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(前日からの続き)ついでに言うと、その祈りの中で、過去世の誤まてる想念がとありましょ。あの消えてゆく姿というのも、我々の方から言いますとね、深いところを一つ言うとね、この現われの今あなた方が生きてる世界の中で、いろんな現実的な悩みや苦をとる、軽くしていく消していく消えてゆく姿もあるけれども、その現われが前生の念で現象界に出てきたとするならば、その過去世にさかのぼって、その念も消していくというのがあるんですよ。だから、人間の生命の本体のね、本心の洗い浄めといいますかね、掃除といいましょうかね。ずっとさかのぼって、何十世代何百世代にもわたる、何十代何百代にもわたる生き通しの生命の掃除をする訳です。それぞれのですよ。それが神様の愛なんですよ。もちろん、今の生活が安楽である方がいいし、平和である方がいいし、皆と仲良く出...前世との関わりで子どもが授かるか否か(11)
(前日からの続き)で結局ね、いろんな所へ話がいってるようですが、つまり、そういう苦というものが、やっぱり神様を語る時にはなきゃあ、そして、神様の愛をいろいろな人にしみ渡らせる為には、とってもじゃないけど、やはり説得力がなくなるという話でしたね。しかし、それだけの為に苦を味わうのかといったら、そうじゃない。その人の魂が光り輝いていく為、その人の本心が輝いていく為にもちろんそれはあるんですけれどもね。だから、子どもが出来る出来ないという問題にしたって、もう子どもは要らないから次には絶対中絶しても子どもをつくらないようにすると。例えばずっと念じたとしますよ。念じたとしたら、さっきの、この人の子どもを産みたくないという話じゃないけれども、やっぱりその念というものが次の世界の中に現われてきて、それは業ですけどね。そうして...前世との関わりで子どもが授かるか否か(10)
(前日からの続き)苦というのはやっぱり離れていかなきゃいけないです。苦は引き寄せちゃあいけないですよ。業も引き寄せちゃあいけないんですよ。非常に難かしいけれどもね。例えば、杖の話をしましょうか。杖というのは、足を悪くした人なんか良く分かると思いますけど。坂道や自動車なんか来る時あぶないですよね。そのあぶないという時に皆杖にすがっちゃうんですよ。すがると全体重をかけちゃって、それで余計に転んで怪我してあぶなくなっちゃう。左足が悪かったのに、余計に右足も悪くしたなんて話を聞きますけど。これは何かというと、あぶないと思ったら、その苦しみの渦からすっと逃げちゃえばいいんです。柔道じゃないけど、あっとその杖をはなして、その苦しみを離れて、後ろ向きにひっくり返って、ちょっと離れりゃあいいんです。離れたら苦というのは、すっと...前世との関わりで子どもが授かるか否か(9)
(前日からの続き)私はいろいろ神様のことをやさしく説くというのは、そのやさしくというのはね、話を難かしくすることは幾らでも出来るんです。だけど、子どもからね、708090になるおじいちゃんおばあちゃんまで、皆悲しみも苦しみも喜びも持ってますよ。そういう心を持ってる人たちに神様の話をする時に、神様の愛について語る時に、こちらのそういう心の糧になるようなね、苦しみなどの財産の一つや二つは、やっぱりなきゃうそなんですよ。だからね、この世の中から、平和の祈りをしていれば苦しみがなくなってゆく筈なのに、業は消えてゆく筈なのに、業というものは消えていかない。何故なんだろう。業というのは人間がつくるんです。業というのは神様がつくるんじゃない。業というのは、この肉体をかぶって生きざるを得ない、この地球世界で生きざるを得ない肉体...前世との関わりで子どもが授かるか否か(8)
(前日からの続き)と同時にですね、この人間が生きていくということの中には、様々な苦しみが伴なってく訳ですよ。例えば、仕事にしろ家庭生活にしろ、結婚生活にしろすべてのことについて、悩み苦しみがある訳なんですよね。つまり、私がさっき申しましたように、何故人類を根絶やしに出来ないかといったら、神様の光の生命だから。それは事実根絶やしになりようがないし、またそれはしちゃあいけないんです。でも、それは大目的だけれども、例えば、私たちが神様のことを語る時に、神様というのは愛ですよという時にですね、何も苦労もしない人が、何の挫折も悩みも味わって来ない人が、神様は愛ですよと言ったって、説得力がありますか。説得力ありませんよ。何にもありませんよ。例えば、ここに十人、人がいるとしましょうかね。十人いるとして、仕事がなくなって明日か...前世との関わりで子どもが授かるか否か(7)
