995年(長徳元年)、北宋の商人・朱仁聡ら70余名が若狭国に来航。藤原道長は、彼らを越前国へ移します。そして翌年、越前守に任じられたのは紫式部の父・藤原為時。…
995年(長徳元年)、北宋の商人・朱仁聡ら70余名が若狭国に来航。藤原道長は、彼らを越前国へ移します。そして翌年、越前守に任じられたのは紫式部の父・藤原為時。…
四納言は、一条天皇の時代に秀才として知られた四人の公卿。四人とは、藤原道長の政権を支えた源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成。斉信が大納言、俊賢・公任・行成が…
北条早雲像小田原駅西口のロータリーにある北条早雲公像は、北條五代祭りに併せて特製の兜に陣羽織の姿となります。【開催日】4月下旬~5月上旬☆ ☆ ☆ ☆ ☆
清少納言は「藤の花」ついてこう書きました。藤の花は しなひ長く 色濃く咲きたる いとめでたし(藤の花は、花房が長く、色濃く咲くのが、たいそう素晴らしい)色あひ…
『大鏡』によると・・・摂政・関白の賀茂詣の日は、下鴨神社の社前で素焼きの土器に入った酒を三度勧めるが慣わしでしたが・・・藤原道隆が詣でたときは、神社の者も道隆…
円覚寺の塔頭正続院の昭堂・舎利殿は、鎌倉で唯一の国宝建造物。源実朝が請来したという仏舎利が祀られています。現在の舎利殿は、鎌倉尼五山の一つ太平寺の仏殿が移築さ…
船岡山994年(正暦5年)、都に疫病が流行すると、一条天皇は疫神を神輿に移して船岡山に安置し、悪疫退散を祈る「紫野御霊会」 を営みます。1001年(長保3年)…
悲田院悲田院は、身寄りのない老人や貧しい人、親のない子どもを収容する福祉施設。平安京の東西には2つの悲田院がありました。泉涌寺の悲田院は、平安京の悲田院の後身…
『義経記』によると・・・壇ノ浦の戦い後、源頼朝と不仲となってしまった源義経は、都を逃れ、逢坂の関を越えて大津から琵琶湖を渡って奥州平泉へ向かったのだといいます…
毎年、大船フラワーセンターで開催されている「日本の自生アジサイ展」は・・・5月21日(火)~5月26日(日)の予定。全国に自生するアジサイが展示されます。☆ …
光則寺は、五代執権北条時頼の家臣宿谷光則の自邸跡。宿谷光則の墓1260年(文応元年)、日蓮は、長谷にあった宿谷光則の屋敷を訪れて、政治や宗教のあるべき姿を著し…
越前和紙の里越前市は全国一の和紙の産地。越前和紙は、父の藤原為時とともに越前に下向した紫式部も使用したかもしれないもの。2024年7月には新しい紙幣が発行され…
まんだら堂やぐら群初夏のまんだら堂やぐら群の限定公開は、以下のとおり予定されています。公開期間令和6年4月20日(土) ~6月2日(日)※土・日・月・祝…
「光る君へ 越前 大河ドラマ館」は、武生中央公園にある屋内催事場「しきぶきぶんミュージアム」内に開設されています。まひろが裳着の儀式で着た衣裳為時の居室と書道…
鎌倉ビーチフェスタは、由比ヶ浜海岸で開催される海の楽しさを体験する祭。2024年は5月25日(土)・26日(日)。☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「紫ゆかりの館」は、 紫式部が青春時代を過ごした越前武生に2021年オープンした資料館。館内には、紫式部の越前下向行列の模型が置かれています。 模型の人形・…
「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」越前富士とも呼ばれる日野山は、越前で暮らした紫式部が眺めていたという山。紫式部公園の紫式部像の…
藤原為時と紫式部996年(長徳2年)、越前守として武生の国府に赴任する父藤原為時に同行した紫式部。この情景は武生に向かう国司の一行が木ノ芽峠あたりで休息してい…
岡太神社は、紙祖神の川上御前を祀る神社。川上御前は里人に紙漉きの技術を伝えたという女神。紫式部が下向した越前は和紙の産地。日本初の全国通用紙幣「太政官札」…
源氏の間1004年(寛弘元年)、紫式部は石山寺に参籠。琵琶湖に映る月を眺め『源氏物語』の着想を得たのだといいます。本堂にある源氏の間で書き始めたのは「須磨・明…
