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プロフィール PROFILE

幽村芳春さんのプロフィール

住所
本庄市
出身
本庄市

自分の家で毎日坐禅をしています。

ブログタイトル
正法眼蔵=坐禅
ブログURL
http://honjoutarou.blog107.fc2.com/
ブログ紹介文
愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を紹介しています。道元禅師は全巻を通して只管打坐を説いています。
更新頻度(1年)

187回 / 365日(平均3.6回/週)

ブログ村参加:2009/12/23

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ハンドル名
幽村芳春さん
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正法眼蔵=坐禅
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正法眼蔵=坐禅

幽村芳春さんの新着記事

1件〜30件

  • 正法眼蔵 眼睛 4

    洞山良价禅師が雲巌曇晟禅師の教団で仏道修行をしていたときの問答です。洞山禅師言う。和尚さんにお願いして、仏道におけるものの見方というものを得たいものです。雲巌禅師言う。お前自身の眼は一体誰にやってしまったのか。洞山禅師言う。いえいえ、私は仏道修行がまだ未熟ですから、それなりの眼というものを持ち合わせていません。雲巌禅師言う。いや、お前は確かに眼を持っている、仏道修行によって得られるところの眼をはっ...

  • 正法眼蔵  眼睛 3

    天童如浄禅師の説法について道元禅師の注釈は続きます。ここで天童如浄禅師が言う自分とは、それはまさに仏道における真実を得た人という事を意味している。この様に考えてくると、仏道の悟りを得たという事が特に必要なわけでもないし悟らなくてもいいという事でもない。何かが現れてくる前とか、現れてきた後とかという、何かが現れてくるという事が大事なのではない。現在のこの場所において釈尊が持っておられた「ものの見方」...

  • 正法眼蔵 眼睛 2

    眼睛の巻、本文に入ります。無限に近い時間にわたって沢山の人々が仏道修行をし仏道を学んできた。その人たちが一つの場所に集まっている姿は、坐禅の修行をして正しい見方を持った人々がたくさん集まっていることを意味するのである。自分(道元)の師匠である天童如浄禅師が瑞巌寺で住職をしておられた際に、法堂における正式な説法をされたときに言われた。秋の風は清々しく、秋の月は皓々と冴えわたっている。大地も周囲の山や川...

  • 正法眼蔵 眼睛 1

    眼睛(がんぜい)の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。この「眼睛」という言葉の本来の意味はどういう事かというと、眼の玉という事であります。道元禅師がこの「眼睛」という言葉でどういう内容を表そうとされたかと言いますと、ものの見方を「眼睛」という言葉で表しているわけです。人間が生きていく上において、右寄りの思想が正しいのか、左寄りの思想が正しいのか、あるいは仏教のような真ん中の思想が正しいのかという見極...

  • 正法眼蔵 徧参 17

    天童如浄禅師の説法について道元禅師の注釈は続きます。我々の現実の生活というものは瞬間的なものであって、今あったものが瞬間的に去っていくし、またこの場面にはすでに別のものが来ているという状態が我々の現実の生活であり、現在の瞬間瞬間であって、そういう瞬間と瞬間との間には全く隙間がないという事が実情であるけれども、そのような状態が体全体を使った徧参(徹底した参究)であり、釈尊の説かれた真実の全てが現実のも...

  • 正法眼蔵 徧参 16

    天童如浄禅師の説法について道元禅師の注釈は続きます。徧参(徹底した参究)とは何かというならば、具体的にはひたすら坐禅をすることであり、それによって体というものの意識、心というものの意識から抜け出すことである。その点では徧参(徹底した参究)も坐禅をすること以外にはありえないし、坐禅をすることによって体を脱落する、心を脱落する(心身脱落)という事が徧参(徹底した参究)の意味である。※西嶋先生解説「心身脱落」と...

  • 正法眼蔵 徧参 15

    天童如浄禅師の説法について道元禅師の注釈は続きます。どこにでもあるような場面を自分の体全体を使って脱け出し、大道の境地に入っていく場合には取り立てて別のことを使うわけではなくて頭の働きを超越することである。自分の生命そのものの中に入り込むことである。頭の中で考えることから抜け出し生命そのものの中に我が身を置くという事は、いずれも仏道を勉強することの実体である。頭の中における様々な問題から抜け出して...

