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  • 覇王豊臣秀吉と奥州の覇者伊達政宗

    秀吉は関東八州の北条家を屈服させ、奥州の独眼竜で有名な伊達政宗もその軍門に下した。政宗については以前に詳しく書いたことがあるが、政宗は天正17年に摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)で芦名・佐竹の連合軍を撃破し、その勢いに乗じて芦名家を攻め滅ぼしてその領地をも奪い取り、会津の地に居城を移して奥州での覇者としての地位を獲得していた。秀吉が天正14年に、奥州惣無事令を発令し、諸大名の間での私闘・私戦...

  • コラム 秀吉の唐入り(朝鮮陣)は、無分別で身のほどをわきまえぬ愚行だったのか? 2

    さて、秀吉の外征、つまり有名な「秀吉の朝鮮役」についてだが、しかし、そもそもこの名称自体がおかしいのである。誰がこんな名称をつけて流布させたのかは知らないが、いまだに学校の教科書などにもしっかりと「秀吉の朝鮮役」と記載されており、歴史の素人が朝鮮役と聞いたら、秀吉は朝鮮半島の占領が目的だったように思ってしまうであろうし、そもそも、戦前は「秀吉の唐入り」と教えられていたはずなのである。ちなみに、私...

  • コラム 秀吉の唐入り(朝鮮陣)は、無分別で身のほどをわきまえぬ愚行だったのか? 1

    秀吉に関する諸書を数多く読んでいると、その前半から中盤まではベタホメばかりが長々と続いて、秀吉の事績を散々持ち上げるだけ持ち上げておいて、しかし後半の唐入り(外征)のところあたりでドカリと蹴落とし、痛烈な誹謗中傷に一変する。秀吉はボケていた。長年の疲労でモウロクした。心労がこうじて発狂した。躁うつ病を患っていた。異常な誇大妄想につりつかれた。領土欲の権化になった等々、それまでの輝かしい称賛から一...

  • 秀吉の関東征伐 乱世の英雄・北条早雲の幻影 北条家戦国興亡記 8

    さて、智謀雄略の黒田官兵衛は誠心誠意、親身に、懇切丁寧に北条氏政・氏直親子を得々、切々と説き伏せ、降伏して開城するように促したのであった。 そして、北条家はついに官兵衛の言葉に従って開城を決意し、叛逆者の北条家の宿老である松田憲秀を血まつりに上げて惨殺し、その後に豊臣家に屈服して降伏したのであるが、これは、初めから徹底抗戦をあくまでも主張し続けていたはずの、あの松田憲秀が、あっさりと裏切っていた...

  • 秀吉の関東征伐 名将黒田官兵衛の智謀 北条家戦国興亡記 7

    こうして、徳川家康は忠誠無私の精神で徹底的に従順なまでに秀吉に惜しみなく尽くし切り、北条家をあくまでも敵として決めつける態度は首尾一貫していたのである。家康は流言・飛言などに全く動じることもないのだから、必然、徳川と親戚関係にある北条家は失意ぼう然であった。しかも、奥州の伊達政宗が秀吉に帰服したことを知るに及んで、ついに息も絶え絶えの状態となり、小田原城内では、「しょせんは亡国」の気運がみなぎり、...

  • 秀吉の関東征伐 徳川家康の遠謀深慮 北条家戦国興亡記 6

    さて、秀吉は北条方の仕掛ける流言(離間の策略)などはサラサラと受け流していたのであるが、しかし、豊臣勢の将兵らの動揺は全軍の士気に関わる重要な大問題なのだ。ここは、秀吉としては泰然自若と振る舞わなければならない重大な正念場だったのである。 もっとも、史料・諸書によれば、一流の政治手腕に加えて天真爛漫な秀吉は、さすがは大度量の持ち主、人間心理の洞察に鋭い心術の達人であった。ものの見事に流言などは忘...

  • 秀吉の関東征伐 風魔党の暗中飛躍 北条家戦国興亡記 5

    さて、小田原城に籠城する北条方は全くの孤立無援となり、その将兵らは青息吐息の状態と成り果ててしまったのであるが、しかし、北条家は一事が万事、全く手をこまねいて何もしなかったというわけではない。諸史料によれば「離間の計」、つまり、流言による内部分裂を誘うという策略を用いている。この謀略は侮れない。古来より勇名をとどろかせた古今東西の英雄たち、いや、いや、現代社会の政治家や企業のトップ集団までもが、...