仁和寺は、宇多天皇・祖父の敦実親王ゆかりの寺院。敦実親王の三男源雅信、その娘源倫子は仁和寺に葬られました。紫式部の『源氏物語』~若菜上~で光源氏の兄・朱雀院が…
父の伊東祐親が大番役で在京している間に、流人だった源頼朝と恋仲となった八重姫。千鶴丸という男児も授かりますが・・・それを知った父祐親は許さず、千鶴丸を殺害し、…
斎王は、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)。嵯峨天皇(桓武天皇の第二皇子)が即位した翌年の810年(弘仁元…
2024年から春の長谷の市は4月に行われることになりました。開催日は4月21日(日)。メイン会場は長谷寺。9:00~16:00朝市は光則寺。8:00~11:0…
賀茂斎院歴代斎王神霊社下鴨神社の賀茂斎院歴代斎王神霊社は、2018年(平成30年)、式年遷宮事業の一環として再興されました。斎王は、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨…
「春なれど 白嶺の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな」越前国へ下向した紫式部に「年が明けたら唐人を見にそちらへ参ります」言っていた藤原宣孝(のちの…
平安時代、琵琶湖の西岸・堅田の地は下鴨神社の御厨でした。堅田の人々は、琵琶湖の鮮魚を献上するかわりに雑役の賦課が免除されていたのだといいます。葵祭の前日(5月…
紫式部歌碑(越前市 蔵の辻)「ふるさとに 帰る山路の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし」父・藤原為時とともに越前武生で暮らした紫式部が「早く都へ戻りたい…
紅葉橋遥拝所唐崎社は、賀茂斎王が退下した際、解齋(お祓い)のために参拝していた社。現在は井上社に合祀されています。賀茂斎王は、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神…
紫式部公園歌碑「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」父・藤原為時に同行して越前武生に下向した紫式部が初めて迎えた冬・・・初雪が降った…
東大寺の大仏743年(天平15年)、聖武天皇は「大仏造顕の詔」を発しますが・・・東大寺の大仏造立にあたっては表面に金を施すため大量の黄金が必要でした。聖武天皇…
996年(長徳2年)正月の除目で淡路守となった藤原為時。しかし、為時は越前守を望んでいたため一条天皇に申文を奏上します。その中にあったのが「苦学寒夜、紅涙霑襟…
紫式部は石山寺で『源氏物語』を書き始めたと伝えられています。「紫式部をめぐる人々」では、『石山寺縁起絵巻』の石山詣や紫式部の肖像画、同時代に活躍した人々の和歌…
静先ず歌を吟じ出して云はく吉野山峯ノ白雪フミ分テ、入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ次に別物の曲を歌う之後、又和歌を吟じて云はく、シヅヤシヅ~ノヲダマキクリカヘシ昔ヲ今ニ…
石山寺は、聖武天皇の勅願で良弁によって開かれた観音霊場。平安時代には石山詣が盛んに行われました。紫式部が『源氏物語』を書き始めた寺として知られ、藤原道綱母の『…
気比の松原松原客館は、平安時代前期に、渤海の使節団(渤海使)を迎えるため越前国敦賀に建てられた迎賓・宿泊施設。気比の松原付近にあったといわれています。気比神宮…
1010(寛弘7年)4月の賀茂祭でのこと。一条大路の桟敷で斎王の行列を見物していた藤原道長は・・・桟敷の前を過ぎる選子内親王に二人の孫(のちの後一条天皇と後朱…
紫式部公園996年(長徳2年)、紫式部は越前守となった父藤原為時に同行して越前国へ。紫式部公園は、紫式部の越前下向を記念して整備された公園。紫式部公園のある武…
琵琶湖の西岸に鎮座する唐崎神社は、賀茂祭(葵祭)を主宰した斎王が退下したときに参拝したともいわれている社。古くから祓の霊場として知られ、平安時代には「七瀬…
