「佐世保のガラス工場跡地。 今は造船所の駐車場です。」
「足とりの「師匠」は女子寮にいる独身の美人お姉さん」足とりは職人台の連帯窯寄りの場所に居て連帯窯でガラスを巻いて職人台に戻るという、その間を行き来する仕事です。僕が居る場所はそのお姉さんがガラスを巻いて職人に渡した後を引き受ける位置。つまり
足とり見習いの作業は歩いて回る運びの作業や座ったままの型押しとは違って、熱い連帯窯の傍の坩堝の前に立って、足とり職人が巻いたガラスを種棹から取り除いてドラム缶に廃棄する作業です。詳しく説明すると少しややしいのですが、コップ吹きが吹いた本
『親子以上の信頼関係』「細足職人」の製品を仕上げる早業は二十秒足らず。チーム全体がその速度にあわせて流れるように動きます。 足とりも同じリズムで同じ量のガラス種を巻き続けます。続↓「ガラスをはらったつもりの棹の先に・・」
『足とり見習いに出世』入社してあっという間に一緒に就職した仲間は僕と佐賀からきた現場の四人だけとなりました。他には絵付けに居る女子一人です。僕らがやらされる仕事は相変わらず運びに型押し。ようやく吹き棹の掃いができるようになってひと月後ぐらい
「夜逃げした先輩を偶然発見!」 就職の紹介を受けた内容と実際の会社内容の大きなづれ。命がけの作業。一緒に就職した仲間は日ごとに会社に対する不信感が募っていきました。それというのも学校で紹介された就職の条件が現実とあまりにも違っていたからな
連帯窯の管理と原料の溶解は、社宅住まいの四人のカマタキのオッサンが三交代の二十四時間体制で管理していました。現場へ上り下りする階段を降りて連帯窯の真下に行くと、窯の火口に機関銃の形をしたバーナーの一本が重油を噴霧して炉内には火柱
「絵付け場は女の職場」 工場で一番人気のある職場が、新築されて間もないビルの二階にある絵付け場でした。キツイ・汚い・キケンの三K産業の代表の現場と違い、絵付け場は働いている人の大半が女性。焼けた煉瓦の臭いと違って会社で唯一女の匂いのする、
ベンチの職人は吹き棹二本をベンチの上で前後に操り、一本の製品に足を取りつけもう一本の製品には台を作り上げていく。1チーム7〜8名で毎日八百本以上の製品を作り上げていましたからね。その各部所を担当する職人の技法というものはまさに神業であったと
九州の長崎県の半農半漁の片田舎からひよっこり出て来た田舎者。溶けたガラスでモノを作るということにも驚きましたが、ガラスを溶かす窯の上で働くという現実に驚きました。なにしろ真っ赤に燃え滾った穴に細い鉄の棒を入れるとその先に、熱くたぎった水飴
『ガラスの工程』 ガラス工場は熱くて危険。そしてその作業は製作工程が全て分業化されていた。Yラインという足付き台付きの一輪挿しを作るにしても、一本の吹き棹を使って数人がかりで作ります。続↓「まず「玉とり」と呼ばれる職人が・・・」
『全国共通・ガラス屋風景』 田舎の中学校。ポイ出の小僧にガラスの知識等は一切無し。ほかの会社のことは知りませんが、ガラス屋には研修やミーティングも一切なんにもありません。落としたガラスを掃除しようとしても「な
『運びの師匠は ケツカルオバハン』 夜汽車に揺られて顔はススだらけ。着いたところは煙突だらけの大阪の街。その街の片隅の一本の煙突の下で、僕のガラス屋人生は始まりました。ガラス製品は一台のベンチに職人・コップ吹き・玉とり・足とり・型押
『現場は火の玉が飛び回る アブナイ場所』 大都会に金稼ぎにやってきた僕たちですが、その事を知ってか知らずか、当時のガラス工場の生活事情はありとあらゆるものが極めて酷いものでした。このガラス屋で職場を選ぶ権利は僕たちには皆無
僕が何故ガラスだったかと言うと特にガラスに憧れたのでもない。強いていえば僕の家はどこにも負けない貧乏暮らし。下には育ち盛りの弟や幼い妹も居たことから早く働いて金を稼いで家族を楽にしてやろうという単純な考え方だった。続↓「親からは
ガラスのブログを開いてくれてありがとうございます。 思えば遠い昔の話です。僕は中学を卒業すると同時に学校の先生から大阪のガラス工場に送られました。いわゆる集団就職というやつです。 昔こさえたガラスは触れてみる
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