北条早雲像小田原駅西口のロータリーにある北条早雲公像は、北條五代祭りに併せて特製の兜に陣羽織の姿となります。【開催日】4月下旬~5月上旬☆ ☆ ☆ ☆ ☆
長刀鉾は、祇園祭の「前祭巡行」の先頭を行く鉾。三条宗近が愛娘の病気平癒を願って祇園社(八坂神社)に奉納した長刀を立てたことから「長刀鉾」と呼ばれているのだとい…
園城寺『吾妻鏡』によると、園城寺と源氏の関係は・・・源頼義の子・快誉は開山の智証大師円珍の弟子。三男の義光は鎮守の新羅明神で元服。嫡男の義家は行観に帰依。娘の…
「道灌まつり」は伊勢原市の観光イベント。伊勢原市で生涯を閉じた戦国武将・太田道灌にちなんで付けられた名称です。「太田道灌公鷹狩り行列」、「北条政子日向薬師参詣…
園城寺1209年(承元3年)9月29日、源実朝の招きによって園城寺の公胤が鎌倉に下向します。宿は二階堂行光邸。宿直は、佐々木広綱が担当しました。10月10日、…
来福寺は、和田義盛が鎌倉の名越に創建した寺院。和田合戦後、義盛ゆかりの和田の里に移され、さらに現在地に移されたのだといいます。本堂には、室町時代の作と伝えられ…
甲斐善光寺は、武田信玄が上杉謙信との川中島の戦いで信濃善光寺が焼失してしまうことをおそれ、信濃善光寺の本尊(善光寺如来)を甲斐国に移してきたことに始まります(…
笛吹市の石和八幡宮は、武田信光が鶴岡八幡宮を勧請した社。武田信光は、甲斐源氏五代当主。甲斐武田氏の二代当主。石和荘に館を構え、甲斐武田氏の礎を築きました。石和…
吾妻四郎助光は、『吾妻鏡』に弓の名手として登場する人物。1204年(元久元年)正月の御弓始めに和田胤長・榛谷重朝・諏方盛澄・海野幸氏・望月重隆とともに射手に選…
『吾妻鏡』によると・・・1209年(承元3年)5月20日、源頼朝の法華堂で梶原景時とその一族のための仏事が営まれました。その理由は・・・御所内で怪異な現象が起…
国は武蔵の 畠山武者と生まれて 描く虹剛勇かおる 重忠にいざ鎌倉の ときいたる平家追い討つ 一の谷愛馬三日月 背に負えばそのやさしさに 馬も泣くひよどり越えの…
慈光寺(埼玉県ときがわ町)畠山重忠の末子・重慶は、1205年(元久2年)、父の重忠が北条時政の謀略により武蔵国二俣川で討死すると、慈光寺に登って別当を勤めたの…
畠山重忠公碑1205年(元久2年)6月22日、畠山重忠は北条時政の謀略により二俣川で討たれました。横浜市旭区内には、重忠ゆかりの史跡が多く残されています。首塚…
源実朝の勘気を解いた東重胤の和歌~北条義時に相談したら・・・~
東重胤(とうしげたね)は、千葉氏の一族・東胤頼の子(千葉常胤の孫)。和歌に優れ、源実朝の寵愛を受けた武将。☆ ☆ ☆ ☆ ☆『吾妻鏡』によると・・・1206年…
廣園寺(こうえんじ)は、1389年(康応元年)に創建された臨済宗南禅寺派の寺院。創建者は大江広元の子孫大江師親。1213年(建暦3年)の和田合戦後に横山荘を手…
八幡八雲神社は、武蔵七党の一つ横山党の本拠地だった多摩郡横山荘(現在の八王子市)に創建された神社。横山党は、武蔵国や相模国に割拠した同族的武士団で秩父氏・梶原…
武蔵国男衾郡畠山(現在の深谷市)で生まれた畠山重忠は、やがて、鎌倉街道の要衝にあたる菅谷(現在の比企郡嵐山町)の地に移ります。国の史跡に指定されている菅谷館跡…
畠山館跡畠山重忠は、1164年(長寛2年)、武蔵国男衾郡畠山の地で誕生。畠山氏は秩父一族で、重忠の父重能がこの地に進出して畠山を名乗りました。館跡は、北条時政…
三代将軍源実朝は、1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の後、甥の公暁に暗殺されました。その場所が、大石段の13段目(下から数えて)とい…
畠山重忠の高祖父・秩父武綱は、武蔵国秩父郡吉田郷に吉田城を構えて秩父牧を支配した武将。源頼義・義家父子にい、1051年(永承6年)の前九年の役では頼義から源氏…
藤沢市、寒川町、茅ヶ崎市を流れる小出川沿いには、約3㎞にわたって彼岸花が咲きます。2022年の彼岸花まつりは9月24日(土)。小出川沿いには多くの寺社が多くあ…
『吾妻鏡』によると・・・足立遠元は、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵に参じ、最初に所領を安堵された武将。遠元の所領は武蔵国足立郡。☆ ☆ ☆ ☆ ☆120…
鶴岡八幡宮の一の鳥居の横にある大きな宝篋印塔は、畠山重保の墓と伝えられています。高さ3.4メートルを超えるもので、塔の基礎に「明徳第四 癸酉霜月三 日大願…
