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バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

修ちゃん
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2010/04/02

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  • 瀬戸大橋架橋記念館 (JR乗り潰し・本四備讃線)

    昭和60(1988)3月20日、瀬戸大橋完成を記念して、児島駅前を中心に「瀬戸大橋架橋記念博覧会・岡山博‘88」が華々しく行われた。本四備讃線の茶屋町と児島間の先行開業は、これ目当ての客を輸送するものであった。対岸の香川県・番の州会場と、同時開催である。しかし海辺で大橋の袂にあって、会場内の瀬戸大橋タワーから瀬戸大橋の景観を望める香川会場に比べると、内陸の岡山会場からは橋の雄姿は見えず、この差なのか、入場者数は目標数には届かず、最終的には赤字を出して終わった。当時、両会場に足を運んだが、岡山会場の見劣り感は否めなかった。そんな博覧会の中心的な施設が、「瀬戸大橋架橋記念館」で、駅から900mほど離れた場所に建てられた。館内では巨大な天井画や、世界各国の橋の写真や模型が展示され、コンピューターを使った子供向けのクイ...瀬戸大橋架橋記念館(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • ジーンズ一色の町 (JR乗り潰し・本四備讃線)

    「味野商店街」の空き店舗に、地場のジーンズメーカー等の販売店を誘致し集積させ、観光客を呼び込もうとする「児島ジーンズストリート構想」は、着実に成果を出し始めている。商店街の400mほどの通りとその周辺には、ジーンズメーカーの直売場や工房・ギャラリーなど新しい店舗などが軒を連ねる様になった。そんな中、ジーンズ目的で集まる客を目当てにしたおしゃれなカフェや食事処等も増え始めた。こうしてシャッター通りは、今までとは一味違った店舗が混在する、賑やかな通りへと生まれ変わり始め、今ではその数も30軒を超えると言う。このエリアに近づくと、ビルの壁面に飾られた巨大なジーンズの看板にまず驚かされる。通りには商店街名物のアーチ・アーケイドに代りに、ジーンズが吊るされていて、まるで洗濯をしたジーンズを干しているように見える。自販機も...ジーンズ一色の町(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 児島のジーンズ (JR乗り潰し・本四備讃線)

    レトロな昭和の香りのする「味野商店街」を、何とか以前の活気ある町にしょうとの取り組みが始まった。地場のジーンズメーカー等の販売店を、通りの空き店舗に誘致し、集積させようとの試みである。国産ジーンズ発祥の地の認知とPRに務め、合わせて商店街の活性化を図ろうとする「児島ジーンズストリート構想」で、2009年頃の事だ。構想から十数年を経た今、ゆっくりながらまだ進化を続けている。通りには、未だに空き店舗やシャッターを閉めたままのところもあるが、一時はさびれてしまった商店街の通りも、近頃では観光客も多く、ジーンズで見事に蘇り、構想は着実に成果が見え始めている。児島のジーンズは、繊維の町・児島の伝統的な産業の流れとは違い、戦後新しく持ち込まれたものだ。それはアメリカの中古ジーンズをモデルに、国産化を図ったもので、今から50...児島のジーンズ(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 繊維の町・児島 (JR乗り潰し・本四備讃線)

    瀬戸内海に面した児島は、明治時代から繊維の町として栄え、岡山県下ではアパレル製品の産地として知られたところである。今でも関連する企業が多く立地している。元々ここは海に浮かぶ小島で、江戸時代から行われた干拓により地続きに成り、新田が造成され広げられた地であった。しかし塩分の多い土はコメ造りには適さないことから、変って塩気に強い綿花の栽培がおこなわれる様になったという。当時からこの近辺には人口が多く、労働力が豊富にあったため、綿花を栽培し、糸を紡ぎ、機を織った。それが今日の主要な産業に成長した歴史を秘めている。大正時代に入り県外から大手の企業が進出するようになると、いち早く生活様式変化に目を付け、足袋や学生服・作業服への製造に舵を切った。学校や企業のユニフォーム、作業着、スポーツウエア、介護ウエア、子供服など、多岐...繊維の町・児島(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • ジーンズステーション・児島 (JR乗り潰し・本四備讃線)

