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思考機関 https://shikhokikan.seesaa.net/

日常の出来事を種にして、思考實驗を繰り返しています。バスケットの中の赤リンゴを思考し論理しています

論理、哲学、数論、信号機論、遠近法、線路の平行について、ピストルから飛び出す弾、陸橋の上の赤いパラソル、 亀に追いつかないうさぎ、ゼノンの苦悩、ヘーゲルの偉大さ、マルクスの生活の中の論理学、禅定力の発揮、金縛りの正体、団塊の世代、バリケードと硝煙の狭間、三浦つとむの言語世界、吉本隆明の思考世界、・・・・・

山の峠
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甲府市
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甲府市
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2010/03/03

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  • 道元の思考

    仏教の考えからすれば、人間は生まれながらに仏であると言う事なのです。 生まれながらに仏なら、仏に成る為の修行はいらない事になる。 お釈迦様が苦行の修行を実行して、結果として仏になったのだと言っているのです。 人々はお釈迦様の苦行としての修行を仏になるための修行と理解したのです。 そこで皆お釈迦様の修行を実行して、お釈迦様の修行を自分も実行して 仏になろうとしたのです。 釈迦様は、明け方、菩提樹の…

  • 言葉の道筋(1)

    日々話したり、書いたりしている言葉を一つの構図で考える。 「頭の中・認知=A」ーー「りんご=言葉の集まりとしてのC」ーー「言葉が指示するモノ=B」 と言う構図を考える。 まず、[リンゴ]とは、Cグループに属する一員で、[りんご = 言葉]と言いたくなる。最初から言葉ではなく、ただCグループの一員だと言う事が始まりなのです。 そのC一員である[りんご]が、Bのグループの一員として、実物であるモノに対して、名指…

  • カントの認識

    私達生き物の、頭の中で形成される認識に対して、その認識から独立して、それ自体で生存するものを、物自体と言う。 物は、認識の中で、認識の形態として存在するのではなく、頭の中の認識から、独立した、それ自体の存在という事になる。 つまり、頭の中の認識として存在する物と認識から、独立してある物と言う区別が建てられている。 この時、認識に対して物自体を想定し、その物自体が、認識の存在とは独立していると…

  • 感覚知覚(2)

    私の目の前のテーブルの上に「赤いリンゴ」が有る。 二つの考え方 (1)私の目が、その様に見ている。目を閉じれば、ただ闇であって、赤いリンゴなど一切見えなくなる。 これは見える事で、あると判断している事に対して、目を閉じたから見えなくなっただけなのです。 赤いリンゴが見えなくなるとは、目を開けて有ると見ていた事が頭の中の記憶として成立して居るからで、目を閉じ後その記憶にある赤いリンゴの存在に照らし…

  • 言葉を読むとは(1)

    言霊とは何かー古代日本人の信仰を読み解く ー中公新書・佐々木隆 言霊ー言葉に宿っている不思議な霊威 古代その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられていた。 さてこれらの解説を言葉として理解しよう。 まず[言霊]と言う語彙が提示される。その語彙の意味が明示される。

  • 「は」と「が」の助詞を考える(3)

    私は、リンゴが好きです。 私は、リンゴを食べました。・・・(1) 私は、リンゴは好きです。 私は、リンゴは食べません。・・・(2) 私は、リンゴは嫌いです。 ・・・(3) 私が、リンゴが好きです。 私が、リンゴは食べました。・・・(4) [好き][嫌い][食べる]と言う感性や行為の主体である[私]は、言葉を支える現実の行為を、主体と活動として言語化したものと言える。言葉として主体を表すのに、[私は、私が、]と…

  • 「は」と「が」の助詞を考える(2)

    「まことが、疲れていたので、木陰で一休みする事にした。」 今回の話しての次郎さんの立場から考えると、まことは、皆の一人で、そこには皆の集まりが前提されていて、その集まりから、一人としてまことが取り出されているのです。 皆の集まりを前提にしているので、まことではなく、「三郎が、疲れているので」となるのです。 皆の中で、一人としてのまことが、疲れているので、彼の為に、一休みをとったのです。それを「…

  • 「は」と「が」の助詞を考える(1)

    知っている様で、知らない 日本語てにをはルール 石黒圭・中経文庫 「隼人はボールを投げると、義人がそれをジャストミートした。」 この文を可笑しいと感ずる。 その可笑しさは、「は」の働きとして、「は」は、文の最後を修飾するのだから、当然、隼人とジャストミートが関連されるはずなのに、ジャストミートしたのは義人成っている。 この文の可笑しさをなくすには、「隼人が、ボールを投げると、義人がジャストミー…

  • 禅の言葉(11)

    道元・読み解き事典・大谷哲夫「編著」 柏書房 二世紀中頃 二世紀ごろインドより、中国に伝来。中国固有の道家の流れを組む神仙家と結びつき、やがて超自然的な傾向を示す宗禅者の一団となった。 しかし中国固有の土着的な現実主義に呼応するものとして、坐禅などを実践して、経論中心から坐禅などの修行などの実践に移行した。 中国仏教は、都市を中心的な拠点として、漢訳仏典の解釈等の上に成り立つ理論仏教が横行し…

  • 禅の言葉(10)

    中国禅宗の流れ 達磨ー慧可ー僧璨ー道信ー弘忍ー慧能 慧能ー<南宗禅ー南嶽譿譲 神秀ー<北宗禅 南宗禅ー教外別伝・不立文字・直指人指・見性成仏 教説の外、体験によって別に伝えるモノこそが禅の真骨頂であり、経論などの文字に依らず、ひたすらなる坐禅によって釈尊の悟りに至るのだと言う、立場 南嶽懐譲によりこの立場をさらに推し進める方向 馬祖道一・・・・馬祖が熱心に坐禅をしている…

