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2010/10/11

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  • ようこそ.

    お城関係をまとめるために作りました。興味ある方はお楽しみください^0^小説に感化されてますます「城」が好きになっていっている最中です。そんな偉大な小説の一場面を引用させていただきながら、訪問した城々を紹介していけたら、と思っております。「この小説がよかったよ。」「この場面が好き。」などありましたら是非コメントしてください^^。にほんブログ村に参加しています~。ようこそ.

  • 大坂城と真田丸(2)

    真田幸村が「それがしが南を守りましょう」と買って出たのは、この城の最大の弱点を、おのれ一手で塞ぎ止めてみせようということであった。幸村には一途にそのようなところがあった。豊臣家の人柱になってみようという覚悟が、自負心のつよさに裏打ちされていた。幸村は、このため三の丸の南限の堀の外へ自分を置こうとした。つまり敵へ突き出した場所に小城塞をつくろうとした。「真田丸」といわれる構造物が、それである。司馬遼太郎「城塞(中)」より大坂城と真田丸(2)

  • 大坂城と真田丸(1)

    この間、真田幸村は、常時城南にいた。城南は、この巨城を秀吉が築城した早々から最大の弱点とされ、秀吉は終生それを苦にしていた。大坂城はいわゆる上町台地の北端にあり、西には海をひかえ、北と東には川をめぐらしていわば天嶮にまもられている。ただ、南に対してだけは、台地が平らかに続いて四天王寺にまで至っており、人馬の往来は自由であった。家康が、この城南の攻撃に主眼をおき、大軍を集結させ、みずからの指揮所も城南の四天王寺付近の茶臼山に置いたのは、当然の着眼であった。「南がよわい」と、真田幸村は入城早々、大野修理に警告しその後、軍議がひらかれるたびにいったのも、このことであった。司馬遼太郎「城塞(中)」より大坂城と真田丸(1)

  • 大坂城(山里郭)

    「御本丸もあぶない」と、速水守久はいった。北へ参りましょう、と守久はいった。北とは山里郭のことであった。山里郭は、秀吉が茶をたのしむため自然の山水をつくりあげた一郭で、樹木が多いためにたとえ天守閣が炎になっても火は山里郭まではおよばない。守久が、先導した。秀頼、淀殿など、男女三十人がつづいた。修理は途中で一時消え、やがて一同のあとを追って山里郭へむかった。この間、修理は千姫を城からおとした。司馬遼太郎「城塞(下)」より大坂城(山里郭)

  • 岡山城(宇喜多秀家(2))

    直家はさらに、「いまひとつ、欲がござる。わが息のあるうちに、八郎の男姿を見とうござる」といった。男姿が見たいというのは、元服させてくれという意味である。(略)やがて元服の諸役がきまった。加冠ノ役、理髪ノ役、烏帽子ノ役、鏡台ノ役などである。そのうち理髪ノ役は、秀吉から小西弥九郎行長が命ぜられた。この宇喜多領生まれの堺商人はその優れた外交能力を買われてすでに秀吉の家来になっており、中国筋の大小名のあいだを駆け回って反毛利体制を作り上げている。同時にその場で八郎の傅人になるよう、秀吉から命ぜられた。この商人あがりの武将と秀家の結びつきが関ヶ原の戦場にまで及ぶとは、この場の誰もがむろん想像もできなかったであろう。さて命名である。(略)秀吉は秀の一字をあたえることにした。秀吉は様式どおりの紙を用意させ、その中央に「秀」と...岡山城(宇喜多秀家(2))

  • 岡山城(宇喜多秀家(1))

    ほどなく年が明け、天正九(1581)年になった。備前岡山城で直家が死病にかかった。すでに齢は五十を過ぎていた。衰弱の様子からみて長くはもつまいというのが医師の見立てであった。(略)死にのぞんで直家の願いは「息のあるうちにひとめ羽柴殿に会い、八郎の前途のことなどを頼み入りたい」ということであった。秀吉は承知した。(略)年が明けて早々、秀吉は八郎をともない、播州姫路を発し、山陽道を下った。八郎にとって生涯の思い出となった旅行であった。かれはかぞえて九歳になっている。司馬遼太郎「豊臣家の人々」より岡山城(宇喜多秀家(1))