  • 正法眼蔵 徧参 14

    天童如浄禅師の説法について道元禅師が注釈がされます。今ここで述べた正式の説法における言葉は、自分の亡くなった師匠である天童如浄禅師が当時、健康府の清涼寺において住職をしていた時、諸地方の長年の仏道修行者が参集してきたときのものである。これらの長年の仏道修行者達とは、ある者については師弟の関係であったし、ある者については同輩であった。この様に諸地方の長老方でありながら、しかも旧くからの友人であったの...

  • 正法眼蔵 徧参 13

    亡くなった自分(道元)の師匠である天童如浄禅師のところへ、ある時中国の諸地方から長年の仏道修行者が参集して、法堂における正式の説法をお願いした際に正式の説法をして言われた。釈尊の説かれた偉大な真実は人の入ることを閉ざす門そのものがない。釈尊が説かれた真実には誰でも自由自在に入れる。諸君の頭の中で考えられた境涯というものを飛び越えて、我々が生きている空間の問題とは別の境地で釈尊の説かれた偉大な真実が自...

  • 正法眼蔵 徧参 12

    玄沙師備禅師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。自分の体を使って、体験として徧参(徹底した参究)という基本原則が眼の前に現れているのでなければ、自分自身の境地を体験するという事がまだできていない。自分自身がわからない様では、自分以外のものがわかるはずがない。自分以外のものを体験するという点ではまだ十分ではない。そういう状態では、人間そのものが何であるかという事がわかってこないし、我々が共通...

  • 正法眼蔵  徧参 10

    玄沙師備禅師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。「いったいどういう人にお会いになったのでしょうか」と言う僧侶の質問に「釣り船の上で釣りをしている謝という家の三男坊(である自分)にであった」と玄沙師備禅師は言われた。この言葉の意味するところをはっきりと勉強しておく必要がある。言ってみれば、釈尊ご自身と玄沙師備禅師とが、時を同じくして同じような境地を体験しておる時点を徹底的に参究し考えるべきで...

  • 正法眼蔵 徧参 10

    玄沙師備禅師がたくさんの人々に説示して言う。自分自身と釈尊とは同じ境地を経験した。その時、一人の僧侶が自分の席から歩を進めて質問して言う。自分としてはどうも理解がつかない。和尚は生きておられるし釈尊はもうはるか以前に亡くなった方でありますから、いったいどういう方に出会って、どういう方と同じ境地を体験されたのか、自分にはよくわかりません。すると玄沙師備禅師言う釣り船の上で魚を釣っている謝という家の三...

  • 正法眼蔵 徧参 9

    雪峰儀存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連した道元禅師の注釈は続きます中国全土の実情というものが、わざわざそこまで行かなくてもすっかり分かるという状態でないならば、徧参(徹底した参究)とは呼ばない。中国の各地に具体的に出かけていくという事は、中国全土というものを徹底して参究するという事には当たらない。土地の表面を無駄に歩いて平らにするというだけのことであるし、自分の履いている草鞋の底を平らにするというだ...

  • 正法眼蔵 徧参 8

    雪峰儀存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連した道元禅師の注釈は続きます。東とか西とかという形で土地というものが語られているけれども、その土地というものについて東とか西とかという区別は、あくまでも人間が仮につけたものであって、本来大地には東とか西とかと言うけじめはないのである。また人間が決めた東とか西とかという方角というものは必ずしも地面と関係づけてのみ考えられなければならないものではない。「太祖慧可禅...

  • 正法眼蔵 徧参 7

    雪峰儀存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連した道元禅師の注釈は続きます。達磨大師が中国に来られたというその切実な動きというものは、仮に中国の国土全体が達磨大師の来られたことに沸き立って達磨大師のそばでお仕えするという事があったとしても、達磨大師ご自身がインドからはるばる南の島を渡って三年間の歳月を費やして命の危険をものともせず中国に来られたその体の動かし方、身のこなしというものが、中国の人々にすぐわか...

