「…お前の『仕事』の後、よくメシ、食いに行ったよなぁ…」 「…行ったね」 「何年前だ?」 「……5年、くらい?……昔話だねぇ…」 イツキは佐野と目を合わせると、くすくすと笑う。 それはごく最近のことのようで、それでもやはり、昔の話で。 けれど忘れてしまうには、あまりに深く生々しい思い出だった。 「…佐野っち、…俺の面倒、良く見てくれたよね。…後…
「仕方がないだろう。そういうサービスを望む客がいる以上。 …今まで通りお前がやると言うなら話は別だが…」 「しないよ。別に、何がどうって言ってないでしょ?」 夕食にと訪れたモツ焼き屋。 レノンに仕事をさせる事に不満が無いと言うなら、その膨れっ面をどうにかしろと、 黒川は言いかけるのだが、とりあえず、止める。 鉄板の上の野菜をヘラで返し、ビ…
黒川はぎょっとした顔を見せ それから慌てて取り繕う……風にも見える。 「……一仕事させて、戻って来た所だ。相変わらず大騒ぎの奴でな…」 「…ふぅん?」 イツキはソファに着いていた手を、何か汚い物でも触ってしまったかのように、ヒラヒラと振る。 「……ああ。濡れているかも知れん。……水を引っくり返していたから……」 黒川の言葉はすべて言…
事務所には黒川が一人、デスクに向かい仕事をしていた。 「…イツキか。…早かったな、少し待っていろ」 まだ仕事が片付かないと、黒川は忙しい素振りを見せ イツキに、ソファに座って待てと、視線で指示をする。 イツキは黒川を見遣り、部屋をぐるりと見回し、ソファの前に立ち ……少し考えてから、ソファの、端っこに座る。 部屋も空気も、別にいつも…
ある夜。ちょっとした用事でイツキが事務所に立ち寄ると 階段に、うずくまるように座る人がいた。 顔は見えなかったが、線の細い、華奢な身体つき。 服の感じから、多分、男の子だと思われる。 眠っているのか、具合が悪いのか、 それとも、泣いているのか。 自分も昔、ここで、こうやって泣いていたと…イツキは思い出す。 事務所で黒川に乱暴され、堪えきれ…
「……マサヤはさ、俺の、何が好きなの?」 「………身体かな」 朝。と言っても昼に近い時間。 リビングで朝食がわりの甘いコーヒーを飲みながら イツキが急に尋ねて来た。 親子ほど歳の離れた、しかも、最初の頃は 奴隷か玩具か、という扱いを受けて来たのだ。 いつ、何かが変わったのかは、当然知りたいトコロ。 もっとも、真面目に素直に答えてくれるとは、…
「…マサヤが…」 「……うん?」 「あんな事、言うなんて思わなかった。…西崎さんに…」 夜。 二人の部屋。 ベッドの上で交わりながら、イツキがポツリと呟く。 「…西崎はお前を、…ただの商品だと思っているからな。 まあ、そうやって扱って来たのだから…仕方もないが…」 中を掻き回していた指をずるりと引き抜いて、黒川が言う。 イツキは小…
佐野が仕事を終えて自分のアパートに帰ったのは深夜2時。 今は付き合っている女性もいない。寂しい独り身だ。 組ではそこそこの地位になり、舎弟も抱えている。 見た目も悪くはない。若干、軽そうには見えるが、それは金髪頭のせいだろう。 金も、車もある。遊ぶ程度の女なら、まあなんとかなる。 「……あー、クソ。ラーメン、切らしてたか…」 台所で湯を…
「…西崎さんに、あんな風に言うなんて…思わなかった」 「…うん?」 西崎が帰った後、イツキがポツリと呟く。 黒川が自分を一応大事にしているらしい事は知っていたが こうはっきりと表に出されるのは、まだ、慣れない。 「…釘を刺しておいた方がいいだろう?…お前が、たまにはツマミ食いしたいと言うなら別だが」 「…したくは、無いよ。ぜんぜん」 「そう…
