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2009/04/07

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  • 都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その5。旧中川流路跡(江戸川区・葛飾区)。平井住宅・木根川薬師。(「中川」を遡る。第1回目。)

    江戸川区平井地区側(左岸)を探ってみます。左に旧中川の流れ。この右手が水路の最終地点?この先は、工場等が建っている旧流路際になります。その先に「公務員平井住宅」。微妙なカーブが流路跡を示しているようです。旧中川方向。左手のマンションの堅牢で高い壁。ここが流路跡?正面が荒川方向。流路跡のカーブ、広さを彷彿とさせる。住宅脇の道路。土手だったところ?荒川の土手から。対岸「中川」を望む。旧流路は「荒川」を蛇行しながら上流へ向かった。首都高環状線・葛飾ハープ橋。右に隣接するマンション。そこは、中川旧流路際の土地に。これで、旧中川歩きは終了。荒川に架かる「木根川橋」を渡り、荒川対岸へ。現中川へ。中川は、かつては「中川放水路」という名称でした。けっこう遠回りしての歩き。※下流の下流の平井大橋を渡った方が早かったかも知れません...都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その5。旧中川流路跡(江戸川区・葛飾区)。平井住宅・木根川薬師。(「中川」を遡る。第1回目。)

  • 都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その4。水辺公園。平井の渡し。木下川排水機場。流路跡。(「中川」を遡る。第1回目。)

    北十間川との分岐点付近は、ビオトープ風になっています。この付近は、「墨田区立旧中川水辺公園」。下流を望む。対岸は江戸川区の水辺公園。ベンチで小休止。上流を望む。「平井橋」が上流に。案内図。「平井の渡し」は、現在の平井橋のすぐ南の位置にあったようです。かつての「行徳道」は東方・四股から直線で都立小松川高校の北側の道を北西に進み、平井の集落に入ってからはちょっと入り組みますが、「平井の渡し」を過ぎると、南西にほぼ一直線。途中、左に折れて北十間川の橋を越えて西に向かいます。現在の浅草通りに重なる部分もあるようです。江戸川区側に「平井の渡し」跡の「説明板」。(以前撮影のもの)。1880年代のようす。2010年代のようす。水道橋が2つ。隅田清掃工場の煙突。手前が「中平井橋」。振り返る。「ゆりのき橋」下の艇庫。「木下川排水...都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その4。水辺公園。平井の渡し。木下川排水機場。流路跡。(「中川」を遡る。第1回目。)

  • 向島百花園。その2。初夏の雰囲気。梅の実もしっかり。白加賀・紅千鳥・花香美・・・。そして、ヤマアジサイ。エンビセンノウ。・・・

    百花園は、何といっても梅の名所。今年もコロナのために休園。そして、今。緑鮮やか。少し色づいているものも。鉢植えの「ヤマアジサイ」がいくつも置かれています。これからはアジサイに菖蒲に、と。職人さん達が丹誠込めて育てている鉢植えのアジサイ。地植えのものも。えんびせんのう(燕尾仙扇)。燕がやってくる時期にふさわしいネーミング。ただし、エンビセンノウ(燕尾仙翁)は、北海道(日高)、本州(長野県、埼玉県)にまれに見ることが出来る、ナデシコ科センノウ属の多年草です。古典植物として栽培されているマツモトセンノウと同じ仲間ですが、エンビセンノウは原種のために同じようにそだてても、うまく育たないことがあります。寒冷地であれば別ですが、関東地方の住宅地で育てるには湿度や夏の高温多湿に対して工夫する必要があります。(「山野草を育てる...向島百花園。その2。初夏の雰囲気。梅の実もしっかり。白加賀・紅千鳥・花香美・・・。そして、ヤマアジサイ。エンビセンノウ。・・・

