寺内町は「環濠都市(環濠集落)」とも呼ばれ、その周囲に「環濠土居」を構築した城塞都市です。 今井町でも「環濠」が復元されています。 「今井西環濠広場」で、右…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
東京メトロ「雑司ヶ谷」駅と都電荒川線「鬼子母神前」駅が同じ場所にあり、そこから「鬼子母神参道」を下ります。「目白通り」を横断し「宿坂(中世には、宿坂の関が置か…
豊島区高田。都電荒川線「面影橋(悲運な美女が、川面に身を写し、投身自殺したらしい)」駅を少し北上すると、「南蔵院(真言宗豊山派。護国寺の末寺)」があります。此…
古来、冬期の「忠臣蔵」に対し、夏期の興行界を牽引した「東海道四谷怪談」。鶴屋南北原作の怪談ですが、毒殺された貞女「お岩」が幽霊となって夫の伊右衛門らに祟る物語…
西巣鴨4丁目(都営地下鉄三田線「西巣鴨」駅北東部)に、一寸した寺町があります。今日は、此処を散策します。 まずは「西方寺(浄土宗)」です。寺号は、当に西方浄土…
駒込5丁目の「染井霊園」には、岡倉天心、高村光雲、岩崎彌太郎などの有名人が眠っています。その東隣りに「東京スイミングセンター」があり、北島康介の出身クラブだそ…
本妙寺に隣接して建つ「慈眼寺(日蓮宗)」です。染井霊園も直ぐ近くです。当寺には、司馬江漢、芥川龍之介、谷崎潤一郎が眠っています。谷崎は、本墓は法然院(銀閣の近…
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われる程、火事の多かった江戸の街ですが、明暦3年(1657)の「明暦の大火」では、焼死者10万人、江戸城天守閣を始め、江戸市街地の…
京都の嵐電には、寺社の名称の付く駅名が並びます。西院、蚕の社、太秦広隆寺、車折神社、鹿王院、御室仁和寺、妙心寺、龍安寺、等持院。此処「巣鴨庚申塚」も、都電荒川…
単に「六地蔵」と言えば京都のことなので、「江戸六地蔵」と呼びます。「第1番:品川寺(ほんせんじ)」、「第2番:太宗寺(新宿)」、「第3番:真性寺」、「第4番:…
白金の桜田通りにあった「清正公覚林寺」が細川家中屋敷跡だったのに比し、此方の浜町公園の一角にある「清正公寺」は、細川家下屋敷跡にあります。何れにしても、熊本藩…
東日本橋2丁目のとあるビルの2階に鎮座する「初音森神社」です。かつて此の界隈は奥州街道に沿って「初音ノ森」と呼ばれる樟木等が生い茂る森地が広がっていました。…
神田川の最下流、隅田川に臨む橋が「柳橋」です。江戸から明治にかけて、殷賑を極めた花町、料亭街で、時代小説には欠かせないエリアです。 「柳橋 これや柳の精ならぬ…
家康が開いた江戸城下町に多かったもの「稲荷神社と三河屋」。家康が出身地/三河から連れてきた日用品屋(三河屋)と商売繁盛を願った「稲荷神社」は、下町では石ころの…
東日本橋2丁目と言っても、??と反応されるかも知れません。江戸時代には「両国橋」の袂の「両国広小路(明暦の大火後に設けられた日除け地)」は、浅草と並ぶ二大繁華…
昔も今も、肥後の領民の間での加藤清正の人気は、衰えません。関ヶ原の戦いの後、加藤家が2代で改易となり細川家が肥後へ入りました。そこで細川忠利は、徐に熊本城天守…
日本榎通りから桜田通り(国道1号線)へ下る「天神坂」の右手に鎮座する古社「古壽老稲荷神社」です。此の坂の南側に道真公の祠があったので「天神坂」と呼ばれています…
黄梅院の少し東、泉岳寺の少し北に、広岳院と丸山神社が並んでいます。まずは、広岳院(曹洞宗)ですが、信州飯山藩3万石の初代藩主/佐久間安政の墓があります。ちなみ…
黄梅院の左右にある2寺です。まず黄梅院の右手にある「松光寺(浄土宗)」。永享6年(1563)頂本寺として西久保(今の虎ノ門2〰5丁目。愛宕山の西の窪地)にて創…
「高輪二本榎通り(桜田通り・国道1号線より1本海岸寄りの通り)」を挟んで、「英一蝶が眠る承教寺」と「黄梅院」が向かい合っています。 承教寺山門前に狛犬と並ん…
江戸時代の狩野派の画家(英派の創始者)英(はなぶさ)一蝶が眠る「承教寺(日蓮宗)」です。正安元年(1299)開創で、池上本門寺の末寺です。延享2年(1745)…
東禅寺で感じた「禅刹の厳しさと歴史の重み」を噛みしめつつ高輪界隈の寺院巡りを続けます。 まずは「円福寺」。曹洞宗の寺院です。 次に「…
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寺内町は「環濠都市(環濠集落)」とも呼ばれ、その周囲に「環濠土居」を構築した城塞都市です。 今井町でも「環濠」が復元されています。 「今井西環濠広場」で、右…
「環濠集落(寺内町)今井町」には、防衛上の観点から、出入りは9つの門に集約されていました。 そのうちのひとつ「南口門」が復元されました。 戦国時代には、…
今井町の寺内町としての成立は、天正年間(16世紀)此の地に今井兵部卿豊寿が「稱念寺」を建立したことに由来します。 「称念寺」は今井町の中核として発展を続け、称…
「中町筋」にある「旧米谷家住宅(重文)」です。 「米谷」の屋号をもち、広く金物商を営んでいました。 18世紀中頃の建物で、後に、内蔵や蔵前座敷を増築していま…
やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
横須賀は、ペリー艦隊来航前は戸数わずか200強の寒村でしたが、明治40年に市制に移行した時には、その人口6万3000人余り。横浜市に次ぐ県内第2の都市となりま…
此の辺りには大きな蔵が散在しており、江戸時代には廻船問屋街であった、当時の繁栄ぶりを偲ぶことができます。 「西叶神社」の御祭神は応神天皇で、養和元年(1181…
浦賀園と呼ばれ、明治26年に開園された、横須賀では最古の公園「愛宕山公園」です。咸臨丸出航の碑もあります。 この先の石段を上るので、浦賀港を見下ろす景勝地です…
黒船が来航し浦賀が江戸湾防衛の最前線になると、浦賀へ来る人が多くなりました。しかし浦賀は宿場ではないので、船乗り以外の旅人の宿泊は禁止。 知人宅に宿泊を依頼し…
天然の良港である浦賀港。入り江が深く入り込んでおり、東西浦賀を行き交う人々の交通手段は重要です。 浦賀に奉行所が設置された頃から、此の「浦賀の渡し舟」は続いて…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…