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戦国時代の名将 立花道雪 http://tachibanabecky.seesaa.net/

戦国時代の大友家の名将であり、雷の化身と謳われた戦国武将、立花道雪について記載。

まっつん
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2010/07/30

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  • 道雪の諫言

    道雪は主君である大友宗麟がキリスト教に昏倒し、 また、家臣に対する悪ふざけや内政をおざなりに する姿勢を見て、度々諫言を行っています。 もちろん、大友家を想っての諫言ですが、 宗麟からすれば面白いことではなく、 一説にはこうした道雪の日々の諫言が煩わしく、 道雪を遠ざけようとするために 本拠の豊後から遠ざけ、豊前・筑前に置いたのではないか、 という話もあるほどでした。 道雪の諫言のエピソードには枚挙にいとまがありません。 ある時、宗麟は凶暴な猿を手元に置き、 遊びで家臣に飛びかからせ、その反応を面白がり、 これには家臣もウンザリしていました。 これを聞..

  • 道雪死去後の立花家~関ヶ原合戦~

    豊臣家による天下統一が成った後、立花宗茂は文禄・慶長の役に 参加しています。 文禄の役では、碧蹄館の戦いで宗茂は弟の高橋直次と供に 先陣を務め、明軍主力に対し鉄砲の速射や奇襲策を使い、 これを勝機とみた小早川隆景軍が明軍を撃破しました。 小早川隆景は「立花家の3000は他家の1万に匹敵する」とまで 褒め称え、秀吉もこれに対し感状を出しています。 慶長の役では出征の最中に秀吉が死去したことに伴い、 日本軍に撤退命令が下りますが、小西行長率いる本隊が 取り残される形になりました。 そこで島津義弘、宗義智、寺沢広高と供に水軍を編成し、 朝鮮軍側の名将、李瞬臣率い..

  • 道雪死去後の立花家~筑後柳川城主となるまで~

    道雪死去後の翌年、1586年以降、九州統一を狙う 島津軍と大友家の抗争が本格化することになりました。 しかし、キリスト教に昏倒した義鎮と、 暗愚で知られた嫡男の義統を見かねて、 これまで大友家を支えてきた家臣は次々と 大友家から離反し、島津軍に寝返っていく有様でした。 それでも道雪と供に大友家を支えた高橋紹運や 道雪の遺言を守り、大友家への忠誠を誓う立花宗茂は 大友家に残り、島津軍を相手に奮戦します。 高橋紹運は筑前岩屋城の戦いで、2万の大軍を擁する 島津軍に対して僅か700の兵で3ヵ月の間岩屋城を守り抜き、 玉砕して果てました。 一方、立花宗茂も立花山..

  • 愛刀・雷切について

    立花道雪(戸次鑑連)は若い頃に落雷に合いましたが、 軍神のような道雪の勇猛ぶりを見て、 「道雪は落雷にあった時に雷神を切った」 と人々がうわさをしました。 道雪はそんな話はうわさに尾ひれがついたものと一笑しますが、 もののついでに、愛刀「千鳥」の名を「雷切」に改めた、とのことです。

  • 立花闇千代と娘婿立花宗茂

    立花道雪には晩年になっても嫡子が生まれなかった為、 1575年、主君である大友宗麟の許可を得た上で、 一人娘の闇千代を立花家の当主に据えました。 そして、娘婿として供に大友家を支える名将、 高橋紹運の息子であった統虎(後の立花宗茂)を迎えます。 統虎の父、紹運は統虎を送りだす際に、 愛刀である備前長光を送り、こう伝えたそうです。 「お前を送り出すにあたり、私はお前と縁を切る。 これは戦国の習いである。 もし高橋の家と立花の家が戦となった場合、 その時は自ら願い出て道雪殿の先陣となり、 この刀でわしの首を獲りにこい。よいな。」 こうして送り出され..

  • 立花道雪の辞世の句について

    立花道雪は、その生涯の最期も戦場に出陣しており、 辞世の句はその陣中で詠まれたものでした。 「異方に心ひくなよ豊国の 鉄の弓末に世はなりぬとも」 武士たるもの弓は引いても他の土地に気を引かれてはならないし、 他家の勢いに退くことがあってもならない。 たとえ、その名のとおり豊かであった豊前・豊後の国が 衰退して末の世となっても。 以上が句の解釈ですが、最期まで武士道とは何かを部下に説き、 自分が軍権を預かり守護神となった豊前の国のことを想う、 武士として戦場を駆け回った人生を象徴するかのような句です。 尚、道雪の死に際してはこんな逸話もあります。 道雪は..

  • 立花道雪の名言②

    立花道雪は家臣への愛情が深い人でも有名でした。 戦で戦功を挙げていない家臣に対して、 次のような話をしたことは有名です。 「運不運が武功にはある。そなたが弱い者でないことは 私がきちんと見定めている。明日の戦いでは抜け駆け などして討ち死にしてはならぬ。それこそ不忠という ものだ。私はお前たちがいるからこそ、老いた体でも 遅れをとることが無いのだ」 戦功が無く焦る部下に対し、抜け駆けをして無理に 命を落とすようなことはない。というものです。 そんな暖かい言葉をかけながら、道雪は家臣と酒を酌み交わし、 家臣との絆を強めたのでした。 足が不自由で..

  • 立花道雪の名言①

    立花道雪(戸次鑑連)は若い頃落雷に合い、 下半身不随の身となってしまいました。 その為、戦場に出る時は6人の若者に手輿を担がせ、 常に敵陣へ真っ先に切り込んでいきました。 ある時、龍造寺と毛利両家との間で戦をしている最中、 自軍が窮地に立たされて及び腰になる部下に対し、道雪は 「逃げるのであれば、わしを敵の真ん中に置いてから逃げろ」と 下知していたそうです。 主君を敵地に置いて、自分だけ逃げて帰るなんて武士が どこにいるでしょうか。 その言葉を聞いた道雪の部下は奮起し、劣勢を挽回する 一丸となって敵を押し返し、劣勢を挽回していったそうです。 部下に輿..