  • 向島百花園。その1。マコモ。タカノハススキ。ダンゴ菊。トケイソウ。ヒツジグサ。カザグルマ。カルミヤ。ユズリハ。・・・

    マコモ。スカイツリー。一ヶ月ぶりの百花園。ますます緑が濃くなり、いろいろな草花が咲いています。タカノハススキ。鷹の羽模様の斑入りのススキ。その奥に、ダンゴ菊。ホタルブクロ。園内にはドクダミが密集して咲いています。トケイソウ。中央に見える花。3つに分裂しためしべが時計の長針、短針、秒針のように見え、花びらが円形に並んで放射状に配置されて文字盤に見立てられる、特徴のある花を咲かせることに由来。英名「passionflower」は「キリスト受難の花」の意味。※「パッションフルーツ」とは別。蔓性で、けっこう上へ上と家の壁などに伝わって伸びていくようです。ヒツジグサ。カザグルマ。「ヒマワリ」等と船橋市の「市の花」の指定を受けている。※船橋市に自生している貴重種であり、市のシンボルとして、大切に保護し、保存していくべき花で...向島百花園。その1。マコモ。タカノハススキ。ダンゴ菊。トケイソウ。ヒツジグサ。カザグルマ。カルミヤ。ユズリハ。・・・

  • 都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その3。亀小橋・城東電車。トロリーバス。河津桜・シャクナゲ。北十間川。(「中川」を遡る。第1回目。)

    「亀小橋」。大正から昭和の初め、江東区・江戸川区には城東電気軌道という会社がありました。路面電車(後の市電、都電に)。錦糸町-水神森-洲崎、錦糸町-西荒川、荒川を挟み、東荒川-今井の3路線を運行。錦糸町駅前には、錦糸堀車庫がありました(現在の丸井のところ)。東荒川-今井間は、1952(昭和27)年に廃止され、トロリーバス(今井-上野公園)となりましたが、1968(昭和43)年に廃止。※1「トロリーバス」道路上空に張られた架線から取った電気を動力として走るバス。「トロリー」とは集電装置のこと。外観も操縦法も普通のバスに近い。日本語では無軌条電車(むきじょうでんしゃ)と訳される。現在、トロリーバスは唯一、黒部ダムアルペンルートの扇沢駅と黒部ダム駅を結ぶバスとしてあったが、2018年に運行を終了、現在は、電気バスにな...都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その3。亀小橋・城東電車。トロリーバス。河津桜・シャクナゲ。北十間川。(「中川」を遡る。第1回目。)

  • 都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その2。中川船番所資料館。川の駅。カヌー。逆井の渡し跡。(「中川」を遡る。第1回目。)

    「中川大橋」。ずいぶん澄んだ水面になっています。魚の姿もチラホラ。「中川船番所資料館」。「旧中川・川の駅」。「中川番所」から「旧中川・川の駅」へ江戸最初の運河・小名木川が開かれました天正18年(1590)江戸の城下町を作ることになった徳川家康は、江戸への物資の輸送路として、小名木川を開きました。江戸に通じる最初の運河です。下総国行徳産の塩を江戸へ運ぶために開いたとされていますが、以後、米・醤油・野菜など多くの物資がここを往復しました。沿岸はしだいに町場となって、現在の江東区の原型が作られていきました。1661年(寛文元年)中川番所ができました利根川をはじめ関東各地の河川が整備され、「奥川筋)(江戸の奥)と呼ばれる水体系となりました。関東一円の「奥川筋」と江戸の運河がつながったことから、人やモノの動きをおさえるた...都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その2。中川船番所資料館。川の駅。カヌー。逆井の渡し跡。(「中川」を遡る。第1回目。)

  • 都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その1。荒川ロックゲート。「旧中川」荒川との合流点。小名木川。(「中川」を遡る。第1回目。)

    都営地下鉄新宿線「東大島駅」。駅の下を旧中川が流れています。今回から新シリーズ。都内東部に流れる「荒川」、「江戸川」と歩いたので、身近な川の「中川」を歩いてみようか、と。現在の中川は、かつては名称を「中川放水路」として、荒川(かつては「荒川放水路」)に併行して綾瀬川と合流し、東京湾まで流れています。「荒川」が開削される前は、そのまま東京湾に注いでいました。荒川によって寸断された流れは、「旧中川」として荒川の西側に残っています。といっても今の旧中川は上流(「木根川排水機場」)も下流(「荒川ロックゲート」)も閉鎖され、上流(荒川)から下流(荒川)へと流れているわけではありません。しかし、かつての流れのまま、江戸川区と江東区、墨田区との区界になっています。さらに中川の上流は、埼玉県・吉川で、「古利根川」と分岐した上流...都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その1。荒川ロックゲート。「旧中川」荒川との合流点。小名木川。(「中川」を遡る。第1回目。)

  • JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その4。新幹線。宇都宮貨物ターミナル駅。日光道中(本街道)との追分地点。鞘堂・(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

    新幹線の高架線に近づいてきます。どういうわけか、自販機の側に立っています。田植えの作業中。トウモロコシ畑。麦畑。宇都宮貨物ターミナル駅。貨物引込み線の踏切。「シーボン化粧品」の工場の先で、新幹線・在来線の線路をくぐります。くぐり抜けた先。道路の向こうに旧道があった?いったん「国道4号線(日光街道)」に出ます。「鞘堂」バス停の手前を右折すると、旧道に出会います。線路からの旧道。「日光街道」合流点に向かう道。大きなパチンコ・スロット店の裏手を進みます。大木。昔から街道沿いにあったものでしょうか?その先が「日光東往還」のゴール。高架橋は「北関東自動車道」。「日光道中(日光街道)」を歩いたときの記録(2016/6)を再掲。・・・右手に「鞘堂地蔵尊」。「星宮神社」。(13:28)しばらく進むと、頭上遙か高くを通る「北関東...JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その4。新幹線。宇都宮貨物ターミナル駅。日光道中(本街道)との追分地点。鞘堂・(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

  • JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その3。長屋門・大谷石の蔵。多功宿。道標。オオバランドセル。←石橋駅東口。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

    しばらく田園風景が広がる。左手に、「下野市シルバー人材センター」。水田。大谷石造りの蔵。上三川町多功に入っていきます。右手の家の壁に。静かな街並み。田んぼに映る大きな屋敷。右手に大きな長屋門。すぐ左手にも。「下多功」交差点。左手に東北新幹線の橋脚。くの字に曲がると、上多功(旧多功宿)になります。それらしい史跡は見当たりません。立派な門構えのおうち。交差点を渡った右の角に台座からはずれたた道標。「南薬師寺・仁良川」「西石橋・壬生」「東上三川・大沼」「北茂原・雀宮」と刻まれている。この付近の今昔。1880年代のようす。街道沿いに集落。2010年代のようす。○が道標のある十字路。来た道を振り返る。信号を右折したところに「宿多功」バス停。この先、道が広くなる。「←石橋駅東口」。大峽製鞄宇都宮工場。御用達職人が創る6年間...JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その3。長屋門・大谷石の蔵。多功宿。道標。オオバランドセル。←石橋駅東口。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

  • JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その2。下野薬師寺跡。復元された回廊。鑑真大和上宝塔。瓊花(けいか)。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

    「国指定史跡日本三戒壇下野薬師寺」下野薬師寺は天武天皇白鳳8(680)年に皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈念して建立されました。天平宝字5(762)年に戒壇院が置かれると、奈良東大寺、筑紫観世音寺とともに日本三戒壇といわれ、坂東10か国の僧侶となる人は下野薬師寺で修業を積み受戒しなければならない定めになっていました。暦応2(1339)年、足利尊氏は国ごとに安国寺を建てましたが、下野国では新たに寺院を設けることなく下野薬師寺を安国寺に改称しました。元亀元(1570)年、小田原の北条氏政・氏直父子が下野国に出陣し、下妻の多賀谷氏を攻めましたが、結城の援軍に破られ安国寺に退却しました。この時の兵火により七堂伽藍をはじめ、すべての堂宇が焼失しました。平成29(2017)年より「本堂」・「庫裏」それに「本尊・諸仏菩薩」...JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その2。下野薬師寺跡。復元された回廊。鑑真大和上宝塔。瓊花(けいか)。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

  • JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その1。旧道。龍興寺・道鏡塚。下野薬師寺跡。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

    旧道を振り返る。国道4号線バイパス建設で寸断された道。JR「自治医大駅」から前回の到達点(「薬師寺南」交差点)までやってきます。今回は、ここからスタート。いよいよ今回でゴール。昨今、夏日が続く東京地方。出かけた日から掲載がたまって、季節感が合わなくなってきました。集落内の細道を進み、突き当たりを右折して県道に合流します。この先は、県道沿いに進むことに。この付近の今昔。1880年代のようす。○が鈎型。2010年代のようす。旧道が残されている。旧国分寺町のマンホール。・南河内町、国分寺町で運営されていた「自治医大周辺下水道組合」の汚水管マンホール蓋。デザインは、かつて下水道組合を構成していた南河内町と国分寺町の町花が共に「菊」であったことから、その菊を幾何学模様でデザインしたもの。広い敷地の家や石造りの蔵など。右手...JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その1。旧道。龍興寺・道鏡塚。下野薬師寺跡。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

  • JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その4。新興住宅地。筑波山を一望。カキツバタ。南河内町・米どころ。「自治医大駅」。(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

    道路も広く整備され、新しい住宅が建設されています。もともとは大きな敷地を持ったお宅が多かったのでしょうか?高台にある住宅地の東側の眼下には、広大な田園風景。遠く筑波山が一望出来る絶好の場所。今まで歩いてきた中では、最高のロケーション。眼下に広がる田畑。造成が進む。新しい街造りが展開されているようです。カキツバタ。道に沿って植えられています。アヤメかも?かきつばた(杜若)は古来より日本にある植物で、江戸時代前半から観賞用に多くの品種が改良された古典園芸植物です。かきつばた(杜若)の開花時期は夏の気配がしてくる初夏、5月~6月頃に、浅い水辺から50cm~70cmの丈を伸ばし深みのある鮮やかな青色の花を咲かせます。かきつばた(杜若)は日本最古の和歌集である万葉集や900年代の書物、伊勢物語にも和歌で詠われ、その魅力は...JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その4。新興住宅地。筑波山を一望。カキツバタ。南河内町・米どころ。「自治医大駅」。(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

  • JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その3。麦畑。野村牧場。仁良川(にらがわ)(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

    北飯田の交差点。田園風景が広がる。田植えが始まっています。葱坊主。下野市に入ります。田畑が広がります。来た道を振り返る。「ここは絹板」。右手に集落があります。見渡す限り、麦畑。これだけ広大な麦畑を見たのは初めてです。植え付けを待つ畑。筑波山。「別処山公園→」。前方後円墳の「別処山古墳」があるようです。右手には集落。「記念碑植樹50周年」。「はなだむら桜の園花田村の先人達に捧げる」「野村牧場直営」。私たちについて野村牧場は1978年に創業、2014年に法人化したF1牛専門の畜産牧場です。2016年に六次産業認定を、2019年には農場HACCPを取得しました。衛生的な環境の中、約1,000頭の牛を育てています。また、当牧場は生後1ヶ月の子牛から育てています。現社長が確立した『牛に優しい飼育方法』はそれまでの牛の味を...JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その3。麦畑。野村牧場。仁良川(にらがわ)(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

  • JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その2。追分道標。真盛堂。小山市に。工業団地。(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

    曲尺手(鈎型)。ここを右に折れる道が「日光東往還」(旧道)。少し戻ります。毘沙門堂前に建てられた追分道標石燈籠2基。左の燈籠には「向水戸海道」、右には「右小山左さかい」と彫られている。※結城市は、北側・西側を栃木県との県境に囲まれ、茨城県の他市町村とは鬼怒川によって隔てられているため、文化(方言等)・経済・交通面で栃木県との関わりが深い。特に隣接する小山市とは小山都市圏に属する密接な関わりがある。南北の交通網が茨城県の他市町村と明らかに異なる古河市ほどではないが、県南(つくば市など)・県北(日立市など)・鹿行地域(鹿嶋市など)との繋がりは希薄となっている。「木町」交差点。曲尺手(鈎型)になっている。木町の由来はここに木戸があったことから。※なお、国の登録有形文化財だった酒蔵などが火災によって焼失した「結城酒造」...JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その2。追分道標。真盛堂。小山市に。工業団地。(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

  • JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その1。蕪村句碑。数多くの見世蔵。「結城酒蔵」が火災。(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

