イエスは自らの十字架を負って ついてくるようにと 教えられました。 おそらくほとんどの者が 十字架を背負い得ないと思う。 イエスが私たちに悟らせたいのは こ…
大阪市生野区にある イエス教長老会平安教会の牧師による デイリー・メッセージです。 毎日、更新しています。 近畿福音放送伝道協力会(近放伝)が ABCラジオでお送りしております 「福音の光」のラジオ牧師もしております。
神のおはからいに委ねて歩むのが キリスト者の歩みです。 しかし、そのことを頭で分かっていても 実際は忘れてしまいがちです。 何かをしようとする時、 しかもそ…
ここ一番という時に 二の足を踏んでしまうことが 結構あります。 キリスト者には偶然はなく、 全ては神の摂理による必然です。 ですからどのような状況でも それ…
苦しい事ありますよね。 生きるのも そう容易いことではありません。 それでも私たちは生きていくのです。 生きる意味が分かれば それでも生きられます。 その意…
キリスト・イエスは私たちキリスト者に 世の光・地の塩となるように 教え諭されました。 暗い世を照らし、 迷える者を導く光、 生命の維持に不可欠で、 穢れをき…
私たちには出来ない事も あるでしょう。 でも心配ありません。 神にはお出来にならない事は ありません。 心から神を信頼して お委ねしましょう。 この短い勧め…
自分の経験が全ての事象において 有効であるとは言えません。 学問的知識もどのような局面でも 変わら適応可能だとは限りません。 経験主義も教条主義も 不完全で…
詩篇51篇10節のように 私たちも祈りたいものです。 イエスを主と信じる者の 心のうちには聖霊がお住まいです。 その聖霊のお導きにより 福音の真理を悟り、 …
信仰は神に対する絶対的信頼が 基となっております。 信仰は私たちが頑張って 得るものではなく、 神から賜わるものです。 しかし、それを自力で得ようとすると …
生きていれば 様々な思い煩いに さいなまれることもあるでしょう。 そんな時、 キリスト者である私たちは どのようにすればよいのでしょうか? パウロの奨励に耳…
みことばを生きておりますと こだわりのようなものが 徐々になくなってきます。 敢えて言えば、 みことばを生きることのみが 喜ばしいこだわりと 言えるかもしれ…
信仰を基として 厳しい状況でも ポジティブに生きることを 聖書では忍耐と言います。 どのような状況でも 神の臨在を信じて 前進し続けるキリスト者を 神は平時…
神から恵みを賜わっている 私たちキリスト者は、 できれば神の栄光のために 何かお役に立ちたいと思うのですが、 自分の無力さを思い知らされ がっくりすることも…
イエスの十字架を最初から喜んで受け入れる人はきわめて稀だと思います。誰だって自分は正しいと思いたいし、自分の生き方は間違っていないと思いたいからです。しかし、…
私たちが賜わった平安とは イエスがお持ちであった平安です。 この世が与えてくれる 一過性のものでなく、 永久の平安を与えてくださったのです。 私たちはその平…
私たちは神の力を 私たちと変わらない有限なものと 錯覚しがちです。 だから少しでも良くしてもらったり 関心を引こうとして 善行に励んだり捧げものしたり した…
キリスト者にも忍耐が求められます。 忍耐と聞くと多くの人は 読んで字のごとく 耐え忍ぶことだと思うでしょう。 間違ってはいませんが、 キリスト教的には少し違…
御子イエスを犠牲にしてまで 私たちを救ってくださった神。 その神に生きていく上で 必要な事を祈り求めて 聴いてくださらないことが あるでしょうか? 罪深い私…
神は一人ひとりに 無二の賜物を授けてくださり ご自身の栄光のために それを用いて人々の救いのために 貢献することを命じられます。 自分がしたいことと神の求め…
自分の罪深さに 気付かせていただいとことを 有難い事だと 信仰をいただいてからは 思うようになります。 理想の自分を追い求めるのも 罪深い自分の姿を忘れたり…
戦後は共産主義者でなくても 唯物的な思考に 支配されて生きてきました。 見えるものだけが全てであり、 見えなくなれば 価値がないという考え方が 私たちの心を…
自らも望まない悪行を 私たちは犯してしまいます。 好んで悪を行なう人など あまりいないはずです。 そんな自分の弱さに嘆き それを忘れようとしながら 自分を欺…
主に守られているのだとの確信を 常に持ち続けることで 私たちは心に 平安を持ち続ける事ができます。 主に守られているのだとの 確信を得るためには、 主が自分…
