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2011/05/27

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  • 母 2017年

    久しぶりすぎる更新。 たぶんここにしか書けないことだから、ここに来た。 母が他界して、ずいぶん経つ。 母を思い出さない日は無かった。でも、それでいい。もしかしたら人が生きた証は誰かの記憶に残ることなのかもしれない。そうだとしたら、それもそれでいい。 そして、母が他界してから、俺の人生の後悔の9割くらいは母に関してのものになった。自分を責め過ぎるのは良くない。しかし、人生の他の後悔や悲しみや寂しさは心の隅っこに追いやられた。そのくらい母の他界は大きなことである。 だからといって、悲しみに沈み続けているわけではない。母を思い出すと母の優しさが心に満ちてくる。ちょっとポエム的になってきたか、、、。 生まれてきて良かった。最近そう思う。嫌なことも多いけど、生まれてきて良かった。そう思える理由はとても簡単。優しい母が産んでくれた、育ててくれた。だから生まれてきて良かった。 正直、生..

  • 「すべき」思考から抜け出すのは難しい

    世の中には様々な無形有形のルールがあります。 俺は暗黙のルールは好きではありませんが、それに対して反発するのは色々と面倒なので、適当に従順な素振りをしてますけどね。 さて、表題の件、「すべき」思考。これは暗黙のルール、例えば伝統や風習、自分の思い込み、親からの刷り込み、等々に関連しているのではないかと思います。 「~すべき」と「~したい」は対義語というほどではないと思いますが、折り合いをつけるのが難しいときは多々あるかもしれません。「建前」と「本音」の関係に少し似ているのかもしれません。 しかし、「~したい」の延長として「~すべき」になった場合は、それはそれでいいのかもしれません。そうじゃない場合、葛藤が生じたり、モヤモヤしたり、無意識にストレスを感じたりするのでしょう。 「~すべき」と考えるのは理知的で自制的で真面目な感じがします。なので、窮屈かもしれませんが、良いこと..

  • 経験について思うこと

    百聞は一見にしかず。昔からそんな諺(ことわざ)、あるいは教訓があります。 俺は何でも現地に行って直接見てやろうというわけでもなく、だからといってメディア(ネット含む)を信じきっているわけでもないですけどね。 正直なところ世界の何もかもを信じてないというのもありますが…(苦笑)。(冗談です…) 頭でっかちにならずに自らが体験して何かを学ぶ、それも大事なのでしょう。しかし、積み重ねた体験から形作られた経験則に縛られると視野や思考が狭くなる気もします。 経験則といっても、その人の感性や性格や立ち振舞いや運に左右されることもあるはずです。たとえば、大学に入学し卒業したとします。大学は楽しいよと言う人もいれば、つまらないと言う人もいるわけです。大卒者の全員が大学体験について同じ感想を抱くわけがないのです。 会社だとか組織だとか社会だとか、恋愛や結婚もそういうことなのでしょう。経験をすれ..

  • 気づくこと

    母が他界して、ずいぶんと月日が経った。 いろいろ考えたり悩んだり悔やんだりしたなぁ。 たぶんずっと母のことは忘れない。 最近、一つ気づいたことがある。 母は寂しがりだったのかなと。 そういう気持ちを表に出さない人だったけれども、やっぱりそうだったんじゃないかと。 母の母、つまり俺の祖母が昔言っていた。「あの子(俺の母のこと)は一人で退屈させてはいけない」と。 そのときは、子供は母親にはずっと心配かけていい、と解釈してしまった。何故なら、祖母のその言葉は、俺が母に迷惑かけまくっていて良いのだろうか悩んでいて、それを祖母に相談したときの言葉だったから。 都合の良い解釈かもしれないが、いつまでも世話の焼ける子でいいんだよという意味も多少はあったのかもしれない。でも、やはり「一人にしてはいけない」の意味を俺はその時には分からなかった。 母が認知症の初期の頃はやたら..

  • 様々な

    ふと気がつけば、しばらく更新していなかったです。 そんなことはいいです。 要らないとか煩わしいとか思ったら、ブログなんて消しちゃいますから、僕は。 とにかく、そんなことはいいです。 僕は最近、インターネットは読んだり見たりすることが多いかもしれません。Twitterはちょいちょい書き込みしていますが、テレビ実況みたいな書き込みが多いかな。 結局のところ、わざわざインターネットで主張したいことが自分の中には多くないわけです。主張することが無駄だという意味では無いのですけどね。 本当は人生やら社会やら色々と考えることは多いのですけど、ぶっちゃけ面倒くさいというか、何か旬のキーワードを書くと何かあったりもするわけです。 こんなマイナーなアカウントに絡むかなぁと…思うときはあります。かなり頻度は低いですけどね(苦笑)。 インターネットの世界は流動的に変化し続けている..