  • 正法眼蔵 徧参 6

    雪峰儀存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連した道元禅師の注釈は続きます。雪峰儀存禅師が玄沙師備禅師に対して「なぜ徧参(徹底した参究)をしないのか」と言われた趣旨は、今住んでいる雪峰儀存禅師の寺から出て行き他の師匠について仏道修行をすることを勧めたり、仏道修行のために北の国へ南の国へと旅して動き回ることを勧めたわけではない。玄沙師備禅師が言われた言葉「達磨大師は自分で行こうと思って自分の個人的な意図でわざ...

  • 正法眼蔵 徧参 5

    雪峰儀存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連した道元禅師の注釈は続きます。そしてこの時点からさらに南嶽懐譲禅師は、八年間徧参(徹底した参究)をされた。修行の最初から最後まで通算すると十五年間の徹底した参究であった。現に我々がこの世にこの様にあるという事が徹底した参究という事の内容である。南嶽懐譲禅師が言われた様に、一所懸命坐禅の修行によって「言葉では説明出来ない何か」というものに触れる事が、真実を得られ...

  • 正法眼蔵 徧参 4

    雪峰儀存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連した道元禅師の注釈は続きます。南嶽懐譲禅師が大鑑慧能禅師に弟子入りした際に大鑑慧能禅師言う「お前が自分のところに弟子入りしてきた状況というものは、言葉では表現できない何かが現にこのように今到来しているという実情でしかない」と。南嶽懐譲禅師は師匠の大鑑慧能禅師の言われた言葉の意味が分からなかったため、それを常に頭の中において勉強することが八年間にわたった。そして...

  • 正法眼蔵 徧参 3

    雪峰儀存禅師が玄沙師備禅師を呼んで言った。乞食坊主の師備よ。お前はどうして諸方の寺院に出向いて行って、多くの師匠から教えを受けることをしないのか。これに対して玄沙師備禅師言う。達磨大師は自分で行こうと思って自分の個人的な意図でわざわざ中国に来られたわけではありませんし、太祖慧可大師にしても自分の個人的な意思でインドに行かれなかったわけではありません。   雪峰儀存禅師は大変優れた言葉だと、玄沙師備...

  • 正法眼蔵 徧参 2

    「徧参」の巻、本文に入ります。釈尊の説かれた偉大な真実というものは、究極の境地を徹底的に参究することである。それは洞山禅師が言われたように、日常生活において何のもわだかまりも持たない行動であり、達磨大師が波羅提に与えたような神秘的な能力を得て生きるという事でもある。しかもこの様でありながら般若多羅尊者が言われたように目の前に見えている現象が世界というものの実体であり、洞山良价禅師が言われたように自...

  • 正法眼蔵 徧参 1

    「徧参」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。「徧参」という表題の意味ですが、「徧」というのはあまねくという意味、どこにでもという意味です。「参」というのは参ずるという事であって、師匠について勉強するという意味です。この「徧参」という言葉でどういう事を表しているかと言いますと、仏道修行をするためにある師匠について修行を始めた場合でも、一定の年限が立つと、今度はよその地方に行ってよその寺院に滞在して...

  • 正法眼蔵 見仏 30

    趙州従諗禅師に対して、あるとき一人の僧侶が質問した。僧言う。和尚は南泉普願禅師に直接あったと言われておりますが、その噂は本当でございましょうか、嘘でございましょうか。趙州従諗禅師言う。この鎮州という土地は大きな大根がとれる。この問答について道元禅師が注釈されます。今ここでこのような言葉が出てきたという事は、趙州禅師が直接南泉普願禅師にお会いになったという事を示しているのである。これは何かを言ってい...

  • 正法眼蔵 見仏 29

    阿育王と賓頭盧尊者の問答について道元禅師の注釈は続きます。さらに釈尊をお招きするという事は単に釈尊を招待するだけの意味ではなくて、釈尊と同じ人格に立った無数無限の過去、現在、未来にわたってあらゆる方角に存在するすべての真実を得られた方々はいずれも、釈尊の招待された席に常に参集するという事が言えるのである。この諸々の真実を得られた方々をお招きする際にその一因に加えられたという事は、押しも押されもしな...

