道教寺院というのは、一歩足を踏み入れると、そこが単なる一室の信仰空間ではないと気づかされる。鹿港天后宮も中央に媽祖を祀る本殿がありながら、その周囲には多種多様な神々が、それぞれの小さなお堂に鎮座している。文昌帝君、関聖帝君、城隍爺──名前も役割も異なる神々が、それぞれのご利益と共に祀られていて、境内…
原鉄道模型博物館の目玉は鉄道模型が駆け抜ける世界最大級の鉄道ジオラマである「いちばんテツモパーク」だ
原鉄道模型博物館はコクヨ元専務で世界的に著名な鉄道模型製作・収集家の原信太郎が収集したコレクションを展示している博物館だ。実物の列車は展示されていないものの、コレクションの数は膨大。その膨大な鉄道模型が世界最大級の鉄道ジオラマである「いちばんテツモパーク」を駆けていくのがここの目玉だ。
日産グローバル本社ギャラリーにはギフトショップもあるからDATSUNと書かれたTシャツを買うことも可能だ
横浜の日産グローバル本社ビル1階にはショールームがある。ガラス張りのショールームでは実際の日産車が展示されていて、ビルを中を通る歩道からもよく見える。通行人の中には、立ち止まってじっくり眺める者もいる。ショールームの中にはギフトショップもあるからDATSUNと書かれたTシャツを買うことも可能だ。
集客力の高いアーティストは含まれていないようで横浜トリエンナーレは落ち着いた雰囲気で鑑賞できた
横浜美術館で開催されていた横浜トリエンナーレには様々なアーティストが参加しているものの、かつて開催されたチャルトリスキ・コレクション展で作品が展示されていたレオナルド・ダ・ヴィンチのような破壊的な集客力を持つアーティストは含まれていないようだ。トリエンナーレといいつつ、4年ぶりに開催されていた美術館は落ち着いた雰囲気に包まれていて、のんびり鑑賞できた。
皇居三の丸尚蔵館には8つの国宝があるのだけれど、ちびちびと公開しているのでなかなか全てを鑑賞するのは難しい
皇居の東御苑にある皇居三の丸尚蔵館は皇室に伝わる美術品を収蔵している施設だ。ここには8つの国宝があるのだけれど、ちびちびと公開しているのでなかなか全てを鑑賞するのは難しい。この日に展示されていた国宝は藤原定家(小倉百人一首の選者)による更級日記の写本だった。
「近代」と「現代」の境目がどこにあるのか気になるところだけれど、面白いことにその境目は時代と場所で異なっている
日本史では明治維新から第二次世界大戦が終わるまでを「近代」とし、それ以降を「現代」とするのに対し、ヨーロッパ史では長いこと第一次世界大戦終結を境にして「近代」と「現代」に分けてられていた。最近では1989年の東欧革命を境とする見方もあるらしい。つまり「近代」と「現代」の境目は明確には定まっていないのだ。
KITTEにあるインターメディアテクという施設は東京大学が1877年の開学以来蓄積してきた学術標本を常設展示している施設だ
かつて東京中央郵便局だったところに作られたKITTEという商業施設の中にあるインターメディアテクという施設は、東京大学総合研究博物館の分館で同大学が1877年の開学以来蓄積してきた学術標本を常設展示している施設だ。
日本経済がシュリンクしていくと、バブル景気の中で建てられた美術館など生活に直接的に関係ないものがゆっくり消えていくような気がした
DIC川村記念美術館が休館するニュースを聞いて、バブル景気の中で建てられた美術館など生活に直接的に関係ないものが日本からゆっくり消えていく時代が始まった気がした。
600以上もの神様のいる台北霞海城隍廟には対応できないご利益なんて存在しないに違いない
台湾で神像密度の最も高い古廟とされている台北霞海城隍廟は狭い境内にもかかわらず、霞海城隍爺を始め、その夫人、月下老人など600を越える神様を祀っているのだという。これだけ大勢の神様がいるのだから、対応できないご利益なんて存在しないに違いない。
