「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」越前富士とも呼ばれる日野山は、越前で暮らした紫式部が眺めていたという山。紫式部公園の紫式部像の…
旧川喜多邸別邸ヨーロッパ映画を日本に紹介した映画事業家・川喜多長政の別邸が無料公開されます。10月2日(土)・3(日)10:00~16:00旧川喜多邸別邸は、…
1159年(平治元年)12月に起こった平治の乱で平清盛に敗れた源頼朝は、翌年3月11日、伊豆国流罪となります。鎌倉の武家政権の歴史は、伊豆国から始まります。☆…
教恩寺の本尊は、一ノ谷の戦いで捕えられた平重衡が信仰した阿弥陀如来像。源頼朝が「一族の冥福を祈るように」と重衡に与えたのだといいます。重衡が往生できるよう祈願…
仏行寺の裏山にある源太塚は、1200年(正治2年)正月20日、上洛途上の駿河国清見関で討死した梶原景季の片腕が埋められているという古塚。景季は、梶原景時の嫡男…
鎌倉と源氏の繋がりは、河内源氏の二代棟梁源頼義が平直方から鎌倉の地を譲り受けたことに始まります。鎌倉を東国支配の拠点とした頼義は、前九年の役を平定した後、戦勝…
梶原の御霊神社は、梶原景時が先祖の鎌倉権五郎景政を祀るために創建したと伝えられています。「梶原」という地名は、梶原氏の屋敷があったことによるのだとか。後に梶原…
北条義時の正室は姫の前(ひめのまえ)。1192年(建久3年)9月25日に結婚しました。姫の前は、比企朝宗の娘。源頼朝の御所に勤め、他に並ぶ者のない権勢をもった…
けけら木「けけら木」は、芦ノ湖の底にあった樹木の化石。古来、伊豆・駿河・相模の境を示していた木だったのだとか。「けけら木」は「こころ木」ともいわれ、源実朝…
真如堂の地蔵堂昔、中国には白面金毛九尾の狐がいたそうです。美女妲妃(だっき)に化けて殷の紂王(ちゅうおう)をたぶらかしますが、正体を見破られて日本へ逃げてきま…
むかし、中国には「湘南」と呼ばれる地域があったそうです。湘江という川があってその南部を指したのだといいます。そこでは禅宗が発展していました。1253年(建長5…
渋谷という地名の由来については他説あるようですが、その一つに・・・武蔵国豊島郡谷盛庄を領していた河崎重家が、京都御所に侵入した渋谷権介盛国を捕らえたことで、堀…
浄智寺の地蔵菩薩像(国重文)浄智寺の地蔵菩薩坐像は、運慶作と伝えられている六波羅蜜寺の地蔵菩薩坐像に姿形が似ているといわれています。六波羅蜜寺の地蔵菩薩坐像(…
1189年(文治5年)、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、9月28日、平泉を発ち、鎌倉への帰路につきます。その途中に立ち寄ったのが達谷窟毘沙門堂。達谷窟毘沙門堂『…
人間五十年 化天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり~熊谷直実~
熊谷直実(須磨寺:源平の庭)1184年(元暦元年)、一ノ谷の戦いで熊谷直実が討ち取ったのは平敦盛16歳。我が子と同じ年頃の敦盛を討った直実は、この世の無常を覚…
無量光院は、奥州藤原氏三代の秀衡が建立。『吾妻鏡』は無量光院について以下のように伝えています。秀衡が建立。堂内の四方の扉には、観無量寿経の大意を描き、秀衡の狩…
観自在王院は、奥州藤原氏二代の基衡の妻が創建しました。『吾妻鏡』は観自在王院について以下のように伝えています。基衡の妻の建立で、四方の壁には京の霊場名所を描き…
園城寺は源氏と深い関係にあった寺院。1051年(永承6年)、前九年の役に出陣する源頼義が戦勝を祈願。頼義の三男・義光は新羅善神堂で元服しました。1159年(平…
毛越寺は、慈覚大師円仁が開き、奥州藤原氏二代の基衡、三代の秀衡の時代に伽藍が整えられました。『吾妻鏡』は毛越寺について以下のように伝えています。堂塔は40余、…
中尊寺は、慈覚大師円仁が開いたと伝えられ、奥州藤原氏初代の清衡が堂塔を整えました。『吾妻鏡』は中尊寺について以下のように伝えています。月見坂堂塔は40余、禅坊…
行田市にある西明寺の文殊堂前には、源頼朝の供養塔と伝えられる五輪塔があります。北条時頼にもゆかりのある寺で、正嘉年間(1257~1259)に文殊菩薩を安置する…
