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京風 https://blog.goo.ne.jp/ue1sugi2

犬も歩けば伝説にあたる、京の都に1200年の歴史あり

町筋に町家の軒下に埋も れた民衆の哀話、伝説を歩いてもうひとつの京の風

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2009/07/01

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  • 青蓮院門跡寺院

    開基は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である天台宗の祖最澄(伝教大師)が比叡山延暦寺を開くにあたって、山頂に僧侶の住坊を幾つも作りましたが、その一つの「青蓮坊」が青蓮院の起源であると云われています。伝教大師から円仁(えんにん、慈覚大師、安恵(あんね)、相応等、延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊鳥羽上皇の第七皇子覚快法親王が行玄の弟子として入寺してより後は、皇家や摂家の子弟が門主を務める格式高い寺院(門跡となった。山下へ移転した当初は現在地のやや北西にあたる三条白川の地にあったが、河川の氾濫を避けて鎌倉時代に高台の現在地へ移った梶井(現在の三千院)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされる。「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり。国宝の青不動...青蓮院門跡寺院

  • 青蓮院門跡寺院

    夜はライトアップされ、見所の苔庭は一面の星空のように瞬き、青蓮院門跡寺院

  • 青蓮院門跡寺院

    梶井(現在の三千院)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされる。青蓮院門跡寺院

  • 宝筐院

    決して大きくない寺内の境内・・・入口から門をくぐると混雑直線的な石畳の道があり、両側に紅葉のトンネルが続く。一面が黄金色や赤色の紅葉に包まれ石庭の回遊式庭園には風景は考えさせる。庭園内には多くのモミジやドウダンツツジがあり晩秋初冬にはみごとな紅葉を見せる。特別公開4月、5月、10月、11月南北朝時代敵味方に分かれた楠木正行四條畷の戦いに戦って討ち死し(23歳)敗北した後は、足利によってその首級を寺の敷地内に手厚く葬られた。その正行の敵である足利義詮は、正行の葬を知ると、「自分の逝去上桂三宮町後、かねており敬慕していた観林寺(現在の宝筐院)の楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」と遺言を残したと言われ、貞治5年(1367年)、彼の死後ほどなく、正行の墓(五輪石塔)の隣の墓(宝筐印塔)に葬られた。その後、8代将軍...宝筐院

  • 宝筐院

    宝筐院(ほうきょういん)平安の末から鎌倉時代にかけては、数代にわたって皇族が入寺し、住持となり臨済宗の単立寺院。庭園内決して大きくは無いが春(若葉頃)と秋(紅葉頃)には多くのモミジやドウダンツツジがあり晩秋初冬にはみごとな紅葉を見せる古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像を本尊に迎えて居る・・・・楠木正行と足利義詮の墓が仲良く並んで居る宝筐院

  • 石峰寺

    石峰寺は、禅宗の寺院で黄檗宗を開いた隠元の孫弟子に当たる、黄檗宗六世千呆禅師によって、正徳三(1713)年に創建されました寺の境内裏山にある五百羅漢の石像群は、晩年に10年間伊藤若冲が下絵を描き、当寺の住職と協力して制作したもので、「若冲五百羅漢」としていまも親しまれている。石仏は、薄いレリーフである長年の風雨で風化した事に一掃の煩悩を感じさせるまた観音堂の格天井には若冲が天井画を描いた。しかしこれらの絵は明治期はじめ、廃仏毀釈の嵐のなかで処分され、今は信行寺(左京区)に「花卉図」などが現存している自宅は天明大火事で無くなる同時代に円山応挙は豪商三井家が応挙の主要なパトロンであったしかし画は若冲が現在存在感を与えている様に感じる。石峰寺は伊藤若冲が晩年隠棲者として庵を結んだお寺で初めは春教(しゅんきょう)、のち...石峰寺

  • 石峰寺

    怒った顔、泣いた顔、ほほ笑んだ顔――。風化して苔(こけ)むした石の表面に残る表情は豊かだ。竹林が風でざわめくたびに木漏れ日が揺れ、素朴な石仏たちの顔を彩る。京都市伏見区にある五百羅漢とは、およそ五百人の「羅漢」と称されるインドの高僧集団のことで、お釈迦様がこの世を去られた後、宗派の統制を改めるために集まった高僧、いわゆるお釈迦様の弟子たちが500人いたことに由来しています。石峰寺

  • 石峰寺

    「円山派」応挙と同時代に生きた伊藤若冲が、生涯を閉じた寺85歳・・・・平成になつて世に知られる寺の境内裏山にある五百羅漢の石像群は、伊藤若冲が下絵を描き、当寺の住職と協力して制作したもの「若冲五百羅漢」と言われている石峰寺

  • 大徳寺

    山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳...大徳寺

  • 大徳寺

    興臨院(こうりんいん)能登国の戦国大名・畠山や加賀百万石の基礎を築いた戦国大名・前田利家により改修が行われ、前田家の菩提寺となる。三玄院・天下を見る事無く去る者石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。***非公開大徳寺

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