大稻埕慈聖宮でびっしりと屋台が並んでいるところがうまいものが高い密度で集まっている路地だ
大稻埕慈聖宮という寺院が人気があるのは、媽祖という台湾で篤い信仰を集める航海・漁業の守護神が祀られているだけでなく、寺院の前にうまいものが高い密度で集まっている路地があるからだと睨んでいる。
台湾の寺院では、鎮座する全ての神様にお参りしなければならないのはもちろんのこと、お参りの順番も定まっているのだという
台湾の寺院に大勢鎮座している神様ははれぞれにご利益が異なっているから、お参りに訪れた人は自分の求めているご利益の神様の前でお参りすればいいのだと思っていたけれど、それはルール違反らしい。全ての神様にお参りしなければならないのはもちろんのこと、お参りの順番も定まっているのだという。
韓国人に間違えられることが多かった僕が今回台湾に来るときには航空会社の人に中国人に間違われたので、容貌が徐々に中国化しているのではないかと思う今日この頃だ
海外では韓国人に間違えられることが多く、ソウルに行ったときにはしばしば道を尋ねられた僕も、今回台湾に来るときには航空会社の人に中国人に間違われた。僕の容貌が徐々に中国化しているのではないかと思う今日この頃だ。
台湾で売られているような豚肉の唐揚げが日本のコンビニにあれば毎日買いに行くに違いない
俗に「広東人は二足なら親以外、四足なら机と椅子以外、走るものなら自動車以外、泳ぐものなら潜水艦以外、空を飛ぶものなら飛行機以外なんでも食ってしまう」と言うけれど、福建省辺りにルーツを持つ人が多い台湾ではちょっと事情が違うようで、生鮮食品を扱う市場で食べられるものがなんでもかんでも売られているようなイメージはなかった。
高雄でも台北でもやることは変わらず、足を向けるのはローカル市場で地元の人たちに紛れながら売られているものを眺めるだけだ
基本的にはやること・訪れる場所は高雄でも台北でも変わらない。足を向けるのはローカル市場で、地元の人たちに紛れながら売られているものを眺める。注意力不足と言われればそれまでだけれど、高雄と台北で市場に売られているものに違いがあるのかどうかは分からなかった。
GOOGLE MAPの書き込みを見ると、古くから正史を残してきた中華文化と歴史を文章で残すのに興味のなかったインド文化との違いをまじまじと感じる
東アジアの人たちは基本的に筆まめなのではないかと思うのは、台湾でのGOOGLE MAPの口コミの書き込みを見たときだ。台湾での書き込みはとても多い。平均的な書き込み量は日本よりも多いのではないだろうか。書き込みがあまりなく、しかも不正確なことも多いインドとは大違いで、古くから正史を残してきた中華文化と歴史を文章で残すのに興味のなかったインド文化との違いをまじまじと感じた。
高雄という地名はかつて「打狗」という卑俗な漢字で表されていた
昔から朝廷に帰順しない周辺民族や外国人を夷狄と呼んで卑しめていた中国人は、かつて高雄のことを「打狗」と書いていた。それが日本領になると状況が一変し、「打狗」という文字が卑俗であることから、ターカウという元の発音と近く、京都の紅葉の名所でもある高雄に改称されている。読み方は日本統治時代と変わってしまったものの、今でも漢字では高雄と書くのだ。
日本人にはあまりピンと来ないけれど、中華料理は広東料理など地域ごとにある下位カテゴリに分けられる
日本人にはあまりピンと来ないけれど、中華料理は地域ごとにある下位カテゴリに分けられる。広大な国土には様々な風土があり、使用される食材や調理法も多様だからだ。一般的には八大菜系といって、地域ごとに山東料理・江蘇料理・浙江料理・広東料理・福建料理・安徽料理・湖南料理・四川料理の8つに分けられる。
旧倉庫街がリノベーションされて、芸術家や学生に提供する創作発表の場である駁二芸術特区という観光名所に変貌している
