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上海下町写真館2010年冬、再び上海。帰国日未定。 https://blog.goo.ne.jp/haichaolu2010

上海生活通算6年余に中国各地で撮影した写真は4万枚。上海に長期滞在し歴史散歩や生活情報などをご紹介。

爆発的な経済発展が始まった上海に企業の駐在員として、その後、中国語学習の留学生として通算6年間暮らしました。 その間に生活者の視点で撮影した上海や中国各地の写真を毎日ブログで発信しています。 観光ツアーでは見ることのできない上海や中国人の素顔を知ることによって、貴方の中国観もきっと変わるでしょう。

haichaolu
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中国
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2010/02/22

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  • 上海の思い出とブログ「上海下町写真館」

    2007年頃、上海滞在中にブログを始めました。テーマも何もなく、「上海の思い出作り」と始めたのですが、「上海歴史ガイドマップ:木之内誠著=大修館書店」に出合ってテーマが見つかりました。上海の歴史と街歩きの面白さに気づかされたのです。「上海優秀歴史建築」メインテーマにし、本を片手に被写体を撮影し、現地の書籍やネットで色々と調べ補足しながら記事をUPしました。今は日本で生活していますが、記事を見返せば当時の貴重な上海生活の思い出がよみがえります。「上海下町写真館2010」と撮影した写真は私の人生の宝物です。上海の思い出とブログ「上海下町写真館」

  • 引っ越しました。

    お知らせ2010年よりスタートした「上海下町写真館2010」は、画像ファイルが制限を超えてしまいましたので新しいアドレスへ引っ越しました。9月19日より「上海下町写真館2014」で継続しますので、お手数ですがブックマークの変更をお願いします。引き続き宜しくお願いします。引っ越しました。

  • 堀川用水と朝倉水車群:朝倉市

    下記お知らせをお読みください。1.南側から見た三連水車江戸初期の寛文2-3年(1662-1663年)に起きた干ばつを契機に、筑後川から水を引くための大工事が行われ、翌年には水田を潤す「堀川用水」が完成しました。2.国指定史跡平成二年に「堀川用水路水車群」として国の史跡文化財に指定されました。3.三連水車と堀川用水しかし、堀川用水の北側の農地は勾配があり、そのままでは山側の農地には水を送ることができませんでした。より多くの農地を水田にするため、堀川用水の水を高く持ち上げ送るために水車が考案されました。4.北側から見た三連水車1780年代にはすでに稼働していたそうです。当初、水車は2連でしたが、1789年に一基が追加されたとの記録が残っています。一番大きな水車は直径が4.8mあるそうで、三蓮水車のみで毎分約6トンの...堀川用水と朝倉水車群:朝倉市

  • 「博多旧町名歴史散歩」第9章-蓮池界隈(4):金屋町・横町

    下記お知らせをお読みください。1.上金屋町の大師堂空海の木造立像がご本尊だそうです。福岡大空襲では道路を挟んだ東側は罹災を免れました。戦後の復興事業で西側は道路(ふれあい通り)の拡幅で町は更に狭くなりました。2.大師堂前にある上金屋町の碑3.十三仏が見えます。4.顎無地蔵尊大きな仏像は「顎無地蔵尊」でしょうか。歯痛にご利益があるそうです。撮影:CANONEOS5DIII+EF24-105mmF4LISお知らせ2010年よりスタートした「上海下町写真館2010」は、画像ファイルが制限を超えてしまいましたので新しいアドレスへ引っ越します。9月19日より「上海下町写真館2014」で継続しますので、お手数ですがブックマークの変更をお願いします。今後ともよろしくお願いします。「博多旧町名歴史散歩」第9章-蓮池界隈(4):金屋町・横町

