遺症が残ったり死して初めて「それだった」と気づいても遅いのですが。 さて、先日は鎌倉権五郎景正について記しました。 当家こそ景正流との主張は大庭景義・景親など「大庭」の系統が第一にあげられるところですがその「景」付きからも主張?している通り梶原景時という人も。 静岡では今の静岡市の中心地域で一族郎党が亡くなっていました。 「梶原」というと拙ブログでは梶原景季、梶原山、または梶原堂にて記しています。 そしてその戦闘の件を示唆する遺構として市内「曲金」に曲金観音堂なる祠があります(場所はこちら)。 こちら曲金は旧東海道「狐ヶ崎」と呼ばれた地であの戦闘がこちら辺りで繰り広げられていたということの様。 堂内の像

  • 金沢卯辰山切支丹遺構 明治維新後の弾圧継承

    しかしケツの穴の小せえ新しいソーリ殿だ・・・と思わされたのが今回の日本学術会議のメンバーの非承認の件。 「耳障り言葉には耳を貸さない」「オレ様に逆らったらクビだ」を宣言したようなものですからね。 人の良さそうなオッサンのイメージでしたが、腹の中は真っ黒だったことがよくわかりました。これが「アベ踏襲」の表現の一つだったのでしょう。 私は政治屋のセンセー方より科学者の言葉を信じます。 これまで政治屋の私利私欲の非論理的思考(仁に非ず)を見せつけられていますからね。 ここは何とか学者たちにひと踏ん張りしていただきたいものです。そんな身勝手な「政」を振りかざされるのは小市民にとってたまりません。 気持ちいい秋の空の下、昨日は奥方の所要に付き合って静岡市内に向かいました。 奥方を降ろしたあとは駅前の駐車場に車を停めて国道一号線沿いを独りでブラブラと。大した目的はありませんでした。 途中歩道に溢れんばかりにはみだした人の塊に出くわして「これではマズイ」と咄嗟に車道を歩くはめになりました。 ディスタンスの確保のためですが車に跳ねられたらどうするんだよ・・・とムカっとしながらその施設を見やれば私が初めて知る新興宗教の建屋がありました。 平日の真昼間にこのご執心繁盛のことは感心させられましたが、監督管理者として信者たちを公道にはみ出させたら無関係の人を圧することになりますからそのコントロール無配慮に閉口させられたという次第です。 お隣の韓国では当初宗教団体のグループからクラスターが発生するなどその手の組織の三密に関して結構にいい加減な感じが漂っています。 では拙寺はどうするか・・・分散しかないですね。 まずは報恩講をうまいことまとめていかなくてはなりません。 さて、昨日の金沢卯辰山の続き。 時折ブログではキリシタン禁教令や江戸期の彼らへの弾圧について記していましたがここ金沢の地にはその迫害の歴史のエンディングというか明治維新直後のその異教徒たちへのスタンスがわかる遺構があります。 「異教徒」などと記すと他宗特に仏教以外の宗旨を蔑視する姿勢とも受け取られかねませんが、ここは当時カトリック宣教師たちが仏教徒をそう称したことからの同表現です。 江戸幕府のキリシタン禁制の施策については明治政府は前政権同様にそれを踏襲していますね。 長崎の浦上山里村の農民を1868(明治元)年から、金沢などに分けて流配しました。 勿論囚人扱いですね。 金沢

