歴史は人間の智恵の集積であります。
歴史が人間が考えて悩んで行動した結果であります。 この歴史を学ぶ事は我々に取って大切な事であると想います。
新しき時代『明治』の御世に誕生した 新しき日本が 本格的に世界の舞台へ踊り出る時が迫ってきました。 明治二十七(一八九四)年五月 朝鮮半島において 内乱が起きます。 『東学党の乱』 (歴史の授業で習ったような気がします。) 日本は軍を派遣します。 当時の 朝鮮政府が 日本に要請したといわれています。 そして 朝鮮政府は 日本軍と 同時に 別の国にも 軍の派…
学生時代 日本史の授業で 必ず出てきたのが 明治政府の『条約改正』問題 この問題が 日本という国の歴史にとって 如何に大きな問題だったかを物語っているように 想えます。 徳川幕府の結んだ不平等条約 それは 維新の動乱を起こす 原因の一つ 一大事件だったのです。 一、『治外法権』を認めさせる ⇒犯罪など犯しても 日本の法律が…
立派な髭を蓄えた陸奥宗光の肖像画を見ると その表情には 『理屈っぽさ』を感じます。 そして その目をじっくり観ますと カミソリの異名に相応しい 怜悧なものを見受けられます。 それが肖像画から感じる自分の感想です。 自分にとって 冷たい印象の強い 大久保利通よりも怜悧に感じました。 そんな 陸奥が 我を忘れて 怒りに任せて行動した事件がありました。 陸奥が龍馬暗殺の黒…
陸奥宗光 彼の奥方の肖像画を御覧になったことがありますか? 『・・・・・』 『なんて綺麗なんだろう!!』 『美しい』 心から そう想います。 陸奥亮子様 夫の宗光がアメリカ公使として渡米した時 アメリカ人も彼女の美しさに驚いたそうです。 『当然だと想いました!!』 しかも 大変賢い女性で 英語も完璧にマスターしていたようです。 『ワシントン社交界の華』 そんな評価…
日本史上においても 優れた能力を持ち 素晴らしい成果を挙げた外務大臣 日本史上でも 五本の指に入る外務大臣ではないでしょうか? いや なかには 最高の外務大臣という評価もあると聞きます。 『陸奥宗光』 学生時代 教科書や資料に 掲載されている 彼の肖像画を見た時 『日本人なのか?』 そんな印象を持ちました。 更には 秋山好古 大久保利通など まるで 西洋…
越前を拝領しました 結城秀康 今 彼の像が 越前 福井城址に建っております。 その像は 馬に乗った甲冑姿の勇姿です。 この像を観るだけでも 彼が どのようなイメージを持たれた武将であったかという事を 創造出来ます。 関ヶ原の戦い後 父・徳川家康は征夷大将軍に就任致します。 そして 江戸に幕府を開きました。 越前に領地を持った秀康は この事をどのように想っ…
豊臣が織田から政権を奪取したように 今まさに 徳川が豊臣から政権を奪取しようとしています。 時代は遡れば 手法は違いますが 北条が源氏から政権を奪取する様子 足利家が北条 鎌倉幕府から政権を奪取した事も共通するものを感じます。 それは 『もともと臣下であった』 まさに『下克上』 『臣下が主君から政権奪取する』 というものでした。 それを…
慶長三年(一五九八) 戦国の世を駆け抜けた 稀代の英雄 太閤・豊臣秀吉が此の世を去りました。 『秀吉無き豊臣家』 皆様御存知だと想われますが その基盤は揺らいでしまいます。 秀吉の忘れ形見 『豊臣秀頼』を支えるべき 五大老・五奉行の体制も その機能は働いていたのでしょうか? ドラマなどでは 家康のやりたい放題が取り上げられますが 実際は 徳川家康と前田利家の …
結城秀康(ゆうきひでやす) 徳川家康の次男として誕生し その後 豊臣秀吉の養子となり そして 天正十八年(一五九〇) 関東の名族 結城家の養子となりました。 『養子』 当時としては珍しくない この『養子』という制度 戦国の世を生き抜くためには 必要な制度だったことでしょう。 いや 戦国だけでなく 昭和の世まで 御家を存続する為に必要だったようです。 …
戦国時代 関東の覇者として その武勇を大きく轟かせ 戦国の扉を開いたとも言われる 『北条早雲』 を祖に持つ 北条氏 鎌倉時代の北条氏と区別する為に 後世において 後北条氏とも言われてます その北条氏も 秀吉の手により滅ぼされてしまいます。 毛利や上杉 徳川が 秀吉に従ったように 北条も秀吉に従っていたら また違った豊臣政権になっていた…
天正十二年(一五八四) 『小牧長久手の戦い』が終わった後 徳川家康の次男 『於義丸(おぎまる)』 彼はこの頃 十歳くらいでしょうか? 『養子』という名の『人質』 どのような想いで大坂へ赴いたのでしょう 秀吉は 於義丸を 家康から 預かりました。 『二人の政争の道具』 どんな想いを抱いていたのでしょうか? 覚悟は出来ていたのでしょうか? 『覚悟』…
戦国時代も終盤に近づくと同時に 徳川家は 日本国の中で無視出来ない存在になっていきます。 かつては 今川義元の代名詞 『海道一の弓取り』 その呼び名に相応しいまでの 力をつけていました。 徳川家康 そんな実力を付けた 家康の前に ある武将が 家康の前に立ちはだかったのでした。 そのさる武将 いや ある武将は 恐らく 『信長の全てを継承したい男』であった…
家康の凄かったところは 自分の後継者をしっかりと しかも 的確に選んだ事だったと想います。 数多くいる候補の中で その時代に合致した後継者を選んだと言えるでしょう。 その選択が間違ってなかった事は 二五〇年という時の流れが証明しました。 それにしても 徳川家康にとって 『信康の死』は 痛恨の出来事であったでしょう。 三国志の英雄 魏の曹操(そうそう)は 優秀な…
結城秀康(ゆうきひでやす)の母は 父・家康の正妻である築山殿(つきやまどの)の 奥女中であったといわれています。 これが事実ならば 今川家の名門出身である正妻の築山殿の 心中が想像出来ます。 当然、家康も想像出来たようです。 重臣の『鬼作左(おにさくざ)』こと本田重次に 秀康の母を預けました。 重次に匿われながら 何とか無事に 後の結城秀康こと 於義丸(おぎまる)は誕生…
関ヶ原の戦いの前に 上杉討伐に赴いた徳川家康の 東征中に 『石田三成挙兵』 日本の運命を変える情報が飛び込んできました。 小山評定において 家康は上杉征伐に従って来た武将達に決断を促し 結局 大部分の将達が 家康と共に 『石田三成討伐』に向かいました。 その時 上杉景勝や直江兼続の備えとして 関東に残した総大将が 『結城秀康』その人でした。 この時の彼の心境はどのよ…
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