(前日からの続き)生命というのは、ずっと私が申しておりますように、ずっと続いてまいりますから、その次の世の中で、やっぱり子どもというものはいいもんだなというか、必要なもんだなと、人類にとってはね。子どもが出来なきゃ光が絶えてゆく訳ですよ。我々は神の光の生命なんだからね。光の一筋なんだから。その種が絶えるということは光の種が絶えるということであって、光の種蒔きが出来ないということなんですね。だから、人類が絶えるということはあり得ないし、核戦争だとかいろいろ不安はあるけれども、皆が平和な方向へ平和な方向へと、今イランやイラクでもそういう風な方向へ行くでしょう。というのは、やっぱりこの人類の種を根絶やしにしちゃあいけない。その根絶やしにしちゃあいけないという想いの奥には、我々は神様の分生命(わけいのち)の分霊(わけみ...前世との関わりで子どもが授かるか否か(6)
(前日からの続き)そして、もう一つ言っとかなきゃいけないのは、我々は前生もあるし前々生もあるし、いろいろなもう前々々生もあるんだけれども、霊界からこの世の中に親子になって降りて来る時に、この人が親ですよ、あなたはこの両親の間に生まれて来るんですよという時に、我々は素直に向こうから来る時は、はいと言って、そうだと想って降りて来る訳ね。で、それと同時に記憶が消えるんですね。つまり、そういう記憶があっちゃあ、この世の中で光明体として神の器として生きていく、本当の意味で修行していく為に、そういう記憶は邪魔になってくる訳ですよ。いろんなものがあったら困る。だから、ごく少数の人をのぞいてはね、前生に自分は何してたとか、男であったとか女であったとか、いろんな記憶を消しちゃう。そうして、もちろん霊界からの記憶も消しちゃう。だか...前世との関わりで子どもが授かるか否か(5)
(前日からの続き)だけれども、そういう人たちはどういう今度生き方をするかというと、それは様々ですけれども。例えば、夫婦の間で、他の子どもたちは可愛いのに、自分の御主人との間の子どもはどうしても産みたくないとか。そういう風な想いになって出てくる。そして、産みたくないという気持ちと同時に、あるいは親になりたくない母親になりたくない、父親になりたくないという気持ちと同時に、子どもが無いことへの寂しさなり悲しみ、孤独、あるいは葛藤ですね。そういうものを味わう。そういうことによって、子どもの生命というもの、人間の生命というものが何処から来るかとか、それが無いことがどれ程大変なことかとか、そういうことをずっと考えさせられていく訳ですよね。そういう形で、神様、守護霊さん守護神さんというのは、やっぱり学ばせていくんですね。そう...前世との関わりで子どもが授かるか否か(4)
(前日からの続き)そこで、前生にそう想わせられてこの世に出てきた時に、その為に子どもを持てなくなるという人があるかというと、無いことはない、あるんです。それはどういう人があるかというと、例えば、子どもに本当にひどい目にあって、もう裏切られて裏切られて切ない想いをして、もう子どもなんてものはたくさんだ、もう懲り懲りだ、とんでもないという想いが出た時、守護霊さんや守護神さん、神様に、神様もう子どもは懲り懲りですと申し上げた時に、向こうの世界では、やっぱり厳正な審査がある訳です。ただその想いをそのまま受けとって、ああそうかと子どもが出来なくする訳じゃないんです。その想いが、その人の我、欲になってないかどうか。子どもが出来なくなったらいいというのは、これも欲の一つなんで、その欲になってないかどうかね。いわゆる自分の気持...前世との関わりで子どもが授かるか否か(3)
(前日からの続き)まあそこに入る前に、本当に今、子どもで苦労してるお母さんが多いですね。子どもの気持ちが分からなくなっちゃったとかね。それから、これだけ手塩にかけて子どもを育てて来たのに裏切られちゃったとか。何十年育てて来たのに、どうも何か価値観が異なっちゃって親子でありながら何か意見が合わずに、気持ちが合わずに悲しい切ない想いをしてるとかですね。そういうことが随分私の耳に今も聞こえて来ますね。昔から何かそれはあるようで。そういう苦労というのはおそらく人間がこの世の中に生きていく限り、絶えないんだろうなあと。そういう苦労を何かの形でさせられるんだろうなあという気も致しますが。(つづく)前世との関わりで子どもが授かるか否か(2)
