見るとなく池を眺むる秋思かな一平(みるとなくいけをながむるしゅうしかな)・・・・・・・雨模様の日であった。今日こそはとの思いで、午前中、お寺参りに行ってきた。忙しそうなご住職とも話ができて、有意義な日であった。寄り道もせずに帰ってきたので、雨にも遇わず、ラッキーだった。しかし、多少は疲れた。情けないことだ。秋の池
見るとなく池を眺むる秋思かな一平(みるとなくいけをながむるしゅうしかな)・・・・・・・雨模様の日であった。今日こそはとの思いで、午前中、お寺参りに行ってきた。忙しそうなご住職とも話ができて、有意義な日であった。寄り道もせずに帰ってきたので、雨にも遇わず、ラッキーだった。しかし、多少は疲れた。情けないことだ。秋の池
朝から雨。出鼻をくじかれ、お寺参りを中止とした。雨の一日だと思ったからでだ。ところが、「お寺参りは中止!」と決めたとたん、空は明るくなった。雨があがったらしいのだ。しかし、「雨があがった!」となっても、すぐさま「よしっ、外出だ!」とはならない。「グズグズ、グズグズ・・・」と、無為な時間を過ごしている。「仕方がないから、ブログでも書こうか?」と思い直してみたが、あまり気分が乗らない。妙な一日になってしまった。何があっても、明日は墓参りに行こう!不決断の一日
私は「ふるさと」が好きだ。それも「故郷」ではなく「ふるさと」であるところが、微妙。「ふるさと」を辞書で引くと,おおかたは「古里」「故郷」などと書いてあり、「その人が生まれ育った土地」などとなっている。私の場合、断然、ひらがなの「ふるさと」でなければならない。愛郷心「素朴派」の心情
ここのところ幾日間か、カラオケに行っていない。私にしてみれば、マア珍しいことだ。体調が悪いわけではない。近々には、仲間たちとの「カラオケ会」も予定されているのだ。明日はカラオケに行こうか・・・?いや、その前に、是非とも自室の整理整頓か?うーん、それが難題だ!それが難題・・・?
上野の公園から不忍の池に降りる階段で撮ったカラスです。私を追って来たカラスでした。高く、遠くへ飛び去ることもせず、私の周囲を飛んだり降りたりしてました。そして時折り、やや抑えた調子の声で、「ギャア、ギャア・・・」と鳴くのです。「目下警戒中!」の鳴き声です。私が公園下の道路に降りたとたん、カラスは一声上げて、飛び去って行きました。妙なカラスでした。妙なカラス
農業用水の向う岸の藪の中で、立派な烏瓜が垂れている。用水の川幅は数メートルほどあり、しかも深さが数十センチもありそうだ。立派な烏瓜は妨害されることもなく、ゆったりと垂れているのだ。烏瓜に異様な興味を持つ私でも、おいそれとは近寄れない。私以外のなにびとも近寄れない。つまり、烏瓜が誰かに持ち去られる心配はないのだ。だから私は、毎年、豊かな気分でこの季節を過ごしている。豊かな気分で
しばらくの別れの余情秋日傘一平(しばらくのわかれのよじょうあきひがさ)・・・・・・・別れには「秋の日傘」は似合わない。秋とは言え、日傘をさすほどの日和であれば、別れの悲嘆はさほどない。写真を眺めながら、そんな不埒なことを思った。無神経なヤツ!無神経なヤツ
揺れ止めて何を思ふや吾亦紅一平(ゆれとめてなにをおもうやわれもこう)・・・・・・・花とも思えない吾亦紅に、私はとても魅かれている。団子のように見える花は、じつは多数の小さな花が集まった花序、いわば偽花なのだとか。そんな吾亦紅を、私は長い時間をかけて、じっと眺めていたい。・・・・・・・然りながら許す気も無し吾亦紅一平(さりながらゆるすきもなしわれもこう)・・・・・・・午前中に駅前の書店へ行った。目当ての本は無く、まったくの無駄足になってしまった。かなり蒸し暑い陽気だった。が、秋は確かな足取りでやって来た。私の不得意な季節が近づいて来ているのだ。吾亦紅
昨年の写真の「つくしんぼ」です。つくしんぼは心を和ませてくれます。「このつくしんぼの広場」は、広い立派な自動車道路になっています。今や、散歩コースには使えません。道路に変身!
