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  • 論語八佾(03-05) 「荒れる大相撲」

    論語八佾(03-05)「荒れる大相撲」子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也。子曰(のたま)わく、夷狄(いてき)の君あるは、諸夏(しょか)の亡(な)きに如(し)かざるなり。先生がいわれた、「夷狄(いてき)で君主のあるのは、中国で君主のいないのにも及ばない[中国の文化の伝統はやはり優れている]」。中国は、古くから中華思想であり、周辺は文明未開の国々と決め付け、東西南北を東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)・北狄(ほくてき)と称し蔑(さげす)んでいます。今様(いまよう)に理解すれば、「諸外国には其々の君主がいるが、今の中国は、残念な事に国が乱れて君子が見当たらない。しかし、中華の伝統文化は周辺より優れてるので、譬(たと)え君子は居なくとも、野蛮な夷狄よりよい。」との注釈(ちゅうしゃく)です。然(しか)し、...論語八佾(03-05)「荒れる大相撲」

  • 論語八佾(03-04) 「横綱の品格」

    論語八佾(03-04)「横綱の品格」林放問禮之本、子曰、大哉問、禮與其奢也寧儉、喪與其易也寧戚。林放(りんぽう)、礼の本(もと)を問う。子曰(のたま)わく、大なるかな問うこと。礼は其の奢(おご)らんよりは寧(むし)ろ倹(けん)せよ。喪(も)は其の易(おさ)めんよりは寧(むし)ろ戚(いた)め。林放(りんぽう)が礼の根本についておたずねした。先生はいわれた、「大きいね、その質問は。礼には贅沢(ぜいたく)であるよりは、むしろ質素にし、お弔(とむら)いには万事整えるよりは、むしろ[整わずとも]いたみ悲しむことだ」。礼(れい)は節度ある感謝です。神仏への御参りも礼です。礼は、社会生活での人間関係や秩序維持の為に必要な行動様式です。人々を文明教化する重要な手段でもあります。死者の弔(とむら)いや喪(も)に伏すのも当然な礼で...論語八佾(03-04)「横綱の品格」

  • 論語八佾(03-03)「人にして仁ならずんば・・・如何」

    論語八佾(03-03)「人にして仁ならずんば・・・如何」子曰、人而不仁、如禮何、人而不仁、如樂何。子曰(のたま)わく、人にして仁(じん)ならずんば、礼(れい)を如何(いかん)。人にして仁ならずんば、楽(がく)を如何。先生がいわれた、「人として仁でなければ、礼があってもどうしようぞ。人として仁でなければ楽があってもどうしようぞ。」楽は礼と同じく、人間の品性を調(ととの)える為来(しきた)りです。人は一人では仁には為れません。人は人の支えが無ければ自立は不可能でしょう。然(さ)もなくば、神仏(しんぶつ)に頼(たよ)るのみです。人は二人になって始めて人に為れるのです。人は其れを仁(じん)と言います。仁が無ければ、礼や楽が有っても如何(どう)しようも無いのです。人が二人で仁になるのは、誰も疑えない道理なのです。昨今、地...論語八佾(03-03)「人にして仁ならずんば・・・如何」

  • 論語八佾(03-02) 「三家者、雍を以て徹す」

    論語八佾(03-02)「三家者、雍を以て徹す」三家者以雍徹、子曰、相維辟公、天子穆穆、奚取於三家之堂。三家者(さんかしゃ)、雍(よう)を以て徹(てっ)す。子の曰わく、相(たす)くるは維(こ)れ辟公(へきこう)、天子穆穆(ぼくぼく)と。奚(なん)ぞ三家の堂に取らん。三家では[廟(おたまや)の祭りに]雍(よう)の歌で供物(くもつ)をさげていた。先生はいわれた、「[その歌の文句には]『助くるものは諸侯(しょこう)達、天子はうるわしく。』とある。どうして三家の堂に用いられようか。」孔子は、御三家が身の程を弁(わきま)えない行為を嘆(なげ)かれています。古代中国の周王朝(しゅうおうちょう)は、日本の江戸幕府と同じ封建制を敷(し)く民主的な国家でした。民主主義は、昂(こう)じると、迎合(げいごう)主義が蔓延(はびこ)り、至...論語八佾(03-02)「三家者、雍を以て徹す」

  • 論語八佾(03-01)「孰れをか忍ぶべからざらん」

    論語八佾(03-01)「孰れをか忍ぶべからざらん」孔子謂季氏、八佾舞於庭、是可忍也、孰不可忍也。孔子、季氏を謂(のたま)わく、八佾(はちいつ)、庭(てい)に舞わす、是れをも忍(しの)ぶべくんば、孰(いず)れをか忍ぶべからざらん。孔子が季氏のことをこういわれた、「八列の舞をその廟(おたまや)の庭で舞わせている。その非礼までも[とがめずに]しんぼうできるなら、どんなことでも辛抱できよう[私には辛抱できない]」八佾の舞は、天子の舞楽(ぶがく)です。諸侯は六佾以下の定め、孔子は李氏の越権を諌(いさ)められたのです。越権は、軈(やが)て謀反に繋がり、国難となります。一地方の代表が、290万の支持が有ったと有頂天になり、国家をリセットして、様々な仕来りを廃止して、新しい世を創るとは、悍(おぞま)しい越権です。お隣の国ではロ...論語八佾(03-01)「孰れをか忍ぶべからざらん」