京都:葵祭~清少納言が紫式部が、大江広元が九条頼経が・・・~
葵祭(あおいまつり)は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭礼。清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』にも描かれた王朝行事。古くは賀茂…
996年(長徳2年)、藤原為時とともに越前国への旅に出た紫式部。都から近江国に入り琵琶湖を渡って深坂峠を越えて敦賀に達しました。敦賀からは木ノ芽峠を越えて武生…
段葛段葛は鶴岡八幡宮の参道。源頼朝が平安京の朱雀大路を模して造った若宮大路中央の一段高い道。源氏池鶴岡八幡宮の源氏池は、源頼朝が放生池として造営。春ぼたん源氏…
東光寺にある石戸蒲ザクラは、源範頼の杖が根付いたものといわれ、国の天然記念物に指定されている古木。石戸蒲ザクラ☆ ☆ ☆ ☆ ☆☆ ☆ ☆ ☆ ☆~桜の次はア…
1183年(寿永2年)3月、11歳の時に人質として鎌倉に送られた木曽義仲の嫡男義高。源頼朝の娘大姫の許嫁として鎌倉で過ごしていましたが、翌年1月、父の義仲が粟…
気比神宮は北陸道の総鎮守。越前国の一宮。996年(長徳2年)、父の藤原為時とともに越前国へ下向した紫式部も参拝したものと思われます。気比神宮は、1945年…
996年(長徳2年)、越前へ下向するため塩津山(深坂峠)を越えていったといわれる紫式部。そのときに詠んだのが・・・「知りぬらむ 行き来にならす 塩津山 世にふ…
日本一の静の舞~静御前が源義経と出逢った神泉苑の雨乞い伝説~
神泉苑は、雨乞いの霊場であり、疫病が流行した際には御霊会が修されてきた霊場。池に架かる朱塗りの橋は法成橋。源義経と静御前が出会った場所と言われています。5月2…
琵琶湖の西岸に鎮座する唐崎神社は、賀茂祭(葵祭)を主宰した斎王が退下したときに参拝したともいわれている社。古くから祓の霊場として知られ、平安時代には「七瀬…
越前へ下向する紫式部が参拝したという塩津神社の主祭神は塩土老翁神。この地域には塩池があって製塩業が行われ、その者たちが塩土老翁神を祀ったことにはじまるのだ…
塩津浜996年(長徳2年)、紫式部は越前守となった父藤原為時に同行して越前国武生へ下向します。都を発った一行は逢坂の関を越えて大津へ。大津の打出浜から船出して…
葵祭は平安時代から続く祭事。上賀茂神社と下鴨神社の例祭です。祭の見どころは路頭の儀(行列)。特に斎王代の行列が人気のようです。斎王代とは、かつて賀茂神社に奉仕…
紫式部歌碑(白鬚神社)996年(長徳2年)、父の藤原為時とともに越前国へ下向するため打出浜から船出した紫式部は・・・三尾崎で網を引く漁師の姿を見ます。そして、…
白鬚神社琵琶湖の西岸の白鬚神社は近江国最古の大社。創建者は、垂仁天皇の第四皇女・倭姫命。『日本書紀』によると・・・倭姫命は、天照大神を伊勢の地に祀ったとされ、…
打出浜996年(長徳2年)、越前国へ下向するため父の藤原為時とともに都を発った紫式部は、逢坂の関を越えて大津へ。そして、琵琶湖の打出浜から船出し、湖西を渡って…
葵祭(あおいまつり)は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭礼。清少納言や紫式部も見た五穀豊穣を祈願する王朝行事。5月15日の路頭の儀では…
逢坂の関(おうさかのせき)は、山城国と近江国の国境に置かれた関所。996年(長徳2年)、父の藤原為時とともに越前へ下向するため京を発った紫式部は逢坂の関を越え…
3月30日(土)から光明寺の山門楼上が公開されます(5月6日(月)まで。)。釈迦三尊像四天王像十六羅漢光明寺山門光明寺の山門は、鎌倉で一番大きな山門。間口16…
996年(長徳2年)正月、紫式部の父藤原為時が越前国司に任命されます。紫式部は、為時に同行して越前国へ下向するため都を発ちます。夏の事だったといわれています。…
2024年(令和6年)7月3日発行予定の新五千円札の肖像画は津田塾大学を創設した津田梅子。裏面は古くから親しまれてきた「藤の花」。清少納言は『枕草子』に「藤の…