奥州藤原氏三代とは、藤原清衡・基衡・秀衡のこと。1189年(文治5年)9月23日、平泉館を焼き払い北方へ逃げた藤原泰衡を追って厨川にいた源頼朝は、平泉に戻ると…
1190年(文治6年)4月7日、源頼朝は下河辺行平に書状を送り呼び出します。その理由は、嫡男の頼家の弓の師範になってもらうため。頼朝は書状とともに馬も送ってい…
重籐弓(しげとうきゅう)は、小笠原流で最高格の免許弓。(※免許弓は許しを得た者だけが使用できる弓)天の二十八宿・地の三十六禽重籐弓には、握り下28箇所、握り上…
乃木希典(乃木将軍)は、日露戦争で旅順要塞を攻略し、東郷平八郎とともに日露戦争の英雄として讃えられた人物です。乃木将軍は、明治天皇の希望により学習院院長を務め…
恋塚寺は、恋する袈裟御前を誤って殺してしまった遠藤盛遠が、袈裟御前の菩提を弔うために建てた寺。☆ ☆ ☆ ☆ ☆伝説によると・・・1157年(保元2年)春3月…
石清水八幡宮が鎮座する男山の麓を流れている放生川(大谷川)。三勅祭の一つ石清水祭(石清水放生会)が行われることから、常に殺生禁断の川だったのだそうです。放生川…
彼岸花MAPは、伊勢原駅の観光案内所で配布されています。源頼朝や北条政子が信仰した日向薬師麓の里山に咲くヒガンバナ。例年の見頃は9月中旬から下旬にかけて。毎年…
『源平盛衰記』は、源頼朝は「顔が大きく、背が低い」と紹介しています。差別発言になってしまうかもしれませんが、少々がっかりという感じです・・・しかし・・・『源平…
甲斐国の源氏・武田信義と一条忠頼らは、源頼朝の石橋山の戦いの事を聞くと、頼朝に参陣するため駿河国へ向かおうとしたそうですが、信濃国で平家に味方する者があると聞…
東戸塚にある東福寺には、明和6年(1769年)に鶴岡八幡宮の供僧坊・相承院から送られたという頼朝の遺髪が保管されています。東福寺頼朝の遺髪は、東福寺の慶巌の懇…
北条時政像(伊豆の国市:願成就院)『吾妻鏡』によると・・・1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、椙山の堀口辺りに陣を構えます。現在の…
鶴岡八幡宮祭礼行列之図「鶴岡八幡宮祭礼行列之図」は、江戸時代の鶴岡八幡宮の祭礼行列の様子を描いたもの。その中には面掛行列も登場します。1709年(宝永6年)、…
源実朝像(甲斐善光寺)1203年(建仁3年)9月7日、源頼朝の二男千幡(実朝)を征夷大将軍とする宣旨が発布されました。同時に従五位下の位が授けられています。さ…
特別展「鶴岡八幡宮の名刀-歴史に宿る武士の信仰-」~鶴岡ミュージアム~
源頼朝佩刀と伝えられる国宝『沃懸地杏葉螺鈿太刀』(いかけじぎょうようらでんたち)をはじめ、源頼義寄進と伝えられる国宝『朱漆弓』・国宝『沃懸地杏葉螺鈿平胡なぐい…
仁田忠常の墓(函南町)1203年(建仁3年)9月2日、北条時政の命により比企能員を暗殺した仁田忠常。能員暗殺から3日後の9月6日、時政は、能員追討の褒美を与え…
藤沢市、寒川町、茅ヶ崎市を流れる小出川。小出川沿いには約3㎞にわたって彼岸花が咲きます。2021年の彼岸花まつりは9月25日(土)。☆ ☆ ☆ ☆ ☆鎌倉のヒ…
(伊豆市)堀親家は、源頼朝が伊豆国の流人だった頃からの側近。1180年(治承4年)8月17日、頼朝の源氏再興の挙兵に参じ、山木館襲撃・石橋山の戦いで活躍した武…
烏寺(専定寺)1207年(建永2年)9月4日、専定という旅の僧が松の木陰で休んでいると・・・梢にとまった二羽の烏が・・・「今日は熊谷蓮生房が大往生の日だ。西方…
勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院。頼朝は、建設中の勝長寿院に父義朝の廟所を設けるため、後白河法皇に義朝の首の探索を依頼していました。勝…
奥州藤原氏の最後の当主となった藤原泰衡。その最期は哀れなものでした。☆ ☆ ☆ ☆ ☆源頼朝の征伐軍が平泉に逼ってくると、泰衡は平泉館を焼き、郎党の河田次郎の…
1203年(建仁3年)9月2日、北条時政邸で比企能員が暗殺されます。能員暗殺の知らせを受けた比企一族やその郎党は、源頼家の嫡男の一幡の館(小御所)に籠って防戦…
1203年(建仁3年)9月2日朝、二代将軍源頼家は、比企能員を御所に呼び出し、北条時政追討の密議をしていました。この密議を聞いていた者がいます。頼家の母北条政…