黒川の言葉に、西崎は少しぽかんとして息を止める。 イツキが黒川の所有物であることは知っている。 でも、今の言葉は何か、意味が違う。 とりあえず曖昧に 「…は、…はあ」 と返事をする。 「…解ったのか?西崎。もう、イツキに口も手も出すなと言ってるんだぜ?」 「はいっ、勿論。…若いモン達にも言っておきます…」 「若い連中より、お前が一番、…遊…
「西崎、あのな。確かにイツキは…問題を起こしてばかりだが…」 「本当ですよ。先方を怒らせてばかりじゃないですか」 「そうだな」 そう言って黒川は思い当たるフシがあるのか、小さく笑う。 先日の平塚もそれはそれは立腹していた。 ヤレると踏んだ直前にお預けを食らうのだ、当然だろう。 後始末に苦労したと、一ノ宮がぼやいていた。 「客とはヤらないく…
「…片田のジジイはモーロクして駄目だな。ハンコ一つに一時間掛かる」 黒川は愚痴をこぼしながら、持ち帰った封筒を西崎に手渡す。 西崎は少し驚いたままの顔でそれを受け取り、黒川とイツキの顔を交互に見やる。 部屋に入る前に、話しが聞こえただろうか。 まあ、あれだけ身体を密着させ詰め寄っていたのだ、聞こえずとも、大体の所は解るだろう。 イツキは、…
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「…お前の『仕事』の後、よくメシ、食いに行ったよなぁ…」 「…行ったね」 「何年前だ?」 「……5年、くらい?……昔話だねぇ…」 イツキは佐野と目を合わせると、くすくすと笑う。 それはごく最近のことのようで、それでもやはり、昔の話で。 けれど忘れてしまうには、あまりに深く生々しい思い出だった。 「…佐野っち、…俺の面倒、良く見てくれたよね。…後…
「……イツキ。本当にいいのか?」 「良いって言ってんじゃん。…佐野っち」 街の外れの昔からある古いホテルの前で、佐野はもう一度確認する。 酒を飲み過ぎた訳でも、特別に嫌な事があった訳でもなく、 普通にお互い同意の上で、この建物に入るというのは……実はなかなか新鮮で 佐野は、繋いだイツキの手をぎゅっと握り、植え込みの奥にある入り口へと向かった。 …
「……昨日ね。ユウ、くん?に会ったんだよ」 「………は?」 「…仕事の後。……ホテルで」 イツキが重い口を開いたのは翌日の朝。 キッチンでコーヒーを淹れるイツキに、黒川が近寄った時だった。 それでも。 昨日の夜は、することはしたのだ。 若干、機嫌の悪いイツキを黒川は抱き締め、寝室へと連れ込む。 イツキはどこかのタイミングで、その話をしよ…
その後。 イツキとレノンとユウはホテルを出て レノンはユウを送ると言って、タクシーに乗り込み それを見送って、イツキも別のタクシーに乗り自宅へと戻った。 何だか妙に疲れてしまったのは、身体、よりも心で 青ざめた顔で肩を振るわせていたユウの姿が、思い出したくもない過去の自分に重なった。 「……なんだ。遅かったな」 マンションの部屋に戻…
「…それにしたって、こんな仕事。レノンくん、まだ、…学生でしょ」 「もう17だよ。学校も行ってない。働くのは別にいいんだけどさ。 ……今日のは、佐野さんに言われて、たまたま来ただけだし…… でも、なんか、自分もされたことだし…妙に生々しくってさ… 色々、思い出しちゃって……テンパっちゃった。 …来てくれて助かったよ。ありがと…」 やっと安…
