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鎌倉幕府の成立後も平安時代は続く。平安時代の終わりは承久の乱。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
さて、平家物語によると航海に適さないタイミングでありながら源義経が航海を強行させたことになっているが、これは否とするべきである。というより、綿密に日付を決め…
元暦二(一一八五)年二月一六日、源義経率いる軍勢が、摂津国渡辺、現在の大阪市の京橋のあたりに到着。平家物語によると、このとき後白河法皇からの使者である高階泰…
源範頼の軍勢は豊後国、現在の大分県に向かって船を進めたはずである。ところがその次の記録が不可解である。元暦二(一一八五)年二月一日、源範頼の軍勢から北条義時…
元暦二(一一八五)年一月八日、源義経が平家討伐のために京都を出発することを後白河法皇に奏上した。出発を願うのでは無い。出発すると報告するのである。 二日後の…
年が明けた元暦二(一一八五)年一月六日、鎌倉の源頼朝から西国の源範頼への書状を送る使者が出発した。既に前年一一月から源範頼の軍勢から個々に窮状を訴える連絡が…
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藤戸の戦いから功績を挙げた佐々木盛綱への報奨までの間に、京都で一人の政治家が引退を決めた。 権大納言平頼盛である。 元暦元(一一八四)年一二月一六日、後白河…
ところが平家物語になると残酷なエピソードとなる。 先に記しておくが、平家物語の以下のシーンは事実ではない可能性が高い。なぜ断言できないのかといえば、このシー…
元暦元(一一八四)年一二月七日、ついに山陽道で源平双方が全面衝突した。これまでにも小競り合いはあったし、平家方のゲリラ的な攻撃もあった。しかし、詳細な記録の…
元暦元(一一八四)年一一月中旬、ようやく源範頼から書状が届いた。 兵糧不足のためこれ以上の行軍は困難であり、和田義盛をはじめとする何名かの御家人が戦線離脱も…
鎌倉方が自分たちの組織体を後の鎌倉幕府につながる政治システムとして拡充させていた頃、西国はキナ臭くなってきていた。 元暦元(一一八四)年一〇月のいつ頃かは不…
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三権分立とは、政治権力を立法、行政、司法の三権に分け、三つの権力が互いに抑制しあって均衡を保つ政治システムであり、現在の日本国をはじめとするほとんどの民主主…
カレンダーで言うと除目の翌日である元暦元(一一八四)年九月一九日に源頼朝は一通の書状を西国へ発送した。なお、何度も繰り返しているように京都から鎌倉へはどんな…
元暦元(一一八四)年九月一八日、後白河法皇の意向に加え鎌倉の意向も反映された除目が執り行われ、多くの貴族が新たな官職を手にした。 木曾義仲によって解職となっ…
源義経はよくやっていたとするしかない。元暦元(一一八四)年九月の源義経の記録を追いかけると、源義経は検非違使として武芸を見せることはあったが、基本的には朝廷…
元暦元(一一八四)年八月二六日、左衛門少尉検非違使源義経の名で、平信兼が解官となったこと、また、平信兼の三人の子を誅戮したことを伝える知らせが鎌倉に届いた。…
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本作はこれまで、源頼朝らの勢力のことを、鎌倉、あるいは鎌倉方と記してきた。鎌倉を中心とする勢力としての呼称である。研究者の中にはこの段階で鎌倉幕府がもう成立…
軍勢が鎌倉から京都に向けて出発した二日後の元暦元(一一八四)年八月一〇日、検非違使左衛門少尉源義経の名で平信兼の子である平兼衡、平信衡、平兼時の三名に出頭を…
源頼朝は源範頼を総大将とする平家討伐の軍勢を組織した。それも、鎌倉方の御家人オールスターズと言うべき豪華な面々を取りそろえての軍勢派遣である。送別の宴まで開…
元暦元(一一八四)年八月二日、大内惟義からの伝令が鎌倉に到着した。 平家の反乱軍に対する勝利を伝える報告である。ただし、源頼朝はその勝利に対する喜びを見せて…
近江国での戦勝の報告を受けた京都では、安堵の声とともに、まだ脅威が収まっていないことを意味した。とりあえず東国からの物資供給路を確保し直すことには成功したが…
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元暦元(一一八四)年七月一八日、鎌倉の源頼朝のもとに伊賀国と伊勢国で平家が反乱を起こしたことの情報が届き、源頼朝は伊賀国に派遣していた大内惟義と伊勢国に派遣…
伊賀国も伊勢国も以前から平家の権勢が強く、平家の都落ちに帯同できなかった多くの武士が隠れるように生活していた。彼らのことは源頼朝も把握しており、大内惟義を伊…
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いかに一八名もの御家人を園城寺に派遣したとはいえ、中原広元らが園城寺を見捨てたのはその通りである。ただ、理由として掲げた財政問題については全くの言いがかりで…
源実朝が園城寺と手を結ぼうと考えたこと、中原広元ら鎌倉幕府の文人官僚が園城寺と距離を置こうと考えたこと、その双方とも理解できる話である。 まずは後者であるが…