子どもが欲しくない、もう子どもはこりごりだと前生で想ってしまって、そこで生命を終えると、この世の中に出てきた時に子どもが出来なくなると。そういう話を村田さんなんかが言ったり(当時)しているけれども、それは本当にそうなのかと。もしそうならば、この世の中で子どもが欲しいと想っている人なんかが、そういう前世との関わりなんかで、宿命なんかで、出来ないというようなことになってしまうのかという質問があったと思いますが。(つづく)前世との関わりで子どもが授かるか否か(1)
(前日からの続き)だから、臓器移植の問題とかいろいろ言うけれど、ヨブ記にあるように、神様がとろうと思えば、この瞬間でもあなた方の生命はとれる。霊界移行させようと思えばいつでも出来るんです。向こうで働くことになる。それが本当に神様のみ心ならば、そうなるんですよ。だけども、今ここで生きてね、何か働いて、存在してるということは、この世の中であなた方がやらなきゃいけないことがいっぱいある訳ね。まだある訳なんです。だから、いろんな苦しみがあるだろうけれども、しかし、そこであなた方がしなきゃいけないと言うのは、とに角、私も含めて、我々のまわりの空気を清浄にして下さい、世界人類を平和にして下さいといって、本心から祈っていく時に、本当にこの世の中は浄められていくんです。その浄められた空気が宇宙全体にまで広まって、宇宙の平和にも...臓器移植について(10)
(前日からの続き)あなた方の光が皆かけ回って、そういう屈折したいろんな人の想いだとか、悲しみだとかを浄めてね、そうして、その空気を清らかにしていくのは、こっちから見えてるんです。だから、皆が、私なんか私なんかというのはね、それは私は卑下高慢というのね。私はちゃんとうたにも詠んだと思うけれども、ああいう卑下高慢はいけないんですよ。肉体の私を私と思ってる間、私は出来ないんです。だけども、肉体の私は私じゃない。本当は、その真実の奥に、つき動かしてる、神様の生命に輝いてる自分自身がある訳だから。そして、それは何の我も苦しみもない自分がある訳なんですよ。それを自分の中に、我々は一つずつ皆奥に持ってるわけ。だから、それを眠らせちゃあもったいないのね。みんな、自分が働けないと思っても、自分が眠ってる間に、その真実の体はね、あ...臓器移植について(9)
(前日からの続き)信じなきゃ駄目。信じてやっぱりやっていかなきゃ駄目なんです。どうしても皆信じる気持ちがねえ。私なんかが信じたって、私一人が…と、あの先生のあの信仰は素晴らしいけれど、私なんかの信心はとね。そうじゃないのね。法然に、ある時ある人が、その辺のおじさんかおばさんかだったと思いますね、法然さん、私は南無阿弥陀仏言ってる時に雑念が出てしょうがないんだけれど、こんなんでも阿弥陀さんの浄土に通じてるだろうかと言いますよ。そしたら、おまえもそうかわしもそうだと言ったというじゃないのね。皆そうなんです。皆肉体が苦しみながら悩みながら、祈る時にね、やっぱりそれはそのままでいいんです。その肉体だけが祈ってる訳じゃない。あなた方の霊体、神体、神界に満ちる全部、本来の自己、真実の自己というものがそこで合体してね、真実の...臓器移植について(8)
(前日からの続き)我々人間というのは、野蛮時代は過ぎておりますからね。その過ぎていってるというのは確かなんです。だからこそ皆、世界平和の運動がどんどん世界へ広がって行って、今、国連でピースセレモニーをやろうというところまで来ている訳ね。それは実現してゆくでしょう。段々運動だけが宗教色を抜いて広まっていくというのも、つまり、人類のね、人間の本心というものを呼び醒ます為の先駆(さきが)けなんですから。で、先駆けというのは、私はここで一言申しますけど、我々は祈りの先兵ではあっても、だから我々が世界人類の中で選ばれたものなんだと思っちゃうと、これはいけないんですよ。これはちょうどね、ユダヤ教が言ってますけれども、メシア思想というのがあって、我々は神に選ばれた、父なる神に選ばれた、世界中でたった一つのイエスの民族だという...臓器移植について(7)
