寺内町は「環濠都市(環濠集落)」とも呼ばれ、その周囲に「環濠土居」を構築した城塞都市です。 今井町でも「環濠」が復元されています。 「今井西環濠広場」で、右…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
白金「八芳園」入口に鎮座する「古地老稲荷神社」です。「火伏せの稲荷」として信仰されています。 明和9年(1772)目黒行人坂の大円寺から出火した大火災は、此…
「麻布山善福寺」。今も多くの塔頭を有する、都内では浅草寺に次ぐ古寺で巨大寺院ですが、色々と、見処の多いお寺です。 現在は浄土真宗本願寺派ですが、天長元年(82…
大正10年に野口雨情が作詞した「赤い靴」のモデルだった「きみちゃん(岩崎・鈴木きみ。明治35年7月生まれ)」の像です。麻布十番の中心地に立ち、麻布十番の発展を…
メトロの「麻布十番駅」を出て直ぐの「麻布十番稲荷神社」です。七福神揃って「宝船」に乗る姿は、大変珍しいものです。 「がま池伝説」の「かえ…
以前より存在は知っていましたが、意外にも初訪問です。2丁目の「ホテルモントレ銀座」のレストラン「エスカーレ」。「エスカーレ」の名称は、他エリアのホテルモントレ…
自粛が続いたので、気分転換に少し遠出をしました。東麻布の「富麗華」です。 炒飯が有名です。 麻布十番から5分ほど。少し早く到着しましたが、きちんと案内され…
赤坂サカスには11種類約100本の桜樹があり、3月上旬の河津桜から5月上旬に咲く兼六園菊桜まで、約2カ月間に渡り、桜の鑑賞が出来ます。今は、日本三大桜のひとつ…
三田と高輪の間の「伊皿子」交差点を「桜田通り(国道1号線)」方面へ下る「魚籃坂」。その名前の由来になったのが「三田山魚籃寺(浄土宗)」です。赤坂や青山、六本木…
三田4丁目の「聖坂」から旧東海道を西南へ、正山寺・薬王寺を過ぎて「伊皿子」の交差点。此処を右へ進むのが「魚藍坂」で、左へ進むのが「伊皿子坂」です。江戸の山の手…
三田4丁目の寺院巡りが続きます。次は、曹洞宗「正山寺」です。 「烏枢沙摩(うすさま)明王像」が有るそうです。 山門並びに「明王堂」がありました。小さいなが…
「幽霊坂」の左右に並ぶ寺院街の一画にある「常林寺」です。ひっそりとして「幽霊坂」と呼ばれる程、お寺が並んでいます。 「都史跡:安島直円(なおのぶ)の墓」の…
三田4丁目「幽霊坂」界隈に、まだまだ多くの寺院があります。 「大増寺」ですが、浄土宗系単立寺院です。慶長16年(1611)に八丁堀で創建され、寛永12年(16…
かつて高野聖が開削したと言われる「聖坂」を登った処に位置しています。「済海寺(さいかいじ)」。江戸時代は、品川の海を見下ろす景勝の地であったと言われています。…
三田4丁目のお寺巡りが続きます。「玉鳳寺」。此処も八丁堀で創建され、江戸の拡張に伴い当地へ移転して来ました。 思わぬ処で、高橋是清翁の名が。 本堂で…
三味線寺とも呼ばれる「大信寺」。慶長16年(1611)に八丁堀で創建された浄土宗にお寺です。寛永13年(1636)に江戸に於ける「三味線製作の始祖」とされる「…
「史跡:荻生徂徠の墓」と碑が立っています。大きな通り(桜田通り)に面していますが、極めて閑静な佇まいです。「長松寺(ちょうしょうじ)」です。 荻生徂徠は、江…
江戸時代初期の家康に拠る「江戸の街づくり」において、八丁堀は「寺町」でした。しかし江戸市街地の拡張に伴い郊外へ出て行く寺院も多く、此処三田4丁目の寺町でも、多…
「こんなお寺が近くにあると良いな」と、ついつい思ってしまいました。「普門山慈眼禅寺」。三田4丁目の桜田通り沿いにある曹洞宗の寺院です。当寺に参拝したのは、まだ…
