以下、読書メーターに投稿した感想。 第一部はグレートヘンの悲劇が描れる。物語のあらすじは複雑ではないが、そこにある思想や暗喩を読みとるにはそれなりの思索力がいる。とはいえ、そこは訳注が非常に役立つ。主題は、生命を対象化する(=知識の獲得)ではなく、生
ひきもり生活の改善と社会復帰を目指して、自分探しをしています。
かつて鬱病で引き篭もっていたオヤジの独白ノートです。時系列にそった自分史を書きあげ。今は適当に日々を生きている、オヤジの心の日記です。
前半はロシア・ウクライナ情勢と非暴力について、後半は音楽にみる非暴力について。 素晴らしい内容なので、全編、傾聴すべし! Michael Jackson / Earth Song
今起きているロシア・ウクライナ問題に絡めてこんなことを呟いている人がいて笑ってしまった。 「かつての大日本帝国も「戦争」を「事変」と呼びました」――と。 武力衝突は何でも戦争と呼ばなければいけないという、短絡的な思考だなと、その無知さに笑ってしまっ
先に書いた二つの記事で、わたしはあらゆる怒り(感情や想いや思考)は、身体感覚から生ずると論じてきた。が、記事を書きながら本当にそうだろうか? 目の前にいる人が話していること(言語的思考という理性的行為)によって、怒りが湧くというのはあるんじゃないの?
俗世間的に言うと、平常心というのは、目の前で何が起こっても動揺しない不動の心であるとされている。 が、このような俗説は、もともと禅問答によって生まれた平常心という言葉の意味とは若干異なるのだそうな。 わたしがそのことに気づいたのは、夏目漱石の『門』を
ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons』を再読して、大きな発見をした。 理想的な瞑想のありかたに気づいたということだ。 詳細に説明するのが面倒なので、読書メーターに投稿した感想で、簡単にそのことに触れておく。 本書の白眉は、第21章「瞑想」(401ページの
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以下、読書メーターに投稿した感想。 第一部はグレートヘンの悲劇が描れる。物語のあらすじは複雑ではないが、そこにある思想や暗喩を読みとるにはそれなりの思索力がいる。とはいえ、そこは訳注が非常に役立つ。主題は、生命を対象化する(=知識の獲得)ではなく、生
すべては虚しい。 自分が学び得たことを 惜しげなく与えようとしても 嫌われるのが人世だから。 言葉は虚しい。 発された表面だけをおい 奥に秘められた心を 見つめられないから。 思考は虚しい。 光か影かだけに スポットをあて そこしか照らし出
「舞台の前曲」は、本編に入る前に、「戯曲(Drama)」の果たすべき役割や社会的意味を提示した章といっていい。 その構造はゲーテの特徴といえる三位一体的であり、「座長」「道化師」「座付詩人」の会話となっている。 それぞれ「座長=快楽主義」「道化師=実利(な
ゲーテ『ファウスト』全編の個人的考察を行っていこうかと。 (最後までできる自信は毛頭ないけれど……) まずは「献(ささ)ぐることば」から。 この「献ぐることば」は、ゲーテが『ファウスト』を書きはじめてから長い中断の時期をへて、シラーの勧めがあって再
いやあ、面白かった! と、またしても小学生なみの感想から記事をはじめてしまったが、本当に面白かったのだから仕方がない。 それはさておき、本作の原題は「Much Ado About Nothing」である。 お気づきの方はお気づきだろうが、韻が踏まれているので、タイトル
読んだ順番とは逆になってしまったが、「読書メーター」に投稿した感想をエントリーしておく。 たぶん3回めの読了。本著を手に入れたのは25歳くらいのこと。当時、シュワイツァーのことは辺境医療の先駆者くらいの知識しかなかったが、読んでたいへん感動した記憶が鮮明
以下は「読書メーター」に投稿した感想。 だが、少しばかり加筆もある。 理想と現実の乖離に悩み、目に映るものすべてを見下して批難し、ときに誹謗中傷してしまう心理は、多くの人がある時期に経験するものだ。かつまた、メタ認知力のある人なら、何にでも怒りを吐
ぶっ飛んだ作品で面白かった。 ものごとの感想を訊かれたとき「面白かった」と答えるのは、愚の骨頂だというのは知っている。しかし、本当に面白かったときには、なんの邪気も作為もなく「面白かった」という小学生のような感想になるのが人間なのだと思う。 『じゃじ
とにかく素晴らしかった。 こういう作品を読むと、文学っていいなと、つくづく思う。 とはいえ、「近代の孤独」に習い性な人や、近現代が大好きだったり、実利主義だったり、物事の表面しか見ない人たちからしたら、まったく意味不明の著作なのだろう。 その辺が、
哲学者・納富信留さん曰く「『ゴルギアス』はプラトン著作の入門書として最適」。 確かに読み終えて、氏の言うことに納得できた。 哲学というものが、どういうものかがよく理解できたからだ。 ぼくたちの無教養はそれほどのひどい状態に至っているのだよ。 さて、
「大東亜戦争」と表現のSNS修正 陸自部隊の活動紹介「誤解を招いた」 つらつらと記事に寄せられたコメントの半分くらいに目を通したのだが、まともなことを言ってる人が一人もいなかった。日本人は駄目だなと、かなり絶望させられた。 じゃあ、お前はどう思ったんだ?
