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  • 實相を照らし見る

    さて斯くの如く人の佛性を扶豎し開顕するには「照用同時、巻舒斉しく唱へ、理事不二、権實竝べ行ふ」べきであって、一つのものに凝り固まったら駄目だといふのが「一著を放過して」である。第一義諦、第一義門だなど

  • 『今に生きる!』

    白隠禅師は、「若い衆や死ぬがいやなら今死にやれ一たび死ねばもう死なぬぞや」と歌ったさうであるが、白隠のやうに「今死にやれ」と言ひ、明極禅師のやうに「両頭ともに截断す」と言ひ、キリストのやうに「生命を捨

  • 「お上は何処。」

    傳へられることによると、大楠公は湊川戦死の前日、兵庫の廣嚴寺に明極楚俊禅師を訪れられたといふことである。大楠公は既に死を覺悟しておられたのでその死のときの心構えが聴きたいのであったのである。「生死交謝

  • 武道と相通じるもの

    【解釈】宗教といふものはReligionを明治初年に譯した語であると言はれているが、爰にそれよりずっと以前に「宗教」の文字があるのである。宗は宇宙の示教を言ふのである。「宗」のウ冠は宇宙の意味であり、その宇宙

  • しっかりと認識

    聖経『甘露の法雨』この聖経の“実在”の一節をご紹介させていただきます。天使また続いて説き給わく実在はこれ永遠、実在はこれ病まず、実在はこれ老いず、実在はこれ死せず、この真理を知ることを道を知ると云う。実

  • 瘦身失命を免れず

    第五則 雪峰盡大地【垂示】垂示に云く、大凡宗教を扶豎(ふじゅ)するは、須く是れ英靈底の漢なるべし、人を殺すに眼さつせざる底の手脚あって、方に立地に成佛すべし、所以に照用同時、巻舒(けんじょ)齊しく唱へ

  • 今、ここ

    かういふ名人の前に来て、三度も勘破された徳山のことだから、もう飛将軍が捕虜を入れて仕置にする庭へ引出したやうなものだ。「再び完全を得る能く幾箇ぞ」ーー再び身を完うして歸って来得る者が何人あらうか。「喝

  • 肝心ですね

    「愛」は神であり、神は「いのち」であるから、「愛」を感じないやうな者は智慧で「肉體」だの「物質無」だのと悟っても、それは「いのち」がないのであるから喪心失命である。孤峯山上で佛を罵り、祖師を罵り、教へ

  • 大人たる所以

    これは「果然」(待ってました)であるが、何のことぢゃ、もう融けた!霙もない、「點々、」滴々だ、だから圜悟の著語は「錯、果然、點」と重ねて書いてある。(著語の本文は混雑を防ぐために引用してない)頌の「一

  • 「喝!」

    そこで潙山は「此子は後になって孤峯頂上に向って草庵を結んで、佛を呵し、祖を罵りひとり有頂天になることだろう。悟っても弧峯の嶮しい者になったのでは人は救えぬ」と言はれたのである。雪竇はこれに著語して「雪

  • 魂の叫び!

    今日は朝から遅かりしが、明治神宮の初詣と、板橋区の氷川神社詣でを行わさせて戴きました。そして、帰宅後、SNSのキャッチボールをして居る内に。思わぬ事から、二つの貴重な情報を得てしまいました。神威、神意顕

  • ご参考にされて下さい

    さきほどフェイスブックのお仲間より、 下記の動画サイトのご紹介があり、 光明を見出した事を心より感謝申します。 https://nico.ms/so39919841?ref=line_cap_off

  • 理屈を言う前に

    徳山は「法堂を背脚して草鞋を著けて便ち行く」とあるから、法堂を背に振返りもせずに、草鞋をつけてトットと出て行った。もう勝った気持ちでいるらしいのである。無邪気といへば無邪気である。ここの處を圜悟は評し

  • 相見える

    禅宗で師に見(まみ)えることを「会見す」と言ふのださうである。師に見えるには師に見える道がある。禮儀作法の通りに則(のり)そのまま行はなければならない。禮儀作法の通り袈裟衣をととのへるのが「威儀を具し

  • 幸せな充実した人生を送るため

    さういふならば、お前は『生命の實相』のなかで「肉體無」「物質無」と旺んに説いているが、本當にその「無」がわかったならば何のために「無々」と言って一千三百萬部もその『生命の實相』を賣ったりするのか。さあ

  • 無に捉われ過ぎると

    併しながら肉體にも物質にも執著しながら理論だけで「無々」と言っているのによく似て居る。併しながら肉體にも物質にも執著しながら、理論だけで「無々」と言っているのでは駄目である。「これは無い」と認めるとき

  • 奥に変わらない本質が有る

    エジプトの有名なナセル大統領が、産業の発展の為にナイル河の上流にアスワンダムを建設しました。 するとナイル河流域には沢山の遺跡がありまして中でもアブシンベル神殿と云う貴重な遺跡が水没すると云うので、世

