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続・エヌ氏の私設法学部社会学科 https://blog.goo.ne.jp/pingupapa

無理,矛盾,不条理,不公平,牽強付会,我田引水,頽廃,犯罪,戦争,世間とは斯くも住み難き処なりや?

 法律や社会問題、時事や歴史などを切り口に、自分なりの正論を展開します。  我が「ディオゲネスの樽」へのご訪問、いつでも歓迎いたします。  なお、プロフィールに掲げてある写真は、最高裁判所に飾られている、法の女神「テミス」の像です。

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2010/09/19

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  • 地獄、地獄絵図

    だいたいどの宗教でも地獄という概念は持っており、それぞれの宗教が想像する地獄では、大勢の人間が責苦を受けて泣き叫んでいる様子が、絵図などに描かれています。これに似た状況として、戦争で、たくさんの人々が傷つき死んでいく様を、「地獄のようだ」「地獄絵図だ」ということがあります。しかしこれは、地獄や、そこで働く鬼たちに対して、非常に失礼な表現です。なぜなら、地獄の業火に焼かれるのは罪人と決まっていますが、戦争では、無実の人間、殊に女子供までが情け容赦なく斬られ、焼かれ、引き裂かれています。閻魔大王も地獄の鬼たちも、無実の女子供まで苛むようなことは、決してしません。そんな無慈悲なことをするのは、人間だけです。そう、人間は、鬼もしないようなことを、歴史上、飽くことなく繰り返しているのです。そのような人間たちを見て、地獄の...地獄、地獄絵図

  • 合戦の火蓋を切る

    この慣用句がおかしいというわけではありません。では何かというと、この言葉が使われた状況に違和感を感じました。あるテレビ番組で、源平最後の合戦、壇ノ浦の海戦を特集していたのですが、その中で、「合戦の火蓋が切って落とされました」と言っていたのです。「戦いの火蓋を切る」という慣用句は、昔の火縄銃で、火薬を入れる火皿が、剥き出しのままでは暴発する危険があるので、火薬を入れた後は蓋(火蓋)をしておいて、いよいよ射撃をする時にその蓋を開ける(切る)ことが語源です。しかし、鉄砲伝来は1543年ですが、壇ノ浦の海戦はそれより350年以上も前の1185年です。もうお分かりですよね。壇ノ浦の海戦で火蓋は切られていないのです。まだ弓矢の時代でしたから。まあ、慣用句は慣用句ですから、鉄砲が用いられていない合戦に「火蓋を切る」という表現...合戦の火蓋を切る

  • 十悪の人も報をうくるに時節ある事

    ご訪問ありがとうございます→←ポチっと押してください江州下坂本に太郎兵衛という者がいた。三十五六まで定った妻はなく、割と裕福に暮らしていたが、何を考えてか、人を召し使うわけでもなく一人で暮らし、自宅の他に家を二三軒ほど持っていたが、これも手入れをするのが面倒だと売り払ってしまい、兎角、世の中の変わり者だと、人にも言われる行跡であった。弟は軽路といって座頭であった。師に連れられて幼い時から江戸に住み、仕事であちらこちらへ行く間に芸なども覚え、心だての良い者だと皆に親しまれ、若いうちから何度も重要な役をこなして堅実に出世もし、その頃の座頭たちは、軽路を羨む者も多かった。かくて元禄二年の夏、軽路は、また重要な役を三つばかり勤め上げ、ますます皆に信用されるようになった。その後、かねてから願っていた、西国への勤めの旅に出...十悪の人も報をうくるに時節ある事

  • 正直の人蛇の難をのかるる事

    ご訪問ありがとうございます→←ポチっと押してください越後の新潟という所に、伝介という百姓がいた。伝介の畑は家から離れていたので、朝早くから、昼食のために焼飯を二つ三つほど拵え、小さな藁づとに入れて持って行き、畑の畝に置いて、田畑を耕していた。(注:焼き握り飯のことである。念のため)ある年の夏、いつものように畑へ行って、焼飯を入れた箱を傍らの木の枝に掛け置き、農作業を勤め、日も昼になったと思う頃、かの箱を下して昼食にしようとしたら、箱の中の食べ物がなくなっていた。これはどうしたことかと思い巡らせても、確かに、今朝、飯を入れたと思ったが、そうかといって、誰かが盗んだ様子もない。不思議に思いながらも、腹がすいたのを我慢して、その日を勤め、家に帰った。明くる日も、同じ木の枝に飯を掛けたら、また、なくなっていた。合点の行...正直の人蛇の難をのかるる事