  • 秀吉の関東征伐 「秀吉の一夜城伝説」は本当なのか 北条家戦国興亡記 4

    秀吉は小田原城を重囲し、とても戦時体制とは思えないほどの雄大で壮麗な大遊園都市を作り上げて将兵らの士気を鼓舞したのであるが、この壮大な壮挙を横目で眺めている北条家側はずいぶんと意気消沈したことであろう。こちらは悲壮感ばっかり漂わせながらむなしい評定を繰り返す毎日なのだから、これではすでに脈も上がったも同然なのである。しかも、関東では北条方の城が次々と落城したり、すぐさま降伏して開城しているありさ...

  • 秀吉の関東征伐 小田原の大歓楽桃源郷 北条家戦国興亡記 3

    さて、長期に渡る持久戦では、攻め込まれた側は必死になって防戦に努めるので、どちらかといえば攻め込んだ寄せて側のほうが気分の緩みがちになるもの、厭戦気分が大充満するというものだ。以前、小田原城は上杉家の大包囲網、厳重な重囲に遭い、その後、武田家からも攻城されているが、武勇絶倫の上杉謙信公も、勇武知略の武田信玄公でさえも、武力戦による攻城の戦力の消耗を警戒してというよりも、長期の持久戦による将兵らの...

  • 秀吉の関東征伐 勇将一柳直末 北条家戦国興亡記 2

    また、北条家は小田原での籠城戦に備えて、ひじょうに珍しい方策を用いている。 小田原城内に、関東八州の分国内に所領を持つ諸大名の当主をいっきに召集して、その諸大名らの持ち城には北条家直属の重臣や与力を派遣して防備を任せるという、実に風変わりな戦法である。これは、ていのよい人質の意味もあるが、しかし、小田原が落城すれば関八州の諸大名らも一緒に運命をともにするという面白い作戦だ。このようなわけで、北条...

  • 秀吉の関東征伐 北条家戦国興亡記 1

    さて、一方、天嶮の箱根の峠や、険阻極まりない碓氷峠に頼り切っていた北条家側は、ガックリと肩を落とし、その将兵らは大きなため息をついて意気消沈するのであった。諸史料によれば、北条方は、豊臣勢の兵糧問題をあてにしていたと云われており、非常に短絡的で消極的な考え方であったように思えるのだが、しかし、これは当時の極めて常識的な判断、いや、最善ではないにしろ、当時の良識であったといってよいのかもしれない。...

  • 王覇 信長の幻影 (壮麗な豊臣水軍 秀吉の関東征伐)

    天正18年(1590年)の四月、秀吉は全軍の総帥として動員令を下し、関東八州を征するを期して厖大な軍勢を率いて京都を後にしている。諸史料によれば、秀吉をはじめとする諸将の軍装は実に華やかで、その装束などもまことに艶やかで優麗であったという。 北条家を屈服させれば、全国制覇は目前なのである。平和の招来も近いことを大々的に宣伝するうえでも、ずいぶんと派手で華麗な出陣であったに違いない。 群衆はこの輝か...

  • 王覇 信長の幻影 (秀吉の関東征伐 徳川家康と督姫)

    以前に別の章で詳しく書いたが、本能寺の変で織田信長が横死したことにより、旧武田領の甲州・信州・上州は大混乱の状態となり、隣国の徳川家・北条家・上杉家の切り取り勝手しだいの争地と成り果てた。特に、徳川と北条との激戦が諸所で展開され、しばらくは大勢力を誇る北条方が圧倒的に優勢であったが、しかし、徳川方の真田昌幸・依田信蕃が碓氷峠の北条勢を痛快なまでに蹴散らし、北条方の糧道を徹底的に遮断したことにより...

  • 王覇 信長の幻影 (真田昌幸と秀吉の関東征伐)

    さて、上州の名胡桃城を奪われた真田昌幸は激怒し、その脳天から火が噴くほどに憤激してその身をわなわなと震わせながら、「しゃっ!あの北条の猪俣めが、なりふりかまわずやりおったか!」といった感じで、さっそく大親分の秀吉に北条家の横暴を訴えた。真田昌幸にしてみれば、名胡桃城の件で北条家とはいずれ紛争になると覚悟はしていたが、しかしまさか、このように簡単に騙されて名胡桃城を略取されるとは、これはいくらなん...

  • 王覇 信長の幻影 (驚天動地 真田昌幸と上州の騒乱)

    さて、真田昌幸は秀吉の命令に応じ、上州沼田の所領のうち、名胡桃城及びその周辺の領地だけを残して、全て北条家側に引き渡した。 北条家は、家臣の猪俣直則を沼田城に入れ、厳重に防備をさせて守備を任せた。そして、しばらくの間は、平和に何ごともなくすんでいたのであるが、猪俣直則はしだいに名胡桃城が気になりはじめる。 それもそのはずだろう、沼田城の鼻っつらに、名胡桃城があるのだ。名胡桃城というのは、沼田城の...

