44.姿勢の修正は長期 さて、修正学習について、まず、原因分析によって、原因を突き止める、そこで普通は「知識」に原因がある、何かの知識が不足しているか、知識を誤って記憶していたか、そういう場合は、その「知識」の修正から入るわけです。それでその「知識」を再
96.夜郎自大ということ 同調化した社会では、マスコミ、ミニコミの流す情報までが、大きくは一つの流れに飲み込まれ、小さくは批判しあっているようで、大きい流れの中での支流の様相をなすようです。 その情報空間の中で、その情報をうのみにしていると、自分の所属
95.「知識の整理」と「和と同」の違い 「使える知識」の「積み重ね」の効果について、社会人としての在り方の違いです。 「導くということ99.君子の交わりへ」で、「自由と連帯」の社会を目指すことばとして聖徳太子の17条憲法にある「和を以て貴しとなす」とい
94.「知識の整理」と「仕事の能力」 「使える知識」の「積み重ね」の効果について、次は「社会」に出た後の、つまり、社会人としていきていくことについて、まず「仕事」への影響です。 「分断された知識」を一時的に蓄え、それを使用することで、進学に成功し、その
93.「知識の整理」と「進学の準備」 「使える知識」の「積み重ね」の効果について、次は「進学」のための「受験」への対応です。 例えば、高校進学で、中学3年になって、いわゆる「受験勉強」に入ります。その際、それ迄の「使える知識」の「積み重ねの違い」が出ま
92.「知識の整理」と「授業の理解」 「使える知識」の「積み重ね」の効果について触れておきます。まず、授業の理解での違いです。 自主学習で「知識の整理」が進んでくると、学校の授業についての「理解」が良くなります。学校の授業は、カリキュラムに従い進めら
91.後で差が出る違い さて、「知識」の分断をそのままにする学習と「個の中のつながり」を推し進めた学習の違いです。 無論、「分断された知識」を教え込まれ、それをそのまま受け入れるとしても、それを既存の「知識」と結びつけ整理する力が全くはたらかないわけで
90.「能力」のつながり「能力」について、それが簡単に「これこれ」と言えるようなものではなく、さまざまな「はたらき」がつながり支えあって発揮されるものだと言いたいために、その「能力」の一角を占める「知識」について取り上げたわけです。なぜなら、その「能力観
89.「急がせる」ことによる「知識」の未消化 さて、生徒に「教える」、その際、生徒が解らないので質問する、それに答える、それでも解らない、別の生徒が質問する、そういうことが続いていても、教師は、時間が来るとその授業を終えます。あるいは、黒板に要点を書き、
88.学歴社会の基にある能力観 世界には、いろんな国があり、どの国も、それなりの地位とか階級とかがあり、それによって人の扱いが変るようです。しかし、その扱いの差には違いがあります。 今、権威主義国家と民主主義の対立が言われていますが、例えば、国家の指導
87.知の分断と競争 「競争させる」、あるいは「比べる」が、なぜ、「知の分断」と結びつくかということをとりあげてみます。 競争させるとき、何かで競争させることになります。 スポーツでいえば、例えば、短距離とマラソンを比べることはしないでしょう。同じ競技
86.「教え込み」「競わせ」「急がせる」教育が生み出すもの 学習が、「個の中の」それも「つながりのある」知の形成だとすれば、それにそった学習を推し進めるべきでしょう。 それは、無論、何よりも本人が自らの心身を使用してすすめるものでしょう。そうすると、果
85.「解った」とは? ものごとを表面的に見れば、それぞれが分かれて存在しているように見えます。「りんご」は他と関係なく「りんご」としてあるように見えます。しかし、実際はそうではありません。「ことば」は物事が分離して受け止めることを助長します。「禅」が「
84.「意味対象」の広がり深まり 「理解」が「深まる」というのは、その理解の対象となる物事が、様々な「つながり」をもって「広がり」「深まる」ようになっているからで、「つながり」が無く分離したものであれば、そうはいきません。 それについてここで取り上げた
83.「深まる『理解』」とは 我々は、よく「理解が深まる」という言葉を使います。それからすれば、「理解とは『深まる』ものだ」ということを表していると言えるのでしょう。 「ことば」には、その「コトバ」の「『意味』を担う『対象』」があるとして、それを簡単に
82.外からの「知識の総合」は可能? 今の教育には、本人が、理解を深めるための「動機づけ」も「学習の機会」も無いということを挙げました。文部省による「総合的な学習」に対する取り組みとされるものもあるのですが、その指針に目を通すと、今一つピンと来ない、と
81.理解を深める 「現実」に対処できる「能力」の形成について、その中の「知識」について、77で「そこで、そのための『知識』はどこでつながるのかというと、本人の中です。しかし、本人にその動機付けがなされているでしょうか。その大切さを自覚するように導かれて
80.「現実」に沿った「知識」の形成を 「専門知識」の囚われが「現実」を歪めるということで、最近のことで頭に浮かぶのは、「地球の温暖化」のことと、「コロナ」の件です。 アメリカの経済界出身の政治家が「地球の温暖化」をフェイク呼ばわりしたり、感染病の専門
79.総合問題と取り組む機会がある? 学校では、教科ごとの「知識」を単元に分け、その単元を更に分けた小単元ごとに授業をし、その後、その知識を使用するための学習として、「問題」を解く学習がなされています。しかし、その多くは単純な分割知識をそのまま使用するも
78.現実と知識の乖離 簡単に言えば、我々が「知識」するものは、もともとつながっている対象を分けて、あることについては教科Aとして、他のことは教科Bとして教えられる、そういうふうになっていて、そのAとBで学んだことの関係についてどうなっているかというと、