  • 男の一念鬼の面に移る事

    ご訪問ありがとうございます→←ポチっと押してください京都油小路に小間物屋庄右衛門という者がいた。その女房は、十二三の頃よりさる方に勤め、髪かたちも人に勝れ、琴三味線も上手であったので、ゆくゆくは一国の御奥にもなるのではないかと言われていたが、心様が妄りで色深い人だったため、十八九の頃には親元へ帰ってきていて、それが、ふとした縁で庄右衛門に連れ添い、早や六七年にもなり、二人には、六つと四つの二人の子がいた。庄右衛門は小間物を売って、いろんな家に出入りしていたので、それらの家の女中などと話をするうち、芝居話や物真似などをそこそこに覚え、流行り歌の端々をも少しは歌えるようになった。ただし、今時の小間物屋は、大抵の者が、これぐらいの取柄がなければ商いにならない。そんな音曲の楽しみを得た庄右衛門は、さらに、出入の小座頭や...男の一念鬼の面に移る事

  • 美僧は後生のさはりとなる事

    ご訪問ありがとうございます→←ポチっと押してください鎌倉建長寺の傍らに、念性という僧がいた。生まれつき美くしく器量の良い僧で、学問も人に優れ、書を良くし、心映えも優しかったので、人々から持て囃され、老いも若きも念性念性と言っては馳走し、仏事があるときは必ず呼び、争うように衣類なども差し上げ、皆、何かとこの僧の面倒を見ていた。それほど評判が良かったので、ゆくゆくは似つかわしい寺にも入って、心よく菩提を弔う僧になってくれればと思う者も少なくなかった。そうした折、地頭の世話で、亀谷坂の辺りに草堂を建て、念性をここに据えたところ、僅か半年ばかりの間に、近郷の百姓たちは皆この僧に懐き、そればかりか、鎌倉へ来る旅人の宿として、あるいは貴人の御馬をも寄せられる程にもなった。念性の草堂近く、粟船という所に、小左衛門後家という女...美僧は後生のさはりとなる事

  • 願西といふ法師舎利の罰を得し事

    ご訪問ありがとうございます→←ポチっと押してください山城国新田に与十郎という者がいた。彼の家には不思議な本尊があり、二尺ばかりの御長立像で、なかなかの名作と見えたが、いかなる仏工の作かは分からなかった。ただ、惣身より次々と舎利が湧き出てきて、いつ見ても舎利が七つ八つほど蓮台の上に落ちていて、絶えることがなかった。(注)舎利=釈迦の遺骨。上では、骨の欠片らしいものが湧いて出るのを、仏像から出てきているので、舎利と信じているこれを聞いた人々は、遠い国から遥かな道も厭わず信心の歩みを運んで、ひとたび拝み奉って、後生の善果を得る事を願う人も多く、あるいは、さまざまなご利益を求めて、この舎利を一粒貰い受け、七宝の塔を建てて香花を捧げ、一心に祈る人も少なくなかった。そのような人のところへ貰われていった舎利は、また自ずから分...願西といふ法師舎利の罰を得し事

  • 舎利の奇特にて命たすかりし人の事

    ご訪問ありがとうございます→←ポチっと押してください津国瀬川の宿、待兼山のほとりに甚之丞という者がいた。先祖は昔、荒木津守が伊丹籠城をした時、何度か手柄を立てて感状などを貰い、その後、摂津守を恙なく勤めるなど天晴れな武士であったが、伊丹が没落の後は、屋敷ひとつばかりの、浪人同然の身となった。しかも、それが三代目の今に至っては、再び武家の名を興すことも叶わず、そうかといって、土民の数に入りながらも農業については何も知らず、心ならずも隠遁の身なりをし、訊かれもしないのに、羽振りの良かった昔の話ばかりして過していた。ただ、せめてもの取柄で、人に無心がましき事は言わず、損をかけることもなく、特に何の生業をする様子でもなかったが、人並みに木綿の衣裳をさっぱりと着こなし、年に二度ほどは、近所の衆を呼んで碁や将棋に遊ぶなど、...舎利の奇特にて命たすかりし人の事

  • 狸の子を取て報ひし事

    ご訪問ありがとうございます→←ポチっと押してください加州金沢に、弥九郎という獣捕りの名人がいて、見かけた獣を残さず捕って市に運び、三貫五貫の銭を得て自分の稼業としていたので、この男が出かける時は、獣たちは安心して出遊ぶことができないなどと言われた。ある時、用事があって越前の国福井へ行く時、月津より轟へ行く間に勅使という所があり、その辺には道竹という隠れなき古狸が住んでいて、ややもすれば人を誑かし化かして、難儀をさせていた。弥九郎が通りかかった折も、道竹の子供二三疋が、この勅使の川辺に出て遊んでいたのを、弥九郎は遠くから見付け、「これはよい稼ぎになる。捕まえて、道中の酒代にしてやろう」と思い、傍らの茨畔に這い隠れ、二疋は難なく捕えたが、一疋は取逃してしまった。弥九郎は、「口惜しい事だ。今まで何度も獣を捕ったが、つ...狸の子を取て報ひし事