    瀬戸大橋線を行く「快速マリンライナー」は、茶屋町を出ると高架になった複線を高速で走行し、次の児島に停まる。ここは本州と四国を結ぶ同線の本州側の起点駅で、寝台特急の「サンライズ瀬戸」、四国連絡特急の「しおかぜ」「南風」「うずしお」を始め、「快速」等全ての列車が停車する。島式ホーム2面に4線を有する高架駅で、JR西日本が管轄する有人駅でもある。又、JR西日本とJR四国の会社境界駅で、ここで旅客列車の乗務員は交代する。この先の瀬戸大橋を渡るのは、特急と快速のみで、普通列車の設定は無く、岡山方面からの普通列車は全てこの駅で折り返す。駅の開業は新しく瀬戸大橋の共用開始を見越した昭和60(1988)3月20日のことだ。宇野線の茶屋町から分岐する本四備讃線が、当駅までの間で先行開業した折りである。そして同年の4月10日、待ち...ジーンズステーション・児島(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • トンネル区間(JR乗り潰し・本四備讃線)

    瀬戸大橋線の歴史は新しい。嘗ての本州と四国を連絡する基幹ルートは、岡山と宇野を結ぶ宇野線と、そこから瀬戸内海を横断して高松に連絡船で渡る宇高航路であった。瀬戸大橋線はそれに変る大動脈として期待を持って開通が待たれていた。長年の地元の悲願である瀬戸大橋の開通を見据え、昭和63(1988)年3月に、同線の茶屋町から分岐して児島までの間、12.9㎞の本四備讃線が先行開業する。そして着工から9年半余を経て、大橋の共用が開始されると同年の4月、宇多津迄の全線31.0㎞が営業を開始する。宇野線は岡山を出ると左カーブしながら築堤を登り、市街地を高架で通り抜け、次の大元を過ぎる辺りで地上に降り、暫くは住宅と農地の混在する長閑な岡山市南部を駆け抜ける。再び高架に上がるのは、茶屋町の手前からである。茶屋町を出ると最初の駅が植松で、...トンネル区間(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 修験道本庁・五流尊龍院(JR乗り潰し・本四備讃線)

    奈良時代この地には「十二社権現・熊野神社」と修験道の寺院が一体となった神仏習合の「新熊野権現」があり広く信仰されていた。修験道・役小角の五人の弟子は、それぞれ尊龍院、大法院。建徳院。報恩院、伝法院という五流の寺院を創建し尊龍院を中心に繁栄していたが、平安時代以降は急速に衰退した。その後も相次いだ戦乱の戦禍が追い打ちをかけ、多くの寺院の伽藍は焼失した。そして明治の神仏分離令で十二社権現は「熊野神社」となり、修験道が禁止され、分離された「五流尊龍院」は天台宗の寺院となった。更に先の大戦後には、天台宗から独立し「日本修験道本庁」となり、修験道が再興され今日に到っている。周辺は、樹木が鬱蒼と茂った森で、白壁の参道に沿って入口を入ると、左が茅葺屋根の御庵室(庫裏)である。その前には良く手入れされた庭園が広がり、特に紅葉の...修験道本庁・五流尊龍院(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 熊野神社 十二社権現(JR乗り潰し・本四備讃線)

    植松駅から南に2㎞ほどのところに、「日本第一熊野神社十二社権現」が鎮座している。「熊野神社」は、修験道の始祖・役小角(エンノオズヌ)とその弟子たちがこの地(倉敷市林)に開いた神社である。紀州熊野の十二社権現のご祭神の勧請を受け、熊野三山の熊野本宮大社から日本一の認証を受けている。役小角は役行者とも呼ばれた伝説的な人物で、奈良大和の葛城山を中心に修験道を開くものの、世間を惑わすとして弾圧され、罪に問われ伊豆に流罪となっている。その折同罪を恐れた弟子達は、淡路など瀬戸内海に逃れ、当地の児島に辿り着いたものの飲み水にも困る有様であった。一同はこの窮状を天に祈願したところ、海水は真水に変ったという。これが上陸した地、水島の地名の由来と言われている。(諸説あり)その後白髪の翁に誘われ、倉敷市林の辺りに導かれ、そこに築いた...熊野神社十二社権現(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 先陣庵(JR乗り潰し・本四備讃線)

    「先陣庵」に向かう道すがら、集落の近くで石碑を見付けた。道路脇に建つ大きな自然石の正面に、「源平藤戸合戦沖ケ市激戦地の碑」と刻まれている。この石碑、倉敷観光コンベンションビューローや藤戸史跡保存会が出す「藤戸周辺の史跡めぐり」の地図では紹介されていない。どうやら地元の郷土史家が、歴史を後世に伝えんと平成に入り建てたものらしく、沖ケ市と言うのが、この辺りの旧地名のようだ。佐々木盛綱の上陸地で、ここで源平両軍が正面衝突し、激しい戦いが夕暮れまで続いたが源氏方の勝利に終わり、平家は這々の体で屋島へと逃げ落ちた。そこから北に200mほど坂を上ると、西明院という真言宗善通寺派の寺があり、その登り切った正面の高台に、「先陣庵」がある。その右の山を少し上ったところには、「金毘羅大権現」も祀られている。寺は広い境内の正面に本堂...先陣庵(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 藤戸の史跡巡り(JR乗り潰し・本四備讃線)