  • 「博多旧町名歴史散歩」第9章-蓮池界隈(3):中竪町・下竪町

    下記お知らせをお読みください。1.中竪町終戦直後、引揚者たちは苦しかった逃避行を終えやっと博多へ上陸、懐つかしい祖国の土を踏みしめそれぞれの故郷へ旅だちました。2.最高裁判所長官輩出3.恵比須通り最初の角を右に曲がると恵比須神社があります。4.漁師町だった「袖の港」の入り江があり大漁祈願で恵比須様を祀ったのが始まりでした。横には享保の大飢饉の犠牲者を弔う地蔵尊があります。5.下竪町の遠藤邸この辺りは昭和20年5月19日の「福岡大空襲」では消失を免れました。6.下竪町の碑7.高橋邸8.国登録有形文化財となった高橋邸大学や公益法人が使用しているようです。9.旧柳町二つ目の交差点を右に曲がった辺りが旧柳町の遊郭でしたが、今では高校とマンションが建っています。10.高杉晋作潜伏する。11.高杉さん、博多柳町へまたどうぞ...「博多旧町名歴史散歩」第9章-蓮池界隈(3):中竪町・下竪町

  • 「博多旧町名歴史散歩」第9章-蓮池界隈(2):官内町・上竪町

    1.浄土宗「選擇寺:せんちゃくじ」旧蓮池町があった明治通りから竪町筋を北に進み、石堂橋へ続く一つ目の角を右に曲がるとすぐに「選擇寺」があります。天正二年(1574年)、行誓覚公和尚が創建開山しました。2.選擇寺ご本尊の説明門前にご本尊の説明があります。奈良時代の名僧行基の作と言われる阿弥陀三尊と五大力士像(金剛、竜王、無畏十力、雷電、無量力)を持つ菩薩です。五大力には次のような謂れがあります。慶長11年(1606年)1月13日、博多店屋町に住む渡辺九平宅に見知らぬ老人が来て、久平に五大力士像を渡して立ち去りました。久平は自宅で像を祀っていましたが、夢枕に「選擇寺の阿弥陀三尊は同じ行基の作ゆえ五大力も一緒に祀れ」とのお告げがあり、選擇寺に奉納しました。以後、毎年1月13日は博多商人が一年の安泰と盗難除けを願い、五...「博多旧町名歴史散歩」第9章-蓮池界隈(2):官内町・上竪町

  • 「博多旧町名歴史散歩」第9章-蓮池界隈(1):竪町筋を下る

    1.竪町筋現在の中呉服町から下呉服町の東側は御笠川左岸に沿って寺が多く残っていますが、江戸期に黒田藩が東側の防衛ラインとして寺を集めたためとされています。明治通りの南北はかつて聖福寺の蓮池があったことから「蓮池町」と呼ばれていました。江戸期には蓮池町には8つの寺がありましたが、中央を東西に明治通りが開かれ市内電車が通ったため、2つの寺が移転し蓮池町は二分されてしまいました。2.妙典寺明治通りのすぐ北、堅町筋の東側に日蓮宗妙典寺があります。3.木製の山門が歴史を感じさせます。4.1381年の開山筑後柳川に創建されましたが、慶長年間(1596年-1615年)現在の場所に移築されました。5.キリスト教と仏教の宗教問答開催慶長8年(1603年)4月、京都妙覚寺の僧「日忠」が九州布教の折、この寺でキリスト教のイルマン(宣...「博多旧町名歴史散歩」第9章-蓮池界隈(1):竪町筋を下る

  • 博多カメラ散歩:菅原道真上陸の地「綱敷天満宮」-博多区綱場町

    1.古くは「綱輪天神」と呼ばれていたために「つなわ」が「綱場」となったようです。現在の本殿は南向きですが、200年前の博多図では参道は西側にあり、「下土井町」に含まれていました。天満宮のすぐ北側には「大水道」と呼ばれる運河が走っており、東の御笠川から西に街中を抜け博多川まで繋がっていましたが、「入り海跡」だったようです。2.綱敷天満宮の説明「漁師が網を輪にして敷き物にした」そうですが、恐らく海水に濡れないためか、砂浜が歩きにくかったからかもしれませんね。3.901年に大宰府へ遷任道真は903年に大宰府で逝去し、その地に葬られました。4.御神灯がともる。今でも学問の神様として、氏子による厚い信仰が保たれているようですね。5.昭和41年の「町界町名整理事業」では133の旧町が24に整理統合され、付近一帯が綱場町にな...博多カメラ散歩:菅原道真上陸の地「綱敷天満宮」-博多区綱場町