  • 変化

    最近、「努力」について色々と考えることが多い。 たぶん、努力とは通過儀礼なのだと思う。 ネガティブな言い方をすると、才能の有無を知るために努力をしてみる必要があると俺は考えている。 「~は無駄だ」というのは、机上の空論で言い切ることも出来るが、やってみてわかることもある。 そんな屈折した意味で「努力は必要」と俺は思う。 努力だけでは上手くいかなくなったときにようやく、工夫だとか知恵だとか的確な目標設定だとか考えるようにもなる。どこまでが努力、どこからが才能や運、そういったことが感覚的にわかるかもしれない。そのためには一旦努力してみる必要はあるのだろう。だから、特に若いときはね、がむしゃらな努力をして挫折することは大事だよ…って誰だ俺は…!?。 半分くらい適当に書いてますゴメンナサイ…。 自己の社会的な存在意義を考えた場合、最終的には努力よりも才能が重要な要素だと思う。..

  • 変な意味で当たり年

    「ものもらい」を患ってしまいました。先日、眼科に行って、今は目薬治療中です。 4月の皮膚病(炎症性のおでき)といい、いろいろ吹き出てくるといいますか…当たり年(?)です。 どうやらその手の病気は具体的な原因は無いようです。もちろん専門家ではありませんので、どうこう言えませんが、概ね脂肪や老廃物の固まりらしいです。なるときはなってしまうといった感じでしょうか。 いずれにせよ早めに医者に行けば治ってしまうようです。何か別の大きな病気ではなかったことは不幸中の幸いなのでしょう。 医学的なことはわかりませんが、なるときはなってしまうのかもしれません。 もしかしたら、その他の物事もそうなのかもしれないです。 偶然なのか必然なのか知らぬまま考える暇もないまま、なるときはなってしまうことはあるのでしょう。 だから考えても仕方が無いと思いつつ、早めの対処をするしかないような気がします。 ..

  • 好き嫌い

    気に入らないものがない、そんな人は滅多にいないだろうと思う。 気に入らないものを排除したがるのは人の心理として当たり前のこと、個人的にはそう思う。 気に入らないもの、嫌いなもの、苦手のもの、それらから避けていたら人間的な成長は無い。 視野も狭まっていくかもしれない。 そういった指摘もおそらく正しい。 だが、克服できる人もいれば、我慢がストレスにかわるだけの人もいるかもしれない。 あるいは、気に入らないものとの付き合い方が上手くなっただけで、心から気に入るように変化したわけではない場合もあると思う。 気に入らないものは気に入らないのである。 でも、俺が気に入っているものを他人は気に入らないかもしれない。 それどころか俺という人間を気に入らないと思っているかもしれない(笑)。 そう、だから、気に入る気に入らないというのは概ね千差万別なのだろう。 ..

  • 本性とか

    インターネットに私的に関わるようになってからも、ネットとは関係無い場であったとしても、「世の中は~」「社会は~」と語りがちになってしまう。 でも、そこにcommitしているのか、commitしたいのかは意識していない。いや、むしろcommitしたくない性格なのである、俺は。 (commit…関わりとか、そんな意味) 余計な関わりを持ちたくないから俯瞰して「世の中はそんなもんだ」と考えたくなってしまう。それは自覚している。 その性格や思考を変えたいとも思っていない。もちろん、そんな性格に本気で自己嫌悪することも無かったりする。 だって、知らないから。 世界中を旅してきたわけでもないし、俺は俺の生活してきた世界しか知らないし。 なので、適当にニュースを見たり、適当に社会学や経済学の本を斜め読みしたりしつつ、適当に何か言ったりしてるだけ。 とか、適当なことを書きつ..

  • ネット

    ネットでの評判や拡散が社会や経済や政治や文化など、多岐に渡って現実への影響力を持ち始めている。 …なのだろうか? あまり興味ないけど、面白いかどうかなのだろうと思う。 もちろん巧妙なマーケティングを仕掛ける場合もあると思うけどね。 少し死語になりつつあるけど「祭」になるかどうかだと思う。ネットの現象が現実に影響を与えていくとしたら、それが「祭」なのかどうか。 こんなことを言ってる俺は感覚が古いのかな(苦笑)。 スマートフォンの普及などもあり、今までネットに縁がなかった人もネットにアクセスするようになったと思う。 そして、最初から現実世界との連動を意識してネットを使う人も多くなったかもしれない。商業利用が盛んになったり、人間関係を意識して使う人も多いのだろうから、やはりそれは必然だし、今はそういう時代なのだと思う。 俺自身はそういう目的を強く持つのは嫌なのだけ..