  • パラドックスの理屈(1)

    時間のパラドックス 過去をA、現代をB、未来をCとする。 現代Bに居る私が、タイムマシーンで過去Aに行く。 過去に行った瞬間、私と云う存在が過去の社会に関わる事で、過去はかっての過去Aではなく、私が居る過去「A+私」となる。 この時、現代Bにいる私にとって、過去Aと過去「A+私」とが比較され、変化してしまった過去Aと言う発想をする事になる。 過去は単なる過去Aではなく、過去「A+私」と言う過去となる。 私…

  • 感覚知覚(1)

    リンゴの赤い表面 赤色は、そのリンゴの表面の性質であり、私達はその赤いという性質を赤色として知覚する。 リンゴと言う物体に、赤いという性質があって、それを視覚器官で赤色として知覚する。此処にはリンゴと言う物体の性質に赤色と言う性質が有るのです。赤色はその物体の性質です。 此処では「赤色」と言う同じ言葉を使用しているが、リンゴの表面の性質としての「赤」と、視覚器官が認知している「赤色」と言う区…

  • 禅の言葉(9)

    ダイヤモンドの原石は、ただその表面が研磨されていないだけであって、ダイヤモンド性とは、原石自身全体の性質で、決して内部に隠された性質なのではない。 つまり、ダイヤを覆う外皮を研磨して取り払えば、そこにダイヤと言う本体が現れると言う理屈。 しかし外皮を研磨する事で、外皮は光を乱反射する表面となる。これはダイヤと言う本体が現れたのではない。外皮の形態が変わっただけであり、原石でもダイヤはダイヤなのだ…

  • 禅の言葉(8)

    道元の一つの疑問 ー「顕密二教とも談ず。本来本法性天然自性身と。もしかくの如くなら、過去の諸仏何によりてかさらに、発心し菩提を求めるや」 人間が持っている仏性とは、仏に成る為の可能性で、坐禅等の修行はその可能性を現実としての仏にする現実化行為と言う理屈。 仏性を可能性で考えるのは、次の様になる。 ヒマワリの種には、環境の働きかけで、芽になり、茎になり、葉になるモノがあって、そのモノが成長して…

  • かがみ論(3)

    目の前の赤い信号機と言う思考 信号機からの反射する光が、眼球というレンズを通し、網膜細胞を活動させると、その活動を脳細胞が色として組み立てるのです。 光は、ただ網膜細胞を活動させるのだが、この物体に反射する事で、反射した光は、物体の表面の特性に対応した周波数の光として、視覚器官を介して、脳が多様な色彩として了解する。 この特定の周波数の光が、物体の表面に反射するのだが、しかしその反射する光は、…

  • かがみ論(2)

    私の目の前にある信号機が赤から青に変わる。信号機を見ながら、其処に赤色から青に変わる信号機が有るのを了解している。赤色の信号機があるのです。信号機自体が、赤なのです。 私の、その視覚体験に対して、次の様な区別を立てる。 私達が瞼を閉じた時にも、その信号機に有る赤い色、瞼を開ければ、やはり目の前にあると見えている。 この時赤い色は、客観として其処に存在していると理解している。 ただ存在する赤と…

  • 禅の言葉(7)

    道元の一つの疑問 ー「顕密二教とも談ず。本来本法性天然自性身と。もしかくの如くなら、過去の諸仏何によりてかさらに、発心し菩提を求めるや」 発心(修行)して菩提を求める。修行は人間にはない菩提を獲得する手段と成る。修行が人間が持っていない菩提を手に入れることが出来るモノと理解されている。 しかし持っていないモノをてにいれるとして、それは何処かになければならないはずで、人間は修行で、その人間にない…

  • 鏡像の理屈(1)

    釈迦の教えを鏡にして、自己を知る事となるのだが、この比喩としての鏡について考える。 鏡に写る像は、鏡の前にいる者の似姿が、像として成立して居る。その鏡の中の像は飽くまでも視覚器官によって知覚される姿で有って、それはありふれた他者の似姿をこの目で見る事と同じなのです。只この時私達はこの目で他者を見ていても、自分の目で自分の顔を見る事は出来ないのです。 そこで、鏡と言う道具が考えられた。其処に写る…

  • 禅の言葉(6)

    道元の一つの疑問 ー「顕密二教とも談ず。本来本法性天然自性身と。もしかくの如くなら、過去の諸仏何によりてかさらに、発心し菩提を求めるや」 過去の諸仏が、生まれながらに仏であるなら、態々発心して菩提を求めるのはどうしてか。菩提を生まれながら持っているのに、自分達にはないと思っている菩提を、発心して得ようとする事がおかしいのではないか。 得よいとしなくても、生まれながらにもっているのだから。 …

  • 「は」と「が」の違い(3)

    私は、学校へ行く。・・・・(1) 私が、学校へ行く。・・・・(2) 両者とも、主体たる私と活動としての「行く」事で、成立している。 そのそれぞれが指示する現実の出来事があるのだが、此処ではさし当たり「現実の出来事」と言葉にしておく。 その現実の出来事を、「私が・・」と「私は・・」と言葉にするのです。 その言葉は、現実の「行く行為」を実行する主体たる「私」の、その有り方が違う事を表している。 私達は、…

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