松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
ユウゲショウ(夕化粧) : 撮影日 2020.6.30 10:00 a.m. 撮影場所:石岡市名前については、図鑑などで見ているだけです。素人ですのでもし違っていればご一報ください。な(汝)は愛しきもの 作 詞 : 白井啓治 作 曲 : 野口喜広 オカリナ演奏・歌: 野口 喜広 名もない花はありません あなたが知らないだけなのです 名もない花の可愛さを 私が知らないだけなのです 側溝にしがみつい...
茨城の難読地名、千葉の難読地名とここ連載などをして調べて来ましたが、少し変わった地名の中にはその由来を想像するだけで楽しくなる物があります。今回は「里」のつく3つの地名を紹介します。1) 風来里 茨城県石岡市2) 月出里 茨城県稲敷市3) 雪降里 千葉県旭市 さて、この地名は読めますか??風来里: 風来坊が何処からかやって来て世間話でもしそうな場所。月出里: 夜月が出て美しい場所。雪降里: 真っ白な...
この前に書いた「辺田(へた)」地名のある銚子の街中にある辺田地蔵尊、観行院の境内に気になる物があったので紹介しておきます。先ずは、「出世不動尊」です。不動尊ですから、不動明王を祀っていると思われますが、実際の姿は拝むことが出来ませんでした。恐らくは、時には2童子を左右に従えて、赤い炎を後背につけ、獲物を取る羂索(けんじゃく)を手にして、恐ろしい形相で立っている不動明王が想像されます。不動明王はい...
千葉県銚子市の下総台地への上り口に気になる寺があった。この横は何度も通っていたが、車の通りも結構多いので今迄立ち寄らずにいた。入口門柱には、「子安延命辺田地蔵尊」と「新義真言宗智山派 閼伽場山観行院」の2つの看板が掲げられていた。入った所に仁王門があり、その先の正面に辺田地蔵尊のお堂が建っている。右側の門柱には「子安延命辺田地蔵尊」と書かれた看板。 辺田=へた と読む左側の門柱には「新義真言宗智...
常陸国における源平合戦(11) 佐竹氏(源氏)(室町~戦国時代)
常陸国における源平合戦の10回目です。今回は新羅三郎義光が常陸国にやって来て、桓武平氏がこの地の豪族となって南部を中心に勢力を拡大していた中で、水戸近郊に進出していた平氏一族の吉田氏(平氏)の娘を息子(義業)の嫁にして、血縁関係を深め、ここからこの佐竹氏が興ります。では今回は、戦国時代に常陸国を制したこの佐竹氏の動向を見ていきましょう。さて、上の図が、常陸国の佐竹氏の系図(室町~戦国時代末)となりま...
常陸国における源平合戦の9回目です。前回と前々回は平氏として常陸国南部に進出した桓武平氏の直系とされる「大掾(だいじょう)氏」とよばれる氏族を鎌倉時代初めまでの多気大掾氏とその後戦国時代末期までの吉田大掾氏について書いて来ました。では源氏は?常陸国の源氏といえば、戦国時代を制し、常陸国を統一した佐竹氏がいます。常陸国は、ここまで書いてきたようにまず桓武平氏が地元豪族などと手を結すび、常陸国南部を中...
常陸国における源平合戦の10回目です。前回と前々回は平氏として常陸国南部に進出した桓武平氏の直系とされる「大掾(だいじょう)氏」とよばれる氏族を鎌倉時代初めまでの多気大掾氏とその後戦国時代末期までの吉田大掾氏について書いて来ました。では源氏は?常陸国の源氏といえば、戦国時代を制し、常陸国を統一した佐竹氏がいます。この佐竹氏の流れを見て行きましょう。意外に知られていないことも多く、最近になってからわか...
今日は気温はそれほどでもないようだけれどじめじめして鬱陶しい。午前中に、今月の「ふるさと風」の機関紙(会報)を会員で製本して、それぞれが規定の部数を公民館などへ。最近は人数も少ないので、今回のA4で20ページ(A3用紙×5枚裏表)、550部。そのまま昼も食べずに市内4箇所(公民館2箇所、観光施設2箇所)そして八郷地区からトンネルを抜けて小町の里へ。今日は結構混んでいた。車も駐車場がいっぱい。小町裏山からはたく...