風呂場にいたのは、小柄な若い男の子だった。 以前、黒川と一緒にいた子に似ている気がした。 裸で、バスタブに寄りかかり、吐瀉物と排泄物にまみれ それでも嗚咽を繰り返し、満足に呼吸も出来ない状態だった。 何をされて、どうしてこんな事になったのかは 説明されなくても、イツキは知っていた。 なだめすかし、とにかく身体の汚れを洗い流し、風呂場から連れ…
タクシーでホテルに向かい、指定された部屋の前まで来て イツキは一応、警戒する。 ……ここはでは以前、レノンと間違われて、拐われて乱暴された事がある。 ……それに限らず、捕まって、犯されては……何度も経験しているのだ。 ベルを鳴らそうと上げた手を止めて、もう一度確認してみようとスマホを取る。 「……レノン君?……ドアの所まで来てるんだけど……
『……あー、イツキ? 悪いんだけどさ、ちょっと出て来てよ』 「……え?」 電話の相手は聞き慣れない、若い男の声だった。 イツキは不審がり、一度、スマホを耳から離して画面を確認する。 知らぬ番号からの電話に、出るはずはない。 画面には「レノン」と表示されていた。 『……もう、無理でさ。タクシー飛ばせばすぐだろ……、って、おい、聞いてるのかよ』 …
それから暫くは平穏な日が続いた。 新しい黒川の「仕事」の相手が気にならない訳では無かったが 特に波風も立たず。 帰りが遅い日などには土産にと、イツキの好きな和菓子や寿司などを持ち帰るので なんとなく、それで許してしまっていた。 松田は、3日に一度はハーバルに顔を出し、2回に一度はイツキを飲みに誘った。 まあ、それだけで、別にそれ以上のこともない。 …
「……うわ、酒臭いっっ、マサヤ…飲み過ぎ……」 真夜中を少し過ぎた頃、黒川が帰宅した。 イツキはすでにベッドに入っていたのだが、物音で目覚める。 どさり、と自分の隣に横たわる黒川は、珍しく酒に酔っているようで 片手でイツキの肩を抱き寄せると、顔を近づけ、酒臭い息を吐く。 「何?どうしたの?……大丈夫?」 「ああ。…くそ、松田のやつ。……調子…
「松田、お前、こっちに居過ぎじゃないのか?自分の仕事はどうした?」 飲みの途中で黒川は仕事の連絡を挟み、思いついたように松田にそう尋ねる。 松田も地元では、そこそこの組の幹部だ。それにしては、随分とのんびりしている様に見える。 「はは。こっちには週に2、3、顔出してるだけだ。ちゃんと、仕事はしているよ」 「……暇人だな…」 「黒川さんが忙し過ぎ…
「……仕事で使うのに、…仕込んでいる最中だ。お前のところだってあるだろう、そんな話。 ただの商売道具だ。それ以上の感情はない。 …まあ、楽しませては貰ってるがな……」 事務所の近くの焼き鳥屋に黒川を連れ出し、日本酒を数杯飲んだところで ようやく、言い訳がましい話を口にする。 松田は、空になった黒川のグラスに酒を注ぎ、自分も飲み 次は熱燗にしようと、…
「……何?今の子?」 「……。まあ、ちょっと、な」 松田はなんとなくそのまま事務所の中に入り込む。 事務所の中をぐるりと見渡し とりあえず、今、ここで情事が行われていたかどうかだけ確認し ソファの上が妙に濡れていないと解ると、そこに腰を下ろした。 黒川も無下に追い返すのは格好が付かなかったのか、ふん、と鼻息を鳴らし デスクの椅子に座ると書…
『イツキちゃん、気にしてたぜ? 赤ん坊、見に行きたいけど、自分は駄目だって。 まあ、気持ちは解らなくもないけどな。 世界に生まれたての、まっさらサラサラ。綺麗で純粋なところに 肉欲まみれのドロドロで穢らわしいモンを近づけちゃ駄目だってな。 相談された?黒川さん。されないか、そうだよな。 イツキちゃんを、そんなドロドロにした張本人だもんなぁ。 …
