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折り返し地点を過ぎれば人生下り坂 http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/

戦後史ネタが多いです。そのほか音楽、ギター、まんがなど。

昭和という広大な重箱の隅をほじくるニッチなブログです。 白洲次郎という、イメージ先行で語られながら、 実はかなり怪しげな人物が結構お気に入りです。 『白洲次郎とは何者だったのか』 http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50598057.html ほかに、ギターから見た音楽、会計からみた経営、 といったスタンスのネタが少々。 FXとアフィリエイトは目の敵にしていまーす。

がんこんとろーる
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2008/06/26

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  • 日劇 1946

    ◎日経 私の履歴書 2016.11.08 より※クリックで拡大参考リンク:読書感想日記⊂二二二( ^ω^)二⊃ - 岡村吾一戦後は、埼玉県や群馬県内の博徒を集めて北星会を結成。北星会は、児玉が発起人となった関東会にも加わった。日劇の地下に事務

  • 浜松 大福もち食中毒事件

    ◎衛生史上、有名な事件に気になる人名が登場紅白の殺戮者 昭和十一年浜松一中 毒大福もち事件 久保親弘上記の話の中で登場するこの二名 ・石井四郎(731部隊のあの人物、この当時同部隊の母体は発足済み) 参考Wikipedia ・小宮喬介(名古屋医大教授

  • Intemission

    ◎面白い本が出ましたよ『下山事件 暗殺者たちの夏』 柴田哲孝 ※Amazonリンク「小説だからこそ、書けることがある。 (中略)私はここに、小説『下山事件 暗殺者たちの夏』によって、再び事件の“真相”を問う」(公式サイト・著者「あとが

  • 日本鋼管 小伝

    ◎田中清玄と塩田剛三(リンク)で記された 昭和20年代の日本鋼管周辺の別角度からの伝聞引用元:川崎在日コリアン生活文化資料館「戦後日本鋼管周辺の日本共産党細胞活動とコリアン」〇笠原儀一氏昭和23年 川崎へ 22歳:正月に群馬県から今住んでいる池上新町に

  • 一万田尚登と三浦義一の家系図

    引用元『政財界人の命運』(名取義一、北辰堂、昭和27年)一万田尚登/高橋龍太郎 家系図 ※クリックで拡大高橋(龍太郎)家は愛媛の出で大したことはなかったが、長男の吉隆氏(大阪銀行人事部長)が山口竹治郎氏(大阪貯蓄銀行元頭取)の女婿になってい

  • 下山事件前後(85)

    ◎金銀運営会の沿革と関連する人物たちについて「荒木光太郎文書解説目録」名古屋大学【9】財政金融協会財政金融協会は渋澤敬三が理事長を務める財団法人である。設立年は確定しえなかったが、1944(昭和19)年5月30日に第1回経理委員会が開催されていることや、後述の

  • 聖戦技術協会の発足

    ◎聖戦技術協会の発足と、その前後の亀井貫一郎の動向昭和史(上) - 中村隆英近衛文麿は1939(昭和14)年以来、平沼(騏一郎)に代わって枢密院議長を務めてきたが、38年秋以来の新党計画が再燃し、いわゆる「新体制運動」に次第に深入りしはじめた。この時も、木戸幸一

  • 三浦義一『悲天』(6)

    ◎シリーズ最終 参考:前回(5)[尾崎士郎による跋文]「当観無常」「草莽」--とつづいて、「悲天」の公刊されたことは三浦さんの心境に一大変化の来たことを示すものである。私と三浦さんとは同学年の戌年であり、二人ともすでに五十なかばを過ぎている。私はこのす

  • 三浦義一『悲天』(5)

    ◎前回(4)のつづき[昭和23年~昭和28年]わが故郷、大分市の古後老舗ひさぐ柚菓は『雪月花』とぞ ※参考:銘菓「雪月花」於軽井沢閑雲室 すでに大きむすめになりし子と信濃のくにに朝餉するなり七年三月二十一日アメリカ講和批准す。感あり ※引用

  • 三浦義一『悲天』(4)

    ◎前回(3)のつづき[昭和20年~昭和23年]昭和二十年八月二十五日早旦、代々木原頭に神籬をとりかくみ、わが大東塾十四志士みごと一斉に割腹自刃す。行年十八歳の若きあり。誰か泣かざらむや。 ※参考:大東塾十四烈士 六十三年祭顧みれば国の危機を憂い一月下

  • 三浦義一『悲天』(3)

    ◎前回(2)のつづき[昭和17年~19年]二月吟十日夜。眼のあたりに大東塾生五名を獄に下しぬ。国の命に賭けて言わむという心も今は戒め。おごそかなる神意に随順せしむとするのみ。十一日紀元節。塾内外六十余名の一行、わらんじ踏みしめて謹みて宮城参拝。われ亦、手

  • 三浦義一『悲天』(2)

    前回(1)のつづき[昭和16年~17年]大詔を拝して 昭和十六年十二月八日 病めりともわが死にがたしきょうの日の大き御告りをききて苦しえ兵器の多寡優劣にあらずして、一に質に繁るはようやく一億も知りたむが如し。質の中核は生命である。すなわちの麗現こそ赫々たる

  • 三浦義一『悲天』(1)

    ◎三浦義一歌集『悲天』(昭和28年)より、 主に歌以外の小文より、資料性のありそうな部分を抜書き ・旧字、旧かな使いは現代のものに変更してあります。 ・書中、時系列順でない記載を年時順に並べ変えました。[おぼえがき]より・『草莽』以後、すなわ

  • 三浦義一『悲天』インデックス

    ◎三浦義一歌集『悲天』(昭和28年)より、資料性のありそうな部分を抜粋『悲天』その1:昭和13年~16年、および覚書その2:昭和16年~昭和17年その3:昭和17年~昭和19年その4:昭和20年~昭和23年その5:昭和23年~昭和28年その6:序文 及び あとがき

  • 紫垣隆/保田與重郎/三浦義一

    ◎昭和18年秋、三浦義一と保田與重郎が連れ立って、 熊本の紫垣隆を訪ねたという話(参考)に関する情報引用元:熊本ロータリークラブ 週報No.20 2013年11月15日号「保田與重郎の思い出」松田敬吾会員(保田與重郎は)東条英機から中国へ追いやられて、当時、結核だっ

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