今でこそ台湾というとTSMC、FOXCONN、ASUSやBenQなどの精密機械の会社を思い浮かべるものの、かつては製糖が台湾の重要な産業で台湾糖業という会社が台湾最大の企業だった。台湾糖業は現在でも台湾の最大の地主で、台湾各地に土地を所有しているのだそうだ。
台湾ではマスクを付けている人が多く、コロナ禍をどこか過ぎ去った厄災と思っている人が多い日本と違いを感じた
台湾に着いて最初に気になったのは、マスクを付けている人が多いことだった。台湾では今でも多くの人がマスクを付けている。オードリー・タン氏らの手腕により感染拡大を最小限に抑え込んだ台湾では、新型コロナウイルスの脅威に注意を払い続けているようだった。
旅先でローカル市場を訪れるのは地元の人の生活の一端が垣間見られて面白い
旅先で観光名所になっている場所を訪れるのも面白いけれど、地元の人の生活の一端が垣間見られるローカル市場を訪れるのも面白い。しかもネットにある情報が充実するにつれて、ガイドブックにはわざわざ記載しないような市場も簡単に調べられるようになっていて、そのような市場に行きやすい。便利な世の中になったものだ。
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道教寺院というのは、一歩足を踏み入れると、そこが単なる一室の信仰空間ではないと気づかされる。鹿港天后宮も中央に媽祖を祀る本殿がありながら、その周囲には多種多様な神々が、それぞれの小さなお堂に鎮座している。文昌帝君、関聖帝君、城隍爺──名前も役割も異なる神々が、それぞれのご利益と共に祀られていて、境内…
外を歩いているはずなのに、ふとした瞬間、屋内をさまよっているような気分になることがある。香港の湾仔で歩いていた路地も、まさにそんな場所だった。左右からせり出した色とりどりのテントが、空を覆っている。青や赤のビニール屋根が視界の上部を埋め尽くし、その下にはびっしりと並ぶ屋台。靴下、帽子、スマホのアクセ…
ムンバイを歩いていると、どこにも属さず、ただ道端に腰を下ろしている人びとをよく見かける。何かをしているわけでもない。ただそこにいて、通りを眺めたり、誰かと談笑したり、ときには黙って風に吹かれているだけ。日本ではあまり見かけない光景で、最初は何をしている人たちなのか分からず戸惑った。でも、そんな僕の思…
ハノイ旧市街を歩いていると、絶え間なくバイクの音が耳に届いてくる。クラクション、エンジンのうなり、時には叫び声。四方八方から押し寄せてくるバイクの波に、僕はしばし立ち尽くしてしまう。目の前を通り過ぎるのは、老若男女、二人乗り、三人乗り、買い物袋をいっぱいぶら下げた人、スマートフォンを片手に運転する人…
鹿港天后宮のような道教寺院を訪れるたびに、僕は少しだけ戸惑う。日本の寺に慣れ親しんだ身にとって、この空間はどこか異質で、けれどそれが不思議と心を惹きつけてやまないのだ。回廊には柱が並び、軒下には金色の飾りが揺れている。どこを見渡しても色彩が濃い。その中で人々は香を焚き、願いを込め、祈りを捧げている…
香港では、空がやけに狭く感じられる。高層ビルがぎっしりと並び立ち、視界のほとんどを覆ってしまうからだ。見上げても、わずかにのぞく青空があるだけで、それさえも四角く切り取られてしまっている。湾仔の露店が並ぶ通りを歩いていると、その感覚はいっそう強くなる。そんな通りの片隅で、ひとりの男性が店先の商品をじ…
ムンバイの街を歩いていると、突然、壁に向かって設えられた即席の鏡台と、ちょっと背の高い椅子が目に入った。青空の下、歩道にぽつんと構えられた床屋だ。ごく自然な様子で椅子に座っている男性と、真剣な眼差しで顔剃りをしている理容師。ふたりの間には、言葉にしない信頼のような空気が流れていた。こうした青空床屋の…
ハノイ旧市街の一角。通り沿いにずらりと並んだカラフルなおもちゃたちが、小さな玩具屋の前を賑やかに彩っていた。キャラクターのぬいぐるみ、ピカピカと光る剣、リアルに作られたミニカー。どれもが棚からこちらに手を伸ばしてくるようだった。その前に立っていたのは、小さな男の子。目を輝かせておもちゃを見つめる姿は…