三田4丁目の桜田通り沿いに寺院が並んでいます。宝生院の隣りに「明王山大聖院」。「江戸御府内88カ所」第65番の真言宗智山派の寺院です。ビルの谷間の、いかにも都…
三田4丁目の寺町。桜田通り沿いですが、まずは「龍臥山宝生院」です。白壁の土蔵造りの本堂が建ちますが、いたってシンプルな寺院です。真言宗智山派の寺院で、「御府内…
三田エリアの寺院散策に戻ります。伊皿子坂を下り、第一京浜と合流する辺りが「高輪大木戸」跡で、要は、高輪大木戸の外は、江戸ではなく品川エリアでした。その、ギリギ…
首都圏有数の政令指定都市として発展を続けている千葉市ですが、江戸時代は下総の中心地が佐倉だったこともあり、史跡は多くはありません。しかし、「千葉の妙見様」と呼…
浅草寺を別格として、江戸の寺社の中では、最も人気が有る寺社のひとつです。「湯島天満宮(湯島天神」。特に梅の時期には、昼夜を問わず参拝者が続きます。ただ今年はコ…
此処で少しブレイクして食事の話題を。コロナ禍のなか、感染防止対策が万全な「三笠会館」を利用することが増えました。 2階の「榛名」へ。 ディスタンスも良し。…
芝の「西応寺」。浄土宗の寺院で、応安元年(1368)に明賢上人が創建。御本尊の「阿弥陀如来像」は、源信の作。天正19年(1591)に家康が訪れ、寺領10石の御…
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寺内町は「環濠都市(環濠集落)」とも呼ばれ、その周囲に「環濠土居」を構築した城塞都市です。 今井町でも「環濠」が復元されています。 「今井西環濠広場」で、右…
「環濠集落(寺内町)今井町」には、防衛上の観点から、出入りは9つの門に集約されていました。 そのうちのひとつ「南口門」が復元されました。 戦国時代には、…
今井町の寺内町としての成立は、天正年間(16世紀)此の地に今井兵部卿豊寿が「稱念寺」を建立したことに由来します。 「称念寺」は今井町の中核として発展を続け、称…
「中町筋」にある「旧米谷家住宅(重文)」です。 「米谷」の屋号をもち、広く金物商を営んでいました。 18世紀中頃の建物で、後に、内蔵や蔵前座敷を増築していま…
やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
かつて「ご当地ソング」なる歌謡曲が流行し、各地の湊町(港町)を舞台にヒット曲が多く誕生しました。「新潟ブルース」も、美川憲一の7枚目のシングルとして1967年…
横須賀は、ペリー艦隊来航前は戸数わずか200強の寒村でしたが、明治40年に市制に移行した時には、その人口6万3000人余り。横浜市に次ぐ県内第2の都市となりま…
此の辺りには大きな蔵が散在しており、江戸時代には廻船問屋街であった、当時の繁栄ぶりを偲ぶことができます。 「西叶神社」の御祭神は応神天皇で、養和元年(1181…
浦賀園と呼ばれ、明治26年に開園された、横須賀では最古の公園「愛宕山公園」です。咸臨丸出航の碑もあります。 この先の石段を上るので、浦賀港を見下ろす景勝地です…
黒船が来航し浦賀が江戸湾防衛の最前線になると、浦賀へ来る人が多くなりました。しかし浦賀は宿場ではないので、船乗り以外の旅人の宿泊は禁止。 知人宅に宿泊を依頼し…
天然の良港である浦賀港。入り江が深く入り込んでおり、東西浦賀を行き交う人々の交通手段は重要です。 浦賀に奉行所が設置された頃から、此の「浦賀の渡し舟」は続いて…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…