被講とは、詩歌に曲節をつけて詠み上げること。清少納言は『枕草子』に「長やかに詠み出づ」長々と声を引いて歌を詠む)と記しています。鶴岡八幡宮で行われる「献詠披講…
妙本寺のソメイヨシノが開花を始めています。2024/03/25
開花宣言はできませんが・・・妙本寺のソメイヨシノが開花を始めました。☆ ☆ ☆ ☆ ☆3月24日のウェザーニュースのソメイヨシノ開花予想によると・・・源氏山公…
2022年の土肥祭2022年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。「源頼朝旗挙げ武者行列」では、湯河原町出身の船越英一郎さんが源頼朝役、「鎌倉殿の13人」に出演さ…
東京渋谷にある金王八幡宮は、源義朝に仕えた金王丸の名がつけられた神社。金王丸は、源義経を襲撃した土佐坊昌俊と同一人物ともいわれます。そして、社殿前に植えられて…
真珠院の八重姫の梯子供養は、真珠ヶ淵に身を投げた八重姫を「せめて梯子あったら救うことができたのに」という里人の想いから始められたという祭。毎年、4月第二日曜日…
3月21日のウェザーニュースのソメイヨシノの開花予想によると・・・源氏山公園は3月30日段葛(鶴岡八幡宮参道)は3月30日源氏池(鶴岡八幡宮)は4月1日となっ…
全国ふるさとおでん大集合!食べて!遊んで!お花見しましょう!3月21日発表のウェザーニュースによると、小田原城址公園のソメイヨシノの開花は3月27日。花見にち…
開成町のあじさいの里は、田植えを終えたばかりの水田とアジサイの風景を楽しむことができる所。農道や水路沿いで約5000株のアジサイが植栽され、毎年「開成町あじさ…
つらつらと うき世の中を思うにはまじらざるこそまさるなりけれ見聞かでも いわでもかなわざるものをうき世の中にまじるならいはつれもなく いとわざるこそうかりけれ…
古くからの言い伝えでは、人間の体の中には3種類の悪い虫(三尸)が棲んでいて、庚申の日には、寝ている間にその者の悪事を天帝に報告に行くのだそうです。ならば・・・…
曲水の宴(きょくすいのえん)は、3月上巳の日(のちに3月3日)に行われていた宮中行事。旧暦の3月は現在の4月上旬から中旬。桜のシーズンでもあることから花見の宴…
漢竹・呉竹鶴岡八幡宮の漢竹(右)・呉竹(左)は京都御所の清涼殿のものを模したもの源氏池畔の神苑ぼたん庭園に置かれています。漢竹は、府中の大国魂神社の矢竹を株分…
伝承によると、名越で疫病が流行った時、ある者の夢の中に佐助稲荷の化身という白髪の老人が現れ、「祠の前に菜種を蒔いて、それを服用すれば必ず効験がある」と告げられ…
『吾妻鏡』によると・・・1237年(嘉禎3年)3月9日、庚申の日。鎌倉は豪雨。終日降りやまず、亥刻(午後10時頃)には洪水。そんな中、御所では和歌会が催されま…
毎年、大船フラワーセンターで開催されている「日本の自生アジサイ展」は・・・5月21日(火)~5月26日(日)の予定。全国に自生するアジサイが展示されます。☆ …
つらつらと うき世の中を思うにはまじらざるこそまさるなりけれ見聞かでも いわでもかなわざるものをうき世の中にまじるならいはつれもなく いとわざるこそうかりけれ…
鎌足桜「鎌倉」という地名の由来については、いつくかの説があるようですが、浄妙寺の鎌足稲荷社の伝説もその一つにあげられます。藤原鎌足は鹿島神宮に参詣する途中、鎌…
986年(寛和2年)の寛和の変で花山天皇が退位し、一条天皇が即位したことで藤原兼家は摂政となりました。関白太政大臣だった藤原頼忠は、関白の地位は失いますが、太…
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし在原業平は・・・「桜がなければ、咲いたか?散ったか?と思い煩うことも悩むこともないのに・・・」と詠みました。…
極楽寺の本堂前に植えられているのは、一重と八重の花が混生する「八重一重咲分け桜」。室町時代に京都御所の紫宸殿に植えられて「鎌倉桜」といわれた「桐ヶ谷」です。八…
