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キリストの証人
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2007/09/22

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  • 「二人または三人が、集まるなら」

    よく誤解されるキリスト教の教えの一つに、「(クリスチャンの)二人または三人が、集まるなら、キリストもその中にいる(そこが教会となる)」という考えがありますが、それは聖書的(に正しい教え)ではありません。マタイ18:20「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」の、「わたし(イエス)の名によって集まっている所」は、「事実として、イエス様の名(権威)によって集まっている所」という意味であって、「ただ自己申告で、イエス様の名(権威)によって集まっている所」と言う意味ではありません。「権威」というものは、自分で「自分には権威がある」と主張すれば、自動的に得られるものではありません。「権威」はその「権威者」から、頂くものです。ですから、「教会」も、クリスチャンの二人または三...「二人または三人が、集まるなら」

  • 「この岩」の上に建てられた教会

    「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」(マタイ16:18)上記の「この岩(ペトラ;女性名詞、「大岩盤」を意味する)」は、「イエス・キリスト」ご自身であり、主は「動かされることのない岩」なる「イエス・キリスト」ご自身の上に、主の「教会」を建てられたのです。一方、ペテロ(男性名詞)は、「小岩、石」であり、その信仰は、主イエス様に対し「あなたこそ生ける神の子キリストです(16節)」とすばらしい信仰告白をし、主から「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。(17節)」とほめられた直後に、キリストの十字架の贖い(あがない)を否定し、いさめる発...「この岩」の上に建てられた教会

  • 「キリストの救いを実感していない」人のバプテスマの有効性について

    バプテスマは、救われた(霊的新生を体験した)人が、その証し(信仰告白)、また従順のテスト(教会の入り口)として受けるべきものですから、「キリストの救いを実感していない」というのが、「本当に救いを経験していない」という意味ならば、もちろん、その受けたバプテスマは無効であり、本当に救われてから、もう一度あらためて、受けなおす必要があります。しかし、救いは「感情」ではなく、「イエスキリストの救いを信じる」という「意思」の問題であり、しばしば、「感情」は伴わないこともあります。ですので、「キリストの救いを実感していない」というのがその意味ならば(実際は救われているが、期待していたほどの感激が無かった等)、その受けたバプテスマは有効ということになります。いずれにしても、「バプテスマ」自体には、「霊的意味(目で見る信仰告白...「キリストの救いを実感していない」人のバプテスマの有効性について

  • 「バプテスマ」はなぜ、原語のギリシャ語を使うの?

    「バプテスマ」は原語のギリシャ語では「浸すこと、沈め」以外の意味が無く、「バプテスマ」を「洗礼」と訳すことは、明らかに「意図的誤訳」です。それまでの聖書の翻訳では、神のことばを意図的に原語と異なる翻訳にするのは、黙示22:18-19で主から厳しく警告されている「聖書に書き加えたり、取り除いたりする行為」と恐れ、決して、「洗礼」と訳しませんでした。一方、「浸礼」を行わず、「洗礼」を行っている教会では、原語のギリシャ語に忠実に「浸礼or沈め」と翻訳すると、自分たちが「聖書と異なるバプテスマ(誤ったバプテスマ)」を行っていることが、信者に明らかになることを恐れて、妥協策として原語のギリシャ語の「βάπτισμα」をそのまま、音訳して、「バプテスマ」としました。これは英語聖書においても、同じ事情で、そのまま音訳して「b...「バプテスマ」はなぜ、原語のギリシャ語を使うの?

  • 「バプテスマ」の象徴としての「ノアの洪水」

    「この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。」(1ペテロ3:21)「この水はバブテスマを象徴するものであって」の「水」は直前の節3:20を見ると、「ノアの洪水」の「水」のことを示しています。つまり、『バプテスマ』を表すノアの洪水の『水』により、暴虐に満ちた(罪に満ちた)古い世界が「死に(裁かれ)」、水のお墓に「埋葬され(全地が完全に水没した;創世記7:19-24)」、救いの箱舟(イエス様の救いを表す)に乗った義人ノアから始まる新しい世界に「復活された」ということです。バプテスマは「キリストの死と埋葬と復活」を象徴する(ローマ6:3-13)、「目に見える福音であり...「バプテスマ」の象徴としての「ノアの洪水」