馴染みの公園です。一羽のカラスをレンズに収めようと追いかけていました。私の魂胆を承知のカラスは、私を揶揄うように、草原に降り立ったり、樹上に飛び上ったり・・・。掲げた写真は、その中の一枚です。孤独なカラスだったのかも知れません。孤独なカラス
今日はふるさとの浜辺です。すでに撮ってあったものの再度の掲載です。ふるさとの波はまーるく寄せて、ブツブツ音を立てながら、ゆっくりと引きます。私の大好きな光景です。ふるさとの浜辺
今日は妙な日だ。なんとも妙なカラスだ。先ほどから、私を追ってきている。私がカラスを見ると、カラスはそっぽを見る。私が視線を逸らせば、カラスは私のほうを見る。妙なカラスだ。妙なカラス
今日はカラオケをお休みとした。家人はそれを不思議がった。体調が悪いのかと思ったらしい。体調のせいでカラオケを休んだわけではない。単にカラオケを休んだのだ。怠けごころというところだ。こんなでは、上達は覚束ないな。上達はムリだ
町内の一郭にある遊具が三基。この頃は誰も遊びには来てくれません。年頃の子共が少なくなったこともあるし、それに暑い!十年幾年か前は、私も孫娘を伴って毎朝の散歩に来ておりました。その孫も大学生です。来春の卒業後は、小学校の教師になるのだとか。もちろん、嬉しいことは嬉しいのですが、胸中はなんとも妙です。嬉しいは嬉しいけれど・・・
早朝のいっときです。池から上がった鴨たちが、草っ原(左のほう)を目指して移動を始めました。子供たちの跳んだり跳ねたりしている様子に、興味があるのでしょうか。もっとも、早くも引き返す鴨がいるのだから、早くも興味を失ったのかもしれませんね。そんな鴨も、カメラを構えている私には、とんと興味がなさそうです。鴨たちの興味?
今朝は少しばかり早起きをした。七時前に起きて、外へ出た。涼しくはなかったが、酷暑と言うほどではなかった。歩いてみようという気分になった。2500歩ほど歩いて戻ってきた。やはりかなり厳しい残暑だった。・・・・・・・現在の時刻は20時ちょっと過ぎ。今日も何もなかった。今日も何も無かった
川越市で撮った羅漢さま。眠っているのか泣いているのか判らないが、顔を隠している様子が気になって仕方がない。此処へ行くたび、「泣き羅漢」と勝手に思いつつ、レンズに収めている。ひょっとしたら「居眠りをしている?」のかも知れない。まだ誰にも訊ねてはいない。羅漢さま
暑くなる前に歩こうと思い、少しばかり早起きをした。「歩こうと思い」とは言ったが、さほどの距離を歩いたわけではない。スマホがカウントした歩数は3千歩弱だった。でもまァそれなりに満足だ。歩かないよりはよほどいい。・・・・・・・高齢ドライバーの事故を避けるため、先ごろマイカーを手放した。その結果、日常がかなり不便になった。私もどうやら「クルマ依存症」になっていたようだ。クルマ依存症
ここのところ、一人カラオケが多くなった。もちろん、友人たちと会えば、ワイワイガヤガヤのカラオケとなるのだが、友達と会う予定の無い日は、「一人カラオケ」となる。そんな時は、興に乗れば同じ曲を繰り返し唄うのだから、傍からみれば常軌を逸していると見えるかも知れない。それでいて一向に上達しないのだから、我ながら呆れている。・・・・・・興の赴くまま、「サピエンス全史」を読み始めた。「なぜ人類だけが繁栄したのか?」という副題に魅かれたのだ。面白そうなのだが、読了できるかどうかが問題だ。カラオケ談義
「新・ほろ酔い気分」を再開します。宜しくお願い申し上げます。・・・・・・・近頃は、身体能力の劣化もあって、ゴルフの機会がめっきり少なくなり、併せて飲酒の機会も激減傾向にあります。そのぶんカラオケの機会がかなり増加傾向にあります。私の場合はほとんど「一人カラオケ」なのですが、十八番と言えば古い演歌ばかり。興に入れば、同じ曲を幾度でも歌うのですから、まさに常軌を逸しているようです。「新・ほろ酔い気分」を再開します
着ぶくれてなほ血気あり他所の猫(きぶくれてなおけっきありよそのねこ)・・・・・・あちらこちらで見かける猫だ。住所不定らしい。猫は猫なりの目的があるらしいが、此処では良し悪しを問わない。良し悪しは問わないが、私にとっては至極目障りなので、見れば追い払うことにしている。猫も追われることを承知しているので、私を見れば姿を消す。着ぶくれて
冬の夜や替はりばんに友の声ひよどり一平(ふゆのよやかわりばんこにとものこえ)・・・・・・・またまた体調を崩し、鬱々として食欲もなかった。そんな夜、「はらわたの会」の友人たちから電話があった。一イッパイ呑んでいる席かららしく、「かわりばんこ」に友の声が聞けた。東京駅付近の席で、呑んでいたらしい。とても嬉しかった。常ならば、私も参加していたものを!と思い、残念でならなかった。またほかの友人からも、「ブログ」が滞っていることで、叱咤・激励の電話があった。そうだ、そうなんだ!今、こんなことで、へこたれてはいけなかったのだ!今夜はこれで寝るとしても、明日からはキリっと動きたい。頑張ろう!