「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの」これは、室町時代の禅僧・一休宗純の名言。花は桜がすばらしい。そして、ぱっと咲いてぱっと散る桜…
桜は「サの神」が降臨すると咲くらしい。桜の「サ」は、サ神の「サ」。「クラ」は、神が座る所。という言い伝えも。サ神は田の神・稲の神。田植えが近くなると山から里へ…
2024極楽寺の仏生会~秘仏本尊開帳・忍性墓公開・花まつり~
仏生会では、本尊の清凉寺式釈迦如来立像が開扉されます。京都清凉寺の「三国伝来の釈迦如来」を模刻したもので、扇ヶ谷にあったいう新清凉寺釈迦堂の本尊であったともい…
建長寺は、五代執権北条時頼が宋の蘭渓道隆を招いて開いた日本で初めての「禅専門道場」。蘭渓道隆は、宋から持ってきたビャクシンの種を植えたのだといいます。現在、山…
「北條五代祭り」は、戦国大名・後北条氏五代を称え偲ぶ祭り。北条氏五代とは、初代早雲、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直。武者行列のパレードが市内を勇壮に練…
1182年(養和2年)、源頼朝は北条政子の安産祈願のため、鶴岡八幡宮の参道・若宮大路を築きます。若宮大路は、鶴岡八幡宮を内裏に見立て、平安京の朱雀大路を模して…
「陸奥は いづくはあれど 塩釜の 浦こぐ舟の 綱手かなしも」『古今和歌集』にあるよみ人しらずの歌。三代将軍源実朝は、この歌を本歌取りしてこう詠みました。「世の…
「桜花ちりかひかすむ春の夜のおぼろ月夜のかもの川風」1217年(建保5年)3月10日夕方、源実朝は牛車に坊門姫を乗せて永福寺の桜を見に出かけます。花見の後、二…
赤染衛門歌碑藤原道隆は、まだ少将だった頃、赤染衛門の姉妹のところに通っていたらしい。やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかなこの歌は、藤原…
1182年(寿永元年)、源頼朝は鶴岡八幡宮の弦巻田と呼ばれていた水田を池にします。その池が源平池(源氏池と平家池)。源平池の造営を担当したのは、伊豆山権現の専…
既自以心為形役(既に自ら心を以て形の役と爲す)奚惆悵而獨悲(奚ぞ惆悵して獨り悲しむ)「これまで自分の心を犠牲にしてきたのだから、もうくよくよ悲しんでいる場合で…
「光る君へ」第10話では、道長がまひろに『古今和歌集』の和歌を贈っていました。平安貴族にとって『古今和歌集』を暗記することは、教養の一つされていました。☆ ☆…
1186年(文治2年)4月8日、鶴岡八幡宮で見事な舞を披露した静御前。鎌倉で愛する源義経の子を出産しますが、男児だったため源頼朝の命により由比ヶ浜に捨てられま…
大倉幕府跡1184年(寿永3年)4月4日、源頼朝の御所の桜が満開となり、鮮やかな風情となりました。頼朝は、姉坊門姫の夫一条能保を誘って花見を楽しみます。平時家…
「花咲かば告げよと言ひし山守の来る音すなり馬に鞍おけ」桜の花が咲いたら知らせよと命じていた山守がやって来る音(蹄の音)がする。桜が咲いたらしい。鞍の用意をいた…
清少納言は『枕草子』に、 「五月ばかりなどに山里にありく、いとをかし」(五月頃に山里を歩き回るのは、とても趣があると記しています。旧暦の5月は新暦の5月下旬か…
おそらくですが、鎌倉で一番早くソメイヨシノが開花するのは、妙本寺なのかも。ここ数年は、東京や横浜と同じかやや早く開花しています。妙本寺がある比企ヶ谷は、源頼朝…
常徳寺常徳寺は、賀茂祭で斎王の還御の行列が通る道筋にあった知足院を始まりとする寺。知足院は、清少納言の『枕草子』にも登場。斎王の還御の行列では、知足院や雲林院…
清少納言は『枕草子』の「節は五月にしく月はなし」の段にこう書き記しています。「さて、春ごとに咲くとて、桜をよろしう思ふ人やはある」(毎年のことだからといって、…
994年(正暦5年)2月21日、藤原道隆は積善寺で、一条天皇の生母・藤原詮子や中宮・藤原定子の隣席のもとで一切経供養を行いました。この時、定子は参列のため内裏…
「光る君へ」第9話で道長が直秀を預けた検非違使は、平安京の治安を維持するために設置された検非違使庁の役人。監視・逮捕・裁判などを行い、別当(長官)・佐(次官)…