    藤戸の「乗出岩」は、盛綱が騎馬で海に乗り出したとされる場所だ。昔はこの辺りまで、海が入り込んでいたのだ。途中少し高くなった浅瀬「鞭木」の辺りで一旦人馬を休ませ、持っていた鞭を水底にさすと、やがてその木は大木に成長した。それがこの地名の謂れだと言われている。再び対岸を目指し、現在の種松山のふもと「先陣庵」辺りに上陸した。当時は、騎馬で海を渡るなど不可能と考えられていた時代である。自信に満ちた盛綱の後ろ姿に、源氏方3万の兵も続々と続く事になる。これにより、布陣する平家軍との間で激しい争いが繰り広げられた。後にこの行為を、源氏方の総大将・源頼朝は先例無き事と激賞した。恩賞として備前の国・児島の領有を許し、地頭とする恩賞を与えている。知行地を得た一族郎党は当地に移り住み、以後権勢を奮ったという。藤戸寺から倉敷川を渡った...藤戸の史跡巡り(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 供養の藤戸まんじゅう(JR乗り潰し・本四備讃線)

    倉敷川の袂、藤戸寺の門前近くに、倉敷銘菓「藤戸まんじゅう」本店の重厚な構えの店が建っている。店の前には、旧藤戸町の「道路元標」を示す石柱が残されている。恐らく店の前の細い道が従来の旧道で、寺の境内がここまで広がっていたのであろうか、今は直ぐ近くに新道が通されている。その昔、源平の争いが終わり、藤戸の合戦で功を上げた佐々木盛綱が地頭として当地に着任した。手始めに戦で荒廃した藤戸寺の復興をはかると同時に、自らが口封じのため殺害した若き漁師や、犠牲になった兵士の回向を行った。供養は藤戸寺で盛大に行われ、その折、近くの民家からは饅頭が供えられた。当初の事は記録もなく良く解からないが、今の物とは形も味も違うお餅に近い物であったらしい。それを起源とするのが、この「藤戸まんじゅう」とされている。この饅頭屋の創業は寿永3(11...供養の藤戸まんじゅう(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 補陀落山藤戸寺(JR乗り潰し・本四備讃線)

    佐々木盛綱は、源平藤戸合戦の折、この辺りがまだ海であったころ海峡の浅瀬を騎馬で渡り、その先陣の功を立てた。平家の滅亡後それにより、鎌倉幕府から恩賞として備前国・児島を受領して地頭職に就いた。着任した盛綱は、土地の有力者などに服従を求め、誓紙を差し出させたと伝えられている。知行地を得た一族は、その後もこの児島に土着し権勢を奮った。結果備前地域がその後も、東国武士との関わりが深く残るようになる。盛綱はまず、合戦で荒廃した地元の「藤戸寺」の修復に着手した。この寺は、天平年間に行基菩薩が、仏法を広めるため児島を巡行した際、藤戸の海より浮かび出た千手観音を本尊として奉安したのが始まりだ。正式には、「補陀落山千手院藤戸寺」という高野山真言宗の古刹である。さらに盛綱は、源平合戦の両軍の戦死者、自身が殺害した哀れな漁師たちの為...補陀落山藤戸寺(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 佐々木憎けりゃ笹まで憎し(JR乗り潰し・本四備讃線)

    褒美と引き換えに、藤戸海峡の浅瀬の存在を地元の漁師から聞き出したのは、源氏方の武将・佐々木盛綱であった。浦の漁師が、深いところはあるが、平家の陣地まで浅瀬で渡れるルートの存在を教えたのだ。ところが盛綱は、この事が敵方に漏れるのを恐れ、あろうことか口封じの為この漁師を殺害してしまう。当時の武士は、戦で手柄を立て、功名を成し、恩賞として土地を得るのが目的である。その為には何としても先陣を切りたい。こうした事から、血を血で洗う戦場での盛綱の立場なら、敵方や名も無い民を欺すことなど不名誉とはされていなかったのである。亡き者にされた漁師には、年老いた母がいた。息子の無残な最後を知らされた老母は、嘆き悲しみ、「佐々木憎けりゃ笹まで憎し」と、付近の山の笹を全部抜いてしまった。以後その山には笹が生えなくなってしまったと言う。(...佐々木憎けりゃ笹まで憎し(JR乗り潰し・本四備讃線)

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