  • 1584年 筑後制圧戦

    1584年、九州三強の一角であり、大友家すら凌ぐ勢いを 誇っていた龍造寺隆信が、沖田畷の戦いで島津軍に大敗し、 当主の隆信は討ち死にしてしまいました。 大友家と国境を接する筑後の龍造寺領は空白地帯となり、 これを好機とみた大友家は道雪を中心に筑後に攻め入ります。 緒戦は士気の低い龍造寺勢を相手に、大友軍は優勢に 戦を進めていきますが、「雷の化身」と呼ばれた道雪も この頃既に73歳となっていました。 そして、老いた体に戦の疲労がたたったのか、 道雪は翌1585年、陣中で没します。享年73歳でした。

  • 1569年 多々良浜の戦い

    1567年、休松の戦いのあと、撤退を強いられた大友軍に対し、 それまで付き従ってきた国人衆の間に動揺が広がりました。 そして1568年、筑前には大友家と敵対していた秋月家の他に、 立花山城の立花鑑載が大友家に対して叛旗を翻します。 戸次鑑連率いる大友軍主力は、すぐに立花山城を攻め、 3ヵ月に渡る攻防戦の後に落城しますが、筑前・豊前の情勢が 不安定になったことを好機ととらえた毛利軍が大軍を 九州に上陸させます。 その頃秋月家を攻めていた大友軍の隙を突いて、毛利軍は 立花山城を奪回し、立花山城は再度毛利軍の手に渡ります。 立花山城を巡り、大友家と毛利家の両者は、..

  • 1567年 休松の戦い

    門司城の戦いの後、後背の尼子氏を滅ぼしいよいよ 西国の覇者としての力を蓄えつつあった毛利氏は、 度々北九州に兵を進めます。 その北九州、筑前には古処山城で滅ぼしたはずの秋月文種の遺児、 種実が毛利氏の援助を得て古処山城に復帰しました。 これを苦々しく思った大友義鎮(既にこの頃、剃髪して宗麟)は、 1567年、戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速に総勢2万の軍を預け、 秋月種実攻略を命じます。 大友軍は緒戦には勝利したものの、種実の籠る古処山城を 攻めあぐね、戦線は膠着状態に陥りました。 しかもタイミングの悪いことに、毛利軍が九州に兵を進めるという 報がもたらされ、..

  • 1561年 門司城の戦い

    1554年、毛利氏は関門海峡の要地であった門司城を 大友家から奪取しています。 しかし、南蛮貿易を進める大友家にとって、 海上の要衝である門司城を奪われたままであっては 南蛮との交易に支障をきたすことになります。 そこで1561年9月、大友軍は1万5千の軍をもって門司城に 攻めよります。 当時、毛利家は背後に出雲の大名であり、一時は 大内家と西国の覇を争った尼子氏が控えており、 大軍を門司城の守りにつけることはできないと踏んでの 門司城出兵でした。 しかし、毛利家からしても関門海峡の要衝である門司城は 何としても死守すべきと考えており、毛利側も1万8千の..

  • 1557年 古処山城の戦い

    大友家と国境を属する筑前・豊前(現在の福岡県西部と東部)は、 大友家の当主が義鑑だった頃から、西国一の大大名であった 大内氏が治める領地であり、大友家と大内家が度々争った土地です。 1551年、その大内家で当主義隆が重臣の陶晴賢のクーデターにより 暗殺されるという事件が起きました(大寧寺の変)。 この陶晴賢も1555年、厳島の戦いで毛利家によって討ち取られ、 大内家の旧領は毛利家に吸収されていき、その勢力は 大内家が支配していた筑前・豊前にも及びました。 前後しますが、筑前の豪族、秋月文種は大内家に属していたものの、 1551年の大寧寺の変により、主家を大内家から..

  • 1550年 二階崩れの変

    戸次鑑連(後の立花道雪)の主家である大友家は、 当主の大友義鑑が正室の子である義鎮が嫡子であるにも関わらず、 側室の子である三男の塩市丸を後継者としたいと考え、 義鎮を廃嫡しようとしていました。 このため、大友氏内部では義鎮派と塩市丸派に分裂し、 互いが内部抗争を繰り広げていました。 そんな中、義鑑は寵臣の入田親誠と共謀し、 義鎮派に属する家臣を次々と暗殺していきました。 そして、事件が起きます。 1550年、津久見美作、田口新蔵人などの義鎮派の一部が、 就寝していた義鑑と塩市丸を襲撃するという行為に出ました。 この事件により塩市丸とその生母、義鑑の娘..

  • 1526年 馬ヶ岳城の戦い

    立花道雪(戸次鑑連)が戦国武将としてデビューを果たしたのが 馬ヶ岳の戦い(1526年)です。 1526年当時、周防、長門、石見、筑前、豊前の5ヶ国を治める 西国一の大大名である大内家の家臣、佐野親基、問田重安らを 将とする大内勢約5000が、馬ヶ岳城を占領しました。 戸次家の主家である豊後大友家当主、大友義鑑はこの報を受け、 直ちに戸次家に対し攻撃を命じました。 戸次家当主であり、鑑連の父である親家は当時病の床にあった為、 代わりにまだ13歳である鑑連が約2000の兵で馬ヶ岳城の 攻撃に向かいます。 鑑連にとってはこの戦が初陣であることから、 この戦の勝敗..

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