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995年(長徳元年)、北宋の商人・朱仁聡ら70余名が若狭国に来航。藤原道長は、彼らを越前国へ移します。そして翌年、越前守に任じられたのは紫式部の父・藤原為時。…
四納言は、一条天皇の時代に秀才として知られた四人の公卿。四人とは、藤原道長の政権を支えた源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成。斉信が大納言、俊賢・公任・行成が…
北条早雲像小田原駅西口のロータリーにある北条早雲公像は、北條五代祭りに併せて特製の兜に陣羽織の姿となります。【開催日】4月下旬~5月上旬☆ ☆ ☆ ☆ ☆
清少納言は「藤の花」ついてこう書きました。藤の花は しなひ長く 色濃く咲きたる いとめでたし(藤の花は、花房が長く、色濃く咲くのが、たいそう素晴らしい)色あひ…
『大鏡』によると・・・摂政・関白の賀茂詣の日は、下鴨神社の社前で素焼きの土器に入った酒を三度勧めるが慣わしでしたが・・・藤原道隆が詣でたときは、神社の者も道隆…
円覚寺の塔頭正続院の昭堂・舎利殿は、鎌倉で唯一の国宝建造物。源実朝が請来したという仏舎利が祀られています。現在の舎利殿は、鎌倉尼五山の一つ太平寺の仏殿が移築さ…
船岡山994年(正暦5年)、都に疫病が流行すると、一条天皇は疫神を神輿に移して船岡山に安置し、悪疫退散を祈る「紫野御霊会」 を営みます。1001年(長保3年)…
悲田院悲田院は、身寄りのない老人や貧しい人、親のない子どもを収容する福祉施設。平安京の東西には2つの悲田院がありました。泉涌寺の悲田院は、平安京の悲田院の後身…
『義経記』によると・・・壇ノ浦の戦い後、源頼朝と不仲となってしまった源義経は、都を逃れ、逢坂の関を越えて大津から琵琶湖を渡って奥州平泉へ向かったのだといいます…
毎年、大船フラワーセンターで開催されている「日本の自生アジサイ展」は・・・5月21日(火)~5月26日(日)の予定。全国に自生するアジサイが展示されます。☆ …
光則寺は、五代執権北条時頼の家臣宿谷光則の自邸跡。宿谷光則の墓1260年(文応元年)、日蓮は、長谷にあった宿谷光則の屋敷を訪れて、政治や宗教のあるべき姿を著し…
越前和紙の里越前市は全国一の和紙の産地。越前和紙は、父の藤原為時とともに越前に下向した紫式部も使用したかもしれないもの。2024年7月には新しい紙幣が発行され…
まんだら堂やぐら群初夏のまんだら堂やぐら群の限定公開は、以下のとおり予定されています。公開期間令和6年4月20日(土) ~6月2日(日)※土・日・月・祝…
「光る君へ 越前 大河ドラマ館」は、武生中央公園にある屋内催事場「しきぶきぶんミュージアム」内に開設されています。まひろが裳着の儀式で着た衣裳為時の居室と書道…
鎌倉ビーチフェスタは、由比ヶ浜海岸で開催される海の楽しさを体験する祭。2024年は5月25日(土)・26日(日)。☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「紫ゆかりの館」は、 紫式部が青春時代を過ごした越前武生に2021年オープンした資料館。館内には、紫式部の越前下向行列の模型が置かれています。 模型の人形・…
「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」越前富士とも呼ばれる日野山は、越前で暮らした紫式部が眺めていたという山。紫式部公園の紫式部像の…
藤原為時と紫式部996年(長徳2年)、越前守として武生の国府に赴任する父藤原為時に同行した紫式部。この情景は武生に向かう国司の一行が木ノ芽峠あたりで休息してい…
岡太神社は、紙祖神の川上御前を祀る神社。川上御前は里人に紙漉きの技術を伝えたという女神。紫式部が下向した越前は和紙の産地。日本初の全国通用紙幣「太政官札」…
源氏の間1004年(寛弘元年)、紫式部は石山寺に参籠。琵琶湖に映る月を眺め『源氏物語』の着想を得たのだといいます。本堂にある源氏の間で書き始めたのは「須磨・明…