  • 正法眼蔵 見仏 28

    賓頭盧尊者が阿育王の宮殿における大集会に出席し昼食の接待にあずかった。その時、阿育王が賓頭盧尊者に礼拝し質問して言う。阿育王言う人から聞いた話では、賓頭蘆尊者は直接釈尊にお会いになったと聞いていますが、その噂というものは正しいでしょうか、誤りでしょうか。賓頭盧尊者言う(自分の手で眉毛をなで上げて)わかったか。  阿育王言ういや、いっこうにわかりません。賓頭盧尊者言う阿耨達池に住むと言われている龍王が...

  • 正法眼蔵 見仏 27

    天童如浄禅師の説法について道元禅師の注釈は続きます。仮に百、千、万、劫と長時間にわたって昼となく夜となく常に釈尊と一緒に住んでいたとしても、賓頭盧尊者と同じように眉毛をなで上げるような動作で、自分が釈尊と同じ境地を経験しているという事をはっきりと示すことのできるような力量がないならば釈尊の境地と同じものを経験したというわけにはいかない。釈尊の時代から二千余年を隔て、釈尊が生きられたインドから十万余...

  • 正法眼蔵 見仏 26

    天童如浄禅師の説法について道元禅師の注釈は続きます。理論だけで仏教を勉強している人々、環境だけを問題にして仏教を勉強している人々の中には、仏に出会うという事が実は釈尊の境地と同じ境地になるという基本的な考え方を知らない人が多いであろう。その状態というものは、たとえてみるならば、仏教の説法に際して払子を縦に立てて説法する動作をする人々は多いけれども、本当の意味で払子を立てるという事がどういう意味を持...

  • 正法眼蔵 見仏 25

    天童如浄禅師の説法について道元禅師の注釈は続きます。その様な賓頭盧尊者の境地が今日まで続いていて途中で中断することがなかった。賓頭盧尊者は今日においても、天下の人々から様々な供養を受けその供養にあずかっているという事実は現に我々がこの目で見ているところである。その様に賓頭蘆尊者が釈尊と同じ境地になられたことは疑問の余地がないけれども、それでは我々が賓頭盧尊者が釈尊と同じ境地になられたという事を実際...

  • 正法眼蔵 見仏 24

    亡くなった自分(道元禅師)の師匠である天童如浄禅師があるとき、次のような話を説法の際に取り上げた。インドの舎衛城にいた波斯匿王が賓頭盧尊者に「賓頭盧尊者は直接釈尊にお会いになっと伺っておりますが、その話は本当でしょうか」と質問した。そこで賓頭盧尊者は手で眉毛を押し上げて(肯定の意味を)示した。この話に対して師匠である天童如浄禅師が詩の形でその物語を誉めて言われるには、賓頭蘆尊者は自分の眉毛を押し上げる...

  • 正法眼蔵 見仏 23

    釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。仮に釈尊の説かれた教えが、臨済禅師や雲門禅師が説かれたほんの二つか三つのわずかな言葉によって言い尽くされているものであるならば、そのような内容の乏しい貧弱な教えであるならば、釈尊の説かれた教えが何千年の歳月を経て今日まで伝わってきているはずがない。まして現時点における人々は臨済禅師や雲門禅師にさえ及ばない人々であって、言葉に挙げて論評するまでもない人々で...

  • 正法眼蔵 見仏 22

    釈尊が言われた。あらゆる善行を実践し、柔和で素直で正しいものは、私(釈尊)がこの娑婆世界において現に説法をしていることを見ることが出来る。釈尊の言葉について道元禅師が注釈されます。ここに言う善行とは、人生において泥にまみれ水につかっている状態をいうのであり、それは人生そのものを意味する。また別の言葉でいうならば、ある場合には波に従い、ある場合には波を追いかけている状態が我々の人生である。そしてこのよ...

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