  • 北方心泉「麟鳳亀龍」 麒麟だけじゃない 金沢卯辰山

    10月といえば秋晴れ。 比較的安定した御日和に恵まれますね。 夏の宿題の色々、特に叔母の家と静波墓園の生垣の剪定は未だ着手には至らないで後ろ髪はずっとひかれっ放しすが、そんなことよりもまずはどこかへ・・・です。 東京で235人の感染者(昨日)を出していても「Go To 東京」が始まって地方の新コロ感染のリスクが広がったことは確実。 政府は元寇の奇跡の再来を期しての大博打なのでしょうが、私は「出立は今がチャンス」と見込んでいます。 まず第一に何より今年の10月11月は暇であるということ。 お取越しは全中止にしてしまいましたし、法要開催も少ないので時間はタップリあります。 報恩講は変則短縮バージョンで3回に分けてご挨拶程度のお勤めをさせていただきますが、 これは息子が来るというので準備やら何やら彼に任せられますのでそれほどの労力はいりません。 若干の不安材料としては息子がウィルスを運んでこないかというところですが、あの東京が「さぁ全国解禁」の雰囲気を醸し出し「入国制限緩和」など浮かれだしている今「久々家に帰りたい」という息子に当方でいつまでも「帰ってくるな!!」はオカシイ話ですからね。 そして何よりも天気が安定しているのが今時分。 南半球の感染者増加が減少傾向になっているといいますが、これから北半球は冬へ向かいます。 寒さと乾燥の日々ともなればウィルスは感染力が増して「神風」の期待虚しく再び「危なくて一歩も外に出られたものじゃあない・・・」ということもあり得ます。 インフルとダブルで罹るなどの悲劇が重なれば「相当酷い」といいますから猶更です。 普通に頭を廻せば春夏の罹患は軽度と考えます。冬場はいったいどんな風が吹くのでしょう。 ということでやはり出張って行くには「10月こそ」なのですね。あとのことは知った事・・・投げやりでございます。 拙ブログでは同じような事を毎度記していますがこの時節こそ近江から北陸の山城行脚にはベストシーズンなのです。 夏場は木々の繁茂+不快生物+酷暑、冬場は荒天+降雪+厳寒とコンディション最悪ですからね。 ただしもろ手をあげて足取り軽くというワケには行きません。 最悪、お腹を空かせた熊本のキャラクターに似た動物と出くわすことがありますからね。 最近は山に限らず市街地まで降りてくる個体もあるようで昨日は新潟で立て続けに被害者が出ていました。 そのうち一名は重体だといいますので恐ろしいこと。確率的

  • 鎌倉景正に加え源九郎判官義経も 御霊神社 

    辛辣な自然災害の報ばかりの熊本の皆さんに明るいニュースが飛び込んできましたね。 大相撲の優勝力士は熊本県初といいますがその力士の大関昇進のおまけつき。 私もその人の姿勢と性格に好感を抱いていましたのでこの結果は大いに喜んでいました。世田谷通りはかつての私の行動エリア内でしたので東農大出身というところも親しみ深いものがありました。 その昇進伝達式の口上が「至誠一貫」(しせいいっかん)。 「真心をもって誠意を貫き通す」といった孟子の言葉のようですね。 その「至誠」というと私どもでは観無量寿経の「至誠心」<しじ ょうしん>と読み方は違いますが同じ字面の大切なスタンスがありました。相撲世界の「武運」を求めるそれとは違いますがそれはそれでヨシ。 仏語としての「真の心」と目標は違えど「心」のありかたとしてベストな言葉と思いました。 まぁどつらかといえばそれこそ政治家みなさんの方向として是非ともそうあって欲しいと思うところが大ですね。 「女性はいくらでも嘘をつく」と言い放ったというオバハン政治屋(「オッサン」に対して)の件ですが、ご自身が言ったはずのその言葉について多くの指摘が上がった段階で「言っていない」とウソをつく。 たくさんの人たちがそれを聞いていたそうで弁解の余地はないようなのですが、図々しくあたかも絵に描いたような化け物の感。見苦しい躰でこれまでの奇怪な弁からもただ奇をてらったこと好きの御仁でしょう。 お早いところご退場を願います。アレでは有権者がバカなの?と言われてしまいかねません。言った言わないのその語も殆ど論外の思想で笑っていられませんね。 さい、昨日の毘沙門堂の続き。 鎌倉権五郎景正と並立して掲げられた札には源九郎判官義経の 名がありました。 由縁は掲示板の通りですが、この御霊神社は元毘沙門堂という経緯がありましたがそもそも西雲寺にあったもの。 明治以降分離されたのでしょうが西雲寺山門に掲げられた山号を見て、それをあらためて知ることができますね。 御霊神社なる名称は各地に見ることができますがこの御霊に関しては勇猛果敢で人々に人気あるヒーロー的人物が「非業の死」を遂げたりすると祀られます。 要は最終的な生き残り「勝者」が自身の為に謀殺したことをのちに「安心」を得た時その件「猛省して祀る」ことはよくあること。 これまでの「安心」が「不安」に変化しつつある時、もしかして過去の「私の行い」の因果かもしれな

  • 鎌倉権五郎景正と毘沙門天 御霊神社は元毘沙門堂?