鶴岡八幡宮の本宮神輿。桃山期から江戸初期頃の形態的特徴をもったもので神奈川県の有形民俗文化財に指定されています。鳳凰の神輿は応神天皇宝珠の神輿は比売神菊の神輿…
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「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」越前富士とも呼ばれる日野山は、越前で暮らした紫式部が眺めていたという山。紫式部公園の紫式部像の…
藤原為時と紫式部996年(長徳2年)、越前守として武生の国府に赴任する父藤原為時に同行した紫式部。この情景は武生に向かう国司の一行が木ノ芽峠あたりで休息してい…
岡太神社は、紙祖神の川上御前を祀る神社。川上御前は里人に紙漉きの技術を伝えたという女神。紫式部が下向した越前は和紙の産地。日本初の全国通用紙幣「太政官札」…
源氏の間1004年(寛弘元年)、紫式部は石山寺に参籠。琵琶湖に映る月を眺め『源氏物語』の着想を得たのだといいます。本堂にある源氏の間で書き始めたのは「須磨・明…
仁和寺は、宇多天皇・祖父の敦実親王ゆかりの寺院。敦実親王の三男源雅信、その娘源倫子は仁和寺に葬られました。紫式部の『源氏物語』~若菜上~で光源氏の兄・朱雀院が…
父の伊東祐親が大番役で在京している間に、流人だった源頼朝と恋仲となった八重姫。千鶴丸という男児も授かりますが・・・それを知った父祐親は許さず、千鶴丸を殺害し、…
斎王は、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)。嵯峨天皇(桓武天皇の第二皇子)が即位した翌年の810年(弘仁元…
2024年から春の長谷の市は4月に行われることになりました。開催日は4月21日(日)。メイン会場は長谷寺。9:00~16:00朝市は光則寺。8:00~11:0…
賀茂斎院歴代斎王神霊社下鴨神社の賀茂斎院歴代斎王神霊社は、2018年(平成30年)、式年遷宮事業の一環として再興されました。斎王は、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨…
「春なれど 白嶺の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな」越前国へ下向した紫式部に「年が明けたら唐人を見にそちらへ参ります」言っていた藤原宣孝(のちの…
平安時代、琵琶湖の西岸・堅田の地は下鴨神社の御厨でした。堅田の人々は、琵琶湖の鮮魚を献上するかわりに雑役の賦課が免除されていたのだといいます。葵祭の前日(5月…
紫式部歌碑(越前市 蔵の辻)「ふるさとに 帰る山路の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし」父・藤原為時とともに越前武生で暮らした紫式部が「早く都へ戻りたい…
紅葉橋遥拝所唐崎社は、賀茂斎王が退下した際、解齋(お祓い)のために参拝していた社。現在は井上社に合祀されています。賀茂斎王は、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神…
紫式部公園歌碑「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」父・藤原為時に同行して越前武生に下向した紫式部が初めて迎えた冬・・・初雪が降った…
東大寺の大仏743年(天平15年)、聖武天皇は「大仏造顕の詔」を発しますが・・・東大寺の大仏造立にあたっては表面に金を施すため大量の黄金が必要でした。聖武天皇…
996年(長徳2年)正月の除目で淡路守となった藤原為時。しかし、為時は越前守を望んでいたため一条天皇に申文を奏上します。その中にあったのが「苦学寒夜、紅涙霑襟…
紫式部は石山寺で『源氏物語』を書き始めたと伝えられています。「紫式部をめぐる人々」では、『石山寺縁起絵巻』の石山詣や紫式部の肖像画、同時代に活躍した人々の和歌…
静先ず歌を吟じ出して云はく吉野山峯ノ白雪フミ分テ、入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ次に別物の曲を歌う之後、又和歌を吟じて云はく、シヅヤシヅ~ノヲダマキクリカヘシ昔ヲ今ニ…