ハーバルの事務所に松田が来ていた。 あれこれ、仕事に関係がありそうな話をするのだが 単純に、イツキと話がしたいだけだった。 それでも、ミカが無事に出産を終えた事を伝えると 意外に素直に喜び、穏やかで優しい空気になる。 子供が産まれるというのは、そういう事なのだろうと、イツキは思った。 「会いに行くの? 病院…は、さすがにアレかな。でも、落…
その日 黒川が珍しく早い時間に部屋に戻ると イツキはキッチンで、鼻歌混じりに鍋を掻き混ぜていた。 テーブルには他にもデリカの惣菜やサラダ、良いワインなどが並ぶ。 「ミカちゃん、産まれたって。女の子。 すごいよね、俺、知ってる人が子供産むなんて、初めてで… ちょっと感動した」 「ミカ?……ああ、石鹸屋の女か。…ふぅん」 黒川にすれば別に…
黒川に抱かれながらイツキは こんなにも黒川の挙動が気になるのはなぜなのだろうと考えていた。 好きだの嫌いだの。もう、そんな感覚はどうでも良くて。 仕事で、黒川が他人を抱くのも、まあ仕方がないのだと割り切ってはいる。 …自分だって、他で身体を開いているのだ。今更、セックスの有無は問題ではない。 とりあえず今は、一緒にいたいと思って一緒にいる。それ…
以前から黒川の周りには、商売上の付き合いのある女性や男性の姿がチラついていた。 こういった稼業なのだから、ある程度は仕方が無いだろう。 イツキのような「商売道具」にするといって訳アリの子供を引き入れ その教育という名目で、何かをしていることも解っている。 そんな相手をイチイチ気にして、腹を立てたところで仕方がない。 嫉妬と言われても、癪なだけだ。自…
「……イツキくん?」 急にイツキに抱きつかれたミツオはきょとんとする。 別れが惜しくて、という訳でも無さそうだが…とりあえず、イツキの肩に腕を回す。 「……どうしたの?………、もっと話し、聞く?」 「いや、……あの。…違います」 2、3分間を置いて、イツキはミツオから身体を離す。 ゆっくりと通りの方を振り返り、先ほど見掛けた人影が、もう無いこと…
食事も済み、ボトルのワインも飲み干し、イツキとミツオは店を出る。 少し酔っているのか躓きそうになるイツキの、腕を、ミツオが支える。 「…こういうさ、2階のお店って、酒飲むと階段が怖いよね」 「…俺、そんなに酔っ払って無いですよ…」 「……そ?」 言いながら、絡めた腕でそのまま壁に押し当てて、唇を重ねる流れが実にスマートで 何の不自然もないような気…
あの男たちが何の用で三浦を探しているのかは知らないが おそらく、あまり良く無い用件なのではないかと思う。 そして、そういった案件に巻き込まれやすいイツキは この先、どう対応していったら良いかと、迷う。 「なんだ、小難しい顔だな。お前に悩み事なんてあるのかよ?」 目の前の黒川はそう言って馬鹿にし、酒を飲む。 「また、新しい男の話か?」 「そう…
狡猾そうなキツネ目の男と、派手な上着の大柄な男。 それはイツキでなくとも、その筋の怖い連中なのだと解る。 パートの横山は一瞬身構え、心配そうにイツキの顔を伺う。 イツキは突然の来客に驚いた様子だったが、横山が思うほど、動揺してはいない。 「ここにさ、三浦って人、来てるでしょ?」 「いえ。来ていませんが…」 「そう?ここに入り浸ってるって聞いたけ…
「……わたし、ちょっと強く言い過ぎちゃったですかねぇ……」 ハーバルに入り浸る三浦に、迷惑だと、パートの横山が言って以来 今日で3日ほど三浦は顔を出して来なかった。 おかげさまで店内は静かで仕事は捗る。 新規で来店した上品なマダムとも落ち着いて話をする事が出来た。 それでも、慣れというのは怖いもので 夕方には、三浦がポットに入れて持ってくるコ…