    10月から始まる「Go To」の感染拡大キャンペーン第2弾、東京参加バージョンはいったいどうなることやら。 丁度、コロナによる世界の死者数が100万人を超えたとのニュースがありましたが、その東京拡大とは別に海外入国者について限定的とはいえ解禁の方向といいますので、いやはやここまで来ると勝手にしやがれ・・・の感。 まぁ私も一時の厳戒体制の雰囲気から大幅に緩んであっちこっちと出張っていますが、お国の方向性が「オープン」から「フルオープン」と大幅にアクセルを踏もうというものですから、その流れには抗えません。 飲食だけで1万人、全体で6万人以上の失業者が出ている中、昔ながらの日本人が勝手に思う奇跡「神風」でも吹かせたいというところなのでしょうかねぇ。 元寇の「神風」については偶然とはいえその因果はわかっていますので説明がつきますが、日本だけ感染者と死者が少ないという現状、その神風の如くを信じて経済維持と表しての不要不急「フルオープン」には無理があります。 どちらにしろコロナ前の「訪日外国人観光客」の超繁忙はもはやあり得ないのでは・・・世界はその状況(安心)を取り戻すにはまだまだ早い。 今年の冬は「酷く寒くなる」という予想もあって風邪だかインフルだかはたまた新コロだかまったくわからないごちゃ混ぜ大混乱の世になるかも知れません。 さて、茅ヶ崎は南湖の西雲寺について記しましたが隣接というよりも殆ど「同じ境内」と思わす場所に御霊神社があります。 神社の前身は毘沙門堂ということで毘沙門天に関する件、看板が掲げられています。 大庭景義がご先祖さまと仰ぐ鎌倉権五郎景正が祀られ尚「勝負」にかかわる勇猛な北方守護者毘沙門天を招いたのでしょう。多宝塔の持ち物が特徴ですね。 鎌倉権五郎景正はご存知、歌舞伎十八番のうち「暫」の主人公ということになっています。

  • 今井宗久 今井家累代の墓 堺の臨江寺

    私の体調不完全の理由は甘いもの好きでしばしばコントロールが効かないほど食べてしまうからですが、今食べたいものといえば、昔ながらの不二家のドーナツ。 その店舗自体もここ数年姿を消しつつ、残った店舗もそのドーナツについて常時店に並んでいません。 よってここ30年近く口にしていませんが、限定的に店に並ぶ日もあるといいます。 胸焼けするほどたくさん食べたいものです。 そして奥方の今の好みといえば、「クリスピー・クリーム・ドーナツ」ですが数年前まで静岡にはその店舗の数件がありましたが、今は撤退が重なって県内はまったく無いよう。 息子も横浜でそれを買っては奥方に画像で見せびらかしますので鬱憤は溜まっているようでした。 そこで一番近いその店舗を見つけて「そこへ行くなら・・・」ということで岡崎教務所まで付き合ってもらいました。 教務所へは今年度の「本山経常費御依頼額」と2023年の「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要」の懇志御依頼金を纏めて納めに向かったのでした。 郵貯銀行は今、チョンボばかりでアテになりませんし、ネット送金も限定されますからね。 何よりまとまったお金ですので、経理方の奥方に逆らうことは不可能なのです。 奥方が調べたというそのドーナツ屋の「一番近い店」は愛知県東郷のららぽーとだと。 聞けば数日前にオープンしたばかりで地図にも載っていないとのことでした。 月曜日ということですし、まぁ混雑については大丈夫だろう・・・とその辺りの消防署にナビを合わせ(勿論ナビソフト不対応)ました。 お天気は申し分なく最高の御日和でどちらに向かったとしても快適な日でしたが、そちらに到着して仰天しました。 駐車場は殆ど満車寸前。 そこはまるでG.W.の真っ只中のような混雑ぶりで「昼時にのんびり食事でも」の期待は大きく裏切られてしまいました。 何処もかしこも大行列で三密しまくり。 さすがにこの場で口をパクパクする気にはなれないとドーナツだけを買って退散しました。 飲食関係以外の店舗ではアルコール消毒と体温測定をしての入店というくくりが当然。それに対して飲食という最大にヤバそうな場所はかなりのデタラメを感じました。 「愛知県人はバカなの?」とつい・・・どっちが田舎者?の問答にまで発展。 まぁどっちもどっちと言われそうですがね。 そして続けざま「東郷って尾張なの?三河なの?」と奥方に。「そんなことは知らない」と一蹴されましたが