  • 悩みの優先度

    自分だけのことなのかもしれませんが、様々な悩みがあったとしても悩みの優先度が自分の中でハッキリしている気がします。もちろん、ぼんやりとしたものではありますけどね。 簡単に言うと突然大きな緊急度の高い悩みが生まれると、他のことを一旦忘れてしまいます。 先日の皮膚病手術は自分にはインパクトが大きすぎて、とにかくこの痛みから解放されたいと、ここ数週間そればかり考えていました。 なので、新しい悩みは今までの悩みを忘れさせてくれるようです、自分にとっては…(苦笑)。 正直、同時に様々なことを考えるのは最近苦手になっているというのもありますが…。 予定ではあと1回ほど検診を受ければ皮膚病については終わりそうです。(ちなみに抜糸は終わっています。) 皮膚病の件が落ち着いたら何か新しいことを考えたり、手術および抜糸までの間に制限されていたことを出来たらいいなと思います。 なんとなくですが..

  • 手術

    久しぶりの更新です。 先日、粉瘤(ふんりゅう)という皮膚の病気を発症し、手術しました。入院を伴わない2時間程度の手術でした。術後経過は順調です。 アクシデントはいつ起きるかわかりませんね。 でも、予期せぬことが起きたときに初めて考えたり悩んだりすることもあると思います。 俺は目標を持って計画的に頑張るような人間ではなく、思慮深いと見せかけて思慮が浅く、物事への興味や関心も広く無いです。だから、対応せざるを得ないことが起きないと学習しないです。 詳しいことを書く気は無いのですが、今までの人生、「こんなはずじゃなかった…」「まさか俺が…」と思ったときに初めて気付いたことは結構あったかもしれません。 ぶっちゃけた話、身体能力以外では自分は努力しなくても出来てしまう天才だと勘違いする傾向があったから積極的に学習したり努力をしないわけです(笑)。半分冗談ですが…(半分本当でした。昔は..

  • 才能が無い、でも、いい

    つくづく自分には才能も無いしアピール力も無いと感じる今日この頃です。 でも、めんどくさがりやな自分にしては、やってみたいと思ったことは結構やってきたと思います。 それに、1を2に見せるようなこと、いわば努力アピールみたいなことは大嫌いなので、わりと自分の好きなように生きてきたかもしれません。 正直なところ、誰かの支えがあって生きてこれたとは思いますけど、それはあまり意識していません。意識することもあるのですが、そういうときの自分は萎縮しがちなので、最近はあまり意識しないようにしています。 高校時代の映画作成、現在に至るまでの自作楽曲作成、コンピュータプログラミング、いずれも才能無かったです。出来栄えは滅茶苦茶ですよ…。 それでも、やりたいことはやったほうがいいなと思います。たとえ3日坊主で終わったとしても…。 どうしても人はいつかは死んでしまいます。体裁や才能は気にせず、やりた..

  • 極論、興味の無いことはやらなくていい

    興味の無いことは無理にやらなくてもいいと思う今日この頃です。 自分個人の考えなので他人にオススメ出来ないですけどね…。 興味の無いことは無理にやらなくてもいいと思う理由は2つあります。 まず1つ目は生きている時間は無限ではないということ。 最低限の義務だと思うことは適当にこなして、やりたいことをやるのがいいと思います。たぶん、悔いの無い人生って、そういうことなのかもしれません。 もちろん、「やりたくなくても、やらなきゃいけないこと」はあります。私は「やりたくなくても、やらなきゃいけないこと」は出来るだけ適当に行い、「やりたいこと」に夢中になるのが社会性を保ちつつ後悔の少ない人生を過ごすコツなのかなと思います。 ていうか、本当は社会性という言葉は嫌いなのですが、他に言葉が見つからないので…、あっ、免罪符…、免罪符ですよ。常識人っぽく立ち振る舞えば何とかなるだろうみたいな…..

  • 個人と国家

    大袈裟なタイトルですが…。 持論からいえば、日本は個人と国家の間の信頼関係が曖昧だと思います。そして、その流れは今後も続いていく気がします。 家族の絆を大切にしよう、集団の和を大切にしよう、つまり個人よりコミュニティ秩序の維持が大切、そういった美徳があるようなので、社会の風潮としては必然的なのかもしれません。それが必ずしも悪いことだとは私は思いません。日本人の特徴あるいは強みと捉えてもいいと思います。 ここからは一旦、コミュニティと家族を分けて、家族あるいは親類の話に集中していきます。要するに親族間の相互扶助を行政や法律が促すことへの疑念を、だらだら書いていこうと思います。 最近気になるのは、家族の絆あるいは家族の責任をを前提とした法律や司法判断がいくつか増えつつあることです。 美徳や理念としては「家族の絆」というのは素晴らしいことだと思います。 た..