長谷寺のあじさい散策路は、アジサイが見ごろになると有料になります。昨年は300円でしたが・・・今年は500円。入山料は別で400円。長谷寺アジサイ物語☆ ☆ …
木曽塚木曽義高は、木曽義仲の嫡男。1183年(寿永2年)3月、源頼朝と木曽義仲の武力衝突の際、義仲が子義高を鎌倉に人質として差し出すことで和議が成立し、義高は…
将門塚940年(天慶3年)2月14日、藤原秀郷と平貞盛に討たれた平将門の首級は、4月25日に京都へ送られて梟首。その後、ゆかりの者たちが神田明神の傍に埋葬した…
明月院のアジサイは、日本古来の「姫アジサイ」です。日本の植物学の父と呼ばれれる牧野富太郎博士が「女性的で優美」であることから名づけたそうです。☆ ☆ ☆ ☆ …
1238年(嘉禎4年)正月28日、四代将軍九条頼経は上洛のため鎌倉を出発。2月17日に入洛し、六波羅御所に入りました。それから10月13日まで京都に滞在してい…
この源頼朝像は、静岡県島田市にある智満寺に聳えていた頼朝杉で制作されたもの。2022年(令和4年)11月23日には、頼朝が流人時代を過ごした伊豆の国市で特別公…
検非違使志『吾妻鏡』によると・・・1191年(建久2年)4月20日、後白河法皇の法住寺殿の修理するため在京していた大江広元は、検非違使の職務として賀茂祭に供奉…
『吾妻鏡』によると・・・1190年(建久元年)4月20日、鎌倉に佐々木定綱の伝令が到着。報告されたのは、源頼朝の姉妹・坊門姫が4月13日に難産のため死去したと…
江戸時代の後期、長崎の出島でオランダ商館医をしていたシーボルトは、日本のアジサイを持ち帰り、「Hydrangea otaksa」(ハイドレインジャ オタクサ)…
申餅下鴨神社の参道にあるお休み処「さるや」さんの申餅。「葵祭」の申の日に神前に供えられたという「はねず色」の餅。都人は「葵祭の申餅」と呼んでいたのだそうです。…
江戸幕府の初代将軍徳川家康は、1616年(元和2年)4月17日、駿府城で死去。『徳川実紀』によると・・・家康は側近の崇伝・天海・本多正純を呼んで、次のように遺…
石和八幡宮(笛吹市)武田信光(たけだのぶみつ)は、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏5代当主。父は武田氏初代の信義。源頼朝に仕えて活躍し、小笠原長清、海野幸氏、望…
檪谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)は、850年(嘉祥3年)、文徳天皇の皇后藤原明子の安産を祈って奈良の春日大社を櫟谷(いちいだに)に勧請したのが始まりと…
武田不動尊恵林寺の武田不動尊は、武田信玄が自らを模刻させたという不動明王。2021年(令和3年)の調査で、像内に銘文が発見され、京の仏師・康住が1572年(元…
鎌倉に武家の都を創った源頼朝は、1199年(建久10年)1月13日に亡くなりました。毎年、4月13日には、墓前祭が執り行われます。頼朝の死因は不明ですが、『吾…
武田信玄の墓1572年(元亀3年)、遠江に侵攻して三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河に進軍した武田信玄。しかし・・・翌年、三河国の野田城を包囲中の陣中で病に…
開催期間中には、苗の販売や育て方講習会も行われる予定です。☆ ☆ ☆ ☆ ☆☆ ☆ ☆ ☆ ☆鎌倉アジサイの名所
覚賢塔4月9日(日)から16日(日)までの1週間、多宝寺址の覚賢塔が公開されています。覚賢塔は、高さ約3メートル・巨大な安山岩製の五輪塔(国重文)。極楽寺の忍…
『吾妻鏡』の記録は、序文のあと、以仁王の令旨から始まります。1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)は、源頼政のすすめで、全国…
銅造盧舎那仏坐像(奈良の大仏)752年(天平勝宝4年)4月9日、鋳造が終わった東大寺の盧舎那仏(大仏)の開眼供養が行われました。そのため、4月9日は「大仏の日…