龍野古城(鶏籠山城)を下山しました。せっかくなので、麓の龍野城にも立ち寄ります。 写真は西側の模擬二重櫓。その背後に見えるのが、山頂に龍野古城のある鶏籠山...
東京オリンピック開幕まであと23日となりましたが、世間では相変わらず新型コロナウイルス感染症の話題ばかりが続いていますね。もう後戻り出来ないのだから、マイ...
青天を衝け 青天を衝け 第20話「篤太夫、青天の霹靂」その2 ~慶喜の徳川宗家相続と幕臣となった栄一~
「その1」のつづきです。 将軍・徳川家茂が死去すると、その後継者は、誰が見ても徳川慶喜以外に適当な人物はいませんでした。家茂は死に際して田安亀之助(家茂...
青天を衝け 第20話「篤太夫、青天の霹靂」 ~第二次長州征伐と将軍家茂の死~
慶応2年6月7日(1866年7月18日)、幕府による第二次長州征伐が開始されます。幕府軍の兵力は総勢15万の大軍。一方、迎え撃つ長州藩の兵力は、奇兵隊ら...
北近江浅井氏の居城、小谷城攻城記。 その6 <大堀切跡~中丸跡>
「その5」のつづきです。本丸(鐘丸)の南側に降り、前稿で紹介した石垣の場所に戻ってきました。 やはり、何度見ても圧巻の石垣。 説明書きの駒札の下に、大堀切...
北近江浅井氏の居城、小谷城攻城記。 その5 <黒金御門跡~大広間跡~本丸跡>
「その4」のつづきです。桜馬場跡のすぐ上に、立派な石段が残る虎口跡があります。 ここは黒金門と呼ばれる虎口があった場所で、ここが、小谷城主郭部への入口でし...
「その3」のつづきです。赤尾屋敷から大手筋に戻って、御馬屋跡の上にある桜馬場跡やってきました。 かなり広い曲輪です。 説明書きの駒札と復元絵図です。 そし...
青天を衝け 第19話「勘定組頭渋沢篤太夫」 ~条約勅許と家茂の将軍職辞意表明~
慶応元年(18654年)9月16日、英仏蘭米4ヵ国の公使を乗せた外国艦隊が、兵庫沖へ渡来しました。彼らの目的は3つ。一つは、天皇による条約の承認を得るこ...
「その2」のつづきです。御馬屋跡からその上の桜馬場跡に登る途中に、東にそれる脇道があります。その入口には、「右 赤尾美作守屋敷址」と刻まれた石碑があります...
北近江浅井氏の居城、小谷城攻城記。 その2 <番所跡~御馬屋曲輪跡~御茶屋跡>
「その1」のつづきです。小谷城中腹の番所跡まで登ってきました。 ここから、本格的な城の曲輪群が始まります。 小谷城絵図の看板です。これはわかりやすい。曲輪...
北近江浅井氏の居城、小谷城攻城記。 その1 <登山口~金吾丸>
近畿の水瓶・琵琶湖の北端に、かつて北近江を支配した戦国大名・浅井氏の居城、小谷城がありました。小谷城は滋賀県長浜市湖北町にある標高495mの小谷山(伊部山...
「天狗党の乱」が終結しましたね。これまで大河ドラマで「天狗党の乱」が詳しく描かれたことはあまりなかったんじゃないでしょうか? そこで、今回は「天狗党の乱...
朽木西山城の西麓に、「信長の隠れ岩」と呼ばれる大きな岩があります。あの織田信長の「金ヶ崎の退き口」の「朽木越え」の際に、一時身を潜めたという伝承がある岩で...
<前編>のつづきです。愛宕神社の東側の切岸を登れば、いよいよ西山城主郭部に入ります。 切岸の下にある説明板です。 復元図を拡大します。中央に広い主曲輪があ...
朽木城の詰城・西山城攻城記。 <前編> 登山口~南出曲輪~愛宕神社
朽木陣屋の北側にそびえる標高356m、比高200mの西山の山頂に、かつて西山城がありました。今から城跡に登ります。 西山城に関する史料が未発見のため詳細は...
琵琶湖の北西にあった朽木陣屋は、かつて近江源氏佐々木氏の庶流・朽木氏の代々の居館でした。現在、その遺構はほんの一部しか残っていませんが、現在は史跡公園とし...