1205年(元久2年)6月22日、北条時政の策謀により、本拠地の武蔵国の菅谷館から鎌倉へ向かう途中で幕府軍に攻められた畠山重忠は、郎従から本拠地に退くよう進言…
『吾妻鏡』によると・・・1205年(元久元年)6月22日、畠山重忠討伐のため、北条義時・葛西清重・千葉常秀・大須賀胤信・国分胤通・相馬義胤・東重胤・足利義氏・…
畠山重忠像(深谷市:畠山重忠史跡公園)武蔵国留守所総検校職は、武蔵国の武士団の統率権・動員権を持った在庁官人のトップ。秩父重綱が就いて以後、秩父重隆・河越重頼…
1187年(文治3年)8月15日に、源頼朝が催した放生会を起源としているという鶴岡八幡宮の例大祭。現在は、新暦に換算して9月14日から16日に行われています。…
椋神社は、畠山重忠の先祖秩父氏が本拠とした秩父市下吉田に鎮座する神社。深谷市の重忠の生誕地にある井椋神社は、この神社が勧請されました。境内の八幡宮は秩父氏館の…
武蔵国秩父郡吉田郷を本拠とした秩父氏の館跡。秩父氏は重綱がの「武蔵国留守所惣検校職」に就き、武蔵国内の武士を統率・動員する権限を持って勢力を伸ばします。やがて…
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北条早雲像小田原駅西口のロータリーにある北条早雲公像は、北條五代祭りに併せて特製の兜に陣羽織の姿となります。【開催日】4月下旬~5月上旬☆ ☆ ☆ ☆ ☆
清少納言は「藤の花」ついてこう書きました。藤の花は しなひ長く 色濃く咲きたる いとめでたし(藤の花は、花房が長く、色濃く咲くのが、たいそう素晴らしい)色あひ…
『大鏡』によると・・・摂政・関白の賀茂詣の日は、下鴨神社の社前で素焼きの土器に入った酒を三度勧めるが慣わしでしたが・・・藤原道隆が詣でたときは、神社の者も道隆…
円覚寺の塔頭正続院の昭堂・舎利殿は、鎌倉で唯一の国宝建造物。源実朝が請来したという仏舎利が祀られています。現在の舎利殿は、鎌倉尼五山の一つ太平寺の仏殿が移築さ…
船岡山994年(正暦5年)、都に疫病が流行すると、一条天皇は疫神を神輿に移して船岡山に安置し、悪疫退散を祈る「紫野御霊会」 を営みます。1001年(長保3年)…
悲田院悲田院は、身寄りのない老人や貧しい人、親のない子どもを収容する福祉施設。平安京の東西には2つの悲田院がありました。泉涌寺の悲田院は、平安京の悲田院の後身…
『義経記』によると・・・壇ノ浦の戦い後、源頼朝と不仲となってしまった源義経は、都を逃れ、逢坂の関を越えて大津から琵琶湖を渡って奥州平泉へ向かったのだといいます…
毎年、大船フラワーセンターで開催されている「日本の自生アジサイ展」は・・・5月21日(火)~5月26日(日)の予定。全国に自生するアジサイが展示されます。☆ …
光則寺は、五代執権北条時頼の家臣宿谷光則の自邸跡。宿谷光則の墓1260年(文応元年)、日蓮は、長谷にあった宿谷光則の屋敷を訪れて、政治や宗教のあるべき姿を著し…
越前和紙の里越前市は全国一の和紙の産地。越前和紙は、父の藤原為時とともに越前に下向した紫式部も使用したかもしれないもの。2024年7月には新しい紙幣が発行され…
まんだら堂やぐら群初夏のまんだら堂やぐら群の限定公開は、以下のとおり予定されています。公開期間令和6年4月20日(土) ~6月2日(日)※土・日・月・祝…
「光る君へ 越前 大河ドラマ館」は、武生中央公園にある屋内催事場「しきぶきぶんミュージアム」内に開設されています。まひろが裳着の儀式で着た衣裳為時の居室と書道…
鎌倉ビーチフェスタは、由比ヶ浜海岸で開催される海の楽しさを体験する祭。2024年は5月25日(土)・26日(日)。☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「紫ゆかりの館」は、 紫式部が青春時代を過ごした越前武生に2021年オープンした資料館。館内には、紫式部の越前下向行列の模型が置かれています。 模型の人形・…
「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」越前富士とも呼ばれる日野山は、越前で暮らした紫式部が眺めていたという山。紫式部公園の紫式部像の…
藤原為時と紫式部996年(長徳2年)、越前守として武生の国府に赴任する父藤原為時に同行した紫式部。この情景は武生に向かう国司の一行が木ノ芽峠あたりで休息してい…
岡太神社は、紙祖神の川上御前を祀る神社。川上御前は里人に紙漉きの技術を伝えたという女神。紫式部が下向した越前は和紙の産地。日本初の全国通用紙幣「太政官札」…