行方市麻生にある天王崎は霞ケ浦に飛び出した岬になっている。ここの夕日は美しい。昨日の帰りに夕日が沈む前に通ったので、夕日を眺めに行った。いつもであれば、銚子で仕事すると帰りには陽が沈んだ後になってしまうのだが、今回は早く終わったのと、今は夏至に近いので陽が沈む時刻が遅いので、間に合った。ちょうど夕日が傾き、太陽の道が霞ケ浦にはできていた。しかし誰もいない。すぐ近くにある日帰り温泉施設「白帆の湯」...
前川アヤメ園のあたりには昔「大門河岸(だいもんがし)」という船着場があったようで、この前川でも少し深い場所で、大きめの船がとめられたようです。そのため、ここから北にある古刹「長勝寺」との間に、寺の参道を含め、細長い道があります。この通りに面している一般家庭やお店の玄関先、店先にこの祭りのあいだに、色鮮やかなつるし雛が飾られています。数年前から何度も訪れていますが、いつも目を見張って眺めています。...
昨日、銚子へ行く途中に潮来のあやめ祭りへ立ち寄りました。昨年は祭りが中止、今年も祭りは中止とはなっていないようですが、カクシュノイベントが全て中止になっています。名物の嫁入り舟、アヤメ娘をお目当てに訪れる人もおおいのでしょうが、音楽もかけていないようで、前川アヤメ園も静かに数組の観光客がいるだけで、混み合う事も無く静かな雰囲気でした。例年ですと今頃があやめのきれいな時ですが、今年はどこか寂しげで...
常陸国の源平合戦(8)になります。前回、常陸国南部に勢力を持った桓武平氏の直系である「多気大掾氏」を紹介しました。しかし、この大掾(だいじょう)氏が当時どのように呼ばれていたのかは不明で、大掾職(官職)が必ずしも世襲とはなっていなかったとも言われ、正式に大掾氏と呼ぶのにはふさわしくないという話もあります。ただ、ここからこの常陸国の平氏が始まりますので、ここは多気大掾氏と呼んでおきましょう。また、奈...
さて、かなり細かくい今まで書いてきているので、わかりにくいかもしれませんね。しかし、書き始めたのでこのままのスタイルで最後まで進めたいと思います。さて、今回のテーマは将門の乱の後に、常陸の地(とくに南部)で勢力を持った「平氏」の話です。一般に常陸大掾(だいじょう)氏と呼ばれる平氏です。掾(じょう)は国司の位の一つで、すでにこの「常陸国における源平合戦」の(1)に書いています。守、介の下の位です。ま...
日米和親条約裏話江戸時代末期に日本に訪れた黒船。江戸幕府は1639年に鎖国を開始してからは長﨑出島のみを開港しておりました。ここでの貿易相手はポルトガル、オランダ、中国などであり、蘭学(オランダ語)が中心でした。政府が正式にこの外国人との間で話す場合には、今でいう通訳がおりました。公式の通訳は職業として政府により任命された者だけが許されるのですが、この職の人を通詞(つうじ)と呼びますが、この通詞は...
5月の末の夏日。やけに暑くて、机に向かってるのも疲れてきていた。すると、一匹のハエが目の前に飛んできた。今年のハエも早いな~。 などとまあのんきに・・・まずはこの目障りなハエを追い払ってと手で追い払うが、又すぐにやってくる・・・・今年の梅雨は何時になるのか・・・こんな晴れたり大雨となったり、シトシトと降ったり・・・・まあ、ハエもうるさい物の代表のようなものだろう。うるさい=五月蝿 と書くくらいだ...
さて、ここまで常陸国における源平合戦として、平氏の始まりを書き、続いて平将門の乱を書いて、平氏の坂東武者の広がりを見てきた。次は源氏の始まりを書こうと思うのだが、何時の時代から書くか迷ってしまった。一般には新羅三郎義光が常陸介でやってくる辺りからなのだと思うが、その前に将門の乱の最初の始まりにもなった武蔵国の争いの仲裁に将門が乗り出したことが、この乱の始まりの原因の一つともいわれているおり、これが...
我が家の庭にあるザクロの紅い花が急に目立つようになってきた。眺めていると、緑の葉の色と対比すると、なかなかきれいな色だと思う。有名な「紅一点」の言葉の元になったのは、中国「宋」の王安石の「石榴(ざくろ)を詠む」がその出典だという。 <石榴を詠む> 王安石(今から1000年近く前) 万緑叢中(ばんりょくそうちゅう) 紅一点 人を動かす春色は須く多かるべからず (一面緑色の草原に、紅い石榴...