(前日からの続き)本当に世界が平和に調和した時には、臓器移植を例えすることがありましてもね、する方もされる方も、本当にありがとうございますと受けとってね、それから、された人の方の記憶というのもね、した方の記憶というのも、それぞれの子孫につながって行きますよ。今は、どうしても我々は、健康になった人の方の生命、生活という方をやっぱり覚えていきましょ。ね、心臓や肝臓の提供を受けたあの人のおかげで、私の夫、子どもの生命が助かったんだと最初は思いますよ。で、忘れにくいとは思うけれども、しかし、それで元気になってる我が子や主人とか娘や息子とか見てゆく内に、やっぱり、その人の為にその臓器を提供してくれた人の、それまで生きた生命の過ぎゆきとかなどは何処かにいっちゃって、目の前の人が元気になっていく、それだけの人間になっていく訳...臓器移植について(6)
(前日からの続き)実は、臓器移植がどうのこうのというよりも前に、我々はこういうもっともっと深いところを見つめて、その上で自分の存在の根元を何処に求めるか、それは神に求めるんだ、神様の愛に求めるんだという、その深いところを見つめた人たちが、こういう是か非かだけで侃々諤々やってる空気の流れをね、もっと愛のある光のある平和に満ちた空気の流れに変えていかなきゃならない。本当のところを言えば、我々のなすべき仕事というのはそれなんですよ。臓器移植というものは、本当に必要があって、その人の運命、生命に、あるいは器にとってそれがその時必要であれば、神様というのは何が何でも臓器移植をさせると思うね。あるいは、させられる人もする人も決まってるかもわからない。だけども、私がここで言いますのは、そういうことによって人間という尊厳に満ち...臓器移植について(5)
(前日からの続き)我々の生命というのは、絶対な神様の愛、生命から分かれてきてるものなんですね。神様以外からこの生命というものは出て来てないんです。世界人類どの人一人とってもね。例え、世の中にとても貢献をしてる人も、あんな人がと思うような人の生命であってもね、裡(うち)の本心本体というものは、皆神様から分かれて来ている。だからそういう意味で言えば、皆神の子どもでしょう。そういう分け隔てのない公平な本心本体をもってる、生命をもってる、我々の大元、それは何から来てるか、それは神様からなんだ、神様の愛なんだと。何度もくり返して申しますけど、我々は神の分生命であって、我々はこの地球世界の運命修正というものを、それぞれの持ち場持ち場でさりげなくやっていかなきゃなんない。そういう大きな大使命みたいなものをおびて、この肉体をま...臓器移植について(4)
(前日からの続き)じゃあ、臓器移植は絶対駄目かというと、そうじゃないんですよ。例えばね、交通事故なんかでね、誰にも働いて欲しい、もう五十や六十でこんな事故なんかで向こうの世界へもっていかれるのは、皆の為にも個人としてのその人の運命を考えてもね、とてもたまらないという場合には、守護霊様守護神様よろしくお願いしますと言ってですね、そして、臓器移植でも何でもやって、何とかこの人の運命も、この人に関わるいろんな人たちの運命修正も、この人を通してこの器を通してさせて下さいと、皆やっぱり祈ると思うんです。そういう臓器移植がね、やっぱりないとはいわない。ただ私が申しますのは、それが一人や二人ならばいいんですよ。一人や二人ならば、そういう祈りに満ちた、皆の祈りに支えられて、たとえ肉体の臓器移植であろうと人工の臓器移植であろうと...臓器移植について(3)
(前日からの続き)人間の生命というものは、我々から観ればずっと生き通しのものなので、たとえこの世で区切られても、次の世の中で、又次の世の中で、ずっと神様の世界へ入り込むまで、生命というのは永世なものなんですけれども。しかし、まだそのことについて迷いをもったりね、この世の中で死んでしまえば終わりだとか、いろいろな悲しみや嘆きをもってる人たちの想いがある訳なんですね。そういう人たちからみれば、もうこの世で生命が終わりになるのに、そこで臓器移植をされてしまう、ねえ、受ける方じゃなくて、されてしまうという悲しみがある。その空気がなかなかあって、受ける側はそれで生命が何とか助かるんだからいいけども、される側の身になってほしいという気持ちが拭えない訳なんですね。そして一方では、さっきも申しましたように、臓器が人工的に出来る...臓器移植について(2)
