寺内町は「環濠都市(環濠集落)」とも呼ばれ、その周囲に「環濠土居」を構築した城塞都市です。 今井町でも「環濠」が復元されています。 「今井西環濠広場」で、右…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
「史跡:東禅寺」です。日米和親条約締結後、外人が日本国内を往来し、攘夷テロリストによる「外国人襲撃事件」が頻発しましたが、当寺は2度に亘り、事件の舞台となりま…
高輪神社近く、即ち「(江戸の限界木戸である)高輪大木戸」の直ぐ外、旧東海道沿いに浄土宗の寺院がありました。先ずは「正覚寺」。綺麗に整備されており、気持ち良く参…
山手線の新駅誕生に話題になった高輪地区の総鎮守「高輪神社」です。江戸時代、此の地区は、第一京浜(国道15号)から海寄りの低地は「海」でしたから、神社仏閣は、今…
重秀寺へ至る坂の左手。白金高輪駅から直ぐの立地に「立行寺」があります。法華宗陣門派のお寺で、朱色の山門が目立ちます。 此処には、「大久保彦左衛門の墓」…
「白金氷川神社」の左手の長い坂道を上ります。 更に更に、上ります。 白金の高台に建ち、見事な眺望が見られる「重秀寺」があります。臨済宗妙心寺派の禅寺です。…
武蔵一の宮「氷川神社」。本社は大宮に鎮座されますが、「氷川神社」を名乗る末社は、旧武蔵国(東京都+埼玉県及び神奈川県の一部)に約280数社が存在しています。此…
神楽坂本通りから地蔵坂を少し入ると「光照寺」があります。なお、地蔵坂とは、当寺の「木造地蔵菩薩坐像(元は三井寺にあったと言われる後二条天皇ご安産に寄与した由緒…
神楽坂「赤城神社」の奥に鎮座する「赤城出世稲荷神社」です。御祭神は「宇迦御霊命(うかのみたまのみこと)」と「保食命」。創建は弘治元年(1555)と言いますから…
東京メトロ「神楽坂」駅前に鎮座する「赤城神社」です。正安2年(1300)上野/赤城山麓の豪族「大胡氏(後に此の辺りの領主となった牛込氏)」が本国の鎮守である赤…
「エスカーレ」ホテルモントレ銀座店です。安定して美味しいフレンチが提供されています。 ホテルモントレらしい外観です。 席の配置はゆったりして…
神楽坂は「善国寺」の門前町の様相です。「神楽坂毘沙門天」とも呼ばれ、「寅の神様」。家康が何年だったか忘れましたが、文禄4年(1595)の創建で、家康が馬喰町に…
江戸名所図会で「江府第一の宮居なり。金殿玉楼は天に輝き、画棟朱簾は地に映ぜり」と謳われました。神田明神と並ぶ江戸を代表する大社の「日枝神社(日吉山王社)」です…
白金の「庭園美術館」。数年前に和風庭園の改修工事が完了したのですが、コロナ禍のために訪問出来ず、ようやくの訪問となりました。 同美術館とは「旧朝香宮邸」です。…
庭園美術館と目黒通りを挟んでいます。「白金の妙見さま」と呼ばれる日蓮宗「妙円寺」です。山の手七福神のうち、寿老人と福禄寿を祀っています。 御本尊の「妙見菩薩…
本山は宇治の「万福寺」。(インゲン豆で有名な)隠元和尚が開いた「黄檗宗」の寺院が白金にあります。隠元和尚が4代将軍家綱に拝謁を賜り宇治に寺領を得て「万福寺」を…
「稲毛浅間神社」です。大同3年(808)に富士本宮浅間神社から勧請されました。治承4年(1180)には頼朝が「武運長久」の祈願を行っています。千葉常胤から、代…
「日本のワイン王」と呼ばれ「電気ブラン」で一世風靡した「神谷バー創始者・神谷伝兵衛」の別荘が稲毛に整備保存されています。昨年、耐震工事も終え、美しい姿のまま見…
清朝のラストエンペラーとして有名な「愛新覚羅溥儀(ふぎ)」の実弟「愛新覚羅溥傑(あいしんかくら・ふけつ)」氏が妻の浩と新婚生活を送った(半年間)寓居が稲毛に残…
「千葉街道(国道14号線)」を東へ進むと、稲毛海岸付近の進行方向右手に「千葉トヨペット本社社屋」が目立っています。「桃山式純和風建築」2階建て。明治32年に、…
最近の中華料理の進化は著しく、色々と工夫された料理を戴けます。今日は逆に、昔ながらの中華料理を食べたくなり、「維新號銀座本店」へ伺いました。 ●…
紀州徳川家、尾張徳川家、彦根井伊家の屋敷があった「紀尾井町」。今もホテルニューオータニの約4万㎡の広大な日本庭園などがあり、緑豊かなエリアです。 外堀沿いの…
赤坂見附の繁華街を抜けて御用地の手前の閑静なエリアに「豊川稲荷東京別院」があります。 大岡忠相が三河時代から「荼枳尼天(だきにてん)」を深く信仰しており、文政…
毎年「恒例」の(昨年はコロナ禍でパスしましたが)、アークヒルズ外周「桜坂」約700mの桜のトンネルです。今年は、少し遅めになりましたが、何とか鑑賞出来ました。…
白金の「八芳園」。1万2千坪もの広大な敷地を有し、江戸前期の自然を今に残す池泉回遊式庭園として有名です。なお「八方」とは、「四方八方、何処を見ても美しい」とい…
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寺内町は「環濠都市(環濠集落)」とも呼ばれ、その周囲に「環濠土居」を構築した城塞都市です。 今井町でも「環濠」が復元されています。 「今井西環濠広場」で、右…
「環濠集落(寺内町)今井町」には、防衛上の観点から、出入りは9つの門に集約されていました。 そのうちのひとつ「南口門」が復元されました。 戦国時代には、…
今井町の寺内町としての成立は、天正年間(16世紀)此の地に今井兵部卿豊寿が「稱念寺」を建立したことに由来します。 「称念寺」は今井町の中核として発展を続け、称…
「中町筋」にある「旧米谷家住宅(重文)」です。 「米谷」の屋号をもち、広く金物商を営んでいました。 18世紀中頃の建物で、後に、内蔵や蔵前座敷を増築していま…
やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
かつて「ご当地ソング」なる歌謡曲が流行し、各地の湊町(港町)を舞台にヒット曲が多く誕生しました。「新潟ブルース」も、美川憲一の7枚目のシングルとして1967年…
横須賀は、ペリー艦隊来航前は戸数わずか200強の寒村でしたが、明治40年に市制に移行した時には、その人口6万3000人余り。横浜市に次ぐ県内第2の都市となりま…
此の辺りには大きな蔵が散在しており、江戸時代には廻船問屋街であった、当時の繁栄ぶりを偲ぶことができます。 「西叶神社」の御祭神は応神天皇で、養和元年(1181…
浦賀園と呼ばれ、明治26年に開園された、横須賀では最古の公園「愛宕山公園」です。咸臨丸出航の碑もあります。 この先の石段を上るので、浦賀港を見下ろす景勝地です…
黒船が来航し浦賀が江戸湾防衛の最前線になると、浦賀へ来る人が多くなりました。しかし浦賀は宿場ではないので、船乗り以外の旅人の宿泊は禁止。 知人宅に宿泊を依頼し…
天然の良港である浦賀港。入り江が深く入り込んでおり、東西浦賀を行き交う人々の交通手段は重要です。 浦賀に奉行所が設置された頃から、此の「浦賀の渡し舟」は続いて…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…