スリランカ上座仏教の長老アルボムッレ・スマナサーラ氏の著書や法話の内容を伝えるブログです。
人生とは、悩んだり、落ち込んだり迷ったり の連続ではないでしょうか。 そんな時にこのブログをご覧になって 悩まない生き方が出来たなら どんな生命の幸せも願えることが出来たのなら 生き方が変わってくるのではないでしょうか 一緒に勉強して行きましょう。
★ナ チャ クッダン サマーチャーレー Na ca khuddam samacare まず、クッダ(khudda)は直訳すると「小さい、つまらない、 たいした事はない」という意味です。 どんなパーリー語にも幾つか意味がありますが、 クッダも同じ「小さい」という意味もありますし、 「あまり評価できない」「悪い」という意味もあります。 その二つをつなげて、普通は大したことはないと思う出来事、 微かな悪いことでも、 …
http://www.radionikkei.jp/podcasting/otona/2014/06/player-post-122.html 坪田一男『おとなのラジオ』6月7日放送より。
世間の人々は盲目である。 少数の者が真理を理解する。 とり網から逃れ出て、 空に生還する鳥が少ないように。(174) 真理を探し求める人は、今も少数派です。 抜群の能力をもち、あらゆることを発見して、 だれも知らないことを教えてくれる人々は当然少ないのです。 その貴重な人々が、だれも仲間がいないから 寂しいとか、真理の探究をやめて一般人と一緒…
理解しにくいのは「不痴」です。 不痴とは、探究する心、発見する心、 ものごとを理解したり、新しいことにチャレンジしようとする 前向きなエネルギーのことです。 だらだらして生きるのではなく、自分から積極的に試したり、 調べたり、考えたり、チャレンジするという活発なエネルギーです。 「人に言われたからする」のではなく 「自分がしたいから、おもしろいから、勉強になるからする」 という気持ち…
生きることは無意味だからこそ、 私たちは「意味のある生き方」をするべきなのです。 それで守るべき項目が10項目(10善)あります。 ①殺生をしない。 ②盗まない。 ③邪な行為をしない。 身体でその3つを守る。 簡単でしょう。そんなに難しくないでしょう。 それから言葉に気をつける。 これは、かなりの修行になるのです。 頭がしっかりするのです。 ④嘘を言わない。 ⑤噂を言わない。 …
個性は持って生まれたものだから、 いくら親だからといっても、どうにもならないだろう、 と考えるのは間違っています。 仏教には「無常」という言葉があります。 この世のあらゆるものは、とどまることなく変化している、 という意味です。 個性も同じ。 持って生まれたものが生涯そのままであるということはありません。 親がかかわることによって子どもの個性は変えられるのです。 もちろん、かかわり方はケー…
経典では、感覚を苦・楽・不苦不楽という 3つに分けています。 修行者は、感覚をその3つに分けて観察しても構わないのです。 そこで面白いことを発見します。 「ある時は苦(痛み)と確認したのに、 ある時は同じ強度の感覚に不苦不楽とラベルを貼っているのではないか?」 と発見するのです。 同じように、ある時は楽だと確認した感覚を、 後には不苦不楽にしてしまうのです。 ということは、…
生きることを観察しようと始めても、 簡単に進むわけではないのです。 人間のこころに元々、自己観察する能力は無いのです。 無始なる過去から、五欲に依存することで、 思考・妄想・感情に依存することで生きてきたのです。
身体の中に起こる最大のエネルギーを紹介します。 眼耳鼻舌身意の「意」は、考える・思考する・妄想する・夢想する、 などの働きをしています。 この「意」によって、相当な苦のエネルギーが起こるのです。 意に比べれば、見る、聴く、味わう、などのエネルギーは、 それほど大きくはないのです。 我々が何かを客観的に考える・思考する時間はわずかです。 それほど大きくはないのです。 妄想する時間は、比較に…
ここでどんなときに無智が強くなって働いているかを 知るための手掛かりをお教えしましょう。 以下に代表例をリストアップします。 ・正しい判断ができないとき ・判断できなくて優柔不断でいるとき ・鬱気味になるとき ・感情に負ける時 ・混乱状態、興奮状態になるとき ・妄想のストップも制御もできないとき ・とりとめのない、とめようもない妄想が流れるとき ・何を妄想しているのか自分でもわ…
『なぜ笑う。何が楽しい。 炎に包まれている(燃えている)のに。 暗やみに覆われているのに。 なぜ光を求めないのか。(146)』 私たちは絶えず「何をして遊ぼうか、何をして笑おうか、 何をして楽しもうか」という衝動に駆られて生きています。 それは子供の生き方を観ているとよくわかります。 子供はいつも「今日は何をして遊ぼうか」ということばかり考えています。 いわば、それが子供の人生哲学なのです…
自分になんの中身も無いと、どうしても威張りたくなるもの。 自我を張れば張るほど、その人は空っぽです。 俺が俺がとペラペラ喋り続ける人ほど、徹底的に自信がないのです。 中身が充実した人は、自我の幻覚にすがる必要がないから、 謙虚に落ち着いていられるのです。 私たちは無始なる過去から、厄介な「自我の幻覚」で悩んできました。 これはたちの悪い問題です。 とどのつまり、仏道とは自我の錯覚を脳・…
お釈迦様の教えは、「神・仏を恐れなさい」「教えを信じなさい」 などといった態度とは正反対です。 「自分で考えなさい」「理解してみなさい」という態度で語るのです。 このように人の理性に語る教えは、いまだかつてありませんでした。 現在あらわれている新興宗教も、決して人間の理性には語っていません。 何かの工夫をして、人々を原始的な迷信に引き戻そうとしているのです。 テレビで伝道したり、インターネ…
八正道のこれまでの説明を読むと、実践するのはそうとう 難しいのではないかと思われるかもしれません。 でも、決して無理なことではありません。 心の力を見くびってはなりません。 想像を絶する力が、心にはあるのです。 問題は、私たちはその心の力を分散させているということなのです。 百万円のお金を持っている人が、それをすべて1円玉にして家中 または引き出しなど、いたるところにばらまいているとしまし…
正念という言葉を聞くと、「念仏」などの言葉が思い浮かぶにちがいありません。 「念」という字はパーリ語のsati(サティ)を漢訳して当てたものです。 そのせいでみな、漢字の「念」によって理解しようとしたのですが、 本来のサティの意味には気づかなくなってしまいました。 念とは、「気づくこと」です。それでも意味がわからないかもしれません。 人々は生きているうえで、頭の中は過去のことでいっぱいです。 …
「ブログリーダー」を活用して、あんさんをフォローしませんか?