  • 人形を火に焼きてむくひし事

    ご訪問ありがとうございます→←ポチっと押してください寛文(元禄の少し前)の頃まで世に持て囃された説教大夫(説教節=語りものの民衆芸能)で、日暮(説教節の日暮派)という者は類なき誉を残した。今でも片田舎の者は、折にふれて俊徳丸、山椒大夫などといった演目で涙を流し、今は廃れつつある音曲に耳を傾けているという。元禄十一年の頃まで、日暮小太夫(日暮派の名跡)という者がいて、美濃、尾張、稲葉、筑紫など至らぬ所はなく、行脚のように国々を巡って説教を語り、辻打ちの芝居に傀儡(でく=人形)を舞わせて渡世としていた。しかし、それも世が下るにつれ、人々は他の芸能を持て囃すようになり、長い旅をして、いろんな国に行っては興行していたが、もう古臭いと言われて人気は出ず、それよりも、流行歌などを歌う芸人に人気を取られるばかりであった。それ...人形を火に焼きてむくひし事

  • 死たる子立山より言伝せし事

    ご訪問ありがとうございます→←ポチっと押してください京都六条の寺内に、木綿綛(=もめんかせ:糸を巻き取る道具)を商う市左衛門という者は、息子が一人がいて、市之介といった。親の市左衛門は、浄土宗の熱心な信心者で、毎年のお山詣りを欠かさなかったことを見込まれ、寺の大切な役目なども引き受けて本山の先立となったり、水無月の大役を勤めて、富士山詣りも二三度に及んでいた。その他、諸事の名誉ある会長なども引き受け、報謝をなし、寄進を心にかけ、人にも勧め自分も善を尽くしていた。また、市左衛門は、一人息子の市之介にも、十三の歳より勤めをさせ、商いの合間には、共に仏事を手伝わせていた。ところが元禄十四年の卯月始め頃から、市之介は病気になって、しかも思いのほか重く、十死一生(ほとんど助かる見込みがない)となってしまった。一人っ子でも...死たる子立山より言伝せし事

  • 播磨灘舟ゆうれいの事

    ご訪問ありがとうございます→←ポチっと押してくださいこれも大坂立売堀の住人で、湯川朔庵という儒医がいた。生まれつき器用な者で、およそ難波の津においては、肩を並べるべき者もないほどの学者で、門弟も多かった。また、朔庵の妻も堺の生まれで、名高い人の娘であった。朔庵は、難治の病であっても必ず治すと評判で、人々は朔庵の医院に親しみ、方々から薬を求める者が絶えず、傍に教えを乞う書生のいない日はなかった。その頃、伏見両替町の辺に住む、小西の何某とかいう人の子息も、朔庵の弟子になって医学の修行をしていたが、朔庵自身も、もっと医学を極めたいと考え、小西の子息にも勧め、皆で、修行のため長崎へと引っ越した。朔庵は、長崎においてもその手腕を発揮し、あちこちから持て囃された。そして、入船してくる異国人の治療も許可されて、出島の出入りも...播磨灘舟ゆうれいの事

  • 腰ぬけし妻離別にあひし事

    ご訪問ありがとうございます→←ポチっと押してください大坂長町にいた京屋七兵衛という男は、極めて不人情な者であった。元来は、京の丸太町辺りに住んでいて、七兵衛夫婦には、七つと四つになる娘がいた。女房は長いこと腰を患い、さまざまに療治したが露ばかりの験もなく、この一両年は腰も立たなくなって、朝夕の食事は言うに及ばず、大小用さえ御虎子(おまる)で取る身であった。また、女房の親は父一人だけ、それも剃髪の後、承仕の僧となって、越中の井波という所の水泉寺という一向宗の御堂へ下っていた。だから今は、一門といっても埃ほどもない身の上であった。夫の七兵衛は、近頃稀なほど情け知らずな者とは知られていたが、女房は、腰が立たなくなってしまったのも自分の因果と思い、夫には万事について気を遣い、夫の心に背かぬよう、言葉に気を付け、機嫌をと...腰ぬけし妻離別にあひし事

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