青天を衝け 第17話「篤太夫、涙の帰京」 ~禁門の変(蛤御門の変)~
平岡円四郎暗殺の凶報を関東出張中の渋沢栄一(篤太夫)と渋沢喜作(成一郎)のふたりが知ったのは、事件発生から14、5日後のことでした。栄一の自伝『雨夜譚』...
前稿で紹介した大徳寺総見院から南へ800mほど下ったところに、織田信長を祀る建勲神社があります。ここは明治2年(1869年)に明治天皇の御下命により創建さ...
昨日の稿で京都阿弥陀寺にある織田信長の墓をお参りしましたが、京都市北区にある大徳寺の塔頭・総見院にも、信長の墓があります。ここは、信長の死後、羽柴(豊臣)...
本日6月2日といえば、日本史上最大のターニングポイントといっていい「本能寺の変」の起きた日。つまり、織田信長の命日ですね(現代の暦でいえば、6月21日にあ...
「ブログリーダー」を活用して、坂の上のヒゲおやじさんをフォローしませんか?
龍野古城(鶏籠山城)を下山しました。せっかくなので、麓の龍野城にも立ち寄ります。 写真は西側の模擬二重櫓。その背後に見えるのが、山頂に龍野古城のある鶏籠山...
龍野古城(鶏籠山城)から紅葉谷を下山する途中に、野見宿禰と書かれた誘導板がありました。せっかくなので、行ってみることに。 しばらく進むと、「力水」と書かれ...
「その2」のつづきです。龍野古城Ⅰ郭エリア北側から、搦手道を下山します。 Ⅰ-8郭まで降りてきました。ここは主郭並みに広い曲輪です。 縄張り図を載せます。...
「その1」のつづきです。龍野古城Ⅰ郭エリア南側虎口から段曲輪を登ります。 Ⅰ-3郭切岸に、立派な石積みが残っています。 おおっ、これはスゴイ! 石積みの上...
今回は姫路の西に位置する兵庫県たつの市にある龍野城です。龍野城には、鶏籠山山頂の山城と山麓の平山城の時代があり、山城は鶏籠山城、朝霧城、麓の城は霞城と呼ば...
嘉吉の乱によって赤松満祐に謀殺された室町幕府6代将軍足利義教の首塚が、兵庫県加東市にある安国寺にあります。全国各地に「安国寺」という名称の寺がありますが、...
兵庫県姫路市のお城といえば、誰もが思い浮かべるのは世界文化遺産の姫路城ですが、戦国時代より前の15世紀には、姫路城の少し北西に位置する坂本城が播磨国の守護...
今回は兵庫県小野市にある河合城跡を歩きます。堀殿城ともいいます。ここも、播磨守護職の赤松氏が東播磨の拠点として築いたとされ、赤松氏一族の上月氏が城主を務め...
「その2」のつづきです。小谷城第5郭まで降りてきました。 縄張り図では、この東側に大堀切があって、西小丸と分断されています。 ここで、山頂にあった縄張り図...
「その1」のつづきです。標高は218mの小谷城城域に入りました。 麓から見えた看板。第3郭の南側に設置されています。 その看板の南側は、帯郭が東西に伸びて...
兵庫県加西市の中心市街地の北条町北側の標高218mの城山山頂に、かつて小谷城がありました。有名な北近江の小谷城は「おだに」と読みますが、ここは「こたに」と...
「その1」のつづきです。善防山城主郭まで制覇したので、次は尾根伝いに東郭を目指します。 主郭東側の虎口跡。一応、左へ曲がって右へ曲がる食い違い虎口になって...
もすぐ桜の季節になりますが、今回は2年前の桜のシーズンに訪れた善防山城を攻めます。今回も赤松氏の城です。善防山城はかつての播磨国、現在の兵庫県加西市にある...
「その2」のつづきです。石塁のあった城山城Ⅱ区からさらに南下します。 説明看板が現れました。現在地と書かれているところがこの場所です。広い削平地になってい...
「その1」のつづきです。城山城跡の北側城域に入りました。 堀切と土塁と書かれた看板があります。 まあ、たしかに堀切っちゃあ堀切かな。薄いけど。 土塁です。...
西播磨を南流する揖保川と、北西より合流する支流の栗栖川が形成する平野を東に臨む標高458mの亀山(きのやま)の山頂に、かつて城山城がありました。ここは、奈...
「その2」のつづきです。楯岩城本丸エリアに入りました。 ここは北西段曲輪のいちばん下の曲輪です。本丸エリアは、頂上の主郭を中心に北西南の三方に段郭が伸びて...