最近、隣町のような土浦市に出かける機会が減って、年に数回程度しかない。今回は税務署に用事があり出かけてきた。まあ書類を出すだけなので、1分ほどで用事も済んだ。目の前に「新川」という川が流れている。最近はここも桜並木がきれいなので、桜の名所とも言われるようになった。税務署の辺りから上流側には桜の枝が川の上におおい被るようになっており、花いかだもきれいだ。今の時期は青葉が美しく、木々も涼しげでなかな...
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松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...
桜もだいぶ咲き始めました。今朝、市内の国府公園にいってみました。桜ももうだいぶ咲いています。桜と考える人?彫刻またスズランもきれいです。オオアラセイトウ(紫ハナナ、紫金草、花ダイコン)...
芭蕉たちが鹿島に来て何か所かで句を詠んでいますが、私が訪れたことがある句碑が置かれている場所を書いておきたいと思います。書かれている句は次の5か所に分類されています。1)仏頂和尚の庵にてをり/\にかはらぬ空の月かげも ちヾのながめは雲のまに/\ 和尚月はやし梢は雨を持ながら 桃青 (根本寺)寺に寝てまこと顔なる月見哉 同 (大儀寺)雨に寝て竹起かへるつきみかな 曾...
仏頂和尚について今回は芭蕉が禅の師と仰ぐ、鹿島の仏頂和尚(禅師)について、あまり知られていませんので紹介しておきたいと思います。仏頂和尚(仏頂河南)は寛永19年(1642)2月18日鹿島郡白鳥村字札(現鉾田市札)の農家(平山家)に生まれました。芭蕉より2歳年上です。 (仏頂和尚像:根本寺蔵) (大儀寺の仏頂和尚石像)白鳥村の名前は常陸国風土記の香島郡に登場する「白鳥(しらとり...
(解説) 松尾芭蕉は伊賀上野の生まれですが、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。小田原町は慶長年間の僅かな期間存在した地名ですが、その後本小田原町となり、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年(1680年)まで8年間を過ごしています。しかし日本橋の芭蕉宅には寿貞という身の回りを世話してくれる妾と、伊賀...
芭蕉の鹿島紀行を巡る(はじめに) 松尾芭蕉は貞享四年(1687)八月の中秋の名月の日に、二人の門人と共に鹿島地方を月見に訪れました。これは江戸深川の芭蕉庵にいた時に知り合った仏頂和尚からの誘いを受けたものでした。仏頂和尚は当時鹿島の根本寺(こんぽんじ)の住職をしており、鹿島神宮との間で寺領争いがあり寺社奉行に訴えるために、江戸深川の臨川院という草庵にいました。仏頂和尚は、根本寺の寺領訴訟に天和2年(168...
桜の開花は進まないけど、日が照って暖かくなると気持ちも豊かに・・・・ かすみがうら市に用事があり朝早く行ってきました。四万騎農園の栗の木の幼木畑には一面の菜の花がきれいに咲いていました。毎年のことだけどやはり春を感じますね。部屋に鉢植えシクラメンもほったらかしでも毎年遅咲きでも花を咲かせてくれます。やっと満開になりました。事務所入り口の花も、取り除かずにおいたらどんどん出しゃばり・・・・・でも可愛...
常陸大宮市東野(とうの)にある真宗大谷派の法専寺で教えて頂いた元山伏弁円こ「明法房」が葬られたとされる墓所へ。頂いた地図で、元の通り側に戻って法専寺の裏山の向こう側に車で向かいました。地図もあるし大丈夫と思っていたのですが、入口の曲道を通り越して、大回りしてまたもとへ帰って来て見つかりました。通りからの曲がり道に何か案内でもあればいいのですが、何もなかったので見過ごしてしまいました。分って見れば...
昨日の続きです。親鸞の弟子二十四輩の第十九番目が 山伏弁円こと「明法房」です。昨日は真宗本願寺派の「上宮寺(じょうぐうじ)」を紹介しましたが、今日は真宗大谷派の「法専寺(ほうせんじ)」を紹介します。このお寺は常陸大宮市東野(とうの)地区にある寺で、山伏弁円が最初にこの地で修験場を開いた場所です。弁円の素性ははっきりしないとされていますが、ここでは平清盛の孫と云われています。正確には清盛と時子の長...