    結城駅北口。5月3日(祝)。晴れ。今回は、「薬師寺南」交差点まで。そこから自治医大駅まで向かうことに。案内板。結城市マンホール。市の花ユリをデザインしたカラー版駅前にある与謝蕪村句碑。秋のくれ仏に化る狸かなきつね火や五助新田の麦の雨猿どのの夜寒訪ゆく兎かな解説板。駅前の散策に。右手に「蛸屋總本店」創業は元禄11年(1698年)。この先も見世蔵など古い建物が多く存在します。磯田邸。築島邸。「つむぎみそ」という暖簾が。茨城県西域の平坦な関東平野にある結城(ゆうき)市。古代より穀(梶、かじ)の木・楮(こうぞ)が生育し、“ふさ(麻)”・“ゆう(木綿)”の産地として“総(ふさ)の国のゆうき”と称され、かつて下総国最北端の結城郡でした。鎌倉期に結城氏の城下町となり、江戸初期からは水野氏の結城藩(一部は初期の天領・下総山川藩...JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その1。蕪村句碑。数多くの見世蔵。「結城酒蔵」が火災。(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

  • 茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その4。堂々たる長屋門。吉田用水。そして、沖縄本土復帰50周年。(「日光東街道」を歩く。第5回目。)

    先に進みます。大きなお屋敷が目立つ。堂々たる長屋門。「五三の桐」の紋が。広い敷地のおうち。「作ノ谷」交差点。ここにも大きな釜。交差点先の右手に武者窓付きの大きな長屋門。畑の向こうに筑波山。遠く左には上州の山々。結城の市街地に近づきます。「吉田用水」が右手から近づいてきます。吉田用水享保元年(1716年)徳川吉宗が将軍となり、政治立て直しのための改革が開始され享保7年には改革が本格化した。こうしたなかで、新田開発の奨励策と治水が打ち出され、3千町歩に及ぶ飯沼新田(現茨城県坂東市)が開発された。その新田のために新たな用水を開削することになったのが、吉田用水である。しかし、用水の取水口にあたる農村(絹板村、花田村、延島村、延島新田村)に大きな負担を残した。用水を維持管理するよう幕府から命ぜられ、増水のたびに堰が壊れる...茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その4。堂々たる長屋門。吉田用水。そして、沖縄本土復帰50周年。(「日光東街道」を歩く。第5回目。)

  • 茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その3。武井宿。長屋門。戊辰戦争。官軍兵士の墓。(「日光東街道」を歩く。第5回目。)

    カーブ(曲尺手跡)がかつての「武井宿」への入口?この付近の今昔。1880年代のようす。道筋は変わらない。2010年代のようす。今も昔も畑作地帯が広がる。遠くに筑波山。戊辰戦争での官軍戦死者のお墓。1868年(明治元年)4月16日、江川地内で新政府軍(結城藩・館林・須坂隊)と旧幕府軍の戦いがあり、戦死した官軍(明治新政府軍・館林藩)兵士の墓。1年5カ月にわたる内乱、戊辰戦争慶応4年=明治元(1868)年の干支である「戊辰」に因んで名づけられた一連の戦いは、瓦解した旧江戸幕府(徳川政権)を依然支持する旧幕府軍と、それを鎮撫する明治新政府軍が激戦を繰り広げた内乱です。戦争の発端となった鳥羽伏見の戦い、江戸上野寛永寺山内での彰義隊の戦い(上野戦争)、白虎隊の悲劇を生んだ会津藩の戦い(会津戦争)、会津藩救済を目指した奥羽...茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その3。武井宿。長屋門。戊辰戦争。官軍兵士の墓。(「日光東街道」を歩く。第5回目。)

  • 茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その2。七五三場(しめば)。再び鎌倉街道。しもうさ。大戦防。(「日光東街道」を歩く。第6回目。)

    七五三場(しめば)地区に入る。難読地名紀行結城市七五三場由来はしめ縄か当て字か2016/3/2807:07結城市の中心街から南へ車で約20分。古河市との市境付近は、「七五三場」と書いて「しめば」と読む。結城市の大字だ。漢字表記が読み仮名の字数を上回るこの珍しい地名には、どのような由来があるのだろうか。結城市生涯学習課に問い合わせたところ、「何か言い伝えがあると聞いたことがある。住民なら知っているかもしれない」とのこと。早速、県道沿いに住宅が並ぶ七五三場の集落を訪ねた。公民館に足を運ぶと、近くに住む川面七郎さん(81)に出会った。川面さんは「昔、お年寄りから、茂呂神社のしめ縄を張っていたから七五三場になったと聞いたことがある」と教えてくれた。神社などで用いるしめ縄にはさまざまな種類があり、その一つに、結った縄から...茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その2。七五三場(しめば)。再び鎌倉街道。しもうさ。大戦防。(「日光東街道」を歩く。第6回目。)