  • 博多カメラ散歩:「萬四郎神社」と悲劇の豪商伊藤小左衛門-博多区呉服町界隈

    1.萬四郎神社1667年6月、長崎警備のため長崎へ赴任した福岡藩三代藩主黒田光之は、長崎奉行から「藩御用商人の二代目伊藤小左衛門が朝鮮と密貿易(武具や馬具の私的交易)を行っている」との訴えがあったと伝えられました。訴えたのは柳川と平戸に住むの商人の下人たちでした。2.万四郎神社の説明この事件の結果、長崎では小左衛門以下関係者37人が処刑、博多柳町浜の刑場では長男の勘十郎以下一族18名が処刑、更に手代ら奉公人ら20余名が那珂郡比恵河原で磔になった他、100名以上が流罪となりました。博多にいた小左衛門の妻や妾と家人、事件に関係のない11人の船子は死罪を免れました。3.処刑された幼い兄弟たち御供所町の妙楽寺には伊藤家一族の墓所があり、二代目小左衛門の死後その母が建立した開山堂があります。二代目小左衛門夫婦の墓のそばに...博多カメラ散歩:「萬四郎神社」と悲劇の豪商伊藤小左衛門-博多区呉服町界隈

  • 博多カメラ散歩:神屋宗湛が眠る「妙楽寺」-博多区御供所町

    1.御供所通りにある妙楽寺黒田家重臣の墓に混じり、豪商達も埋葬されています。2.妙楽寺の説明3.ういろう伝来の地「ういろう」は中国より伝来した胃腸薬「透頂香」を伝えた中国人「陳外郎宗敬」の持つ中国王朝の役職名「外郎:ういろう」が語源と言われています。4.境内の有名人の墓13番が「神屋宗湛」の墓です。西側には徳川幕府の禁制を無視した密貿易のため、一族郎党が処刑された「伊藤小佐衛門一家」の墓があります。5.東側、本堂奥にある墓地墓地は境内の東西に2か所あります。6.当時のまま残る「神屋宗湛」の墓晩年は不遇と言われていますが、当時としては長寿の享年82歳でした。7.妙楽寺貿易-妙楽寺があった沖浜/妙楽寺境内妙楽寺の説明には「外交施設」とありますが、当時の神社仏閣は盛んに海外貿易を行っていました。その頃、那珂川の河口付...博多カメラ散歩:神屋宗湛が眠る「妙楽寺」-博多区御供所町

  • 博多カメラ散歩:神屋宗湛の屋敷跡と「豊国神社」-博多区奈良屋町

    1.神屋宗湛屋敷跡に再建された豊国神社「九州征伐」前夜の1587年正月3日、豊臣秀吉は大阪城に全国の大名を集め恒例の新年茶の湯会を開きましたが、神屋宗湛は大名や堺・京の商人に混じり招かれました。秀吉は宗湛を「筑紫の坊主」と呼び特別親しく歓待したそうです。2.昭和通りから西町筋を北へ進みすぐ右手に豊国神社はあります。太閤町割りから300年目の1868年に山崎藤四郎ら博多商人が建立しました。現在の社殿は戦後地元住民により再興されました。3.この場所は神屋宗湛の屋敷跡でした。4.神屋宗湛の屋敷跡の説明各地の豊国神社は徳川家康の命により廃絶となりましたが、明治維新後復興しました。5.りっぱな神輿なども奉納されています。6.屋敷跡は現在の博多小学校の敷地となっています。7.神屋宗湛は屋敷に秀吉を招き茶会を開催しています。...博多カメラ散歩:神屋宗湛の屋敷跡と「豊国神社」-博多区奈良屋町

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