「イツキてんちょ。今日、車で来てたでしょ?」 昼過ぎ。早々に顔を出した三浦はイツキにそう尋ねる。 確かに今朝は黒川の車で来たのだが、わざわざそう言われるのは良い気がしない。 まるで見張られているようだ。 「ゴミ出しに行くとき見掛けてさ。裏の駐車場。良い車だったよね、黒塗りベンツ?」 「……今日は送って貰ったんです」 「誰?あれ?家の人?…父親…
翌日の朝。 黒川は車を出し、イツキを仕事場まで送ってやった。 寝坊したと大騒ぎするイツキが煩かったせいもあるが まあ、本当にイツキが気にするような「何か」があるのかどうか、少し見てやろうと思ったのだ。 家から仕事場までは高速を使う距離ではないが、やや飛ばして30分ほど。 商店街は短く、奥はもう住宅街。 パチンコ屋もホテルもない、健全な文教地区とい…
「隣の三浦さん。良い人なんだろうけど…なんだか、気になるんだよね……」 「……お前が色目で見ているんじゃないのか?」 「あと、お店の周りも……たまに見掛けない車が停まってて……」 「……どこぞでお前がタラし込んで来たんだろう?」 寝室に移動しベッドに上がり、お互い、服を脱がせながらあちらこちらに唇を寄せる。 時折、黒川はイツキを馬鹿にするような…
「…またイベントがあるかもって言ってた…、正直、これ以上、仕事が増えたら困る。 俺、最近、頑張ってると思わない? なんかもう、ハーバルの社長、事務仕事は全部こっちに移したがってるみたいで… 数字も計算も苦手なのに。パソコンは少し覚えたけど。 ミカちゃん、早く帰って来て欲しい。……予定日はもうすぐ。 でも、すぐに復帰は無理だもんね。……人、増やし…
イツキが部屋に戻ったのはまだ日付が変わる前だったが すでに黒川は帰って来ていて、リビングで細かな作業をしていた。 テーブルには仕事の資料と、新聞。酒とツマミが乱雑に並ぶ。 「ただいま。ん、マサヤ、何飲んでるの?」 「……日本酒だ、新潟の。この間貰った……」 「……やだ!俺も飲みたいって言ってたやつじゃん」 イツキはキッチンから自分のグラスを取…
「……向こうの、商工会の連中が、またイベント開くようだよ」 「ああ、オーガニックフェスタみたいなやつですね。ウチは参加するのかな…」 「するでしょ。地元特産品使って、一つずつ新商品出すって…」 「あ、イツキくん。この前の白菜漬けどうだった?塩っぱくなかった?」 レジのカウンターの内側で、イツキと松田が仕事の話をしている途中に、三浦がどうでもよ…
「…今日、ご飯、行こ?」 「……ここ、18時まで仕事ですよ?」 「あと2時間?待ってるよ」 そう言って松田は笑う。 イツキは、食事が食事だけでは済まない事は解っていたので、あまり乗り気ではなかったが 聞いてみたい話は、ある。 その迷いはどうやら瞳に映るようで 松田も一瞬、押すか下がるか迷ったのだが…イツキの空気感を察し。押す。 「隣に、お茶が…
ハーバルの店舗には、そう、来客は多くない。 新しい化粧品屋なのかと、近所の女性が顔を覗かせたり 普段は通販を利用している客が、実際の商品を見にやって来たり。 もっぱらの仕事は、会社全体の商品の管理だった。 社長は、ゆくゆくは、今の本社を製造のみの拠点にし 実際の営業は都内に移そうかと考えていた。 まあ、そんな訳なので、来客が少なくとも結構忙しいのだ…