本ブログも数年前に常陸国と親鸞聖人の足跡などを辿って、記事にもし、また本にもまとめました。しかし、24輩の弟子の残した寺などは特に辿っているわけではありませんでした。ただ、最近見落としている寺などが気になり、特に石岡に暮らしていると大覚寺に伝わる山伏弁円などをもう少し詳しく調べて見たくなりました。思い立つとその残された寺や墓などと云うところに行ってみなければならないという気持に襲われ、昨日3月16日...
3日ほど前だが、案風の強かった日に銚子へ出かけていたのだが、ランチ後に少しの時間で何処か梅見によいところは?と調べて見たが、銚子市内ではあまりヒットしない。それでも「梅と浄国寺」の写真が出て来た。このお寺は確か「芭蕉と一茶の句碑」があったはずで、昔訪れたことがあった。街中から近いし、小雨でもあるので立ち寄ってみることにした。浄土宗の寺院だが、なかなか趣のあるお寺である。境内のお堂と梅のコラボレー...
ふるさと風の会では昨年に常陸国風土記を読み、行方地方を中心に2回に分けてまわりました。今年春に、鹿島地方を巡って見ようと計画しています。行先の候補として1)芭蕉の月見の寺(仏頂禅師)大儀寺2)白鳥の里 白鳥山大光寺 照明院3)沼尾神社4)坂戸神社5)鹿島神宮6)郡衙跡(神野向遺跡)7)跡宮8)一の鳥居(西)大船津9)息栖神社などを考えて居ます。上記には風土記と関係のない場所もありますが、折角行くのでしたらな...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は10回目です。最終回です。<10> 4月6日大洗 ~ 4月7日 帰京(現代語訳)(四月)六日 曇り、多駄八と共に宿屋を出て今日は大洗に行こ...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は9回目です。<9> 水戸散策(2)偕楽園周辺(現代語訳)ふりかへり見ながら通り過ぎて行くと、一株の枝垂桜(しだれざくら)があった。や...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は8回目です。<8> 水戸散策(1)弘道館・水戸城跡まわり(現代語訳)多駄八と共にくたびれ足をひきずりながら城の方へと向ったこのほとり...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は7回目です。<7> 小幡~長岡~水戸(現代語訳)この辺の街道は松繩手(松並木)にあらずして路の両側に桜の木が植えられている。木の様は...
正岡子規の「水戸紀行」を読み進めていて、気になった場所を探しながら旧水戸街道の「小幡宿」にやってきました。ここは水戸から「長岡」のつぎにあたる2番目の宿場町でした。その旧宿場の通りの中ほどの大きな木の根元に石像や「聖徳太子」などと書かれた石碑が集められている場所があり、そこに「小幡城跡」の矢印看板が置かれていました。どの程度の城跡なのかはよく知りませんので、先ずは行って見ないことには・・・車で畑...
イギリス・ロンドンから来ている長女家族も今朝(8/18)成田を出立しました。先週末は1日東京デズニーランドで楽しんで、日曜には長男家族も3年ぶりの再会と云うことで我が家にやって来ました。そして、ファミレスで食事をした後に見頃を向かえているという常陸海浜公園にネモヒラを見に行って来ました。午前中は天気もまずまずで、午後から雷雨もあるというので心配していましたが、夕方3時頃なら空きはじめるかとも思って夕方...
銚子にも月に3回ほどまだ通っているが、最近は比較的交通量が少なく、また道路も広い神栖市側を通って、。銚子大橋をわたることが多くなっていたが、今回は利根川の土手沿いの道を通る事にした。その入口には国の史跡に登録された「横利根閘門」がある。霞ヶ浦と利根川を水路で結び、蒸気船をはじめ、物資輸送にも大いに利用された閘門である。一般的な水門は上下に動かすが、この水門(閘門)は真ん中をくの字にして前後にして...
昨日銚子へ出かけました。桜も散り、途中でどこ見ておきたいところは・・・などと考えながら車を霞ヶ浦北側を潮来のほうへ走っていました。もう、周りの田んぼは土起しがなされ、かなりの田には水が張られていました。一部の田では稲がすでに植えられているところもありました。茨城のこのあたりは長閑で良いのですが、新緑の美しさや湖は見られるのですが、この日は少し霞んでいて、遠くの方はぼやけていました。これも黄砂の影...