源氏の間1004年(寛弘元年)、紫式部は石山寺に参籠。琵琶湖に映る月を眺め『源氏物語』の着想を得たのだといいます。本堂にある源氏の間で書き始めたのは「須磨・明…
仁和寺は、宇多天皇・祖父の敦実親王ゆかりの寺院。敦実親王の三男源雅信、その娘源倫子は仁和寺に葬られました。紫式部の『源氏物語』~若菜上~で光源氏の兄・朱雀院が…
父の伊東祐親が大番役で在京している間に、流人だった源頼朝と恋仲となった八重姫。千鶴丸という男児も授かりますが・・・それを知った父祐親は許さず、千鶴丸を殺害し、…
将門塚940年(天慶3年)2月14日、藤原秀郷と平貞盛に討たれた平将門の首級は、4月25日に京都へ送られて梟首。その後、ゆかりの者たちが神田明神の傍に埋葬した…
明月院のアジサイは、日本古来の「姫アジサイ」です。日本の植物学の父と呼ばれれる牧野富太郎博士が「女性的で優美」であることから名づけたそうです。☆ ☆ ☆ ☆ …
1238年(嘉禎4年)正月28日、四代将軍九条頼経は上洛のため鎌倉を出発。2月17日に入洛し、六波羅御所に入りました。それから10月13日まで京都に滞在してい…
この源頼朝像は、静岡県島田市にある智満寺に聳えていた頼朝杉で制作されたもの。2022年(令和4年)11月23日には、頼朝が流人時代を過ごした伊豆の国市で特別公…
検非違使志『吾妻鏡』によると・・・1191年(建久2年)4月20日、後白河法皇の法住寺殿の修理するため在京していた大江広元は、検非違使の職務として賀茂祭に供奉…
『吾妻鏡』によると・・・1190年(建久元年)4月20日、鎌倉に佐々木定綱の伝令が到着。報告されたのは、源頼朝の姉妹・坊門姫が4月13日に難産のため死去したと…
江戸時代の後期、長崎の出島でオランダ商館医をしていたシーボルトは、日本のアジサイを持ち帰り、「Hydrangea otaksa」(ハイドレインジャ オタクサ)…
申餅下鴨神社の参道にあるお休み処「さるや」さんの申餅。「葵祭」の申の日に神前に供えられたという「はねず色」の餅。都人は「葵祭の申餅」と呼んでいたのだそうです。…
江戸幕府の初代将軍徳川家康は、1616年(元和2年)4月17日、駿府城で死去。『徳川実紀』によると・・・家康は側近の崇伝・天海・本多正純を呼んで、次のように遺…
石和八幡宮(笛吹市)武田信光(たけだのぶみつ)は、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏5代当主。父は武田氏初代の信義。源頼朝に仕えて活躍し、小笠原長清、海野幸氏、望…
檪谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)は、850年(嘉祥3年)、文徳天皇の皇后藤原明子の安産を祈って奈良の春日大社を櫟谷(いちいだに)に勧請したのが始まりと…
武田不動尊恵林寺の武田不動尊は、武田信玄が自らを模刻させたという不動明王。2021年(令和3年)の調査で、像内に銘文が発見され、京の仏師・康住が1572年(元…
鎌倉に武家の都を創った源頼朝は、1199年(建久10年)1月13日に亡くなりました。毎年、4月13日には、墓前祭が執り行われます。頼朝の死因は不明ですが、『吾…
武田信玄の墓1572年(元亀3年)、遠江に侵攻して三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河に進軍した武田信玄。しかし・・・翌年、三河国の野田城を包囲中の陣中で病に…
開催期間中には、苗の販売や育て方講習会も行われる予定です。☆ ☆ ☆ ☆ ☆☆ ☆ ☆ ☆ ☆鎌倉アジサイの名所
覚賢塔4月9日(日)から16日(日)までの1週間、多宝寺址の覚賢塔が公開されています。覚賢塔は、高さ約3メートル・巨大な安山岩製の五輪塔(国重文)。極楽寺の忍…
『吾妻鏡』の記録は、序文のあと、以仁王の令旨から始まります。1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)は、源頼政のすすめで、全国…
銅造盧舎那仏坐像(奈良の大仏)752年(天平勝宝4年)4月9日、鋳造が終わった東大寺の盧舎那仏(大仏)の開眼供養が行われました。そのため、4月9日は「大仏の日…
4月8日は釈迦の誕生日。各寺では、釈迦の誕生を祝う「花まつり」が行われます。誕生仏生まれるとすぐに7歩あるき、右手で天を左手で地を指して「天上天下唯我独尊」(…
極楽寺の本堂前に植えられているのは、一重と八重の花が混生する「八重一重咲分け桜」。室町時代に京都御所の紫宸殿に植えられて「鎌倉桜」といわれた「桐ヶ谷」です。八…