寺内町は「環濠都市(環濠集落)」とも呼ばれ、その周囲に「環濠土居」を構築した城塞都市です。 今井町でも「環濠」が復元されています。 「今井西環濠広場」で、右…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
同名称のお寺は珍しくはありませんが、指呼の距離で、しかも2寺とも「浄土真宗本願寺派」の寺院のケースは珍しいですね。まずは、芝1丁目のJR線路際にある「(濱の)…
新幹線が東京駅に近づくと(上りでは左手に)良く見える寺院が「徳聚山圓珠寺(日蓮宗)」です。慶長17年(1612)に現在地で創建されました。江戸時代には、身延山…
「御穂鹿嶋神社」の近くに2寺あります。まずは「正念寺」。浄土真宗系の単立寺院です。元和年間(17世紀)に八丁堀で創建されました。その後、当地へ移転しています。…
「三田(御田)」周辺を散策します。此の辺り(三田・御田界隈)は古社・古寺の多いエリアです。江戸の絵図を見ると「薩州蔵屋敷(蔵屋敷はカタカナ)」の大きさが目立ち…
都営地下鉄三田線「三田駅」東口の「第一田町ビル」は、江戸時代、薩摩藩邸がありました。慶応4年(1968)3月に行われた「江戸城無血開城」に関する勝海舟と西郷隆…
標高「44.6m」。本家の箱根山には及びませんが、それでも山手線内では最高の標高を誇っています。 江戸時代には、約45万㎡もの広大な「尾張徳川家下屋敷(戸山荘…
東京メトロ早稲田駅を西へ直ぐ、右手に「穴八幡宮」そして左手に「放生寺」が見えます。何れも「一陽来復」の神社であり寺院です。 参道の坂道をゆるゆると上ると、「…
平井にある「真光山明証院善通寺」。同名の寺院が讃岐にあり空海弘法大師さんの生誕地として有名ですが、此方は浄土真宗本願寺派の寺院です。 寺宝に「中将姫(右大…
「江戸五色不動尊」のうち「目黄不動尊」を祀る「牛宝山明王院最勝寺」です。貞観2年(860)に本所にて慈覚大師が創建したと伝わる古刹です。当所へは大正2年に移転…
「清瀧山安全院安養寺」と言い、真言宗豊山派のお寺です。「平井弁天」と親しまれている「弁天堂」があります。 六地蔵です。 本堂は工事中でした(コロ…
「明雅山明王院燈明寺」という、新義真言宗のお寺です。関東三聖天のひとつに数えられます。「聖天」として、「大聖天歓喜天」を祀り、平安の昔、一本松の根元から現れた…
戦国末期(16世紀)に日能上人が創建した「妙光寺(日蓮宗)」です。元禄時代に津波被害にあい堂宇が流されたため、再建の際本堂の床を高くした、興味ある建築が見られ…
平井は、荒川と旧中川に囲まれた島のようなエリアです。しかし、裕福な村だったのでしょう。今も、関東三大聖天さんのひとつ「平井昇天」、江戸五色不動のひとつ「最勝寺…
初代「安藤(歌川)広重」の墓と記念碑があります。「南昌山東岳寺」。大通りに面してはいますが、落ち着いた曹洞宗の古刹です。 広重の記念碑です。良く…
八幡太郎義家から寺領を与えられた「朱印状」を持つとも言われる、伊興地区最古の寺院「應現寺」です。瓦葺破風の素晴らしい四脚門が迎えてくれます。この山門は寛政14…
東伊興には、関東大震災で被災し、浅草から当地へ転入したお寺が2寺あります。まずは「東陽寺」。慶長16年(1611)に八丁堀にて創建されましたが、その後慶長12…
足立区東伊興の閑静な住宅地(通称:寺町)には、まだまだ参拝したくなる寺が並んでいます。まず「日照山易行院不退寺(浄土宗)」ですが、歌舞伎の主人公「助六」の墓が…
此の辺り(足立区東伊興)には、端正なお寺が並んでいます。まずは、恵心僧都が創建した「法受寺」から。桂昌院の墓もあります(下の写真、左の碑の記載を参照)。 …
とても暑い「六月」。義家軍が苦戦の末、野武士の襲撃を駆逐した際、「勝利の白旗」を掲げた処と言われています。「白旗古墳」です。6世紀前半頃の円墳と言われており、…
「荒綾八十八カ所霊場」が足立区と葛飾区にあります。「西新井大師総持寺」を筆頭に、四国八十八カ所霊場に範を取り模したものです。 そして、日比谷線「竹の塚」駅近く…
天喜年間(11世紀中頃)の或る暑い日(旧暦六月)、奥州征伐に向かう源 頼義・義家父子が此の地で野武士の集団に襲われ、激戦の末に勝利を得ました。当時、奥州には(…
足立区の此の辺りは、「六月(ろくがつ)」という珍しい地名です。何故「六月」なのか? 天喜年間(11世紀中頃)の源 頼義・義家父子の奥州征伐の際、此の地にて野武…
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寺内町は「環濠都市(環濠集落)」とも呼ばれ、その周囲に「環濠土居」を構築した城塞都市です。 今井町でも「環濠」が復元されています。 「今井西環濠広場」で、右…
「環濠集落(寺内町)今井町」には、防衛上の観点から、出入りは9つの門に集約されていました。 そのうちのひとつ「南口門」が復元されました。 戦国時代には、…
今井町の寺内町としての成立は、天正年間(16世紀)此の地に今井兵部卿豊寿が「稱念寺」を建立したことに由来します。 「称念寺」は今井町の中核として発展を続け、称…
「中町筋」にある「旧米谷家住宅(重文)」です。 「米谷」の屋号をもち、広く金物商を営んでいました。 18世紀中頃の建物で、後に、内蔵や蔵前座敷を増築していま…
やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
かつて「ご当地ソング」なる歌謡曲が流行し、各地の湊町(港町)を舞台にヒット曲が多く誕生しました。「新潟ブルース」も、美川憲一の7枚目のシングルとして1967年…
横須賀は、ペリー艦隊来航前は戸数わずか200強の寒村でしたが、明治40年に市制に移行した時には、その人口6万3000人余り。横浜市に次ぐ県内第2の都市となりま…
此の辺りには大きな蔵が散在しており、江戸時代には廻船問屋街であった、当時の繁栄ぶりを偲ぶことができます。 「西叶神社」の御祭神は応神天皇で、養和元年(1181…
浦賀園と呼ばれ、明治26年に開園された、横須賀では最古の公園「愛宕山公園」です。咸臨丸出航の碑もあります。 この先の石段を上るので、浦賀港を見下ろす景勝地です…
黒船が来航し浦賀が江戸湾防衛の最前線になると、浦賀へ来る人が多くなりました。しかし浦賀は宿場ではないので、船乗り以外の旅人の宿泊は禁止。 知人宅に宿泊を依頼し…
天然の良港である浦賀港。入り江が深く入り込んでおり、東西浦賀を行き交う人々の交通手段は重要です。 浦賀に奉行所が設置された頃から、此の「浦賀の渡し舟」は続いて…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…