鹿港の静かな通りの先に、威厳ある屋根の反りが姿を現した。媽祖を祀る鹿港天后宮だった。立派な装飾が施された屋根の下には、赤い幕が垂れ、香炉の煙がゆっくりと天へと立ちのぼっている。天后宮という名が示す通り、ここには海の守護神・媽祖が祀られている。かつて鹿港が港町として栄えていたころ、多くの船乗りたちがこ…
香港・湾仔の路地に小さな肉屋があった。間口は狭く、奥行きも深くない。店先にはローストされた鶏が無造作に吊るされている。冷蔵ケースなどは見当たらず、常温での陳列だ。生々しいが、どこか生活感があって、妙に惹きつけられる。店先では男が無言で作業を続けていた。大きな丸太のようなまな板の上で、手際よく鶏肉をさ…
ムンバイの道路脇にツートンカラーのクラシックなタクシーが停車していた。前席と後部座席のドアがどちらも大きく開け放たれて、歩道にまでせり出していた。その開き具合は、もはや歩行者の進路を遮っているようでもあったが、周囲の誰も気に留めていない様子だった。男の子はよけるでもなく、その隙間をすり抜けるように通…
旧市街の一角、封筒の束が山のように積まれた店先で、ひとりの男が小さなプラスチック椅子に腰を下ろしていた。彼が手にしているのはスマートフォンだが、その背後には、整然と束ねられた無数の茶封筒が静かに存在感を放っていた。日本ではすっかり電子化が進み、郵送という行為が年賀状くらいでしか思い浮かばなくなった今…
鹿港老街を歩いていると、ふと視界の端に色鮮やかな舞台が現れた。まるで絵本から飛び出したかのような極彩色の装飾が目を引く。龍や鳳凰、蓮の花などが勢いよく描かれたその舞台は、人形劇のための移動式ステージだった。「大自然掌中劇團」と書かれた看板が掲げられている。台湾の伝統芸能である布袋戲、つまり掌中劇の舞…
湾仔を歩いていたとき、ふと立ち止まった。目の前に現れたのは、赤々とした肉塊が無造作に吊るされた精肉店だった。まるで屋台のようなお店は小さいものの、店先にずらりと並んだ肉はまるでこの街の生命力そのものを象徴しているかのようだった。蛍光灯の赤い光が肉の色をいっそう濃く染め上げている。骨付きのまま吊るされ…
ムンバイの午後の陽射しは強く、空気の粒が光の中でじわじわと揺れているように見えた。そんな中、通りかかったバス停のベンチに座っていたひとりの女の子が、こちらを見てふっと微笑んだ。前髪がまっすぐに切り揃えられていて、その輪郭のくっきりとしたラインが、どこか昔の映画に出てくる少女のような印象を与える。左手…
ハノイの街を歩いていると、ふと立ち止まりたくなるような食堂に出くわす。銀色に鈍く光るステンレスのテーブル。プラスチックの椅子が無造作に並び、中央には箸が束になって立てられている。どのテーブルにも共通して置かれているのは、唐辛子入りの調味料の瓶、紙ナプキン、そして赤いプラスチック製の箸入れ。ベトナムで…
赤い提灯がゆらめき、線香の煙が天井へと昇ってゆく。鹿港天后宮の境内は、平日にもかかわらず参拝客でにぎわっていた。媽祖信仰の中心地として知られるこの廟は、鹿港の歴史そのものといっても過言ではない。鹿港はかつて、清朝時代に港町として隆盛を極めた。大陸からの船がこの地に寄港し、物資とともに文化も行き交った…
火龍果とは、ドラゴンフルーツのこと。果肉の白や赤に、黒いつぶつぶの種が無数にちりばめられた、どこか異世界の植物のような果物である。その派手な見た目に似合わず、味は意外と淡白だが、香港の市場では人気者だ。湾仔の街角に立ち並ぶ果物屋では、そんな火龍果が山のように積み上げられていた。赤紫色の果皮が照明を受…
ムンバイの通りを歩いていると、どこからともなく甘くて爽やかな香りが漂ってきた。香りの先を辿ると、そこには小さなジューススタンドがあった。派手な装飾もなく、看板には英語とマラーティー語が混じって並んでいる。だが、そんな飾り気のなさがかえって、街の空気とよく馴染んでいるように思えた。スタンドには何人もの…