もう6日前ですが、潮来の裏山の稲荷山から、脇の道を下に下って潮来の市街に出ました。ここの頼朝ゆかりの古刹「長勝寺」に桜と新緑を求めて立ち寄ってみました。この参道沿いの桜も並木となって、咲いているときも、また花吹雪となっているときも美しいのですが。多くに桜花は散って、葉桜となっていました。この楼門も水戸光圀の命で、別な寺から移築されたものです。ほんどうも前にこのあたりを通過した台風で痛めつけられま...
麻生から東に進むと「潮来」地区になる。ここは市街地のすぐ裏手を国道51号線が通っているが、この高台に「稲荷山公園」がある。暫く訪れていなかったので、様子を見に山側の国道側から公園に入った。国道沿いに公園の入り口がある。中を右に進むと、市街地から稲荷神社への上り階段がある。ここから潮来の町をこのように見下ろすことが出来る。これが稲荷神社。公園の桜はもうすっかり葉桜となっていた。この稲荷神社もすっかり...
沖洲、小高ときて、次に立ち寄ったのは麻生、この町の街中商店街から直ぐの所に「羽黒山公園」があります。地元の方の憩いの場所となっているようです。でも初めて訪れた人はその入り口から少し迷いそうです。結構狭いところから山に登ります。上は公園や休憩所などと、旧麻生の城跡遺跡があります。麻生氏は行方四頭の一人ですが、戦国時代に隣にいた同じ身内の島崎氏(潮来)に攻められ落城しました。江戸時代になると、周りは...
沖洲の常福寺を後にして、次に立ち寄ったのは小高地区にある「皇徳寺」だ。この寺へも久しぶりである。国道355号線の道沿いに「皇徳寺」の矢印看板があるので、そこを左折してすぐである。ここは行方四頭の長男「小高氏」の菩提寺だ。小高氏も戦国末期に玉造氏や島崎氏と同様に、佐竹氏により滅ぼされたが、玉造や麻生などの名前は都市として残されたのに比べ、小高氏は行方氏の長男であったにもかかわらず、余り知られていない...
昨日は銚子へ仕事に出かける途中で、桜のまだ見られそうなところをまわりながら出かけた。ただ、朝方にやりかけの仕事1時間ほどした後になったので、遠くまで行くわけには行かないので、通り沿いで見物し易そうな場所を選んだ。まず、国道355号線を霞ヶ浦の北側沿岸沿いで、行方市に入り、国道から逸れて沖洲の町への旧道に進んだ。そこには1233年開山と伝わる「(真言宗)常福寺」がある。ここの桜が少し気になったので立...
コロナ禍で、行き来が出来ないでいましたが、3年ぶりにやっと孫もイギリスから日本に来ることができました。孫娘も、前に来たときは2歳と6歳、大分大きくなっていました。30日に我家に来ました。少しこちらにいて、来週から九州のほうまで旅行に行き、その後又戻ってくる予定。そして東京ディズニーランドに行くのがもっとも嬉しいようです。さて、昨日は大洗に遊びに行って来ました。しばらく波と戯れて大はしゃぎ。海浜公園も...
常陸国風土記を紐解き、関係のありそうな所を調べながら記事にしています。今回は行方郡の最後に記述されている大生の里にある古社「大生(おおう)神社」を紹介します。ここを最初の訪れたのは2014年でした。 今から9年近く前になります。いろいろなサイトで「元鹿島」といわれるとの紹介があり訪れてみたのです。当時の記事から少し引用します。元鹿島といわれる大生神社は、鹿島神宮とは北浦を挟んだ反対側(西側)の少...
事務所に置いたままになっている鉢植えのシクラメン。今年で6回目の冬を越えました。健気でかわいらしいが、手入れも殆んどしないずぼらな主人で少し可哀相になる。去年の夏は葉っぱを総て枯らして水を数ヶ月絶った。秋になって水をあげたが、年明けて蕾だった花も3月になってやっと咲いてきた。リンなどの栄養素もわずかに差した。殺風景な場所だけど、日当たりは結構いいんだよね。後数ヶ月きっと咲いてくれそうだ。ありがとう...
大生の里には元鹿島と呼ばれる大生神社があります。私も今までに数回訪れているのですが、まともにこの鹿島神宮の「元」の意味を紐解いたことが有りません。何しろ、鹿島神宮の創建よりこちらの大生神社は大分後に創建されているのですから、「元」という」意味が理解できずにいます。まずはこの大生原といわれる大地の上に広がる大生古墳群を見てみましょう。築造されたのは古墳時代中期と言いますので、大体5世紀頃と言います...
