道雪は主君である大友宗麟がキリスト教に昏倒し、 また、家臣に対する悪ふざけや内政をおざなりに する姿勢を見て、度々諫言を行っています。 もちろん、大友家を想っての諫言ですが、 宗麟からすれば面白いことではなく、 一説にはこうした道雪の日々の諫言が煩わしく、 道雪を遠ざけようとするために 本拠の豊後から遠ざけ、豊前・筑前に置いたのではないか、 という話もあるほどでした。 道雪の諫言のエピソードには枚挙にいとまがありません。 ある時、宗麟は凶暴な猿を手元に置き、 遊びで家臣に飛びかからせ、その反応を面白がり、 これには家臣もウンザリしていました。 これを聞..
豊臣家による天下統一が成った後、立花宗茂は文禄・慶長の役に 参加しています。 文禄の役では、碧蹄館の戦いで宗茂は弟の高橋直次と供に 先陣を務め、明軍主力に対し鉄砲の速射や奇襲策を使い、 これを勝機とみた小早川隆景軍が明軍を撃破しました。 小早川隆景は「立花家の3000は他家の1万に匹敵する」とまで 褒め称え、秀吉もこれに対し感状を出しています。 慶長の役では出征の最中に秀吉が死去したことに伴い、 日本軍に撤退命令が下りますが、小西行長率いる本隊が 取り残される形になりました。 そこで島津義弘、宗義智、寺沢広高と供に水軍を編成し、 朝鮮軍側の名将、李瞬臣率い..
道雪死去後の翌年、1586年以降、九州統一を狙う 島津軍と大友家の抗争が本格化することになりました。 しかし、キリスト教に昏倒した義鎮と、 暗愚で知られた嫡男の義統を見かねて、 これまで大友家を支えてきた家臣は次々と 大友家から離反し、島津軍に寝返っていく有様でした。 それでも道雪と供に大友家を支えた高橋紹運や 道雪の遺言を守り、大友家への忠誠を誓う立花宗茂は 大友家に残り、島津軍を相手に奮戦します。 高橋紹運は筑前岩屋城の戦いで、2万の大軍を擁する 島津軍に対して僅か700の兵で3ヵ月の間岩屋城を守り抜き、 玉砕して果てました。 一方、立花宗茂も立花山..
立花道雪(戸次鑑連)は若い頃に落雷に合いましたが、 軍神のような道雪の勇猛ぶりを見て、 「道雪は落雷にあった時に雷神を切った」 と人々がうわさをしました。 道雪はそんな話はうわさに尾ひれがついたものと一笑しますが、 もののついでに、愛刀「千鳥」の名を「雷切」に改めた、とのことです。
立花道雪には晩年になっても嫡子が生まれなかった為、 1575年、主君である大友宗麟の許可を得た上で、 一人娘の闇千代を立花家の当主に据えました。 そして、娘婿として供に大友家を支える名将、 高橋紹運の息子であった統虎(後の立花宗茂)を迎えます。 統虎の父、紹運は統虎を送りだす際に、 愛刀である備前長光を送り、こう伝えたそうです。 「お前を送り出すにあたり、私はお前と縁を切る。 これは戦国の習いである。 もし高橋の家と立花の家が戦となった場合、 その時は自ら願い出て道雪殿の先陣となり、 この刀でわしの首を獲りにこい。よいな。」 こうして送り出され..
立花道雪は、その生涯の最期も戦場に出陣しており、 辞世の句はその陣中で詠まれたものでした。 「異方に心ひくなよ豊国の 鉄の弓末に世はなりぬとも」 武士たるもの弓は引いても他の土地に気を引かれてはならないし、 他家の勢いに退くことがあってもならない。 たとえ、その名のとおり豊かであった豊前・豊後の国が 衰退して末の世となっても。 以上が句の解釈ですが、最期まで武士道とは何かを部下に説き、 自分が軍権を預かり守護神となった豊前の国のことを想う、 武士として戦場を駆け回った人生を象徴するかのような句です。 尚、道雪の死に際してはこんな逸話もあります。 道雪は..
立花道雪は家臣への愛情が深い人でも有名でした。 戦で戦功を挙げていない家臣に対して、 次のような話をしたことは有名です。 「運不運が武功にはある。そなたが弱い者でないことは 私がきちんと見定めている。明日の戦いでは抜け駆け などして討ち死にしてはならぬ。それこそ不忠という ものだ。私はお前たちがいるからこそ、老いた体でも 遅れをとることが無いのだ」 戦功が無く焦る部下に対し、抜け駆けをして無理に 命を落とすようなことはない。というものです。 そんな暖かい言葉をかけながら、道雪は家臣と酒を酌み交わし、 家臣との絆を強めたのでした。 足が不自由で..
立花道雪(戸次鑑連)は若い頃落雷に合い、 下半身不随の身となってしまいました。 その為、戦場に出る時は6人の若者に手輿を担がせ、 常に敵陣へ真っ先に切り込んでいきました。 ある時、龍造寺と毛利両家との間で戦をしている最中、 自軍が窮地に立たされて及び腰になる部下に対し、道雪は 「逃げるのであれば、わしを敵の真ん中に置いてから逃げろ」と 下知していたそうです。 主君を敵地に置いて、自分だけ逃げて帰るなんて武士が どこにいるでしょうか。 その言葉を聞いた道雪の部下は奮起し、劣勢を挽回する 一丸となって敵を押し返し、劣勢を挽回していったそうです。 部下に輿..