ハノイ旧市街の路地を歩いていると、ひときわ目を引くのが行商人の姿だ。観光地の中心にありながら、そこには不思議と生活の匂いが残っている。行商人の多くは、手押しのワゴンや肩にかけた籠で、静かに街を巡っている。売っているものは華やかさよりも実用性が重視され、地元の人々の台所に直結するような品ばかりだ。この…
1972年まで煉瓦を焼いていて、WIKIPEDIAによるとここで焼かれた煉瓦は東京駅や日光金谷ホテルにも使われたという旧下野煉化製造会社煉瓦窯は、赤レンガで組まれた宇宙船を思わせる円形の土台の上に天へ続くアンテナのような煙突が伸びていてレトロフューチャーな外観をしている。アクセスは悪いものの、一見の価値のある近代化産業遺産だと思う。
理由はわからないけれど野木神社の12座あった舞のうち、五行の舞だけが100年ほど前から行われていなかったところ、1999年に隣接する小山市の神社で行われているものを元に復元されて再び奉納されるようになったのだという。100年前に途絶えていたのだから、写真記録はおろか、動画を記録したものもほとんどないに違いない。そのような中、復活させるのは大変な作業だっただろう。
円形劇場とは古代ローマにおいて剣闘士競技などの見世物が行われた施設のこと。つまり剣闘士同士、あるいは剣闘士と猛獣などとの戦いが繰り広げられたところを指す。WIKIPEDIAによると東京オペラシティのサンクンガーデンはその円形劇場を模しているという。本来は血なまぐさい場所に、表情のない巨人が立っていては尋常ならざる雰囲気を感じてしまっても仕方がない。
東京オペラシティアートギャラリーに「寺田コレクション」を残している寺田小太郎という人物は、メディアに登場するような有名人ではないけれど、500年続く名家の人間で東京オペラシティ辺りの大地主だったという。メディアに登場しなくとも、由緒あるお金持ちって存在しているのだと思わされる話だ。
「町中華」という言葉を聞いて思い浮かべるイメージは分かったような、分からないような曖昧なものだったけれど、藤沢駅近くにある老舗中華料理店「味の古久家」を訪れたら、その曖昧模糊としたイメージが少しだけハッキリしたような気がした。
1929年に竣工した日本橋室町に建つ三井本館は、当時の社長の「関東大震災の二倍のものが来ても壊れないものを作るべし」との命で、当時の一般的な事務所ビルの約10倍のコストを掛けて建設されているという。コリント式のオーダーが乗る列柱が整然と並ぶファサードはまるでロンドンかニューヨークに建っているビルのようだ。
由来を考えると歴史のありそうな静岡市葵区は意外なことにその歴史は浅い。誕生したのは2005年4月1日だから、まだ20年も経過していないのだ。その名前の重さに歴史がある名称だと思っている人は多いだろう。これと同じように新しいくせに古株のような顔をしているものは、世の中に結構多い。
登呂遺跡は弥生時代の水田遺構が日本で初めて確認された遺跡で、弥生時代=水田稲作というイメージが定着する契機ともなった遺跡だ。だから教科書にも載っていて、僕も耳にしたことがあったのだ。8万平方メートルを超える水田跡が発掘された登呂遺跡は、今では公園として整備され、復元された水田と建物群が往時の様子を今に伝えている。でも建物の用途はどうやって判定しているのだろう。
久能山東照宮で拝観料を払って進むと、朱塗りの大きな門が現れる。この楼門には後水尾天皇の宸筆の扁額が掲げられており、由緒あるものだ。鎌倉の英勝寺と同じように久能山東照宮は徳川家と縁が深く、そのため天皇や上皇に扁額を依頼することができたのだろう。