近江国大津の神人たちは、黙っていたならば延暦寺からノルマ未達を責められることになるとわかっていた。だが、どうやってもノルマは達成できない。そこで、前もって園…
もしかしたら、この一連の流れは最初から仕組まれていたのかもしれない。 吾妻鏡によると、高僧を招くか否かの検討が行なわれたのは建保二(一二一四)年四月一八日の…
前年の和田合戦の影響で大倉御所が焼け落ちたために再建したこと、再建の後、一時避難していた中原広元の邸宅から戻る際の行列がまさに京都の貴族を思わせる壮麗さであ…
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鎌倉新仏教の開祖のうち、浄土宗を開いた法然は弾圧を受けたのに対し、臨済宗を開いた栄西は鎌倉幕府の庇護を受けたことは既に記した。 栄西といえば南宋に留学して禅…
本作ではこれまで何度か藤原定家を取り上げている。ただし、古典の教科書に登場する著名な歌人としての藤原定家ではなく、同時代を生きた貴族としての藤原定家である。…
時代は鎌倉幕府の時代となっている。 しかし、三〇年も遡れば時代はまだ平家の時代であり、この時代の人達にとっての源平合戦はついこの前のことである。源平合戦で実…
鎌倉幕府の情報網は想定以上に広がっていることを痛感したのは後鳥羽上皇や朝廷だけではない。京都における鎌倉幕府の勢力衰退を考えていた寺社勢力もまた、鎌倉幕府は…
この仕組みが存在していたところで鎌倉幕府が誕生し、国家財政が乏しい状態のまま、荘園領主や知行国主がかつての豊かさを失って、鎌倉幕府が豊かになっていったという…
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和田合戦は鎌倉で発生した事件であるが日本中を震撼させた事件でもある。 特に、源実朝が後鳥羽上皇に対し、鎌倉幕府として院や朝廷に背く意思がないと示さなければな…
そんなタイミングでやってきた名を残す絶好のチャンスである。 長沼宗政はいったん自宅に戻って支度をする時間も惜しいと、大倉御所から直接下野国へ向かったのである…
ただ、源実朝とその周辺の御家人達からなる豪奢な構図は、同じ鎌倉幕府の御家人であっても、源実朝に親しい一部の御家人と、そうでない大部分の御家人という格差を生み…
建暦三(一二一三)年八月二〇日、大倉御所の再建が完了し、源実朝が大倉御所へと戻ることとなった。吾妻鏡によると牛車を引く牛は用意できたものの肝心の牛車が用意で…
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土御門通親がこのことを理解していないわけではない。 とは言え、土御門通親の権威の源泉を辿ると、養女が土御門天皇の生母であるという一点に行き着く。 仮に後鳥羽…
後鳥羽上皇が和歌の世界にのめり込んでいることは既に記した通りであり、正治二(一二〇〇)年七月一五日に百首歌を企画したのも既に記した通りである。そして、このと…
それにしてもなぜ、後鳥羽上皇がいきなりクレームを入れてきたのか。 結論から言えば鎌倉幕府に対する反発であろう。後鳥羽上皇は院政を構築すること過去の院政と同様…
後鳥羽上皇の怒りを伝える六波羅からの書状が鎌倉に届いたのが七月二七日のことである。この知らせを受けた源頼家は佐々木経高の守護職を三ヶ国全てで罷免し、領地没収…
正治二(一二〇〇)年七月九日、京都で騒動が起こった。 佐々木兄弟の次男である佐々木経高が、淡路、阿波、土佐の三ヶ国の軍隊を京都に集めたことが後鳥羽上皇の怒り…
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宋銭を利用して比叡山延暦寺に対して圧力をかけることに成功した後鳥羽上皇は、和歌の世界への傾倒をさらに深めていった。史料の出典が藤原定家の日記なので和歌に関す…
後鳥羽上皇の正妻は、後鳥羽上皇の元から離れて暮らしている中宮任子、すなわち、九条兼実の娘である。 ただし、後鳥羽上皇は人生でただ一人の女性しか愛さなかったわ…
宋銭利用禁止は九条兼実が承諾した経済政策であり、九条兼実が失脚した後も継続する必要はない。しかし、後鳥羽院政が成立しても宋銭禁止は有効のままであり続けており…
源頼家の政治判断で最悪なものとして著名な出来事が起きたとされているのが、正治二(一二〇〇)年五月二八日の裁決である。所領をめぐる争いにおいて、係争中の地図の…
ただ、忘れてはならないのは、この出来事が吾妻鏡の記事であるという点である。吾妻鏡は鎌倉幕府の正式な歴史書である一方、編纂時の権力者である北条家を称揚するため…
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一三人の合議制が早々に九名へと減ったこと、そして人員の入れ替えをしていないこと、すなわち、永続的な組織体ではなく一時凌ぎ牽制の末の妥協でしかないことは、一三…
一三人の合議制のうち既に二名が命を落としており、かつ、誰かが後を埋めたわけではないので最大で一一名ということになる、はずであった。 この人数がさらに減る出来…
また、朝廷からの視点で捉えると、正治二(一二〇〇)年四月一日の人事は複数の意味が重なったものであることが読み取れる。 鎌倉では北条時政の国司就任が話題になっ…
しかし、正治二(一二〇〇)年四月一日の発表は今後の趨勢を大きく変更する内容であった。北条時政が従五位下の位階を獲得した上で遠江守に補任されたのである。北条時…