イツキが気になっているのは、ごくごく、些細なことだった。 おそらく別の人間からすれば、気付かない様なこと。 ただ、ハーバルの店舗の付近に見慣れない黒塗りの高級車が停まっていたこと。 時折、顔を出す男が、どうやらその筋の男のようなこと。 特別な何かが起こったわけでもないのだが、こればかりはイツキの勘というか習性で さんざん身近に感じて来た、いわゆる、…
黒川が事務所に戻ったのは、予定よりも遅い時間で すでにイツキは部屋に帰ってしまったと、空いた紙袋を片付けながら一ノ宮が言う。 「社長も今日は上がられますか?」 「…あ、いや。……やりかけの仕事を片付けないとだからな」 黒川は、残念そうな、それでもイツキがここに寄った事が嬉しいような、 少し柔らかな表情を浮かべる。 つかず離れず。干渉し過ぎず放置…
『駄目です』 と言った時のことを、一ノ宮はまだ覚えていた。 数年前。 ただの暇潰し、適当な玩具だったイツキが 金を工面して欲しいと黒川に懇願した時。 玩具、にしてはのめり込み過ぎているとは思っていたが ここで数千万単位の金を出し、危ない筋との交渉に自ら乗り込むなど 到底、考えられることでは無かった。 案の定、それ以降、黒川とイツキの…
その日のイツキは仕事の帰りに、黒川の事務所に寄る。 決して、冷蔵庫の中身が空っぽなので食事は外で済ませたい、等と思った訳ではなく。 けれど、事務所には黒川の姿はなく、一ノ宮がいるだけだった。 「社長なら小一時間ほどで戻ると思いますよ」 「んー………どうしようかなぁ…」 「まあ、お茶でも淹れましょう。イツキくんのお仕事の様子も聞きたいですしね」 …
以前の百貨店では規定の制服があったのだが 新しい店舗で働くにあたって、イツキはスーツを新調していた。 別段、何かを指定されたわけでも無いが、まあ、気分的に。 銀座の老舗のテーラーで仕立てて貰う服を纏うと、否応なく気分が上がった。 黒の上下は……昔の仕事を思い出せる服装なのだけど それでも一番、似合う、落ち着くスタイルでもあった。 「ホス…
「…だいたい、何でこっちのベッドで寝ているんだ? お前には巣箱があるだろう? 自立するんじゃなかったのか?」 と、黒川は鼻で笑いながら言う。 「…ん。そうなんだけど。 ちょっとこっちで寝っころがっちゃうと… なんか、マサヤの…匂いって言うか、気配って言うか なんか、そんな感じがして…… 落ち着いちゃうんだよね…」 イツキは、自分でも不思議…
最近のイツキは忙しいらしい。 石鹸屋の店長代理を任されて、張り切っているようだ。 あまり暇を持て余しても、下らない事ばかりしでかすので 適度に忙しい方が気が紛れて良いのだろうが、その加減が難しい。 その立場になってから何度かは、仕事帰りに事務所に立ち寄ったりもしていたが 面倒になってきたのか、それも回数が減って来ていた。 真夜中に黒川が部屋に戻ると …
「おつかれさん」 ハーバルの閉店は少し早くて18時。 窓側のブラインドを下ろし灯りを消し、出入り口に施錠していると イツキの後ろから三浦が声を掛けた。 「おつかれさまです。失礼します」 「店長、白菜漬け食べる?さっきお客さんに貰ったんだけど」 「………いえ、……食べないので……」 イツキは断ったつもりなのだが三浦の手には最初から、重たげなビニ…
「…もう、あの人、何しにここに来るんでしょうね。仕事の邪魔ですよね」 三浦が自分の店に戻り、イツキとパートの横山は顔を見合わせため息をつく。 実際、三浦のお喋りに仕事の手が止まり迷惑することもあるのだが、どうにも憎めないのだ。 「まあね。…まあ、悪い人じゃ無いみたいだけどね」 この場所で店舗を構えてすぐの事。 その頃のミカはまだ自分…