  • 岡山城(宇喜多直家)

    まだ秀吉が織田家の将として中国地方の毛利氏を攻めていたころである。この当時の秀吉の本営は姫路城であった。敵の毛利氏は広島城である。その中間の岡山城に、秀家の亡父の宇喜多直家がいる。直家は備前と美作両国をもつ大名で、この男ははじめ毛利氏に加担していたが、(このぶんでは、織田氏についたほうが有利ではあるまいか)と考えるようになった。毛利氏は山陽・山陰十カ国の大領主とはいえ、その石高でいえば数百万石に過ぎない。それにひきかえ織田氏は近畿を中心にすでに三十数カ国を征服し、三百万石以上の勢力をもっている。物量からいえば織田氏の勝ちであろう。直家は計算高い。だけでなく自分の計算にこの男ほど忠実な男もいない。司馬遼太郎「豊臣家の人々」より大河ドラマもいよいよ終盤の大坂の陣編に入りました。幸村が登場するに至っては、もはや戦は避...岡山城(宇喜多直家)

  • 北ノ庄城(柴田勝家)

    その翌日、秀吉は大軍をもって北ノ庄城をかこみかれ自身は城を見おろす足羽山に本陣を据えた。勝家のこの城は、すでに戦闘力はなきにひとしい。かれは湖北から逃げもどるとすぐ兵を集めたが離反するものが多く、三千人ほども集まらなかった。勝家は絶望し、それらを本丸と二の丸、三の丸のみに集め、城の外郭は捨てた。(略)激闘がつづき、羽柴方は正午になってようやく城壁を超えて城内に入ることができた。勝家は天守閣にしりぞき、なおも戦った。午後四時、勝家はその一類八十余人とともに自刃をし、用意の火薬に点火させ、建物もろとも自分の遺骸を爆燃させた。「やむをえなかったのだ」と秀吉は次々と誘爆してゆく敵城を見ながら大声で言った。大声で左右の諸将にきかせねばならなかった。なぜならばかれの麾下には勝家と昵懇の者がおおく、それとなく札家の助命を秀吉...北ノ庄城(柴田勝家)

  • 富山城(佐々成政)

    越中は、加賀のようにはいかない。佐々成政が国主で、富山城を居城としている。成政は織田家のはえぬきの将で、代々尾張の春日井郡井関というところに住した。信長の父の代にい佐々家からは孫助という豪傑が出ていわゆる小豆坂七本槍のひとりんい数えられるほどの功をたてている。(略)秀吉はたれの目からみても織田政権を簒奪しようとしていた。成政は、この秀吉をほろぼすべく柴田勝家を熱狂的に支持したが、しかし肝心の賤ヶ岳の合戦には出陣できなかった。不幸にもかれは東隣の越後の上杉景勝と交戦状態にあり、この越中を留守にするわけにはいかなかった。司馬遼太郎「新史太閤記(下)」より羽柴秀吉が、柴田勝家を討ったのち、加賀、能登、越中という北陸を抑えるときの話。旧友でもある前田利家は秀吉に下るが、果たして、秀吉嫌いの成政は?富山城(佐々成政)

  • 天王山宝寺城(大谷吉継)

    このころになると、「熊が。-」と、秀吉は言うようになった。北方の柴田勝家のことを、である。以前は鬼というあだ名で呼んでいた。「北の熊がまだ穴ごもりをせぬか」とときどきつぶやく。北に雪が降らぬか、雪のために北と中央の交通が途絶せぬか、そのために柴田は熊のごとく冬眠に入らざるをえないが、そのよろこばしい状態はまだ来ぬか、さてさて雪の知らせはまだかのう、という意味であった。秀吉はこのころ、京と琵琶湖畔の陽ざしのあかるい天地を往来していたが、想いはつねに北方の天に飛んでいる。「紀ノ介」と小姓をよんだのは、京の南の彼の根拠地である天王寺宝寺城においてであった。(略)この時期、秀吉の小姓には人材が多い。加藤清正、福島正則、平野権平、脇坂安治、石田三成などがおり、秀吉はかれらを追い使いつつ彼らを将来の将官にさせるための教育を...天王山宝寺城(大谷吉継)

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