公式サイトによると、久能山東照宮の登山に要する時間はたった20分程度。でも実際に歩くと長く感じる。登山道の作られている斜面は傾斜が急で、道はつづら折りになっていた。少し進むと踵を返して方向転換する。教科書に載せたくなるような見事なつづら折りだった。
天満宮はもともと、怨霊と化した菅原道真の魂を鎮めるための神社であったはずなのに、今ではそのイメージは薄い。現在では学問の神様として広く信仰されていて、受験シーズン前に合格祈願に訪れたことのある人も多いだろう。実際、菅原道真は優れた学者であったという。そのため「怨霊」というよりイメージが薄まるにつれ、「学問の神様」としての信仰が根付いただろう。
経ヶ峯公園には仙台藩祖・伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿をはじめ、2代忠宗の感仙殿、3代綱宗の善応殿、9代周宗や11代斉義の墓がある。また、斉義の妻の墓や、5代吉村以降の藩主の夭折した子女の墓もある。経ヶ峯公園一帯は伊達家の重要な墓所なのだ。いくつもある霊廟の中でも、伊達政宗の瑞鳳殿は特別な存在で、他の霊廟とは異なり涅槃門と拝殿が設けられていて、別格の扱いなのだ。
広瀬川を渡ると住宅街が広がり、その先に伊達政宗の墓所である瑞鳳殿がある。瑞鳳殿は仙台市の中心部から少し離れており、1945年の仙台空襲で焼失したが、戦後に再建された。再建された建物は色鮮やかで、黒を基調とした美しい文様が特徴である。400年近くも保存されていたオリジナルだったら、これほど鮮やかではないだろう。
仙台にある「せんだいメディアテーク」は建築家・伊東豊雄の代表作で、フランスのル・モンド紙でも紹介されたほどの知名度を持つ。全面ガラス張りの開放的なデザインが特徴で、6枚の床と13本のチューブという独特の構造を持つ。この建物には仙台市民図書館やイベントスペース、ギャラリー、スタジオがあり、市民に開放的な空間を提供している。特に開放的な図書館で行う読書は心地よいだろう。普段なら読んでも理解できないものも、ここなら理解できるかもしれない。
仙台の輪王寺は戦国大名伊達氏と縁のある寺院だ。明治維新後に一時没落したものの、1910年代に復興され、池の中心に三重塔が映える禅庭園もその際に作られた。でも僕が惹かれたのは山門から本堂へ伸びる参道だった。新緑に覆われていた道を歩くと緑のトンネルの中を進んでいるような気分に浸れ、俗世から聖域へと足を踏み入れる感覚を与えてくれる。
日枝神社がこの地に遷座したのは1659年で、それ以前は松平忠房の邸宅であり、さらに遡ると星ヶ岡城という城郭があった。城郭の名残はほとんど残っていないが、地図を見るとその地形が城郭に適していることがわかる。日枝神社の北側には土塁と思しき遺構も残っているとはいえ、城郭だった名残はほとんど残っておらず、記録も乏しい。星ヶ岡城は謎に包まれた城郭なのだ。
都内にある国宝の建造物は少なく、東村山の正福寺地蔵堂と赤坂迎賓館の2つだけだ。そのひとつである赤坂迎賓館は1909年に建てられ、バッキンガム宮殿やヴェルサイユ宮殿を参考にした西洋風の建物である。日本風の意匠も混じっているが、外観は西洋式で統一されている。広々とした前庭の石畳はヨーロッパの旧市街を思わせ、日本にいることを忘れさせる。訪れても面白いと思う。
手賀ハリストス正教会は、茅葺屋根の古民家風外観ながらも、内部はイコンが掲げられた聖堂だ。1879年に建立され、関東でも有数の歴史を誇る聖堂を訪れれば、その外観と内部のギャップに訪れる人々は驚くに違いない。
東京にある庭園には高低差のあるところが多いのは、そのような地形が庭園造りに好まれたからとされる。高低差があると、眺望も良いし、滝も作りやすいなのだという。国分寺崖線沿いに作られた殿ヶ谷戸公園にもやはり庭園内にかなりの高低差があった。
買ってきた生竹の節を切り取って大勢で流しそうめんを楽しんだこともあるけれど、竹の種類についてよくわからない。自分の竹リテラシーの低さを思い知らされたのだった。