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2008/05/16

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  • マイアミの奇跡を知っていますか?

    暑い夏の日だったと記憶している。 とはいえそれは、テレビをつけている日本での話。 現地がどうだったかを知る由はない。 日本のオリンピック出場は、銅メダルを獲得したメキシコオリンピックから実に28年ぶりだった。 わたしは銅メダルの頃を直には知らないが、ソウルとバルセロナで悔しい思いをしたシーンはよく覚えている。 どちらも、アジア予選での話だ。ちなみにわたしが日本代表というものを知ったのは、「日本代…

  • 【ブラジルワールドカップ寄稿】記憶の決勝カード

    2014年ブラジルワ-ルドカップ決勝が近づいてきた。 アルゼンチン-ドイツのカードは24年ぶりだと言うが、このイタリア大会での決勝戦を実際に知る人はどれぐらいいるだろうか。そして南米大陸でこの決勝カードは28年ぶりになる。つまり二大会つづけて同一決勝カードだったのだ。 ドイツはその後も決勝に姿を見せているものの、アルゼンチンはマラドーナと同じ歩みだったと言える。決してワンマンチームでは無かったが、マラド…

  • '93年の追憶

    サッカーにおいて”たら、れば”は言ってはいけないという言葉のひとつだ。 あの時にああしていれば、ああなっていたら・・・そんな事を言っていても、 無慈悲な現実は何も変わらないからだ。 サッカーの日本代表はアメリカワールドカップ予選の出場権を懸けたアジア地区 の最終予選で得失点差で韓国に競り負け、出場権を獲得できなかった。今は 「ドーハの悲劇」という言葉だけが残る、遠い昔の出来事だ。 まだ日本サ…

  • ストイコビッチ以前の名パサー

    アマチュアであるJSL(日本サッカーリーグ)と、プロ化した Jリーグ草創期の間には、大きく評価を伸ばしたチームと 下げたチームがあった。 前者は鹿島アントラーズで、その飛翔ぶりは今でも伝説として 語られる。一方後者では、ガンバ大阪、浦和レッズ。そして 名古屋グランパスが上げられるだろう。 名古屋はリネカーという大型補強もしたので、特にJリーグ 開幕後の失速ぶりには失望が大きかった。それにJSL時代の …

  • 翻弄

    読売クラブがヴェルディ川崎と名を変え臨んだ1993年のJリーグ開幕戦、 そこには見なれぬ外国人選手二人がいた。 一人はFWのマイヤーで、この選手はこの日のマリノス戦で最初のゴールを 決め、Jリーグ第一号のゴールを決めた選手として永遠に記録に残る選手 となった。 もう一人のハンセンはディフエンシブな選手で、この日はスタメンに 加藤久が入ったためMFでの出場だった。 Jリーグが進むにつれ調子を落としていった…

  • 迷いの時代 6

    1985年、翌年のメキシコワールドカップ出場に向けて冷静に 自分たちの立場を分析して的確な戦略(≒しっかり守って、 数少ないチャンスを生かす)で勝ち進んでいった日本代表。 ところが木村和司、水沼貴史、都並敏史、加藤久など日本の 個々の選手のレベルは決して低くは無かった。しかもパスを 繋ぐ、攻撃的にいこうと思えば戸塚哲也、与那城ジョージ、 長沢和明などの選手たちも国内にはいた。 つまりはチームとして…

  • 迷いの時代 5

    長沢和明が召集、起用されたキリンカップ。 この大会は読売クラブと日本代表が同時に参加し対戦するという大会 だったわけだが、抜群の攻撃力を持つ戸塚哲也、与那城ジョージの実力 を直接対決で見せつけることで日本代表に召集されるキッカケになれば、 と思っていた。 つまりは日本のクラブチームの王者と代表チームが同時に出場する というこの奇妙な大会をわたしは当時歓迎していたのだが、 ”もしかしたら”それは良…