大生の郷については、常陸国風土記の行方郡最後に「此(田の里)より以南に、相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里あり・・・」と出てくるだけで、相鹿の里と大生の里は合体しているような書き方がされています。又説明も倭武の天皇(ヤマトタケルの命)が相鹿の丘前の宮にいたときに、飯を炊いた建屋を浦浜に建てたので「大炊(おほひ)」から「大生の村」という名前になったという謂れしか紹介されていません。そのため、角川の...
常陸国風土記の行方郡の最後に、「此(田の里)より以南に、相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里あり。古老の曰へらく、倭武の天皇、相鹿の丘前(おかざき)の宮に坐(いま)しき。此の時、膳(かしはで)の炊屋舎(かしぎや)を浦浜(うらべ)に構へ立て、小舟を編みて橋と作(な)し、御在所(みましどころ)に通ひき。大炊(おおひ)の義(こころ)を取りて、大生(おほふ)の村と名づく。又、倭武の天皇の后(きさき)、大橘...
昨日書いた行方郡の田の里にある鹿島神宮と関係の深かったという(小牧)鉾神社を紹介しましたが、この神社のある台地に南側に普門寺(天台宗)というお寺が、この神社の別当であるというので、そちらも確認して来ました。山の麓に立っていますが、台地の上からは竹林で道は確認できませんでした。この寺の上には中世に砦があったようです。下の道から回っていきました。寺の入口に「天台宗」の文字が。奥に寺の本堂が見えます。...
先日書いた行方郡の芸都(きつ)の里の後に、「其の(芸都の里)南に田の里あり。息長足日売(おきながたらひめ)の皇后の時、此の地に人あり、名を古都比古(こつひこ)と曰ふ。三度韓国(からくに)に遣されしかば、其の功労を重みして、田を賜ひき。因りて名づく。又、波須武(はずむ)の野有り。倭武の天皇(ヤマトタケル)、此の野に停宿りて、弓弭(ゆはず)を修理ひたまひき。因りて名づくる也。野の北の海辺に、香島の...
常陸国風土記の行方郡に「芸都(きつ)の里」という場所が書かれています。前に書いた当麻(たぎま)の里のすぐ後、「此れより以南に芸都(きつ)の里あり。古、国栖、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)と謂ふ二人有りき。其の寸津毘古、天皇の幸に当り、命に違ひ、化(おもむけ)に背きて、甚く粛敬无(な)かりき。爰(ここ)に御剣を抽(ぬ)きて、登時(すなはち)斬り滅(ころ)したまひき。是に、寸津毘売、...
この角折の浜についても今まで何回か書いてきたが、いろいろ調べていくと知らない話しも出てきて面白い。1300年以上も経つとその間に歴史変わっていくものなのだろう。さて、常陸国風土記には昨日書いた「白鳥の里」の話の後に、「以南に有る所の平原を、角折(つのをれ)の浜と謂う。謂へらくは、古(いにしへ)、大蛇(をろち)有り。東の海に通る(いた)らむと欲ひて、浜を掘りて穴を作りしに、蛇の角折れ落ちき。因りて名づ...
この記事は以前書いたものの再話ですが、こちらにも少し変えて残しておきます。常陸国風土記の香島郡の記述「郡の北三十里に、白鳥(しろとり)の里あり。古老の曰へらく、伊久米の天皇の世に、白鳥有り。天より飛び来たり、僮女(をとめ)と化為りて、夕に上り朝に下る。石を摘(ひろ)ひて池を造り、其が堤を築かむとして、徒(いたづら)に日月を積みて、築きては壊えて、得作成さざりき。僮女等、 白鳥の 羽が 堤を つつ...
さて、常陸国風土記も一般によく引用やお話しに扱われる話も結構ありますが、全く無視されている箇所もたくさんあります。まあ、ここでは余り説明も殆んど無い箇所を主に取り扱っていますが。昨年くらいから、この江戸時代にUFOか? とか 養蚕伝承との関係は? とか 瀧澤馬琴の話し 新分や展示会などいろいろ取り上げられています。どこまでが本当にあった話なのかはここでは検証はしませんが、常陸国風土記に書かれている...