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反省なら猿でも出来る------と言うけれど https://blog.goo.ne.jp/19300403

毎日の生活(人生)の歩みの中に時には、立ち止まって振り返って-----そんな時何かを書きたい場所。

戦前、戦中、戦後と生きてきたのか、生かされてきたのか、今生きているのに感謝せざるを得ない。 激しく変わる世に、逆らう事も流されることもなく、平然と見ていられる年代の自分。 果たして此でいいんだろうか? いいか、悪いか、知らないが兎に角書いてみよう==== 目に触れたら一寸読んでください。 宜しく----------。

積丹の男
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北区
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小樽市
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2008/04/11

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  • 都合で、休んでおりましたが、再開します、宜しくお願いします。

    詩人サムエル・ウルマン曰く、「頭を高く上げ、理想を追う限り人は80歳にして尚、青春にあり。」この心意気で、再出発をしたいと思っていますので、宜しくご声援お願いします。都合で、休んでおりましたが、再開します、宜しくお願いします。

  • 同期会--------どうする。

    昭和23年旧制中学卒業(21期。)同25年新制高校卒業(1期。)一緒に入学したのに卒業が別々の我等。歴史に翻弄されてきた我等同期。そんな我等が----------名付けて21.1同期会。綿々と続けてきた同期会です。今年は、5月23日と決めた。入学106名の我等、現在、物故者48、所在不明48、残りの我等、尚同期会をつづけると意気盛んなり。全員80才をこえているが--------。詩人サムエル・ウルマン曰く、「頭を高く上げ、理想を追い求める限り人は、80才にして尚青春にあり。」青春-----------青春-------。同期会--------どうする。

  • 最後のクラス会。

    北海道の民謡を代表する、江差追分の歌詞に「忍路、高島及びもないが---」と唄われている高島(小樽市)の小学校に私達は、昭和12年に入学し、昭和18年に卒業した。13才だった。戦時中のこととあって、途中で国民学校と称していた。卒業後私達は、途切れ、とぎれながらクラス会として集まり、親交を温めていた。然し。「少年老いやすく-------」私達は、還暦を迎え、古希を過ぎ、そして喜寿を超えた。そして、傘寿は目の前である。既に、半数を超える友は他界に、病にある友も又多いことから、定期的なクラス会は、ひとまず解散のこととした。その最後のクラス会を小樽市内で行った。まだまだ意気盛んな面々男子5名。女子16名。が集まった。(圧倒的な女子の生命力を感じさせられた最後のクラス会だった。)最後のクラス会。

  • 無言館「祈りの絵」を観て----------。

    観ているうちに、涙が--------,画家の道を歩みたいと願っていた青年達があの忌まわしい戦争で、戦場の露と-------。あの不条理な「戦争」で如何に多くの若うどが国の為と言う-----その一言で命を捧げた。国が若者を殺したのでは------------。無言館「祈りの絵」を観て----------。

  • 礼文島金環食観光-------。その2。

    礼文島金環食は私の脳裏に鮮明に刻まれて、六十二年経った今でも、あのダイヤモンドリングの輝きを瞼に浮かばせてくれている。あの時の状況は、私の筆舌ではとても表現できない。多くの方々に聞かせたいと思ったが、我が思い到らず一間時引き下がりたいと思います。悪しからず、ご了承ください。今後も、趣を変えて、引き続き独り言を喋っていきたいと思っています。宜しくお願いします。礼文島金環食観光-------。その2。

  • 礼文島金環食観光-------。を一時中止してどうしても言いたいこと。

    昭和二十年八月十五日、日本は米国など連合国の前に無条件降伏をしたのである。八月十五日は、終戦記念日ではなく、敗戦記念日なのである。平和呆けしている日本人は、日本が戦争に負けたのだと言うこと、どう思っているのだろうか、戦争に負けた国が今此所にこうしてあることを、今一度考えてみてもらいたい。北方領土を云々しているが、確かにソ連軍が不法に占拠したが、ソ連軍にすれば占領したのだ。戦争は死にぬるか、生きるか、食うか食われるかの極限の状況である。今の次元で処理できない問題がさんせきしている。私は、どうしたらいいのでしょうか?礼文島金環食観光-------。を一時中止してどうしても言いたいこと。

  • 礼文島金環食観光-------。その1。

    今から、60年前、昭和23年5月9日11時50分23秒8---礼文島で金環食が見られた。此を見るためのツア-が有った。その頃ツア-という言葉などなかった。小樽港から船で礼文島まで行って、金環食を見るというのであった。船は、白山丸と言って当時では豪華船だった。もっとも敗戦間もない日本にはまだろくな船はなかった。物好きにも私は、金環食を見たくて、白山丸の乗船券を買ったのである。券には、「礼文島金環食観光白山丸記念乗船券」と印刷されていた。この券のコピ-は今でも大事に持っている。豪華船の船旅に私はワクワク、ドキドキであった。然し、その船旅は大変だった。小樽湾外を出て間もなく波が高くなり、船は大きく揺れだした、揺れは益々大きくなった。たちまち船内は、船酔いのためトイレに、甲板に------ゲロゲロの人で騒然となった。幸...礼文島金環食観光-------。その1。

  • 世界一は、 北海道余市で生まれた。

    先日、10月15日の北海道新聞の全面広告にでかでかと見出しに書かれていました。ご覧になった方がいるだろうか?「ニッカシングルモルト余市1987」世界最高シングルモルト受賞。私の故郷、余市の話題-----つい嬉しくなって。このブログに、ニッカの竹鶴社長と、リタ婦人のことを何編か書き込みをしていたので尚のこと。世界一は、北海道余市で生まれた。

  • お詫びを申し上げます。

    去る十月十一日付け投稿文のタイトルを「沖縄にもう一度------」とすべきを、「小間縄にもう一度------」と、間違って入力し、そのまま投稿してしまいました。見苦しいところをお見せし、誠に申し訳ございませんでした。失礼の段、何卒お許し願います。お詫びを申し上げます。

  • 小間縄にもう一度-----行かなければ。

    先の戦争で私の叔父は、沖縄で戦死しました。満州から沖縄に転身したのです。戦後返ってきた遺骨の中には、爪と髪の毛が少し入っていました。遺骨は、沖縄本島の南部の何処かに、まだ眠っているのでしょうか。数年前、沖縄戦生き残りの知人に調べてもらい、叔父の戦死の場所が分かりました。叔父は、司令部付きであったようで、投降も出来ず壕の中で自決したか、壕の外に出て敵と交戦し戦死したのではないかとのことでした。昨年二月沖縄戦跡巡りの旅行の折、特別に時間をもらい地もと在住の知人の案内で、叔父の戦死の場所を探し当てました。そこは、宇江城と言うところで、狭い田舎道の傍らに、山雨の塔と書かれた碑がありました。此所で、雨宮総司令官が、軍旗を焼却して、割腹自殺したとのことです。山部隊と雨宮司令官の名を取って山雨の塔とそうです。塔の横下あたりに...小間縄にもう一度-----行かなければ。

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