  • 迷いの時代 4

    森孝慈監督は一次予選最終戦、シンガポール戦からヤマハの長澤和明 を召集した。ホームで勝つか引き分ければ一次予選突破、しかも相手の シンガポールにはアウェーで3-1で勝利しているという事で余裕を持って 本番からの起用をおこなった(もっとも当時は試合のたびに壮行試合 など組まれていなかったため、本番から起用せざるを得ないのだが)。 長澤召集の正確な意図は解らないが、当時の中盤は四人の構成。 木村和司…

  • 迷いの時代 3

    攻撃の中心だった木村和司は、「一緒にプレーしたかった」と 与那城ジョージ、戸塚哲也の合流の遅れとホームでの韓国戦の 采配(木村に替えて与那城を投入)への未練を口にした。 森孝慈監督はそれだけ固く韓国を相手に攻めを挑むサッカーは 展開できないと思っていたのだろうが、完全に”理想への未練” を拭えてはいなかったに違いない。 ここで話を少し遡る。東アジア地区二次予選、香港戦の直前に 日本代表はFWとし…

  • 迷いの時代 2

    金子達仁の出世作にして最高傑作、『28年目のハーフタイム』。 この中で”(ある程度ボールをキープして)自分たちのサッカーを 展開させて勝てる”という攻撃側の選手たちと、”守り抜いて 少ないチャンスを生かすしかない”と考える西野朗監督および 守備側の選手たちの葛藤が描かれていた。 前者は理想であり、後者は現実だ。しかしながら日本に自前のサッカー を展開して勝てる力が無かったかと言えばそうでも無く、事…

  • 迷いの時代 1

    『サッカー批評』61号、連載記事の「日本サッカー戦記」であの 1985年10月26日の日韓戦が取り上げられた。 これでピンとくる人も最早少ないと思うが、'86メキシコワールドカップ アジア地区最終予選、これを超えれば日本が初のワールドカップ出場 となったあの試合だ。 もっと早く合流させてほしかった。 一緒にプレーしたかったのに。 木村和司はこうコメントしていた。 攻撃の中心選手は、見ている方と同…

  • 切り裂く閃光

    ワールドカップは明るい太陽の光に包まれた大会。 '86年のメキシコ大会を最初に見てしまったために、 わたしの中ではそんな思い込みが出来ていた。 だから四年が経ち開幕し次の大会は、どこか 薄暗く見えた。開幕ゲームでアルゼンチンが カメルーンに苦杯を喫し、メキシコで神の地位 にまでのぼりつめた男がうな垂れた姿を見せたのも、 その一因だった。 面白く華やかだけど、明るさが無い大会。 開催国はイタリア…

  • 無重力のボール

    不敗神話−それがサッカーにおいてどれほど儚いものかを、 多くの人は知っているだろう。 1985年。翌年のメキシコワールドカップに向け船出した 日本代表には松井清隆という守護神がいて、”松井 が守る試合は負けた事が無い”とされていた。 それがワールドカップ出場へ向けての微かな願いを 込めたものなのか、あまりにも注目されないサッカー 日本代表の話題づくりのためだったかはわからないが、 いずれにしても…

  • 宇宙から来たサイドバック 2

    わたしはあれを今でも”何らかの別の意志”を働かせた陰謀(?) だと思っているのだが、レオナルドの退場とそれにつづく出場停止 処分はそれほど衝撃だった。 アメリカワールドカップ決勝トーナメント一回戦の対アメリカ戦。 レオナルドは競り合いの中レッドカードを受け退場となった。 一試合はやむなし、と思っていたらそれだけでは無く、4試合の 出場停止。つまりブラジルが勝ち上がっていっても、もうこの ワール…

  • 宇宙から来たサイドバック 1

    (これ以上サッカー選手の個人能力の進化は無いだろう。 だって、人間だもの) そんな思いこみを時として打ち破ってくれるから、人間の やるスポーツは楽しい。そしてその確率が高いのがブラジル という国だ。 テレビ画面を見ているだけで熱中症にかかりそうな'94年の アメリカワールドカップ。ブラジル代表は魅惑とは程遠い ”外れ”(それはブラジルらしからぬ堅実と同義語に近い) を予感させるチームだった。け…

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