無造作に大根二本抜かれあり一平(むぞうさにだいこんにほんぬかれあり)・・・・・・・散歩途中のこと。家庭菜園の大根が二本、無造作に抜かれてあった。畑の主や大根の主の姿はなかった。???怪訝に思ったが、私は予定の散歩を急いだ。帰路の道すがらその辺りを通った。先ほどの大根二本はそのまま。そのあたりに人の姿はなかった。大根二本
岩砕く波音遠し石蕗の花ひよどり一平(いわくだくなみおとたかしつわのはな))・・・・・・・写真は五浦海岸で撮った石蕗(つわぶき)の花だ。五浦海岸には、今は亡き弟の案内で訪れた。断崖の上の石蕗の花だったが、苦心して撮った一枚だった。その2,3年後、弟はガンに侵され、帰らぬ人となってしまった。健康にあれほど留意していた弟が先に逝き、病気がちながらも、乱暴な生活態度の私が残っているのだから、なんとも判らないものだ。石蕗の花
病む我の生くる心や帰り花ひよどり一平(やむわれのいくるこころやかえりばな)・・・・・・・病気なんぞに敗けてたまるものか!と、常に心は大いに盛んなのだが、実態はなかなか。やれやれ無理は出来ないなァ、とぼやいて終わりだ。返り花
みんなゐてなぜかひっそり枇杷の花ひよどり一平(みんないてなぜかひっそりびわのはな)・・・・・・・なかなか上手くは行かない。仕方がないが、今夜のところはこれでよしとしよう。みんなひっそり
木守柿かくも寂しく晴れがましひよどり一平(こもりがきかくもさびしくはれがまし)・・・・・・・散歩の道すがら、目の保養にと思いつつ、カメラに収めた木守柿だ。この柿の木の持ち主が、意図的に残した一個の柿なのか、一個の柿がたまたま残ったのか、私には知る由もない。・・・・・・・病気以来、何かと不都合の多い日々を送っている。「病後なのだから、不都合の多いのは仕方がない」と、それなりに諦めてはいたのだが、八十代半ばでの病気が、かくも無残とは思わなかった。特に、脳の働きに及ぼした影響のなんと多いこと。一つ、一つ丹念に掘り起こしている次第だ。・・・・・・・カラオケには是非とも行きたいのだが、コロナ感染の恐ろしさや、永らく離れていたことによる気おくれがあって、矢張り、積極的には足が向かない。あれほど好きだった「一人カラオケ...せめて半分ほどでいい
木守柿木守柿
実柘榴や割れて秘すものなかりけりひよどり一平(みざくろやわれてひすものなかりけり)・・・・・・・柘榴の実は人肉の味がするのだとか、ほんとうなのだろうか。私は柘榴の実を手にしたこともなく、もちろん食べたこともない。この柘榴の実は、数軒先の家の庭先で撮影したものであり、今年初めて実をつけたのだ。レンズに収めたものの、柘榴の実を食べたこともなく、どのような句にすべきか思案投げ首。柘榴の実
枯すすき風に吹かれて輝きぬひよどり一平(かれすすきかぜにふかれてかがやきぬ)・・・・・・・先日の病気以来、「失敗しても自己責任」と、腹を括ったような行動は出来なくなってしまった。「自己責任」とうそぶいたところで、「自己責任」だけでは済まない。周囲に迷惑を掛けてしまうことになる。それに、十分に生きたつもりでも、まだ死にたくはなかった。これもまた、幾つになっても、普通の人情かもしれない。普通の人情
病後とて懈怠許さず竹の春ひよどり一平(びょうごとてけだいゆるさずたけのはる)・・・・・・・パソコンの前では、元気のいい素振りですが、実はなかなかどうして・・・。忘れたことが多くて大弱りです。元々、私のパソコン作業はマニュアル無しでやっているので、今回のような病気でつまずいたりすると、「はてさて何処から手をつけようか」と大弱り。今もその最中です。ひどい段取りの悪さなのです。うまく作業の糸口を見つけ出せればいいのですが、なかなかそのようには参らず、弱って、弱って弱り抜いています。でもマア、今夜のところは、これで終わりとします。病後だからと言って甘えれば、懈怠がますます威張ります。だから、明日はまた明日の風を頼りにして、頑張るつもりです。竹の春
