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大胆仮説でビジュアルに解き明かす「天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)説」!!
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2008/10/27
いったい何を根拠に『金城温古録』は「江戸城の高台は武用なり」と言い切ったのか。驚きの答え
ここ半年程のブログ整理 →太田道灌の江戸城は本当に連郭式か。徳川家康の巨大な?天守曲輪を考えれば…
続・赤い柱の御殿=それが「尾張造」風であれば本殿は山麓からも屋根が見えたほどの規模に
積年のナゾ(安土城)→山頂の主郭にあったのは文献記録どおりの「赤い柱の御殿」だとすれば
逆算2続編。七重と九重で瓜二つとは? 安土城天主は「東側」も!懸造り舞台が張り出していたのかも…
逆算2。幻の北ノ庄城天守も、あえて駿府城や水戸城と同様の三重目「入側縁」式と考えれば…
当初、天守のデザインに幅広いバリエーションがあったのは、要は“カンブリア爆発”なのでは……
天守画イラスト+α ギャラリーページ(固定)
続・あえて辰巳櫓から逆算… 創建天守の位置について/天守画イラストのギャラリーページ新設!
あえて辰巳櫓から創建天守を「逆算」してみれば、究極の十字砲火(横矢掛り+α)の天守に
防衛・威かく・象徴のために、本来の天守は天守曲輪のいちばん「手前」だったか
日本人の「城の築き方」がなぜチベット周辺に酷似?―― 摩訶不思議な現象を「縄文人」DNA研究と突き合わせれば…
いかにも移築の大天守だけが特別扱い。→家康のねらいは石田三成に対する完全否定か(封建制vs郡県制)
家康時代の二条城天守をイラスト化 → 家康好みの複合連結式の天守は、すでに巨大な「二段式」天守台だったか
特大の巨石「鏡石」は、実は仮想敵の目を避けつつ!自らの家臣団にのみ見せたもの?
あえて妄言。戦国時代の堀や土塁は、急傾斜だけで「登れる・登れない」を問う場所ではなかったのでは
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