  • 「水によるバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」

    「水によるバプテスマ」は、そのバプテスマの媒体が「水」であると言うことです。そして、「聖霊のバプテスマ」は、その媒体が聖霊です。一方、「御父、御子、聖霊の名によるバプテスマ」は、その「水によるバプテスマ」が「御父、御子、聖霊の名(権威)によって、行われるバプテスマ」であることを、意味しています。「聖霊のバプテスマ」は、一方的にイエス様がある目的を持って(「教会に対するバプテスマ」や、「聖書がまだ完成していないので、『しるし』が必要な時」に)、授けるものなので、特には、「誰の権威(名)によるバプテスマ」なのかは、聖書には記述が無いのでしょう。つまり、私たちが、「個人として受けるバプテスマ」は、「水によるバプテスマ」のみであり、そしてそれは「誰の権威(名)によるバプテスマなのか」が、重要であるので、「御父、御子、聖...「水によるバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」

  • 「ヨハネのバプテスマ」について

    「ヨハネのバプテスマ」については、以前、「バプテスマのヨハネのバプテスマの正当性」というタイトルの箇所で、説明させていただいたので、再度の記述となりますが、「ヨハネのバプテスマ」には、「ヨハネが授けていたバプテスマ」と、「ヨハネの名によって(勝手に)行われていたバプテスマ=ヨハネの名によるバプテスマ」との二種類があり、使徒19:3の「ヨハネのバプテスマ」は、その後者です。使徒19:3において、新共同訳で「ヨハネの洗礼」、新改訳で「ヨハネのバプテスマ」と訳されているものは、口語訳聖書では、「ヨハネの名によるバプテスマ」となっています。「ヨハネの名によるバプテスマ」とは、「ヨハネの権威によるバプテスマ」と言う意味です。しかしながら、「バプテスマ」は、「神であるイエス様の権威においてなすべきもの」です。それで、「誤っ...「ヨハネのバプテスマ」について

  • 「バプテスマの意味」

    「バプテスマ」の意味は、第一に、キリストを信じ救われた者が、キリストに従い、キリストの体である教会の一肢体となって、キリストの福音を伝えるために、その<従順の第一歩>として受けるものです。いわば、「天国への入り口(扉)」は、「キリストの十字架を信じる、信仰による救い」のみですが(エペソ2:8-9、ルカ23:39-43)、「教会への入り口(扉)」は、「バプテスマ」なのです。ですから、「教会」の無かった旧約時代には、「バプテスマ」は、必要ありませんでした。また、「バプテスマ」は、「天国への入り口」ではなく、「救いに関係ありません」から、アブラハムやモーセ、ダビデたち、エノクやヨブ、ダニエルといった義人たちも、いつか来られる「メシア(キリスト)を信じるだけ」で、「天国が約束され、救われた」のでした。「バプテスマ」の第...「バプテスマの意味」

  • 「神様がこの世界を言葉で創られた時の言葉」

    神様がこの世界を言葉で創られた時の言葉ですが、はっきりと誰も断定できないと思いますが、いくつか可能性はあると思います。一つは、バベルの塔事件で、言葉が乱される前の言葉、すなわち全地が一つの言葉であった、その「言葉」の可能性があります。また一つは、ダニエル5:5-9、24-28において、神の前から出た手によって書かれた文字(メネ、メネ、テケル、ウパルシン等)の「言葉」の可能性。もちろん、聖書(旧約聖書)の言葉であり、神の民の言葉である「ヘブル語」もその可能性があると思います。また、パウロが第三の天(天国)で聞いたと記されている(第2コリント12:1-4)、「口に言い表わせない、人間が語ってはならない『言葉』」の可能性は大きいですね。あるいは、これら以外の、我々に何らのヒントさえも与えられていない「神のことば」かも...「神様がこの世界を言葉で創られた時の言葉」

  • 「通訳する者(解く者・解釈する者)がいなければ」

    >第一コリント14:2「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。」上記の「それはだれにも分かりません」の意味は、「<通訳する者(解く者・解釈する者)がいなければ>、それはだれにも分かりません」という意味です。なぜなら、同じ第一コリント14:27-28に「もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解く(通訳)べきである。もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである。」とあるからです。また、14:9-13で、「それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない(はっきり理解できない;外国語を知らない者にとっては理解できない)言葉を語れば...「通訳する者(解く者・解釈する者)がいなければ」

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