  • 王覇 信長の幻影 (秀吉の外征と真田昌幸の反骨精神)

    さて、真田昌幸公のファンの方々であれば(私も実は大ファンなのであるが)、いずれは、あの本能寺の変の後のような天下を揺るがす騒乱・動乱が将来的に発生するかもしれないので、だから、ここはとりあえず、「名胡桃城の周辺には、真田家先祖代々の供養のゆかりの地がある。」ということにしておいて、これはいずれウソとばれてしまうかもしれないが、しかし、ここはとりあえず、秀吉をだまして時間を稼いでおいて、そして、もし...

  • 王覇 信長の幻影 (秀吉の雄志と真田昌幸の術策)

    さて、秀吉は度々に渡って北条家に使者を遣わして上洛を促すのであるが、「上州の沼田の地は、以前の徳川家との盟約上、北条のものとすると決めたにも関わらず、いまだに約定は履行されず、その上に、依然として真田家が沼田を領有して北条家に敵対している。豊臣家の威信にかけてでも、この沼田の地を北条家に引き渡すことができれば、仰せのとおり、いずれ早い時期に上洛いたすでありましょう。」と、北条家が無心するかのよう...

  • 王覇 信長の幻影 (秀吉の策謀と真田昌幸)

    真田昌幸は大胆不敵にも徳川領の信州佐久郡をジリジリと圧迫し、あらゆる計略を駆使してその略定に腐心中だったのであるが、しかしながら、この頃は秀吉と家康との仲は大いに好転に向かっている。秀吉は、妹の旭を半ば脅迫的に夫と離縁させて、強引に家康の正室として押し付けるような無理なことまでして家康の歓心を買おうとやっきになっているときなのだ。秀吉は昌幸に対して、「徳川殿は、わしの親戚じゃ。よけいなことをするな...

  • 王覇 信長の幻影 (縦横無尽、真田昌幸の真骨頂)

    さて、真田昌幸は大強敵の徳川勢・北条勢を痛快なまでに翻弄して徹底的に撃退したのであるが、しかし、今後の徳川・北条の巻き返しの大攻勢に切実な不安を覚えて、なんと、越後の上杉景勝が秀吉に謁見するために上京しての留守を幸いに、人質の源次郎(昌幸の次男、信繁。幸村というのは、江戸時代の寛永年間の「難波戦記」という軍記物でつけられた俗名という説があるが、しかし、後年の大坂冬の陣での信繁の大坂城入城の時に、本...

  • 王覇 信長の幻影 (戦国のニューフェイス 真田昌幸)

    関東八州に蟠踞して絶大な勢力を奮う北条家が、関白の秀吉によって征伐される話しを書く前に、例の真田昌幸の動静について語っておかなければならない。なぜなら、秀吉は元々、九州征伐の頃から外征(唐入り・朝鮮陣)が念頭にあって、北条家は勅命による外交的な圧力で屈服させるつもりであったのだが、その後、卒然と小田原の征伐を決意して強行した動機には、真田昌幸の所領である上州の沼田の地が深く絡んでいるからだ。 以...

  • コラム 独眼竜 伊達政宗 Ⅲ

    伊達輝宗は数名の供を引き連れて畠山義継の見送りに出たのであるが、その輝宗の陣屋から表門までは、高々と竹垣でしっかりと作られた狭い通路になっていて、ほんの一人か二人がやっとのことで並んで通れるかどうかの狭い通路になっている。その細長い通路を通過して表門まできて、皆々がその門前に出てくると、義継がゆっくりと振り返り、その場に座し、伊達衆にむかって今日の御礼言上を丁寧に述べるや否や、だしぬけに突然、い...

  • コラム 独眼竜 伊達政宗 Ⅱ

    ところで、伊達政宗の人格形成に多大なる影響を与えた事件といえば、まず第一に、政宗は幼少期の頃に疱瘡を患い、その膿が片方の目に入った為に隻眼になってしまったことであろう。この時代は、まだ、長男が嫡男として家督を継ぐという決まりはないのであるが、しかし、戦国の世を乗り切れるだけのそれ相応の実力が認められれば、まずは長男を重要視して、優先的に家督を譲るという風潮・風習はあったのだ。だから、長男として誕生...