  • 茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その1。諸川宿。本陣・脇本陣。薬医門。鎌倉街道。(「日光東街道」を歩く。第6回目。)x

    JR宇都宮線「古河駅」から茨城急行バスで「諸川」まで。今回はJR水戸線「結城駅」まで。「諸川」交差点。「諸川宿」には、古い家並みが残っています。染谷商店。重厚な見世倉。「下総国諸川米穀肥料創業大正七年染谷喜重商店」とあります。さらに、正面のところに「絵手紙絵画英会話教室留学相談無料」とも。奥に、本陣中村家の長屋門。重厚な蔵造り。諸川宿(もろかわしゅく、もろかわじゅく)江戸時代の日光東街道(関宿通多功道)における下総国の宿場。現在は茨城県古河市諸川に相当する。日光東街道の起点となる日光街道との追分から数えて7番目の宿場である。江戸時代以前の諸川は「茂呂河」とも呼ばれ、結城氏庶流の豪族・山川氏の所領であったと考えられている。慶長5年(1600年)、徳川家康の会津出兵では、山内一豊が諸川に宿陣しており(『山内家史料一...茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その1。諸川宿。本陣・脇本陣。薬医門。鎌倉街道。(「日光東街道」を歩く。第6回目。)x

  • 朝日バス「境車庫」~茨急バス「諸川」。その2。長屋門・ひいらぎ幼稚園。仁連(にれ)宿。鈴木本陣跡。(「日光東往還」を歩く。第4回目。)

    よく整った庭のおうち。遠くに筑波山(↓)。東京から見る筑波山の双耳峰のかたちが少し違うようです。散水中?畑が広がります。筑波山を遠く眺めながらの歩き。左手に大きな長屋門。「ひいらぎ幼稚園・保育園」とあります。門内のようす。山田十字路。県道68号と交差。ここを通る古河駅行きのバス(「JRバス」)があります。左手に長屋門。右手には大きな屋敷。左手に大きな古民家。「宿」という信号名。筑波山(↓)。街道の途中にあった「肴屋旅館」。大きく右に折れて「仁連宿」に入っていきます。「油屋不動産」。「(有)油屋」。肥料・農薬・農産物集荷。街道「仁連宿内」。振り返る。「糀屋」という看板が。鈴木本陣跡。仁連宿はもともと、日光東街道における本陣。代々引き継がれてきた古民家に、7年前に東京から移住したのが鈴木達郎さん・解さん夫妻です。現...朝日バス「境車庫」~茨急バス「諸川」。その2。長屋門・ひいらぎ幼稚園。仁連(にれ)宿。鈴木本陣跡。(「日光東往還」を歩く。第4回目。)

  • 朝日バス「境車庫」~茨急バス「諸川」。その1。谷貝宿。初見姓。(「日光東往還」を歩く。第4回目。)

    往復、バスでのアプローチ。東武線「東武動物公園駅」から「朝日バス」で前回の「境車庫」まで。そこから歩き始めました。JR「結城駅」まではけっこうありそうなので、半分くらいでやめ、「諸川」から「茨城急行バス」でJR「古河駅」まで。ここまで利用した交通機関。JR・東武・京成の電車。路線は、京成本線・東武伊勢崎線(スカイツリーライン)・東武野田線(アーバンパークライン)・JR宇都宮線。朝日自動車・茨城急行のバス。下車・乗り換えの駅は、「関屋」、「牛田」、「久喜」、「栗橋」、「春日部」、「曳舟」、「南柏」、「梅郷」、「川間」、「東武動物公園」、「古河」(順不同)。バス停は「法珠花上町」、「境車庫」、「諸川」(順不同)。この先もどうなることやら。「圏央道」。門から母屋まで遠い。「県道17号線」に合流。大型車の行き来が激しい...朝日バス「境車庫」~茨急バス「諸川」。その1。谷貝宿。初見姓。(「日光東往還」を歩く。第4回目。)

  • 朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その4。常夜燈。境町。自動運転バス。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

