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2008/03/01

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  • 「ツアーコースにない所」編 1 黒人ユダヤ教徒 ファラーシャ

    わたくしが利用した海外旅行はほとんど自由時間がありませんでした。したがってコースにない所の観光はほとんどできません。しかし、関心があるところに行きたいところがあったときには、添乗員または現地ガイドにお願い、少ない自由時間の利用、一同から外れて単独行動という方法があります。それらの方法で「ツアーコースにない所」を観光したところをいくつか紹介します。イスラエルに黒人のユダヤ教徒がいるのをご存じですか。その起源はエチオピアです。エチオピアには以前10万人を越す黒人のユダヤ教徒がいました。彼らはファラシャと呼ばれていましたがその意味が「よそ者」「流浪人」であることから当人たちはその言葉を忌避していてベター・イスラエルと呼ぶ場合があります。その起源には種々な説があり不明ですが1975年イスラエル政府がユダヤ教徒(人...「ツアーコースにない所」編1黒人ユダヤ教徒ファラーシャ

  • 「忘れられない」編 一言

    JapaneseJewモロッコのマラケシュでは自由時間があったのでシナゴーグ(ユダヤ教礼拝場)に出かけました。lonelyplanetにはシナゴーグに行くには現地ガイドが必要と書いてあったので路上にいた現地ガイドに案内を頼みました。その彼は私に”JapaneseJew?”(日系ユダヤ人か?)と尋ねました。多分シナゴーグを訪ねる日本人は珍しいのでしょう。。香港2007年に香港経由でナイロビに向かいました。その最初の香港までの機内で3人掛けの窓際に若夫婦(恋人?)がいて年寄りの私を気遣ってくれて手荷物の収納などを手伝ってくれました。日本人ではないようなので「チャイニーズ?」と尋ねてみました。答えはそれを否定する語調でホンコン(香港)でした。「!?なるほど」が私でした。最近の香港情勢を考え写真は紹介しません。c...「忘れられない」編一言

  • 「忘れられない」編 ロベン島とマンデラ

    ロベン島は南アフリカのケープタウンの沖合い12kmにある島です。アパルトヘイト(人種隔離差別政策)時代、主に政治犯黒人専用の刑務所島だったところです。1959年から1991年まで述べ約3000人が収容されていました。当時の写真です。一人ひとりかなりの間隔があけられて作業をしていますね。其の中には後にノーベル平和賞受けるネルソン・マンデラもいました。1999年島全体が世界遺産登録されました。広島の原爆慰霊碑とともに負の世界遺産です。ケープタウンから船に乗って20分くらいでした。ちょっと余談話このアパルトヘイト白人優位時代の日本人は「名誉白人」という不名誉な名前をもらい白人に準じた扱いを受けていました。ただ白人女性と結婚した日本人が「雑婚禁止法」で国外退去になったことがありました。それに対してプレトリアの日本...「忘れられない」編ロベン島とマンデラ

  • 「忘れられない」編 アウシュヴィッツ

    ポーランドに行くことを決めた時、ちょっと迷いました。「アウシュヴィッツには行きたくない、いや行くべきだ」と。この気持ちは私だけのものではないようで、聞くところによればアウシュヴィッツのときだけ欠席する人がたまにいるそうです。アウシュヴィッツはドイツ語名でポーランド語ではオシフィエンチムです。またアウシュヴィッツの名前が有名ですが、すぐ隣にはここより大きいビルケナウ強制収容所があります。二つ一緒にして考えることが多いようです。ここはあまりにも有名なので説明の用は無いと思いますが、少しだけ触れておきます。第二次世界大戦中ヒトラーナチスドイツがユダヤ人を中心として28民族(人種)の人たちを強制収用所に入れました。そのうちもっとも規模の大きいのがアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所です。ここで殺された人は150万人...「忘れられない」編アウシュヴィッツ

  • 「忘れられない」編 雄奴隷収容所

    ガーナ共和国のケープコーストに奴隷一時保管所が残されていました。アメリカへ積み出され迄の一時保管場所です。Maleslave(雄奴隷)のdungeon(土牢)。一度に100に程度の奴隷が閉じこまれていました。内部は全く薄暗く陰気な感じでした。2009年7月にオバマ大統領がここを訪れています。オバマさんは奴隷の子孫ではありませんが、ミッシェル夫人はアフリカからの奴隷の子孫です。「忘れられない」編雄奴隷収容所