石山寺は、聖武天皇の勅願で良弁によって開かれた観音霊場。平安時代には石山詣が盛んに行われました。紫式部が『源氏物語』を書き始めた寺として知られ、藤原道綱母の『…
気比の松原松原客館は、平安時代前期に、渤海の使節団(渤海使)を迎えるため越前国敦賀に建てられた迎賓・宿泊施設。気比の松原付近にあったといわれています。気比神宮…
申餅下鴨神社の参道にあるお休み処「さるや」さんの申餅。「葵祭」の申の日に神前に供えられたという「はねず色」の餅。都人は「葵祭の申餅」と呼んでいたのだそうです。…
江戸幕府の初代将軍徳川家康は、1616年(元和2年)4月17日、駿府城で死去。『徳川実紀』によると・・・家康は側近の崇伝・天海・本多正純を呼んで、次のように遺…
石和八幡宮(笛吹市)武田信光(たけだのぶみつ)は、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏5代当主。父は武田氏初代の信義。源頼朝に仕えて活躍し、小笠原長清、海野幸氏、望…
檪谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)は、850年(嘉祥3年)、文徳天皇の皇后藤原明子の安産を祈って奈良の春日大社を櫟谷(いちいだに)に勧請したのが始まりと…
武田不動尊恵林寺の武田不動尊は、武田信玄が自らを模刻させたという不動明王。2021年(令和3年)の調査で、像内に銘文が発見され、京の仏師・康住が1572年(元…
鎌倉に武家の都を創った源頼朝は、1199年(建久10年)1月13日に亡くなりました。毎年、4月13日には、墓前祭が執り行われます。頼朝の死因は不明ですが、『吾…
武田信玄の墓1572年(元亀3年)、遠江に侵攻して三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河に進軍した武田信玄。しかし・・・翌年、三河国の野田城を包囲中の陣中で病に…
開催期間中には、苗の販売や育て方講習会も行われる予定です。☆ ☆ ☆ ☆ ☆☆ ☆ ☆ ☆ ☆鎌倉アジサイの名所
覚賢塔4月9日(日)から16日(日)までの1週間、多宝寺址の覚賢塔が公開されています。覚賢塔は、高さ約3メートル・巨大な安山岩製の五輪塔(国重文)。極楽寺の忍…
『吾妻鏡』の記録は、序文のあと、以仁王の令旨から始まります。1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)は、源頼政のすすめで、全国…
銅造盧舎那仏坐像(奈良の大仏)752年(天平勝宝4年)4月9日、鋳造が終わった東大寺の盧舎那仏(大仏)の開眼供養が行われました。そのため、4月9日は「大仏の日…
4月8日は釈迦の誕生日。各寺では、釈迦の誕生を祝う「花まつり」が行われます。誕生仏生まれるとすぐに7歩あるき、右手で天を左手で地を指して「天上天下唯我独尊」(…
極楽寺の本堂前に植えられているのは、一重と八重の花が混生する「八重一重咲分け桜」。室町時代に京都御所の紫宸殿に植えられて「鎌倉桜」といわれた「桐ヶ谷」です。八…
鎌倉の浜辺に咲くハマダイコン。鎌倉では、平成28年から由比ヶ浜のハマダイコンの種を使った栽培が始まりました。できたダイコンは「鎌倉大根」と名付けられ、レンバイ…
みたらし団子みたらし団子は、下鴨神社の御手洗祭で氏子が作って供えたのがはじまりだといいます。団子は一串に5個で、一番先に一つ、少し離して4つの団子が刺されてい…
1195年(建久6年)3月、源頼朝が東大寺の大仏殿の落慶供養参列に付き従って上洛した畠山重忠は、4月5日、栂尾の明恵上人に会いにいった。重忠が栂尾に近づくと、…
最勝金剛院九条兼実は、源頼朝の征夷大将軍任官に尽力した公卿。天台座主(延暦寺の貫主)となった慈円は同母の弟。鎌倉幕府四代将軍となる九条頼経は曾孫。関白となって…
「北條五代祭り」は、戦国大名・後北条氏五代を称え偲ぶ祭り。武者行列のパレードが市内を勇壮に練り歩きます。鉄砲衆小田原城天守閣本丸広場では鉄砲演技も。北条早雲像…
ある日、賀茂川で川遊びをしていた玉依媛命(たまよりひめのみこと)。すると、川上から朱塗りの矢が流れてきました。その矢を拾い上げて持ち帰ると、神の子を身籠り、や…
葉山町の新善光寺の御前立本尊で、江戸時代前期のもの。新善光寺は、北条時政の孫名越朝時が鎌倉の弁ヶ谷に創建し、1197年(建久8年)に源頼朝が信濃善光寺を参詣し…