  • 論語為政(02-24)「義を見て為ざるは勇なきなり」

    論語為政(02-24)「義を見て為ざるは勇なきなり」子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不爲、無勇也。子曰(しのたま)わく、其の鬼(き)に非(あら)ずしてこれを祭るは、諂(へつら)いなり。義(ぎ)を見て為(せ)ざるは勇(ゆう)なきなり。先生がいわれた、「わが家の精霊(しょうりょう)でもないのに祭るのは、へつらいである。[本来、祭るべきものではないのだから。]行うべきことを前にしながら行わないのは憶病(おくびょう)ものである。[ためらって決心がつかないのだから。]」為政の最終章は、簡単な様でも難解(なんかい)です。政治家を望むなら、小人(しょうじん)が超(こ)えなければ為らない関門(かんもん)です。政治家の言動を見ていれば、自分が絶対だと錯覚(さっかく)している似非君子(えせくんし)が数々(かずかず)いるのに驚きます。...論語為政(02-24)「義を見て為ざるは勇なきなり」

  • 論語為政(02-23)「百世と雖も知るべきなり」

    論語為政(02-23)「百世と雖も知るべきなり」子張問、十世可知也、子曰、殷因於夏禮、所損益可知也、周因於殷禮、所損益可知也、其或繼周者、雖百世亦可知也。子張(しちょう)問う、十世(じゅっせい)知るべきや。子の曰わく、殷(いん)は夏(か)の礼に因(よ)る、損益する所知るべきなり。周は殷の礼に因る、損益する所知るべきなり。其れ或は周(しゅう)を継ぐ者は、百世と雖(いえど)も知るべきなり。子張(しちょう)が「十代さきの王朝のことが分かりましょうか」とおたずねした。先生はいわれた、「殷(いん)では[その前の王朝]夏(か)の諸制度を受け継いでいて、廃止したり加えたりしたあとがよく分かる。周(しゅう)でも殷の諸制度を受け継いでいて、廃止したり加えたりしたあとがよく分かる。[だから]もし周のあとを継ぐものがあれば、たとえ百...論語為政(02-23)「百世と雖も知るべきなり」

  • 論語為政(02-22)「信なくんば、其の可なることを知らざるなり」

    論語為政(02-22)「信なくんば、其の可なることを知らざるなり」子曰、人而無信、不知其可也、大車無?、小車無軏、其何以行之哉。子の曰(のたま)わく、人にして信なくんば、其の可(か)なることを知らざるなり。大車?(げい)無く、小車軏(げつ)無くんば、其れ何を以てか之を行(や)らんや。先生がいわれた、「人として信義がなければ、うまくやっていけるはずがない。牛車に轅(ながえ)のはしの横木がなく、四頭だての馬車に轅(ながえ)のはしの軛(くびき)止めがないのでは[牛馬を繋ぐこともできない]一体どうやって動かせようか。」論語は「五常(ごじょう)」の細則です。五常は「仁・義・礼・智・信」の五文字の常なる心得です。人は二人で「仁(じん)」になります。仁は仁義(じんぎ)です。仁義は、仁の義なる行いなのです。「義(ぎ)」は義理で...論語為政(02-22)「信なくんば、其の可なることを知らざるなり」

  • 論語為政(02-21)「孝なるかな惟れ孝、兄弟に友に」

    論語為政(02-21)「孝なるかな惟れ孝、兄弟に友に」或謂孔子曰、子奚不爲政、子曰、書云、孝于惟孝、友于兄弟、施於有政、是亦爲政也、奚其爲爲政。或るひと孔子に謂(い)いて曰(い)わく、子奚(なん)ぞ政を為さざる。子の曰(のたま)わく、書に云う、孝なるかな惟(こ)れ孝、兄弟に友(ゆう)に、有政(ゆうせい)に施(ほどこ)すと。是れ亦(ま)た政を為すなり。奚(なん)ぞ其れ政を為すことを為さん。或る人が孔子に向かって「先生はどうして政治をなさらないのですか」といった。先生はいわれた、「書経には『孝行よ、ああ孝行よ。そして兄弟ともむつみあう。』とある。政治ということにおよぼすなら、それもやはり政治をしているのだ。何もわざわざ政治をすることもなかろう。」論語為政は、政治の是非を類例で説明しています。論語は自然科学のロジック...論語為政(02-21)「孝なるかな惟れ孝、兄弟に友に」

  • 論語為政(02-20)「善を挙げて不能を教うれば則ち勧む」

    論語為政(02-20)「善を挙げて不能を教うれば則ち勧む」季康子問、使民敬忠以勸、如之何、子曰、臨之以莊則敬、孝慈則忠、擧善而教不能則勸。季康子問う、民をして敬忠(けいちゅう)にして以て勧(すす)ましむるには、これを如何(いかん)。子の曰(のたま)わく、これに臨(のぞ)むに荘(そう)を以てすれば則ち敬す、孝慈(こうじ)なれば則ち忠あり、善を挙げて不能(ふのう)を教うれば則ち勧(すす)む。季康子が「人民が敬虔(けいけん)忠実になって仕事に励(はげ)むようにするには、どうしたものでしょう。」と尋ねたので、先生はいわれた、「荘重(そうちょう)な態度で臨んでいけば[人民は]敬虔になります。親に孝行、下々(しもじも)に慈愛(じあい)深くしていけば[人民は]忠実になります。善を引き立てて才能のない者を教えていけば[人民は]...論語為政(02-20)「善を挙げて不能を教うれば則ち勧む」

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