臓器移植が良いか悪いかということはね、今日本の中で問題になって議論されている訳ですね。問題になってるというのは何が根元かというと、愛するものと別れたくない、愛するものの体に傷をつけたくない、という風なことねえ。つまり、臓器を移植される側の人たちの悲しみですよね。五体満足のまま焼いてあげたいとかですね。何かそういう気持ちが日本人には非常に強いんです。これは、何の宗教を信仰しているとか何とかじゃなくって、日本人の精神性といいましょうかね、国民性といった方がいいかしら、そういうものなんですね。だから、自分の愛するものの臓器が、例えば肝臓や心臓、腎臓というものが、何かの為であるにせよ、ぼんぼん持ってゆかれる、傷がつくということは耐えられない気持ちがする。それと今は、人工的な、肉体の臓器じゃないものが発達を致しましてね、...臓器移植について(1)
(前日からの続き)はじめから難しい課題を出したって、人間というのはやっぱり駄目なんです。1+1=2から始めないとね。あるいは、1の前はゼロがあるという、ゼロ以下のところで苦しんでる人が沢山いるの。だから、そこへ百をもってきても駄目なんですね。いきなり百を解けといっても、ゼロ以下のところで喘いでる人にね、百のところまで登っておいでといっても無理なんです。ただ世界平和の祈りというのは、その百のところまで、あるいは千のところまで無理なく背伸びなく、すっとゆける。光の集まり所だから、そういう祈りなんだけれども、そこへ導く為にもね、一旦は生身の人間の憂い辛さの所に立って、そういう所へ降りて、苦労をして、その上で共感をして、そうして大変ですねと言った末に、自然に皆さんで、では世界平和の祈りをしましょうかと言って統一が出来る...世界平和の祈り④
(前日からの続き)任せよう任せようと思っても任せられないんです。そんなことは一切抜きにしてね、ただふんわりと座って、ああ大変だなと思いながら聞いてあげる。生身の一人の人間として聞いてあげる。そういう事がね、支部や集会という集まりをする人たちの、指導するあなた方の立場としては、とても大事なことになってく訳ですねえ。我々は、神様によって生命を新しくされるし、心も新しくされるし、本心というものを磨いていただくんです。神様によって我々は生きてる訳だし、糧をいただいてる訳で、我々の生死というものも、天命というものも、神様が貫いてずっと見て下さる。その信仰の上に立ってね、そうして、いろいろなものは神様が与えて下さるから、その上で、世界平和の祈りを唱えていく。世界平和の祈りの中に、日蓮もいれば親鸞も法然もいる、あれは神様の寄...世界平和の祈り③
(前日からの続き)日本というのは特に宗教の国ですけどね、霊(ひ)の本(もと)という位で。本にも書きましたけど、要するに、霊的に指導者の立場にならないといけないのが日本人だけれども、それは気負いたってなるんじゃないんです。いつの間にか染みわたるように、本心の流れが皆の中に染みわたるようにね、そういう風に導いていく。そういう役割を日本人がもってる訳です。日本人がもってるの。だから、その流れに逆らった時にはね、つまり、強制したりするようになった時には、せっかくこのものすごい光明真言である祈りが、その大光明が発揮できなくなっちゃう。こっちの光の流れは止まらないんですよ。全然遮(さえぎ)られないけれども、それを受ける人の想いに何かわくが出来て、そうして、受け入れられないという拒否の想いがきた時には、その光がすっと降りてい...世界平和の祈り②
もう何十回何百回か知りませんけれど、世界平和の祈りについては申してまいりましたけど、まあこんなに分かり易い祈りはない訳ですね。真理の祈りといってもいいけれども、まず現代、この祈りに反対する人がない。たいてい宗教宗派の祈りというものはね、何か一つこれを拝まなきゃ駄目という風な形で出発しちゃうから、そこに把われが出来るんだけれども。世界人類が平和でありますようにというのは、これはもう大本心の祈りですね。そして、神様の祈りですね。これに反対しようと思ったって、これに反対する人はなかなかないんですよ。だから、うまく考えられた祈りですね。考えられたというよりも、神様方の御心を現わした祈りですね。そういう意味で、これは真言だけど、神様の言葉でもあるし、真実の言葉でもあるけれども。しかし、やっぱり皆それぞれに宗教宗派というも...世界平和の祈り①
〇しみじみと神をおもうわがふるさとよいのちのはじまりよ我等の愛を受け給えかし神はいのちのはじまり
〇ぬかずき祈る神の前に無辺の光かがやく祈りは無辺の光
〇高くたかくどこまでもたかくのぼるいのち無限に高くのぼるいのち
〇祈りは神の愛への気づきである気づき
〇神のひびきがあなたの愛を呼び覚ましていることに気づきなさいあなたの愛を呼び覚ます
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