  • こゆるぎ地名と念仏嫌いの南郷力丸 でも浄土宗西雲寺

    申し訳ないとは思いますが映画館や演劇、スポーツなど私はさらさら行く気がおこりません。 新幹線や飛行機の利用も勿論のこと。 お国の方で「経済が廻らないから頼むよ・・・」みたいなイケイケ感で庶民の心を盛り上げようとするところが見えていますが、病気になったとしたら例の「自己責任」とやらの白い目ですからね。 周囲からは「遊びに出張ったからコロナに罹った」などと後ろ指を指されながら、苦しい思いをさせられることは想像できるところ。 閉鎖空間に密になって時間をすごすことがリスキーといわれる新コロ、それらの場所にのこのこ行くわけにはねぇ。 この齢でその「まさか」の坂を転げ落ちる痛みを味わいたくありませんし、根拠の無い旗振りにのせられて七転八倒するなんて・・・。 よって昨日記しましたよう「家で寅さん」・・・テレビ小僧が一番です。 とはいえ、そういう私は法事とは言いながら首都圏に足を踏み入れてここぞとばかりに好き勝手、思いつきに従って遊び歩いたのでしたが、かつての住処だった小田原(墓参含めて立ち寄る意 識はありましたが) は結局は諦めました。 小田原に寄りたい一番の理由といえば正直なところ墓参よりも駅弁など、かつてそれで育った小田原の味を求めて帰りたかったのでした。 帰途は連休前と工事と事故の渋滞もあって私は一旦厚木インターで降り小田厚、箱根新道、伊豆縦貫、東名と帰路についたのでしたが、どちらにしろそれらおいしいものたちが並ぶ小田原駅近くまで立ち寄るには時間的にすべてが不可能でした。 さて、最近は年に2回は行きたいと思っていた歌舞伎ではありますがそういうわけで当然にそのリスクは取りません。 以前ブログでは「白浪五人男」の日本駄右衛門(日本左衛門)に ついて記しましたが私が昨日の西雲寺に寄ったのはその歌舞伎のお話(「青砥稿花紅彩画」)の五人組の一人、南郷力丸のモデル といわれる「南湖力丸」の供養塔があるからです。 呉服屋浜松屋の場は弁天小僧とその兄貴分の南郷力丸の独壇場ともいえる痛快愉快な場面ですが特に二人の「自己紹介」口上は耳を澄ませて聞き入ったものです。 その南郷力丸の口上で場面は最後の「稲瀬川の場」のものを面白がってこちらに記します。 「~磯風荒れえ小ゆるぎの磯馴の松の曲がりなり、人となったる浜育ち仁義の道も白川の夜舟に乗り込む舟盗人波にきらめく稲妻の白刃で脅す人殺し背負って立たれぬ罪科はその身に重き虎ガ石悪事千里というからはど

  • 浄土宗も開宗850年 茅ヶ崎西雲寺にて ✖千社札

    毎土曜日の夕食時といえばBS放送の寅さんシリーズ。 東京の新規感染者270名の数字にやれやれといいながら。 緩みっぱなしの政策は多少の国民の犠牲と苦痛は許容されるべきとの暗黙の了解があるのでしょうかね。 寅さんはこれまでいつも「断片的」視聴でした。 そのたくさんの映像たちですが、このタイミングで毎週そちらにチャンネルを合わせてしっかりと視聴する習慣となっています。 毎度「へーぇ・・・」と思わされるシーンがありますが、昨晩は1980年の作品で、昨日のポイントとなった地が奥尻島。 寅さんが亡くなった仲間の墓参りのために船で渡ったという場面です。 私はその地名を知ったのが奥尻島が大きな被災地となった地震と津波でした。 災害は1996年でしたから映画の上映から16年後。海岸線やら家並み、おそらく地元で募ったエキストラの登場がありましたが、その後に襲う大きな災害を思うとみなさん大丈夫だったのだろうか・・・などの思いが。 あの映画はスペシャルが付くほどのワンパターン様で私が若い頃といえばまともに見合う気になりませんでしたが、何故か今になっては「見たい」という気になり、かつ結構に思わされることが多々あるのです。 さて、昨日記した寒川神社は寄らず通過してから国道一号線に出てスグ向かった場所は国道と東海道線が近くに走る西雲寺。 以前からこの付近の踏切は事故が尽きないイメージがありましたので細い踏切を慎重に渡りました。 いつもの如く「西」が寺号にありますので浄土教系のお寺であることはまず間違いないだろうと・・・ するとやはり浄土宗のお寺でご本尊は阿弥陀如来。 どうしても親しみを感じます(場所はこちら)。 私はこちらの寺の掲示板で知ったのですが、法然さんの浄土宗も開宗850年(2024年)のイベントがあるのですね。 テーマは「お念佛からはじまる幸せ」とのことでした。 私ども真宗大谷派でも2023年に「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要」があります。 ちなみに当流の方のテーマは 『南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう』 です。 私も現在できるだけお話の中に「私が今ここにいる意味」といったフレーズを適宜入れるよう試みています。 あと葬儀とは「告別」ではなく「たずねる」であるということも、それは必ず・・・。 「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要」 法要期間 [第1期法要]2023年3月25

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