罪を赦していただき 神との関係が回復したキリスト者は 罪を犯す以前のアダムと同じように 神と親しく交わることが 出来るようになりました。 罪の赦しと永遠のい…
ピレモンは小アジアのコロサイの 名士だったようです。 パウロの宣教の協力者でもあり、 自らの屋敷を家の教会として 開放もしていたようです。 宣教活動は、いつ…
救いを得るための善行は 結局のところ 自利に重きが置かれている。 利他を装っているが、 結局は自分のためなのだ。 聖書のみことばを通して与えられる 知恵はど…
イエスは私たちの心のうちから 永遠のいのちへの水が湧き出ると 教えられました。 実は、これは非常に重要であります。 というのは、 私たちが信仰生活を送るにあ…
イエスの証、 つまり福音をそのまま信じる者は 神は真実であるという事に 捺印したことになると バプテスマのヨハネは 彼の弟子たちに語りました。 突然、現れた…
誰かに対する恨みは さっさと赦してしまった方が 良いでしょう。 なぜなら恨めしい気持ちは あなたの心の平安を破壊するからです。 寝ても覚めても 恨みを持って…
パウロはお互いに愛し合うように、 つまり、命懸けで仕え合うようにと 教えました。 これはキリスト・イエスの 福音でもあります。 そして、それを 実生活で適用…
キリスト者が最も求めるべきものを キリスト・イエスは前もって 教えてくださいました。 それは神の国と神の義でした。 神の国は、 神の御心が100% 反映され…
みことばのタネは 聖書を読むとき、 説教を聞くとき、 日常生活を通してなど、 様々な機会を通して 蒔かれています。 そのタネが実りを得るためには 良いと土地…
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イエスは自らの十字架を負って ついてくるようにと 教えられました。 おそらくほとんどの者が 十字架を背負い得ないと思う。 イエスが私たちに悟らせたいのは こ…
キリストの模範に従う者が それがキリスト者。 であれば、キリスト者である 私たちもキリストのように 命懸けで仕える者であるべきだ。 命懸けでお互いに仕える社…
誘惑はサタンの仕業。 神が私たちを誘惑することは 決してありません。 むしろ神は私たちと 常に親しく交わろうとされます。 それを私たちの側が避けるので 隙が…
ガラテヤ書5章14節は 私が大好きな聖句です。 この世の人々が 隣人を自分を愛するように 愛することが出来れば この世は天の御国のように なるのでしょうね。…
私たち人間は 心の中での情動が行為となります。 ですから心の中でどのような 思いが去来しているかによって 実生活で現れる行為に差が生まれます。 安心感のない…
思い煩いを 全て神に委ね切るのは 意外に難しい事です。 なぜなら神に対する 絶対的信頼がなければ 出来ない行為だからです。 マルコの福音書9章で 口をきけな…
ヘブル書1章8節を 注意深く読んでみると あることに気付くでしょう。 それは父なる神が 御子イエスに「神よ。」と 呼びかけている点です。 復活されたイエスは…
主が私たちに求めておられるのは 悔い改めてみことばを生きる事。 私たちが心がけるべきは 正にこれだと言える。 先ずは神の御心に なかなか従い得ない 自分の弱…
みことばを生きる 福音行者であるキリスト者が 日常生活で心得るべきことを パウロがピリピ書4章8節に まとめてくれている。 そこで挙げられている 事項に基づ…
キリスト者も 堅実な信仰を維持するために、 今という瞬間を 大切にしなければなりません。 私たち人間の悪い癖に 問題の先送りと 現状判断の甘さが挙げられます…
ローマ書8章31節を 心に刻みましょう。 神があなたの味方であるなら 何も恐れる必要はないはずです。 逆に恐れを覚えているとすれば、 神の臨在に対する疑いが…
信仰を賜わったキリスト者は 霊的には既に復活をして 神の子とされていますが、 肉の復活は キリストの再臨を 待たねばなりません。 しかし、復活の初穂である …
ストレスフルな時代ですから 速攻で眠ってしまう事も 多いかもしれませんが、 出来れば眠りにつく前に 一日を振り返ってみて 一日の間に神からいただいた 恵みの…
教会とはキリスト教の 礼拝堂の事ではありません。 同信の兄弟姉妹の集いを 教会と言うのです。 教会はイエスを頭とし、 神に召し出された 同信の兄弟姉妹が 肢…
信仰生活は やはり一人では難しいです。 その理由は、 私たちは人には厳しく 自分には甘いからです。 他人様がみことばから 少しでも逸脱した生活を しているの…