  • 「~のに」「~べき」放棄

    気持ちを楽にする方法は何かあるのかなぁと、暗中模索な日々です。 認知療法関連の本を読んでセルフチェックしたり、様々な専門職の人からの助言によると、俺は「~べき」思考が強いらしいです。 それと、最近気付いたのは「~のに」思考もあるかなと。 結果や成果を気にしてしまうようです。「頑張ったのに上手くいかなかった」みたいな感覚ですかね。 たぶん、「~べき」思考は父親の道徳的な物言いの影響だと思います。 「~のに」思考は、もしかしたら妄想癖や先読みしがちな気質のせいかなと。ついつい「こうやれば、こうなるはず」と勝手なシナリオを描いてしまうんですよね。なので予想や期待通りにいかないと過剰に落胆してしまうわけです。 最近は大雑把な自分ルールを決めて、そのときそのときの気分を大事にしようと思っています。 ブログもそうなんですよね。「書いたのにアクセス数が少ない」とか、今考える..

  • 自己責任から親族責任へと?

    自己責任という言葉が流行り、やがてその言葉への反発も生まれているような気がする。 タイムリーな話題でいえば、自己責任を唱えていた某フリーアナウンサーが自衛隊の救助により一命をとりとめた件があった。そして、法的には救助費用の自己負担は発生しない。 こういった出来事や顛末があると「自己責任を強調する人だって困ったときは他人に頼るじゃないか」と揶揄されがちである。 なんとなく「自己責任」という言葉は色褪せてきているのかもしれない。 とはいっても、日本の政府は積極的に国民の生存権を守る気配は見受けられない。現実的に財政難ということもあるが、役人や政治家が責任をとりたくないという本音もあるのかもしれない。 どうにも中途半端なのである。国民の自立や自己責任を促すのであれば、政府は国民の世話をやく必要がないのだから必然的にスリムな政府になるはず。 国民の自立を促しつつも官僚組織や..

  • ハプニングが学びなのかなと

    なんだかんだいって俺は恵まれた人生を過ごしてると思う 生活能力や経済力や意欲などを考えたら野垂れ死にしていても不思議ではない 生き辛い時代だと言う人もいるし、それも妥当な見解だと思う ただ、最近個人的に思うのは生命を維持出来ているのは有形無形の事象が自分を支えてくれているというか、逆にいえば生き延びるために無意識に利用させてもらっているというか もちろん違法なことや不正なことをしているわけではないのだけど、形や質はどうあれ社会資源の恩恵は受けていると思う なんだか小難しい話になってしまった ぶっちゃけ俺は周りにあまり感謝しない 与えてもらって当たり前と思っているわけではなく、何をどう感謝していいのかわからないし、返せるものもないから 「あぁ、こういう恩恵を受けているんだなぁ」と理解することで精一杯だし、まずは理解することが第一だと思っている やたら「感謝」..

  • インターフェースの憂鬱

    インターフェース(利便性や操作性と言っておくか)が向上すると製品やサービスは普及しやすくなる傾向はあると思う ありふれた話だが例えば通信関連のことは大概その法則があてはまる 価格やインフラ整備も関係してくる話ではあるが、固定電話、携帯電話、スマートフォン、インターネット、それらが普及しているのもインターフェースが向上したからかもしれない 操作が容易になり、お値段も手が届くなら、使ってみようかなと思うだろう 少し話を横道にそらすと、いわゆるライフライン(電気ガス水道など)も都市部ではインターフェースは概ね容易である 蛇口をひねれば水が出る、ボタン一つで電力が使える、栓をひねったらガスが供給される インターフェースは容易なほうがいい しかし、容易であればあるほど仕組みを知らずに済むので、仕組みに着目する人は減るだろう しかし、利便性を今まで享受していたにもか..

  • 心情

    「○にたい」と思わないようにするにはどうしたらいいか。 最近はそれしか考えてない。 それだけでいいと思う。 いろいろ考えるのは疲れるし面倒くさいのである。 いつまでもそんなことでいいの?とか知らんっちゅーの。 そのときはそのとき。 「そのときはそのとき」としか言いようがない。 覚悟とまではいえないけど、やっぱり「そのときはそのとき」。 真意を説明するのも面倒なのである。

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