  • 背負ったままに

    本来東西なし、況や南北をやでである。日本は東洋だと言ふけれども、その日本よりも東にアメリカがある。それだのに、そのアメリカを東洋と言はずに、西洋だと言ふ。東より西へ西より東へ、地球上を廻ってみても、そ

  • 災厄除けの言葉

    災厄除けの言葉神は吾が光であり給い、吾が救いでありたまう。されば吾れ誰をか恐れんや。神は吾が護りであり給う。されば吾れ誰をか恐れんや。吾れは吾が経験する一切の事物のうちに吾れを導き給う神を感ずる。神が

  • 信仰は生き方を問われる

    さて本則の解釋であるが、徳山が龍潭に會って教へを受ける経緯は「無門關解釈」の第二十八則久響龍潭の項で説明して置いたから、同書の二百十四頁から二百二十三頁までを参照して頂きたい。ここでは同書と重複するか

  • 西方に十万億

    【解釈】晴天白日といふのは一點の雲も懸っていない實相のことである。青空には東西南北を劃する何物もない。それと同じやうに實相は無相にして無限相である。ここが阿彌陀佛の西方極楽浄土だと思へば、其處が既に西

  • 難解ですね

    第四則 徳山挟複子【垂示】垂示に云く、青天白日、更に東を指し、西を劃るべからず。時節因縁、亦須く病に應じて薬を與ふべし。且く道へ、放行するが好きか、把定するが好きか、試みに擧す看よ。【本則】擧す。徳山

  • 本能的にあがこうと

    カラリとして一つも引っかかりのない心境でる。病気が治りたいなどといふやうなケチな心で生長の家に来る人もあるが、さういふ人が治る過程は、どうして治るかといふと病気に於いて病気を見ず、馬大師のやうに其處に

  • 慢心していたら

    感謝の心境は最も調和した平和の心境であるから、血液の循環も順調になり、ホルモンの分布も適正になり、従って壽命のあるものなら病気が治るのである。生長の家に来て一切の感謝の道が分かれば、死ぬとか死なぬとか

  • 神を認識する

    さて、本則に移るのであるが、本則は甚だ簡単である。馬大師が不安であったとき、不安といふのは病気のことである。英語でも病気のことをdisease と云う。馬大師のこの時の病気は死病であって「我が朽質、来月に至っ

  • 此処にしたためられて

    「理」と云うものはひと筋のものであって、そんなにいく通りもの指導精神があるものではない。師の悟れる理念は弟子の悟れる理念に一致しなければならない。これが伝法である。禅宗に於いて伝法されたものは、師の體

  • お前どうして其れが判る。

    ところが、生長の家では、それを悟の側から観て、これは生命力の自療力だと言ふ。下痢が出てくれるので體中の不要物が流し出されて健康になるのである。熱が出てくれるので、侵入して来た病源體が死滅し易くなり、體

  • 質素で控えめで

    中峯和尚の信心銘義解に曰く、「吾祖は之を目けて至道そ曰ひ、唯佛は之を證して菩提と曰ひ、衆生は之を昧して無明と曰ひ、教中には之を彰はして本覺と為す」とある。悟った心で見れば、此のまま此處に極楽浄土現前で

  • 無相三昧

    佛教が概ね「否定の論理」を説いていて、「さうではない、かうではない、ああでもない」「無、無、無……」そして、「無も無い」と言っているのは、吾々は五官を通して視て、それをありのままと考えたり、「五官を外せ

  • 広大な宇宙

    【解釈】この垂示はなかなか面白い。蓋天蓋地いたる處に満ちている大用の現前に着目せよという意味である。ある人が私に揮毫して呉れと言ふから、「大用縦横」と書いて差上げたところが、大用は小用に對するもので大

  • 其れは無いものなんだ。

    あずさわ日記の掲載記事で生命の實相哲学に関しまして光明思想生命の實相哲学の創始者 谷口雅春先生のみ教えを其の儘お伝えする事にあります。勿論、導入部分や、尊師のお話の引用後に幾許かの説明や、紹介リンクが

  • 最近はお元気ですか?

    第三則 馬大師不安【垂示】垂示に云く、一機一境、一言一句。且く箇の入處有らんことを圖るも、好肉上に瘡を剜り、窠を成し窟を成す。大用現前軌則を存せず、且く向上の事有ることを知らしめんと圖る。蓋天蓋地、又

  • 自分らしく生きる事です

    さて、その時、その場に應じて「お早うございます」だの「往ってらっしゃい」だの、色々多種多様の挨拶があって、それを一々憶えていなければ可かぬかというと、決してそのやうなものではない。「一に多種あり」で、

  • 新しい日本の再生を

    新年あけましておめでとうございます新しい年を迎えて 新しい日本の再生を いにしえ の歴史から学びたいと思います。「大日本史」は明暦三年の修史局開館より、明治三九年迄二五○年もの間、光圀公の志を継承して

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