77.現実の問題にバラバラな知識で対応できる? 「バラバラな知識の出し入れに重きを置く学習」というのは、あらゆる教科について言えることですが、そもそも、それぞれの教科のつながりを教える学習というのがまずありません。 何かの問題が起きると、それに対処しよ
76.「知識」そのもののつながり 「理解」にしろ「思考」にしろ、自分の中の知識の使用が欠かせないわけですが、その時必要な知識の引き出しには、その仕切りの取り外しを自在にやることが大きく関わっているわけで、それには、「知識」が、そういうふうにつながって形成
75.「記憶力」と「思考力」も別ではない 「知育」にの「能力」として、「理解力」とか「記憶力」について、もともとのつながりがあり、別のことではないということを述べましたが、「記憶力」と「思考力」についても、同じことが言えます。 外部からの「新しい知識」
74.「理解力」と「記憶力」は別ではない 「知」に関する能力は「知育」で、「健康」に関する能力は「保健体育」でとなっています。そう分けたのは「ものごとの全て」をそのまま伝えることができない以上、やむを得ないことです。しかし、それは、もともと全てがつながっ
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44.姿勢の修正は長期 さて、修正学習について、まず、原因分析によって、原因を突き止める、そこで普通は「知識」に原因がある、何かの知識が不足しているか、知識を誤って記憶していたか、そういう場合は、その「知識」の修正から入るわけです。それでその「知識」を再
43.子供のからだは大人より姿勢の修正を受け入れる 姿勢が自分の目で見れないことから、人に直してもらうとして、姿勢を正すことそのものを生業とするような人がいるだろうかと考えると、実はそれだけを目指すという業種はないのではないかと思われるわけです。ただ、何
42.姿勢と取り組む動機づけの難しさ 姿勢と能力の関係について、一般には、無関心なのではないでしょうか。しかし、人の能力について、追求する人たちの多くは、その重要性を認めています。 しかし、教育の世界ではどうでしょう。姿勢の修正を本格的に取り組んでいる
41.自分の自然な姿勢は「見える」?前回、「姿勢を正すことが難しいのは、多くの人が持つ、自身の姿勢に関する『視覚イメージ』のほとんどが、『妄想』だからではないか」ということについて。 人は、他人の姿勢は一応「目」で見ることができます。一応と言ったのは、
40.「能力」の土台をなす「姿勢」 前々回に「視る」ことと「姿勢」のことに触れました。 人の能力について触れている著作に目を通すと、多くの分野で、「姿勢」の在り方が能力を左右することに気が付きます。 解り易いのは、老化に因っての姿勢の歪みが人の認知能
39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
38.「内と外を合わせる」こと 我々は運動する際、骨とか筋肉を使用します。その際、筋肉で言えば、表層筋と深層筋を使います。ところが、表層筋は外から見えますから、その動きを言葉で伝えるのは易しいわけです。ところが、深層筋の動きを共有するのは非常に難しいわけ
37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
88.基にあるものを整えるさて、椅子の廃棄の例をもとに我々の中の「知識」というのが、その言葉から受けるイメージと異なって、ある意味、ダイナミックに物事を生み変化させていく、そういう捉え方をしてもらえばということだったわけです。 そこで、人が物事に対処して
87.そのものの「振る舞い」さて、前回「内部 知識を整理体系化する」ということを言いました。そのことについて触れて行きたいのですが、その前に、その「内部知識」という言葉について少し触れておきます。どうしても知識というと何と言うか静的で固い感じがするのです
86.整理体系化された知識を準備する必要性 今まで述べたように我々は様々な状況の中で考え行動をする際、その基になる知識を自分の中から引き出して使用するわけです。そうすると、その内部知識の整理体系化がそれに対する準備ということになるわけです。準備がきちん
85.現実を様々な次元で受けとめる我々は、ものを見る時、ふつう、それがそこにそのまま変わらずある「物」として見ます。ところが、例えば、それが林檎であるとて、その林檎を高速度で撮影した映像を早送りで見ると、その林檎はみるみる崩れて消えてなくなります。それは
84.「物」の実体とは? 「コトバ」を介して「物」のイメージが浮かび上がる、そのことを実感すると、その「コトバ」の「意味」するものが、そのイメージを生み出す働きがそこにあるのだというふうに感じられてきます。そうすると、それが、スマホとかパソコンにキーボ
83.検索と連想さて「深層」のメカニズムをさぐる例として、「深層」から「意識」への「想起」を取り上げる研修です。「想起」というのは、「思い起こす」、 つまり「深層」から様々な知識を取り出して「意識」に上げる、その際にその過程を「意識」に上げてたどってみま
82.「深言」ということば三層フローチャートに書き込みをやる、言葉を書き込むわけです。その言葉について、外言と内言という言葉があります。 内言とは、音声を伴わない自分自身のための言語であり、思考時に使用される。 一方、外言とは音声言語であり伝達の機能を果
81.三層間の移行三層フローチャートの書き込みを同じテーマで何人かがやるとします。その時、同じ過程を「行動」と「意識」と「深層」の各欄にどう振り分けるか、人によって違いが出てきます。我々は「意識」と「深層」の間が固定されているように考えがちですが、それは
80.深層に焦点を当てる現在の教育に問題があるなどと言えば、よくある民間による公教育の批判として受け止められるかもしれません。個々の学習過程を、三層フローチャートで分析することをやります。一人一人が書き込むことですから、全て同じにならないのは当然ですが
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