現象学がたどり着いた場がどんなかを説明するのは、なかなか難しい。 しかし、以下の引用を読めば、何となく理解できる人はいるのかもしれない。 歴史学的に見て、それ自体において最初のものは、われわれの現在である。われわれはいつもすでにわれわれの現在の世界
ララァ「ひとつの文明のはじまりから終わりまで、せいぜい1万年と少し。人が作ったものだって10万年も経てば塵も残さずに消えるわ。100億の時を数える宇宙で、わたしたちがいくつめの世界を生きていると思って。それは無限につづく螺旋階段のようなもの。果てない円を廻り
奇妙な夢を見た。 それは、自分と女の子が身体をぴったり寄せ合わせて歩いている場面からはじまった。 というより、起きた時の記憶によれば、そこがはじまりだったとしか言えない。 視点は三人称視点、すなわち、自分とその子が歩いているのが見えていた感じ。 で
否定的であることは、無に通ずる。 われわれはただ(中略) 黙々と正しい道を歩みつづけ、 他人は他人で勝手に歩かせておこう。 それが一番いいことさ (ゲーテ) 世の中、詭弁に溢れていて、ほとほと嫌気がさしている。 しまいには、聖書や仏典にある言葉
この命題に答えるためには、まず、ありのままの定義が必要である。 見たものをみたまま受け入れるなら、それはありのままと言えるかもしれない。 また、われわれの視覚と意識には制限があるとするなら、われわれは事物をありのままに見れているとは言えない。 しかし
生活とは、たえず〈世界確信のうちに生きる〉ということである。〈目覚めて生きている〉とは世界に対して目覚めているということであり、たえず現実的に、世界と世界のうちに(、、、、)生きている自分自身とを「意識している」ということであり、世界の存在確実性を真に
客観的諸科学、特に精密科学がどれほどその明証的な理論的ならびに実証的の成果を力として、それだけが唯一の真の方法の場であり、究極的な真理の宝庫であるとみずからを評価しようとも、それらの諸科学は一般的かつ厳密に言って、学問ではない。すなわち究極的な基礎から
「コギト・エルゴ・スム」、いわゆるコギト。日本語では「我思う、ゆえに我あり」という自我意識に対する命題の解は、現在でも根本的な真実ということで、多くのひとに知られている。 しかし、この「コギト」に重大な誤謬があることを知る人は、案外少ないのだろう。 ま
タイトルにした問いは、古今東西にわたって人類が長年考えてき問いである。 古代ギリシャを尋ねれば、デルポイの信託に「汝自身を知れ(グノーティ・セァウトン)」という言葉にぶつかる。 16世紀に生きたモンテーニュが長大な『エセー』を書いた動機は「私は何を知る
カント哲学における「統制的理念」はどうようにして生まれるのか? 多分、こう考えればしっくりするのだろう。 純粋理性の範囲における理性が正しく働くためには、基本的には自我の範疇に限定されている必要がある。 言い換えるなら、純粋理性における「構成的理念
まあ、まずは動画を再生して欲しい。 宮台真司氏の加速主義をはじめて知ったときは結構な衝撃を受けたが、成田さんは、それよりもさらにラディカルで、話を聞いて思わず爆笑してしまった。 でも、彼が言ってることは本質を突いていると思う。 日本における加速主
安冨さんの思想は、もう少しまともな方向に進むかと思っていたが、どうもそうはならないようだ。 一月万冊自体、随分と見なくなったが、時折、興味を惹くサムネがあると、なんとなく見ていた。 しかし、三浦瑠麗氏とその夫の件をとりあげ、愚痴と文句と批判ばかりやっ
さて、カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』についての記事を書いたのだから、当然、彼の三批判書で触れていない『判断力批判』について、触れずにおくわけにはいかないだろう。 では、『判断力批判』のざっくりとした内容はといえば、こうなる。 基本的に芸
カントの『純粋理性批判』のざっくりとした内容は、すこし前に『「真善美」と「美利善」』という記事にしてみた。 したがって、次には『実践理性批判』を考える必要がある。 さてここで、復習がてらに『純粋理性批判』を見直しておくと、簡単に言うなら、純粋理性(以下