  • コラム 独眼竜 伊達政宗 Ⅰ

    東国の奥州(陸奥の国)を席巻した伊達政宗は、戦国時代末期の風雲児である。父親の伊達輝宗から家督を譲られたのが、若年の十八歳の頃、奥州の片田舎の米沢から他領を侵略することわずか五年、天正十七年の頃までには会津四郡、仙道七郡をたちまち平定し、その勢いはとどまることを知らず、出羽の国にまで兵馬を進めている。強国の芦名家を攻め滅ぼして本城を会津の地に移し、二十三歳の政宗は約百万石を領するまでの大大名にのし...

  • 王覇 信長の後継者 (秀吉の大望)

    秀吉は、古代中国の前漢の創業者である劉邦のように徒手空拳の身の上から飛竜昇天の如くたちまち戦乱の世に頭角を現し、まさに乱世の英雄といってよいほどの大偉業を成し遂げた人物であり、また、異常で異様とも思えるほどの日本史上前代未聞の大出世を果たした大幸運児だったのであるが、しかし、残念ながら、肉親・親族には決して恵まれたとはいえない。 秀吉が親族関係に恵まれなかったことも、豊臣家最大の不幸ではなかったか...

  • 王覇 信長の後継者 (秀吉の遺産 関ヶ原役と家臣団)

    諸説によれば、後年の豊臣家は武断派と文治派に分かれ、その派閥争いにつけ込んだ徳川家康が武断派を抱き込んで関ヶ原役に大勝したというが、しかし、このような分裂騒動がなかったとしても、秀吉恩顧の武将たちの多くは、無念ながらも家康につくしかなかったであろうと思われる。なぜなら、前章で書いたことであるが、秀吉の取り立て武将の多くは、その家臣団との信頼関係に非常に不安のある君臣関係だったからである。独裁政権下...

  • 王覇 信長の後継者 (豊臣政権の功罪 秀吉の家臣団)

    秀吉は英雄中の英雄であるが、門閥の特性である主君を支える譜代の家臣団というものを持っていなかった。織田信長は勇猛な尾張衆に支えられ、徳川家康は忠誠無私の三河衆を最も頼りにしていたのである。その他の乱世の群雄たちも、優秀な家臣団に恵まれて、しかも実に強固な結束、家中の運命共同体的な団結力に支えられていたからこそ、その支配する領国は安定し、五里霧中の戦国乱離の世を生き抜くことができたのだ。 また、譜代...

  • 王覇 信長の後継者 (乱世の英雄と天皇家の野望)

    天正16年(1588年)秀吉は後陽成天皇の行幸を仰ぎ、聚楽第への行幸を実現させている。これにより、天皇家をはじめとする朝廷の権威を擁する秀吉が天下一の大実力者であることがさらに誇示され、全国の群雄らは秀吉の命令を無視できないものとなり、また、果てしのない戦乱の世から平和への招来を感じさせる気運と希望がいっそう高まったのである。ところで、織田信長は、朝廷の権威を利用はしたが、その利用価値の必要性が感...

  • 王覇 信長の後継者 (秀吉、天下取りの夢)

    九州の肥後国(今の熊本県)は非常に農業生産力の優れた土地で、秀吉は九州征伐の時に肥後に入った際に、「いまだかつて、これほどの美国を見たことがないぞ!」と驚嘆しているし、あの大東亜戦争当時においても、日本で自給自足にこと欠いたことのない唯一の土地であった。秀吉は後年の外征(唐入り)において、肥後国を任せる加藤清正、小西行長を先鋒に立てて朝鮮半島に上陸させているから、肥後がいかに生産性の富んだ土地であ...

  • 王覇 信長の後継者 (秀吉、西国平定)

    さて、九州において猛威をふるった島津であったが、秀吉の前代未聞の膨大な大軍勢の前に降伏し、島津家の当主である島津義久は剃髪して恭順の意を示し、急速に南下を続ける豊臣勢の総大将の羽柴秀長に対して寛大なる処置を懇願するのであった。 この報告を受けた秀吉は快諾して許し、九州での今後の仕置きもテキパキと済ませて京都に凱旋するのであるが、秀吉はこの九州征伐の際に、帰服して恭順する中小豪族たちに本領安堵状を乱...

  • コラム 総司令官 石田三成の悲運

    石田三成は実に優秀な行政官僚であるが、しかし、武将としての働きぶりはイマイチで、秀吉の小田原征伐の際にはあまりにもフガイナイ醜態ぶりを見せており、しかも、運も非常に悪い。 秀吉は、石田三成の経世家としての才能を高く評価しながらも、その一方で、武将としての功名も立てさせてやろうと思ったのであろう。この小田原征伐の際には、この時は珍しく三成は武将としての働きを見せて、その方面軍の総大将的な役割を担っ...

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