歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(72)」
藤原定子(3) 中宮定子の突然の出家は5月1日のことで、この後、同年夏に二条宮が全焼し、10月には母・貴子も没するなどの不幸が相続く中、定子は長徳2年(996年)12月16日、第一子・脩子内親王を
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(71)」
藤原定子(2) 定子の母貴子は円融朝に掌侍を勤めて高内侍と称された人で、女ながらに漢文を能くし、殿上の詩宴にも招かれるほどであった。また、定子の父・道隆は、「猿楽言」(冗談)を好み酒を愛した陽気な
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(70)」
藤原定子(1) 藤原定子(ふじわら の ていし/さだこ、貞元2年(977年)~長保2年12月16日(1001年1月13日))は、平安時代、第66代一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)。脩子内親王・
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(69)」
藤原伊周(8) 伊周は失意の内に翌7年正月28日、37歳の壮年で没した。臨終に際し、彼は后がねに育てた2人の娘へ「くれぐれも、宮仕えをして、親の名に恥をかかせることをしてはならぬ」と、また息子・道
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(68)」
藤原伊周(7) 長保3年(1001年)閏12月16日、6日後には崩御するような重病に悩まされた東三条院詮子は、一条天皇に甥・伊周を本位(正三位)に復するよう促したという。(『権記』によれば、この前
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(67)」
藤原伊周(6) 折りしも懐妊中の中宮定子は前月始めから里第二条北宮に退出しており、左衛門権佐・惟宗允亮は御在所の西の対に在る伊周に配流の宣命を伝えたが、伊周は重病を称し、出立を拒んだ。彼は妹定子と
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(66)」
藤原伊周(5) 長徳2年(996年)のいわゆる長徳の変は、太政大臣・恒徳公・藤原為光の四女に通う花山法皇を、自分の思い人の為光三女目当てと誤解した伊周が弟・隆家と謀って道すがら待ち伏せ、彼らの従者
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(65)」
藤原伊周(4) 道長と伊周の争いは続いた。7月24日、伊周と道長は仗座で氏長者の所領帳の所有を巡って激しく口論、罵声が外まで聞こえて一座は恐れをなしたという。3日後、伊周の同母弟・隆家の従者が道長
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(64)」
藤原伊周(3) その後、17日間にわたる関白の不在を経て、4月27日、、道隆のすぐ下の同母弟である道兼が関白・氏長者に就いた。しかしすでに疫病に冒されていた道兼は拝賀の僅か7日後に薨去した。そこで
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(63)」
藤原伊周(2) その翌年の正歴5年(994年)8月28日、21歳の伊周は8歳年上の叔父・道長ら3人の先任者を飛び越えて内大臣に昇進(上席の右大臣は叔父・道兼)、伊周の後任の権大納言は3歳上の異母兄
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(62)」
藤原伊周(1) 藤原伊周(ふじわら の これちか)は平安時代中期の公卿である。摂政関白内大臣・藤原道隆の嫡男(三男)。 天延2年(974年)、藤原北家摂関流の上卿大納言兼家の嫡男・兵衛佐道隆と、
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(61)」
藤原兼家(5) 永祚元年(989年)、円融天皇の反対を押し切って長男・道隆を内大臣に任命して、律令制史上初めての「大臣4人制」を実現させ、更にこの年に頼忠が薨去すると、その後任の太政大臣に就任した
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(60)」
藤原兼家(4) 策略は成功し、懐仁親王が即位した(一条天皇)。兼家は天皇の外戚となり摂政・氏長者となる。天皇の外祖父が摂政に就任するのは、人臣最初の摂政となった藤原良房(清和天皇外祖父)以来のこと
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(59)」
藤原兼家(3) 約束通り、同年8月に円融天皇は師貞親王に位を譲り(花山天皇)、懐仁親王が東宮に立てられた。兼家は関白を望むが、頼忠が依然として在任中であり、しかも朝政は天皇の外伯父の権中納言・藤原
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(58)」
藤原兼家(2) 藤原兼通に妬まれていた兼家は不遇の時代を過ごす。兼家の娘・超子が冷泉上皇との間に居貞親王(後の三条天皇)を生むと、兼通はこれを忌んで円融天皇に讒言した。また、次女の詮子を女御に入れ
歴史探訪 「日本の氏姓」「平安時代」「藤原氏・北家(57)」
藤原兼家(1) 藤原兼家(ふじわら の かねいえ)は、平安時代の公卿である。右大臣・藤原師輔の三男。策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。その後右大臣を辞して
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