知らなかったなぁ……。 ミュージカル『キャッツ』の物語と楽曲の「メモリー」が、こんなに素晴らしかったとは。 「メモリー」を歌うのは、老娼婦。 猫生のほとんどは、彼女にとって辛く悲しく、苦しいものばかりだった。 しかし、そうした沢山の辛い思い出のな
哲学の世界には、カントが提示した「真善美」という概念がある。 そして、この概念から思索を行うことは、「人間は、いかに生きるべきか?」という回答への早道といえるだろう。 カント哲学に曰く、「真」とは―― その人がもつ認識形式、認識範囲によって捉えられ
使ってみた率直な感想は、「辞書よりかなり便利な辞書的なもの」という感じ。 大学の論文を書くのに、ChatGPTはアリか? なしか? で、世界各国で規制の動きが見られているが、はっきり言ってこのような肯定/否定の二元論に陥ることが、まず馬鹿げていると思う。
カエサルの『ガリア戦記』にある、有名な一節だ。 訳としては塩野七生による「人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない」が有名だが、これは意訳であって、逐語訳なら國原吉之介による「願わしいもの
言葉の自動機械となったバカな人たちが、成田悠輔氏の「集団自決」発言を批判し炎上したが、彼がその言葉にこめた真意は明快である。 ようするに、人間という存在も生物である以上は、アポトーシスから逃れられないのである。 したがって、人間の作る社会もまたア
1「それで、作業の進捗具合に異常はないはね?」 ティエラはそう言いながら、同僚であるアーデの顔を覗きこんだ。「もちろん、ぬかりはないは。慣れた作業なんだから。少々力を使うのが珠に傷というところだけど」 アーデの作業着から伸びた二の腕の上
昨年12月は4冊と、昔に比べれば非常に少ない読了数。だが、量より質の読書を目指しているので、まったく不安感はない。 読了したタイトルからしても、流し読みできるものとはいえないので、満足している。 特に、山口一郎『現象学ことはじめ』の再読は、ゆっくり反
脱構築といえばデリダ、デリダといえば脱構築というくらいに両者は切り離せないものとされている。しかし、脱構築の手法の源泉を哲学に取り入れたのは、デリダが脱構築で批判したフッサールのほうが先である。フッサールは発生的現象学(どのようにして意識が発生するのか
共同体は、〔その他の共同体にくらべて〕最も熱心に善きものを、しかも凡ての善きもののうち至高のものを目指していることは明らかである。そしてその至高のものというのが、世に謂う国、或は国的共同体なのである。 ふつう、「人間は本性上ポリス的動物である」と語ら
読んだ冊数は少ないが、学んだことの多かった月だった。 例えば現代が「反哲学」の時代であることとか。 サーンキヤ哲学が、意外なほど現象学の考え方に近いとか。 だけれども、そういうことを簡単に解説するのに無理がある状態。 解説しようと思えば出来るように
なかなか心揺さぶられる映画に出会うのはむずかしいのだが、出会ったので紹介しておきたい。 『ディストピア パンドラの少女(The Girl with All the Gifts)』 2022年12月2日(金) 23:59まで無料配信中。 いわゆるゾンビ映画なので、期待しないで観たのだが、大
現象学は共通了解や合意形成のための哲学であると、つぶやいてきたが、これは非常に雑ないいかたである。なぜなら、現象学における共通了解や合意形成は、実は無意識的な部分でなされてこそ意味をなすからだ。いわゆる用語における「受動的総合」がそれである。しかしこの
アリストテレスの『政治学』を読みはじめた。初めのほうで、彼は奴隷制を肯定している。が、これには理由がある。議論するにあたっての前提条件というものがあるからだ。で、彼の据えた条件は自然はすべて合目的性を持つというもの。だから、その前提にそって合理的に判断
見ていて何ともいえない気持ちになった。 最終的には自分の力に頼るしかない。 自然の掟の厳しさも感じたけど、それにめげずになんど滑り落ちても、登ることを諦めない子グマちゃん! 手足が短くて、まだ丸っこい子グマが、ズルズルと落ちてるのが溜まらなく可愛
「哲学する感動―自分を知るための哲学入門」 さすがは竹田青嗣さん。 めっちゃ解りやすい説明! わたしは、彼の思想に強い共鳴をするばかりだ。 ついでに、「現象学研究会」のHPもリンクしておこう。