奇妙な夢を見た。 それは、自分と女の子が身体をぴったり寄せ合わせて歩いている場面からはじまった。 というより、起きた時の記憶によれば、そこがはじまりだったとしか言えない。 視点は三人称視点、すなわち、自分とその子が歩いているのが見えていた感じ。 で
ひきもり生活の改善と社会復帰を目指して、自分探しをしています。
かつて鬱病で引き篭もっていたオヤジの独白ノートです。時系列にそった自分史を書きあげ。今は適当に日々を生きている、オヤジの心の日記です。
脱構築といえばデリダ、デリダといえば脱構築というくらいに両者は切り離せないものとされている。しかし、脱構築の手法の源泉を哲学に取り入れたのは、デリダが脱構築で批判したフッサールのほうが先である。フッサールは発生的現象学(どのようにして意識が発生するのか
共同体は、〔その他の共同体にくらべて〕最も熱心に善きものを、しかも凡ての善きもののうち至高のものを目指していることは明らかである。そしてその至高のものというのが、世に謂う国、或は国的共同体なのである。 ふつう、「人間は本性上ポリス的動物である」と語ら
読んだ冊数は少ないが、学んだことの多かった月だった。 例えば現代が「反哲学」の時代であることとか。 サーンキヤ哲学が、意外なほど現象学の考え方に近いとか。 だけれども、そういうことを簡単に解説するのに無理がある状態。 解説しようと思えば出来るように
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奇妙な夢を見た。 それは、自分と女の子が身体をぴったり寄せ合わせて歩いている場面からはじまった。 というより、起きた時の記憶によれば、そこがはじまりだったとしか言えない。 視点は三人称視点、すなわち、自分とその子が歩いているのが見えていた感じ。 で
否定的であることは、無に通ずる。 われわれはただ(中略) 黙々と正しい道を歩みつづけ、 他人は他人で勝手に歩かせておこう。 それが一番いいことさ (ゲーテ) 世の中、詭弁に溢れていて、ほとほと嫌気がさしている。 しまいには、聖書や仏典にある言葉
この命題に答えるためには、まず、ありのままの定義が必要である。 見たものをみたまま受け入れるなら、それはありのままと言えるかもしれない。 また、われわれの視覚と意識には制限があるとするなら、われわれは事物をありのままに見れているとは言えない。 しかし
生活とは、たえず〈世界確信のうちに生きる〉ということである。〈目覚めて生きている〉とは世界に対して目覚めているということであり、たえず現実的に、世界と世界のうちに(、、、、)生きている自分自身とを「意識している」ということであり、世界の存在確実性を真に
客観的諸科学、特に精密科学がどれほどその明証的な理論的ならびに実証的の成果を力として、それだけが唯一の真の方法の場であり、究極的な真理の宝庫であるとみずからを評価しようとも、それらの諸科学は一般的かつ厳密に言って、学問ではない。すなわち究極的な基礎から
「コギト・エルゴ・スム」、いわゆるコギト。日本語では「我思う、ゆえに我あり」という自我意識に対する命題の解は、現在でも根本的な真実ということで、多くのひとに知られている。 しかし、この「コギト」に重大な誤謬があることを知る人は、案外少ないのだろう。 ま
タイトルにした問いは、古今東西にわたって人類が長年考えてき問いである。 古代ギリシャを尋ねれば、デルポイの信託に「汝自身を知れ(グノーティ・セァウトン)」という言葉にぶつかる。 16世紀に生きたモンテーニュが長大な『エセー』を書いた動機は「私は何を知る
「仏教的には地震や津波の犠牲者も過去世の業が原因なのか?」という問題がしばし炎上しますが、仏典とその註釈を注意深く読む限り「その可能性が高い」と言う外ないです。 こういう見解は顰蹙を買うかもですが、これは私の意見ではなくて、仏典と注釈にそう書いてある
仏典には真実を語るには4つの特徴があると説く。 その心は、以下のとおりである。「立派な人々は説いた――〔ⅰ〕最上の善いことばで語れ。〔これが第一である。〕〔ⅱ〕正しい理(ことわり)を語れ。道理に反することを語るな。これが第二である。〔ⅲ〕好ましい言葉
『サンユッタ・二カーヤⅡ(「悪魔との対話」中村元訳)』を読んでいて、つくづく思ったのである。 出家と在家は価値観が相当違うな、と。同列で語ることはできないし、ある部分では価値観が対立している、と。 しかし、その価値観の違いが、時代の進展とともに綯い交