    リバーサイド修景事業で整備された茨城百景記念公園と常夜灯。境河岸は、かつて江戸中期より明治にかけて、主に江戸と東北を結んだ利根川水運において大きな役割を果してきました。その境河岸の主役的存在であったのが高瀬舟です。高瀬舟は、かつて利根川、江戸川と共に「河岸の街”さかい”」の繁栄を担ってきました。当時を偲び高瀬舟(さかい丸)を、観光船として現代風に復元しました。※現在、運航していません。(「境町HPより)「茨城県稲敷郡境町」。今回のように街道歩きをして初めて知ったところです。境町はどこに?橋を渡って信号を左折します。電柱に利根川が氾濫したときの水没の高さが赤い線で示されています。見上げるほど高さで、7.1㍍と標示されています。2階屋根の高さ。対岸の埼玉県でも見かけたことがあります。正面、突き当たりを左に曲がれば利...朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その4。常夜燈。境町。自動運転バス。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

  • 朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その3。鈴木貫太郎記念館。利根川土手へ。関宿城博物館。境大橋。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

    昭和20年(1945)終戦時の内閣総理大臣だった「鈴木貫太郎記念館」。当面休館中。「鈴木貫太郎翁終焉之地」碑(吉田茂謹書)。内閣総理大臣として日本を終戦に導いた鈴木貫太郎翁が、幼少期と最晩年を過ごした地でもある旧千葉県東葛飾郡関宿町に開館した記念館です。記念館は貫太郎翁の旧宅があった場所の隣にあたり、軍服や日常生活品などの遺品や肖像など500点以上を所蔵するほか、昭和天皇の「御聖断」を仰ぎ、ポツダム宣言の受託を決めた御前会議を描いた油絵「最後の御前会議」(白川一郎画)が展示されています。また、敷地内には、「永遠の平和を築く」ことを願い、戦後貫太郎翁が好んで書いた「為萬世開太平」と記された白く大きな塔が静かに立っています。(「野田市」HPより)「博物館入口」信号から左斜めに真っ直ぐ進みます。正面に利根川の土手。右...朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その3。鈴木貫太郎記念館。利根川土手へ。関宿城博物館。境大橋。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

  • 朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その2。関宿城埋門。関宿台町。関宿関所跡。関宿江戸町。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

    関宿城埋門(うずめもん)。解説板。この埋門は、もとは関宿城三の丸に設置されていたものです。平時は本丸までの通用門として使用されていましたが、簡素な造りのため籠城戦の際には、内側を三分の二の高さまで土で埋めて、敵の侵攻を防ぐという役割を担っていました。明治維新後、廃城に伴い民間に払い下げられ、現在の場所へ移築されました。門の鬼瓦には江戸時代中期から明治維新まで関宿藩主を務めた久世氏の家紋(久世鷹の羽)があしらわれ、城門であったことを現在に伝えています。千葉県内において現存する数少ない城の建築物の一棟です。↓の部分に久世家の家紋が。正面。奥のおうち。県道に合流する手前右手に「路分け六地蔵」があり、脇の二十三夜塔が道標になっているようです。解説板。・・・六地蔵の側に「天保八年九月吉日」(1837年)と年号が刻まれてい...朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その2。関宿城埋門。関宿台町。関宿関所跡。関宿江戸町。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

  • 朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その1。法珠花。旧道の復活。松並木。流山街道。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

    今回は、野田市関宿から利根川を越えて茨城県境町まで。東武野田線「川間駅」から朝日バスで前回のバス停へ。「関宿」は「利根川」、「江戸川」歩きで立ち寄ったところです。「日光東往還」道は、「関宿台町」まで「流山街道」とほぼ重なるように進みます。前方は「法珠花橋」。ところで、「法珠花」とは?江戸時代以来、江戸川では帆掛舟が往来し舟運が発展。部の宿舎が建っている西宝珠花は、荷物の揚げ下ろし・船宿・呉服問屋などで栄えました。江戸から川をのぼってやって来た舟頭たちはここで休憩を取りがてら船の帆を干したのでしょう。帆を干す場という呼び名がいつしか転訛し、ほうしゅばな、宝珠花という地名になったという説があります。参考:『宝珠花今昔』庄和高校歴史地理部/『地名を歩く36』讀賣新聞2007年5月12日(土曜日)朝刊さて、地名の由来は...朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その1。法珠花。旧道の復活。松並木。流山街道。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

  • 東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その4。喜八堂。新宿(あらじゅく)。いちいのホール。江戸川土手。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