跳び越えて団栗踏まず通りけりひよどり一平(とびこえてどんぐりふまずとおりけり)・・・・・・・団栗を踏まなかったからと言って、自慢したいわけではない。ほんのちょっとの気遣いをしただけのこと。何のために、誰に気遣ったのか?団栗に気遣ったのかもしれない。・・・・・・・はからずも団栗五個と向き合へり一平片方の足を下ろす段になって、落ちたばかりの団栗が眼に入った。「あつつ、いけねえ!」踏む足を少しずらして、どんぐりを跨いだ。団栗は、それぞれつるんとした顔で、私を見上げた。喜んでくれたのかどうか、私にはわからない。どんぐり
朝顔のしっかり咲いて小紫ひよどり一平(あさがおのしっかりさいてこむらさき)・・・・・・・正直なハナシ、大輪の花と呼べない朝顔だ。しかし、小ぶりながらも、しっかり咲いた紫の朝顔だ。どのように詠もうかと案じたが、「しっかり咲いて小紫」が精一杯であった。・・・・・・老化に向かって、一歩また一歩と遅滞なく進んでいる。身体中に不都合な点が出て来てはいるが、これはこれでやむを得ないこと。しっかり咲いて
いのち減る迅さで征けり秋の水ひよどり一平(いのちへるはやさでゆけりあきのみず)・・・・・・・白い奔流を見たら、いのちを削って流れる奔流のように見えた。もっとも、いまの私のいのちは、こんなに激しく流れない。これはどう考えても、青年、壮年のいのちにしか見えない。このいのちの強さは、私の強い願望かもしれない。今の私は、このいのちの流れを願っているわけではない。秋の水
穂芒や寄り添ふて待つ次の風ひよどり一平(ほそそきやよりそうてまつつぎのかぜ)・・・・・・・昨日は久しぶりのカラオケだった。遠路、駅前のカラオケ店に、幾人かの友人が集まってくれた。私を激励する意味合いだったらしい。カラオケということになれば、多少のアルコールは入る。さほど呑んだつもりはないが、禁酒生活が永かったので、私は酔った。帰りのタクシーは気分がよかった。・・・・・・・ここのところ、カメラ持参の散歩が乏しくなっている。復活させたい。足腰の鍛錬にとっても肝要だ。久し振りのカラオケ
鴨来るや道を通るも我がもの顔ひよどり一平(かもくるやみちをとおるもわがものがお)・・・・・・・公園の池に今年も鴨がやってきた。公園の管理者の言によれば、多い頃で何百羽かの鴨だと言うことだった。作業車以外に自動車は通らないので、鴨たちはわがもの顔。まったく気分がいい。時には珍しい鴨がやってくるとか。カメラ持参の多くの人が、息をつめて鴨を追っている。その鴨がどれなのか、私には区別がつかない。・・・・・・・明日は、久し振りに友人たちに逢える。駅前のカラオケ店で、思うさま唄おうという試みだ。私は長い間歌を唄っていない。大袈裟なハナシだが、声が出るかどうかさえ危ぶまれる思いだ。ダメでモトモトのつもりで、参加することにした。何曲でも歌えれば儲けモノではないか。鴨来る
限りあるいのちなりけり秋の蝶ひよどり一平(かぎりあるいのちなりけりあきのちょう)・・・・・・・蝶にしても花にしても、観る側の心情によって感じが変わってくる。観る人の勝手次第で変わってしまうのだ。観る人が、「悲しいなァ」と観れば悲しいし、「楽しいなァ」と思えば楽しく見える。秋の花にむさぼりついている蝶を見て、「精一杯生きているのだなァ」と観ていたら、ちょっぴり哀れを感じた。蝶やトンボに限ったことではない。人間とて同じこと。・・・・・・・このブログ作成にも、だいぶ馴れてきた。今度こそ忘れないようにしよう。しかし、まだマニュアル作成とまでは行っていない。秋の蝶