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マラナ・タ https://blog.goo.ne.jp/malanata

私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

ハレルヤおじさん
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垂水区
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姫路市
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2009/07/20

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  • ただ単純に

    女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」マタイ15章27節女は、ダビデの子などというユダヤ人特有の呼び名は使いませんでした。とても単純に、「主よ、私を助けてください。」と言っています。ここに彼女の心が表れています。ただ、これだけだったのです。イエスは主であるということ。そして、助けてくださいというだけのことだったこと。他の尾ひれを付ける必要がありませんでした。この女は娘の病のために、イエスに取りすがります。しかし弟子たちは、この女を野良犬のように追い払うことを求めます。イエスのお答えも「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」でした。弟子たちの態度には、冷たさ、つれなさがあります。しかしイエスは、ただご自分の使命を示されます。しかし、...ただ単純に

  • 解放

    「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」コロサイ1章20節石川啄木の歌の中に「人という人の心に、ひとりずつ囚人がいて、うめく悲しさ」というのがあります。立派に見える人の心にも、罪に捕らわれた囚人がいて、それをどうすることもできずに呻いているというのです。このような罪の束縛や敵対関係の中に、イエスの十字架が起こったのです。神と私、人と人の間に、わだかまっている敵意や憎悪は、どんな小さなものであっても、誰の力でも取り除くことができないものです。ただイエスが十字架において、血を流すことによってのみ取り除かれ、和解し、平和はつくりだされたのです。神は「和解させてくださった」のです。神と...解放

  • 出会い

    この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。ヨハネ12章21節人生を変えるような出会いがあります。また、そのような大切な事とも気が付かなく、過ごしてしまう出会いもあります。聖書の中には、イエスに是非お目にかかりたいと求めて、新しい人生の光を見出した人々のことが記されています。議会議員のニコデモも、異邦人の百人隊長も、憎まれ者の徴税人ザアカイもそうでした。しかし求めるべきお方がイエスだとわからなくても、心の中に永遠を求め、愛を求め、いのちを求め、光を求めた人々に対しては、イエスのほうからしばしば彼らの前にお立ちになったことも事実です。このブログに来られた皆様は、このような人生の出会いを、すでに経験されたことがおありでしょうか。(おっと、...出会い

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