1584年、九州三強の一角であり、大友家すら凌ぐ勢いを 誇っていた龍造寺隆信が、沖田畷の戦いで島津軍に大敗し、 当主の隆信は討ち死にしてしまいました。 大友家と国境を接する筑後の龍造寺領は空白地帯となり、 これを好機とみた大友家は道雪を中心に筑後に攻め入ります。 緒戦は士気の低い龍造寺勢を相手に、大友軍は優勢に 戦を進めていきますが、「雷の化身」と呼ばれた道雪も この頃既に73歳となっていました。 そして、老いた体に戦の疲労がたたったのか、 道雪は翌1585年、陣中で没します。享年73歳でした。
1567年、休松の戦いのあと、撤退を強いられた大友軍に対し、 それまで付き従ってきた国人衆の間に動揺が広がりました。 そして1568年、筑前には大友家と敵対していた秋月家の他に、 立花山城の立花鑑載が大友家に対して叛旗を翻します。 戸次鑑連率いる大友軍主力は、すぐに立花山城を攻め、 3ヵ月に渡る攻防戦の後に落城しますが、筑前・豊前の情勢が 不安定になったことを好機ととらえた毛利軍が大軍を 九州に上陸させます。 その頃秋月家を攻めていた大友軍の隙を突いて、毛利軍は 立花山城を奪回し、立花山城は再度毛利軍の手に渡ります。 立花山城を巡り、大友家と毛利家の両者は、..
門司城の戦いの後、後背の尼子氏を滅ぼしいよいよ 西国の覇者としての力を蓄えつつあった毛利氏は、 度々北九州に兵を進めます。 その北九州、筑前には古処山城で滅ぼしたはずの秋月文種の遺児、 種実が毛利氏の援助を得て古処山城に復帰しました。 これを苦々しく思った大友義鎮(既にこの頃、剃髪して宗麟)は、 1567年、戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速に総勢2万の軍を預け、 秋月種実攻略を命じます。 大友軍は緒戦には勝利したものの、種実の籠る古処山城を 攻めあぐね、戦線は膠着状態に陥りました。 しかもタイミングの悪いことに、毛利軍が九州に兵を進めるという 報がもたらされ、..
1554年、毛利氏は関門海峡の要地であった門司城を 大友家から奪取しています。 しかし、南蛮貿易を進める大友家にとって、 海上の要衝である門司城を奪われたままであっては 南蛮との交易に支障をきたすことになります。 そこで1561年9月、大友軍は1万5千の軍をもって門司城に 攻めよります。 当時、毛利家は背後に出雲の大名であり、一時は 大内家と西国の覇を争った尼子氏が控えており、 大軍を門司城の守りにつけることはできないと踏んでの 門司城出兵でした。 しかし、毛利家からしても関門海峡の要衝である門司城は 何としても死守すべきと考えており、毛利側も1万8千の..
大友家と国境を属する筑前・豊前(現在の福岡県西部と東部)は、 大友家の当主が義鑑だった頃から、西国一の大大名であった 大内氏が治める領地であり、大友家と大内家が度々争った土地です。 1551年、その大内家で当主義隆が重臣の陶晴賢のクーデターにより 暗殺されるという事件が起きました(大寧寺の変)。 この陶晴賢も1555年、厳島の戦いで毛利家によって討ち取られ、 大内家の旧領は毛利家に吸収されていき、その勢力は 大内家が支配していた筑前・豊前にも及びました。 前後しますが、筑前の豪族、秋月文種は大内家に属していたものの、 1551年の大寧寺の変により、主家を大内家から..
戸次鑑連(後の立花道雪)の主家である大友家は、 当主の大友義鑑が正室の子である義鎮が嫡子であるにも関わらず、 側室の子である三男の塩市丸を後継者としたいと考え、 義鎮を廃嫡しようとしていました。 このため、大友氏内部では義鎮派と塩市丸派に分裂し、 互いが内部抗争を繰り広げていました。 そんな中、義鑑は寵臣の入田親誠と共謀し、 義鎮派に属する家臣を次々と暗殺していきました。 そして、事件が起きます。 1550年、津久見美作、田口新蔵人などの義鎮派の一部が、 就寝していた義鑑と塩市丸を襲撃するという行為に出ました。 この事件により塩市丸とその生母、義鑑の娘..
立花道雪(戸次鑑連)が戦国武将としてデビューを果たしたのが 馬ヶ岳の戦い(1526年)です。 1526年当時、周防、長門、石見、筑前、豊前の5ヶ国を治める 西国一の大大名である大内家の家臣、佐野親基、問田重安らを 将とする大内勢約5000が、馬ヶ岳城を占領しました。 戸次家の主家である豊後大友家当主、大友義鑑はこの報を受け、 直ちに戸次家に対し攻撃を命じました。 戸次家当主であり、鑑連の父である親家は当時病の床にあった為、 代わりにまだ13歳である鑑連が約2000の兵で馬ヶ岳城の 攻撃に向かいます。 鑑連にとってはこの戦が初陣であることから、 この戦の勝敗..
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