  • 「忘れられない」編 ヴィルヴィツア=奇想天外

    写真はアフリカナミビア共和国からアンゴラにかけての砂漠に自生する地上で最も過酷な環境で2000年も生きている植物ヴィルヴィッア、日本名「奇想天外」です。この葉の最長記録は8.8mだそうです幼少な?「ヴィルヴィツア=奇想天外」もいるので保護のため石で囲っていました。(写真下)「忘れられない」編ヴィルヴィツア=奇想天外

  • 「忘れられない」編 トゥースレン虐殺犯罪記念館(元刑務所)

    カンボジアのプノンペンではポル・ポト政権が作ったトゥースレン刑務所(現在虐殺犯罪記念館)を訪れました。そこでの写真です。ここに約2万人が収容され6人だけが生還しました。虐殺された人の写真です(写真上中)写真下は何だと思いますか。虐殺された人たちの頭蓋骨で形作られたカンボジアの地図です。あまりにも残酷なので2004年に撤去されました。1975年に成立したポル・ポト政権は1979年までの4年間に200万~300万人(国民の約三分の一)の自国民を虐殺しました。特にインテリ層が対象になりました。メガネをかけているだけでインテリとみなされ処刑されました。いままでナチスのユダヤ人虐殺、トルコによるアルメニア人虐殺を紹介してきましたが、カンボジアでは自国民虐殺です。アフリカのルアンダ、ダンフールの虐殺も他民族です。その...「忘れられない」編トゥースレン虐殺犯罪記念館(元刑務所)

  • 「忘れられない」編 スイスのライオン記念碑

    写真はスイスのルッチェルンにあるライオン記念碑です。フランス革命時の1792年衛兵としてフランス王家に仕えていたスイス傭兵が、革命派によって殺されたことを追悼する碑です。奇妙ですね。外国の傭兵なっていた人を追悼するとは。これには理由があります。スイス傭兵部隊とは(スイス)国家管理の輸出産業だったのです。「金のないところスイス兵なし」といわれるほど金と略奪品を求めてスイス兵はヨーロッパ各国の傭兵として活躍しました。余談ですがスイスの銀行の秘密性は有名ですがこれは傭兵から送られてくるお金の秘密保護に由来しています。スイスで外国軍隊への軍務が禁止されたのは第一次世界大戦が終了して10年後の1927年のことです。「古来戦争とは忠誠、祖国愛といった観念とは対極に位置していた傭兵たちによって担われていたのである。それ...「忘れられない」編スイスのライオン記念碑

  • 「忘れられない」編 フランス大使館の標識

    南アフリカのケープタウンのホテルの隣にフランス大使館がありました。ふと標識を見ると自由Liberte・平等Egalite・博愛Fraterniteと書いてありました。(写真)フランス大使館は東京にもあり珍しい存在ではありませんが、私は初めてでした。したがってこのような言葉が書かれていたとは知りませんでした。フランスは少し嫌いなところがありますがやはりすごい国だなー、と思うと同時にアパルトヘイトの時代にここを通りかかった南アフリカの人たち(黒人、白人を問わず)がこの標語を見て何を思ったであろうかと妄想していました。フランスのパスポートにもこの標語が書かれているのかなー、と思いながら、私のパスポートの表紙にある天皇家の家紋を思い、俺はいまだ「ナンジシンミン」かー。「忘れられない」編フランス大使館の標識

  • 「忘れられない」編 トレヴィア58 バスク料理

    わたくしはあまり食べ物の紹介をしないのですが、このバスク料理はなぜか印象深く記憶に残っています。2回目だったのでサグラダファミリア内部の観光をやめて、近くのカフェ的なところで添乗員の方に案内されていきました。そこでバスク(注)料理をいただきました。バスク料理の中で、最も人気のある料理の一つ「ピンチョス」です。小さく切ったパンに食材を載せて、串や楊枝で刺しているのが特徴です。(注)スペイン領に約75万人、フランス領に約10万人いるヨーロッパ最古の少数先住民族。スペインでは独立国家を目指す人たちも。「忘れられない」編トレヴィア58バスク料理

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