初期仏教が説いた「真」とは、いったい何だろうか? これを正確に言葉でいいあらわすことは絶対に不可能だ。 なぜなら、仏教によって説かれた「真」、つまり真理は「何も説いていない」ということだからだ。 経典にはこうある。 仏には、「説く」ということがな
もう何年前になるか忘れたが、日蓮遺文を読んでいて疑問に思ったことがあった。 それは布施(供養)に関する内容であった。 日蓮が信徒から物品の布施を受けた返信はこんな感じであった。「これとあれとそれという(物品の)供養、ありがたく受け取りました。本来供
この問題は非常に深いのである。 なぜなら、哲学がいわゆる「他者」について深く考察するようになったのは、フッサール現象学(わたしが現象学という場合、ほとんどフッサール現象学のことを指す)が現れてからなのだから。 したがって、哲学において真摯に「他者」が
フッサール現象学については、これまで自分なりにまとめてみようという気持ちはあった。だが、それをしようとすると説明が複雑になり、余計に現象学への理解を妨げると思ってきた。 ゆえに、何度か記事にしてみようとしたことはあるのだが、いつも途中で投げ出してきたの
大乗仏教はとにかく「無限」というのが好きである。 それは、現代人も同じで、人間は「無限」とか「永遠」といった、量ることのできない概念が大好きなのだ。 君には、無限の可能性がある! 一般に、こういう言葉は人に希望を持たせる。多くの人が無限という言葉に好
答えは明瞭、どの本尊にも功徳はある。 じゃあなぜ、創価学会と日蓮正宗はああも口汚く本尊論を中心にして互いを罵り合っているのか? この答えも簡単。 それは、社会倫理というものがあるからだ。 破門された教団が、破門してきた教団が奉じている本尊を認める
この問いに答えるのはなかなか難しい。 キリスト教のように唯一絶対の神なる存在があるとするなら、「絶対主義」だと簡単に判別できるし、神や宇宙の法則などといった絶対的な存在は無くすべては異なる存在であり、その意味でいうなら世界は相対的であるとするなら、
創価学会と日蓮正宗、というか日蓮系の教団というのは、どうしてああも本尊に拘り、不毛で無意味かつ骨肉の争いを続けるのだろうか。 真面目に関わる気など、もはやもとより持ってはいないが、あまりの愚かさに思わず助言してしまいたくなる。 というのが今回の記事(
「色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと、――わたしはこれではない。またこれは、わたしに属するものではない。このように観じて、わたしはそれらについての執着を離れる。このような執着を離れて、安穏に達し、一切の束縛を超えている者を
最近知ったのだが、この「破邪顕正」という仏教用語は、もともとは三論宗の根本教義であったのだそうだ。 したがって、破邪顕正の本来の意味は、現代の一般的な意味「邪道をうちやぶり、正しい道理を世の中にあらわし広めること」という意味ではない。 ではどういう
言葉の自動機械となったバカな人たちが、成田悠輔氏の「集団自決」発言を批判し炎上したが、彼がその言葉にこめた真意は明快である。 ようするに、人間という存在も生物である以上は、アポトーシスから逃れられないのである。 したがって、人間の作る社会もまたア
1「それで、作業の進捗具合に異常はないはね?」 ティエラはそう言いながら、同僚であるアーデの顔を覗きこんだ。「もちろん、ぬかりはないは。慣れた作業なんだから。少々力を使うのが珠に傷というところだけど」 アーデの作業着から伸びた二の腕の上
昨年12月は4冊と、昔に比べれば非常に少ない読了数。だが、量より質の読書を目指しているので、まったく不安感はない。 読了したタイトルからしても、流し読みできるものとはいえないので、満足している。 特に、山口一郎『現象学ことはじめ』の再読は、ゆっくり反
脱構築といえばデリダ、デリダといえば脱構築というくらいに両者は切り離せないものとされている。しかし、脱構築の手法の源泉を哲学に取り入れたのは、デリダが脱構築で批判したフッサールのほうが先である。フッサールは発生的現象学(どのようにして意識が発生するのか
共同体は、〔その他の共同体にくらべて〕最も熱心に善きものを、しかも凡ての善きもののうち至高のものを目指していることは明らかである。そしてその至高のものというのが、世に謂う国、或は国的共同体なのである。 ふつう、「人間は本性上ポリス的動物である」と語ら