    喜八堂。店先では若い職人さんが一生懸命煎餅を焼いています。いい香りが漂ってきます。昭和2年(1927年)に東京神田創業以来、喜八堂(きはちどう)は、米の選定から生地作り、そして焼き上げと一貫したせんべい専門店です。生地屋は煎餅の生地までを作り焼屋にそれを卸し、焼屋は生地屋の作った生地を焼き上げます。喜八堂では全てを、米の選定から焼き上げまで、ひとつひとつの素材を吟味し、ひとつひとつの仕事に責任を持ち、選びぬかれた最高の素材たちを職人が手間ひまかけて仕上げます。そこには誰のせいにも出来ないという責任と、お客様へ最高の商品をお届けすると言う夢があるからです。喜八堂は創業以来、殆どの商品に保存料、着色料、添加物、化学調味料を使用しない理由があります。素材へのこだわり素材の味、自然の味を大切にします。その為には原材料自...東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その4。喜八堂。新宿(あらじゅく)。いちいのホール。江戸川土手。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

  • 東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その3。中里宿。LIXIL技術研究開発センター。旧道消失。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

    沿道の左右奥には、樹木が茂っています。派手な幟がいくつも。「カラオケもみじ」。けっこうはやっているようで、人の出入りも。道ばたにフジの花。直線の道もここまで。「船形」地区。「川間駅入口」交差点。この先から「中里宿」が始まっているようです。中里。しかし、「中里宿」を示すものが見当たりません。ふと右にあるお寿司屋さん「柳寿司」の、のれんを見ると、「中里宿」とありました!本陣だったおうち?立派なおうちが多い。モッコウバラ。「関宿」の地名が。「国道16号線」の高架下を進みます。「流山街道」が広く整備され、旧道は「LIXIL技術研究開発センター」で遮られてしまうので、その先を左折します。すぐ右折すると突き当たりの雑木林のところで左右に分岐しています。分岐点の雑木林の中に庚申塔。分け入るのが大変で、石塔の正面など詳細は確認...東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その3。中里宿。LIXIL技術研究開発センター。旧道消失。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

  • 東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その2。野馬土手。真っ直ぐな道。グリコピアCHIBA。流山街道。曽田香料。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

    「野馬土手および樹木・野草保護のため散策路をご利用ください」。散策路。野馬土手。解説板。野田市の北部と南部は、江戸時代の初期に庄内牧(しょうないまき)とよばれる、野馬のほうぼくじょうとなっていました。庄内牧は徳川幕府により設置され、その目的は、幕府御用馬の生産や輸送、農耕用の馬として民間の需要にこたえるものでした。牧に隣接した村を「野付村」といい、村々の農民には野馬法度という規則が定められ、それには①牧の外に出た馬を安全に保護すること、②年一度の野馬捕りには人足を出すこと③風雨などで壊れた野馬土手を修復するなどの義務がおわされました。しかし、その反面、野馬を民間に払い下げる際に、付近の村びとは有利に入手できたようです。江戸時代中期になると、庄内牧はその全域が新田開発の対象地となり消滅しました。しかし、現在におい...東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その2。野馬土手。真っ直ぐな道。グリコピアCHIBA。流山街道。曽田香料。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

  • 東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その1。野馬込。花井堤根。小金(庄内)牧。中央の杜。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

    東武野田線「梅郷駅」で下車し、前回の地点まで。流山街道との分岐点から再開。東武線の踏切へ。踏切を渡り、道なりに進む。この付近までが「山崎宿」だったようです。1880年代のようす。2010年代のようす。宿場の出入り口に当たる屈折があり(→)、現在は踏切部分になっていますが、その様子が確認されます。ここから「野田市役所」先まで、直線道路になります。約3㎞続きます。小金牧(庄内牧)を直線で貫いているようです。歌川広重画『富士三十六景下総小金原』(1858年・安政5年)野田市まめバス「野馬込(のまごめ)」バス停。牧に放たれた野馬は8月から9月初旬に捕獲され、優秀な馬は幕府へ送られる。その野馬を捕獲する施設が「野馬込(のまごめ)」である。牧を管理していた役人である牧士(もくし)の指示のもと勢子(せこ)人足に追われた馬は、...東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その1。野馬込。花井堤根。小金(庄内)牧。中央の杜。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

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