神が全き方であられるように 神の子と見做していただいた 私たちキリスト者も 全き存在となるように 努めなければなりません。 とは言え、特別な修行をしたり 何…
主に全幅の信頼を置いて 主の助けを待ち望む者を 神は捨て置かれません。 このブログを書いている 私自身も、そう確信して 険しい道を歩み続けています。 歩み続…
やましい事を行なっていると それが露呈するのを恐れて 神から遠ざかろうとする。 神を知りたがらない者にも 様々なタイプはあろうが、 何でも自力でという人間も…
やられたからと言って 相手に仕返しをしたら 相手と同じ人間に なってしまいます。 だからといって 相手から何をされても 耐え忍べと言っているのでは ありませ…
教派神学に盲従するのでなく みことばを生きることで 心に平安を得て生きる親に 育てられた子どもは 親のそういう生き方を学び 長じてからは親と同じように みこ…
栄養過多は肥満や糖尿病の 原因となるように、 恵みも受けてばかりいると 恵みを当たり前と思うようになり、 結果的には害となってしまいます。 私たちは先に神か…
信仰生活は守備より攻撃を 選択した方が賢明です。 守備は相手に攻撃の機会を 先に与えてしまうことになります。 ですから攻撃の方がよいのです。 攻撃的信仰とは…
サタンが人間を支配する二大武器は 罪と死でした。 罪は私たちを神と断絶させます。 律法によって罪が確定し、 私たちをさらに罪深い者としてのです。 しかし、イ…
聖書的に死とは別離を意味します。 そのことをふまえて ヨハネの福音書11章25ー26節を読むと イエス様は二つの約束をされたことに 気付くと思います。 先ず…
神が万物を創造され、 今もトータルコーディネートして くださっている事を 忘れないようにしたいですね。 私たち人間は 神から被造物の管理を 委任されましたが…
神の力は 私たちがみことばを生きる事で 品行方正となったから その代価として与えられるものでは ありません。 神の力はみことばを通して 自分の弱さを自覚した…
救いは全ての人に オープンとなっています。 救いと聞くとこの世の事でなく 死後の事のように考える人が 多いように思いますが、 救いは今、最も重要なのです。 …
人の真心など感じられない 荒涼とした現代社会であっても、 傷ついて壊れかけた心であっても、 神のみことばとの深い交わりを 取り戻すならば、 たちどころに癒し…
私たちが豊かな実を結ぶには イエスという幹に しっかりとつながればよいのです。 イエス様はみことばが受肉された方。 ですから、 みことばとつながれば良いので…
罪の赦しを得て、 神と深くお交わりを させていただけるように なったのですから、 信仰を賜わって 罪の赦しを得る以前の 生活習慣を見直して みことばを生きる…
聖書に書かれているみことばは 神の私たちに対する約束です。 私はカルヴァン派の牧師なので 約束より契約という単語を よく使います。 神が私たちに対して必ず果…
残念ながら人は 自分の努力のみでは 神の御心に100%そった生き方を 恒常的に選択することはできません。 どうしても自分に都合が良いことや 自分に利益を来た…
私たちは自分の弱さを認めるのを 非常に恐れます。 自分の弱さを認めるという事は 自分のそれまでの生き方を 全て間違っていたと認めるかのように 感じるからです…
イエス様はみことばが受肉して 私たちの許へと 来てくださった方です。 なのでパウロは イエス様のお語りになった福音が 万物を保っているとまで喝破しました。 …
イエス様は私たちのために いのちすら惜しまれませんでした。 イエス様はその姿勢を学ぶようにと 弟子たちに旧約の律法に代わる 新しい戒めを残されました。 その…
罪の赦しを得るためには 苦痛の果ての死です。 本来、この恐ろしい死を 私たちの全てが味合わなければ ならなかったのです。 しかし、いつくしみ深き神は その罪…
かつては罪の奴隷であった私たち。 今はイエス様を主と仰いで 生きるキリスト者となりました。 イエス様はご自身のいのちを 罪の代償として捨てることで 罪から神…
愛とは何かを 端的に表した個所として 第一ヨハネの3章16節を 挙げることが出来そうです。 アガペーの愛とは、 命懸けで兄弟姉妹に尽くす事。 私たちを救うた…
救いは彼岸のためのものでなく 此岸でこそ大切なもの。 なぜなら、救いは此岸での信仰により 決定するものだからです。 この世で救いを得て、 生きている間も神の…
イエスは天に戻られて 神の右に座し給いて 定められた再臨のその日まで 私たちを執り成してくださっています。 私たちは12弟子たちのように 直接にイエス様を拝…