読んだ冊数は少ないが、学んだことの多かった月だった。 例えば現代が「反哲学」の時代であることとか。 サーンキヤ哲学が、意外なほど現象学の考え方に近いとか。 だけれども、そういうことを簡単に解説するのに無理がある状態。 解説しようと思えば出来るように
なかなか心揺さぶられる映画に出会うのはむずかしいのだが、出会ったので紹介しておきたい。 『ディストピア パンドラの少女(The Girl with All the Gifts)』 2022年12月2日(金) 23:59まで無料配信中。 いわゆるゾンビ映画なので、期待しないで観たのだが、大
現象学は共通了解や合意形成のための哲学であると、つぶやいてきたが、これは非常に雑ないいかたである。なぜなら、現象学における共通了解や合意形成は、実は無意識的な部分でなされてこそ意味をなすからだ。いわゆる用語における「受動的総合」がそれである。しかしこの
アリストテレスの『政治学』を読みはじめた。初めのほうで、彼は奴隷制を肯定している。が、これには理由がある。議論するにあたっての前提条件というものがあるからだ。で、彼の据えた条件は自然はすべて合目的性を持つというもの。だから、その前提にそって合理的に判断
見ていて何ともいえない気持ちになった。 最終的には自分の力に頼るしかない。 自然の掟の厳しさも感じたけど、それにめげずになんど滑り落ちても、登ることを諦めない子グマちゃん! 手足が短くて、まだ丸っこい子グマが、ズルズルと落ちてるのが溜まらなく可愛
「哲学する感動―自分を知るための哲学入門」 さすがは竹田青嗣さん。 めっちゃ解りやすい説明! わたしは、彼の思想に強い共鳴をするばかりだ。 ついでに、「現象学研究会」のHPもリンクしておこう。
竹田青嗣さんと苫野一徳さんの対談が素晴らしいのリンクしておく。 長いけどね。 「自由」になるための哲学~ヘーゲルから社会構想まで~ 最近は真面目に記事を書く気にならないくらい、世間に辟易しているので、こんな記事が増えるかもしれない。 わたしが語る
10月の読書メーター読んだ本の数:6読んだページ数:1937ナイス数:721リルケ詩抄 (岩波文庫)の感想『リルケ詩抄』と銘うたれているが、実質は訳者「茅野蕭々選詩集」といっていい。選詩の中心軸にはリルケが求め、また茅野が求めた「物自体」への憧れ、あるいはまた神との邂
ひろゆき氏のツイートで炎上した件で、宮台さんがツイッターで紹介していた動画。 実に宮台さんらしい冷静でまともな視座の提示だと思う。 リベラルの反対運動が非常に暴力的であることは、ひろゆき氏と話していた山城博治氏で、検索すればそういう事実はゴロゴロ出て
この件についての意見、感想、批評などを、ひととおり見てみたが、本当に日本と日本人というのは残念だなと感じた。 そしてそうした意見のほとんどは、政治は「結果責任」という論理。 どんな政策をしたかが大事であって、暴言という暴力は、ある程度は擁護すべきでは
さて、一月万冊についての批判がつづくが、次は法律に関する安冨さんの発言。 彼女は「近代法は、中世神学が基盤にある」とざっくり言ったが、これもまた認識が雑すぎるて、ミスリードになりかねないという話。 なぜなら、法律の根源を探ると、プラトン『国家』『法律
この動画のタイトルはこう。 「マルチは違法では無い?れいわ新選組山本太郎氏が仮想通貨詐欺問題の宮城氏の離党届を受理。この騒動に日本の政治の地獄を見た」 で、問題になるのは清水氏が自分勝手にジュビリーエ-スの事件を「詐欺」と認定しているということ
安冨さんの言わんとしてることは理解できなくもないが、結局どうすればいいかは何も言ってない。 言うなれば清水氏の意見に引っ張られて、曖昧模糊としたことを言ってるだけ。 というか清水氏の言ってることの次元が低すぎて、お話にならない。 例えば、刑法199条
ほんと、日本人て「責任」という言葉の意味を取り違えてる人が多いし、極端な白黒思考をして、他人を裁いて快楽に浸る人ばかりだなと、つくづく辟易する。 マルチ商法をやったような人は議員になる資格はないとか、どうしてそこまで極端な思考になるのか、わたしには全
9月はなかなか充実した読書ができた。 なによりも、ソローの『森の生活』が素晴らしかった。だが、それへの感想などとても語り尽くせないし、ソローの言わんとしていることを伝えることも困難なのが辛いのである。 とにかく読んで欲しいとは言えるが、それでソローが訴