「その1」のつづきです。楯岩城三ノ丸エリアに入りました。本丸、二ノ丸、三ノ丸といった呼び方は豊臣時代以降のものですが、麓にあった縄張り図と鳥観図にそう書い...
今回も播磨国の赤松氏の城・楯岩城を攻めます。別名「太田城」ともいいます。播磨の山城のほとんどは、赤松氏の嫡流、庶流のどこかに関連していますが、ここは、赤松...
久しぶりに大河ドラマのレビューです。第10話では花山天皇の出家事件が描かれましたね。寛和2年(968年)6月23日の丑剋(午前1時から3時)花山天皇が秘か...
金ヶ崎の戦いで京都に逃げ帰った織田信長は、その約2ヶ月後の元亀元年(15670年)6月、大軍を率いて北近江に侵攻します。その目的は、金ヶ崎の戦いの際に反...
永禄13年4月20日(1570年5月24日)、織田信長は北国に攻め入るため京都を出陣しました。『言継卿記』によると、その軍勢は3万にも及んだといいます。そ...
永禄12年(1569年)5月、今川氏真が籠る懸川城を開城させた徳川家康は、氏真夫婦を相模の北条方に引き渡しました。しかし、これは、甲斐の武田信玄と敵対す...
永禄11年(1568年)12月13日、駿河に侵攻した武田信玄の今川館攻めによって駿府を追われた今川氏真は、遠江の懸川(掛川)城に逃れました。今川館は「館...
永禄9年(1566年)12月29日、家康は姓を「松平」から「徳川」に改めました。後世のわたしたちがよく知る徳川家康の誕生です。なぜこの時期に改姓したかと...
今回のサブタイトルは「側室をどうする!」ですが、ひとまず側室の話は後まわしにして、少しだけ描かれた歴史のお勉強をしましょう。 三河一向一揆によって松平...
三河一向一揆の実際の戦闘の経緯については、史料によって情報が錯綜していて、月日などは明確ではありませんが、通説では、永禄6年(1563年)秋にはじまり、...
永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆は、徳川家康の長い人生のなかで、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並んで家康の三大危機とされる出来事です。その理由は、...
ヤマト、999、ハーロック、子供のころ夢中になって観たSF漫画の生みの親、漫画家の松本零士さんが逝ってしまいました。謹んで哀悼の意を表します。わたしの少年...
駿府で人質状態となっていた妻子を奪還した松平元康(のちの徳川家康)は、翌年の永禄6年(1563年)7月6日、名を「家康」に改めました。「元」の字は言うま...
前回に引き続き、駿府で人質状態となっている松平元康(のちの徳川家康)の妻子の奪還劇の回でしたね。前話はほとんどフィクションの回でしたか、今話は史実、通説...
昨日、作家の永井路子さんが亡くなられたという報道がありました。謹んで哀悼の意を表します。 永井さんといえば、やはり中世、特に鎌倉時代の作品ですよね。昨年の...
先日、映画『レジェンド&バタフライ』を観てきました。木村拓哉さんと綾瀬はるかさんという日本のトップスターの共演で、織田信長とその正室・濃姫を主人公とした物...
今回のサブタイトルは「瀬名奪還作戦」。今川を見限り、織田と手を結んだ松平元康(のちの徳川家康)でしたが、気がかりだったのは、妻の瀬名(築山殿)と長男の竹...
滋賀県蒲生郡日野町にかつてあった日野城は、古くは中野城と呼ばれていました。そこで、本稿では日野中野城と呼ぶことにします。日野中野城は、日野の領主・蒲生氏の...
今川氏真を見限った松平元康(のちの徳川家康)は、織田信長との連携に踏み切りました。通説によると、永禄5年(1562年)正月に元康が尾張の清州城に赴き、信...
今回は岡崎に帰った松平元康(のちの徳川家康)が、これまで通り今川に付いて織田と戦うか、あるいは、これを機に今川を見限って織田に与するかという、まさに「ど...
大高城に兵糧を運び込むという役目を成功させた松平元康(のちの徳川家康)でしたが、桶狭間の戦いによって今川義元が落命したという報せを受けると、その日の夜半...
どうするかは誰もが知っている徳川家康の物語が始まりました。長くて濃い家康の生涯ですから、どこを描いてどこを省くかが難しいところだと思いますが、第1話にし...
さて、今年の大河ドラマ『どうする家康』が、1月8日の日曜日から始まりますね。主人公はタイトルどおり、徳川家康。言わずと知れた戦国三英傑のひとりであり、江...